ハンナ・アーレントのレビュー一覧
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二巻目も骨太な内容。
20世紀における西洋の難民は生存圏を奪取された以降、法的保護の適用が希薄になるためより経済的、政治的、民族的なアイデンティティの喪失が過大となる。
国外へと追放された人種の足場のない不安定な状態をルソーの言葉で持って「自然状態」として再定義する。
強固な官僚制を保持していたドイツ、ロシアの両国において全体主義的傾向を帯びたシステムが基盤となって、現代のファシズムに繋がる。
帝国主義の分析は非常に面白い。イギリスが特に。
もはや法では囲い込むのできない難民たちの台頭は民族主義的排外主義的な思想のナチ=ドイツの組織によっても先鋭化される運びとなる。 -
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イスラエルの諜報機関である「モサド」によってアルゼンチンから連れてこられ、裁判を受けさせられて刑場の露と消えた男であるアドルフ・アイヒマンを哲学者であるハンナ・アーレントが書いた裁判傍聴記録です。
本書はアルゼンチンに潜伏していたところをイスラエルの諜報機関である「モサド」によって拉致同然に連れてこられ、裁判を受けさせられて刑場の露と消えた男であるアドルフ・アイヒマンを哲学者であるハンナ・アーレントが書いた裁判傍聴記録です。
あまりにも有名でありながらも、有名なアイヒマンの言葉である
「私は書類に判子をついただけだ」
は余りにも重く、今の今まで読むことを躊躇していたわけですが、それを変えるきっかけになったのは再放送されていた『BS世界のドキュメンタリー「実録 アイヒマン裁判」』とハンナ・アーレントの生涯を描いた伝記映画『ハンナ・アーレント』を相次いで見たことからでした。
アーレントはアメリカの高級誌『ザ・ニューヨーカー』からの依頼でイスラエルにて行われ、後に『アイヒマン裁判』と呼ばれる歴史的裁判に立ち会い、そのルポルタージュであり後の本書の基なる連載をを発表するわけですが、その内容が
「アイヒマンを擁護している!」
とのことで「身内」であるはずのユダヤ系コミュニティーですら轟々たる批判を受け、彼女が孤立を深めていく姿が描かれるわけですが、本書の中で言及され、「悪」というものを考える上で国際的な「スタンダード」となりつつある
『悪の凡庸さ』
という概念について、アーレントは裁判の傍聴体験を基に考察を深めていくのです。
彼女の眼差しを通して浮かび上がる「稀代の犯罪者」の実像は、我々の隣にいる人間なのかもしれないということであり、実務的には有能で、己の職務に誇りを持って取り組み、その成果に責任と自信。そして所属意識を感じる。一見なんら落ち度はなく、むしろその賞賛され、おそらく現代社会を構築する大体の組織、社会文化や規範に照らし合わせてみても、「立派な社会人」「一人前の組織人」と見なされ、評価を受けることでしょう。
しかし、それが
「一つの民族を地球上から抹殺する」
方向に振り向けられると世界史上類を見ないほどの大量虐殺が生まれるのかと。その「事実」に文章を書いていて慄然とする思いがするのです。
アイヒマン本人は本書が指摘するように根っからの「悪人」ではなく、「凡庸な人間」が外部からの「力学」によって、または自らの「職業的良心」に忠実であろうとするが故に(規模は違えど)「悪」をなしえることが往々にしてある。本書は我々に強く訴えかける一冊であり、その「想い」は人の世が続く限り何度でも繰り返し、問われ続けることでしょう。
【追記】
本書は『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】』(みすず書房)として2017年8月24日に用語を中心に大幅に手を加え、用字法なども今後の読者のために読みやすく書き換えた。関係年表も一新。四六判になって生まれ変わり、再販されました。 -
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ネタバレ「哲学者なのにレポートみたいだな」と思いましたが、雑誌ニューヨーカーの記事にするために書いたのでレポートみたいになるのは当然でした。
解説に詳しく書いていましたが、本編を読んでの感想と同じく、アイヒマンは頭は悪く、命令には従うけどその命令の意図や命令の結果どうなるか、といった思考力や想像力は皆無で反ユダヤ主義はなく、特定の分野だけ有能だがそれ以外無能な凡人にすぎない、ということをアレントは書いています。
学業成績は大したことなかったみたいで、従って(書いてませんが)大卒だらけの職場ではかなり学歴コンプレックスがあったみたいですね。
アレントがこの本でめちゃめちゃ非難されたのは
①悪の権化であるはずのアイヒマンが単なる凡人だった→「アイヒマンはいい人だ」と言っているように捉えた人達が多くいた。
②ユダヤ人団体がナチスに協力してその人達も犯罪者だ、と主張した(本の中ではそんなに出てこないけど書いてることは書いてる)。
SNSでも勘違いして発狂してぐちゃぐちゃ言う奴がいますが、今も昔も変わりませんね。
ところでアイヒマン(とそれ以外のナチスの連中)はエマニュエル・カントの定言命法を引用しました。
定言命法とは感情や欲望ではなく理性と普遍性に基づいた絶対的命令を自分に課すことが最も道徳的で正しいことなのですが、要するにアドルフ・ヒットラーの命令が感情や欲望ではなく理性と普遍性に基づいた絶対的に正しい命令としてそれを唯々諾々と遂行することが重要だと考えることで、これにより自らの愚かで残虐な行為を正当化して罪悪感を持たず、昼間はユダヤ人を虐殺して夜は家族サービスに徹する非人間的ナチス将校を作り上げたのです。作り上げたといっても当然SS如き死刑以外ないけどね。
従って今を生きる我々に重要なことは愚かな間違った命令には反逆する、従わない、逃げる、サボタージュする、大っぴらに公開して外の世界にさらけ出して外部勢力からも批判させることで、アイヒマンを反面教師にすることです。 -
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第三部、第一部と読み進めてきて第二部が最後となるけれども、とんでもなく面白かった。帝国主義がもともと経済的な事情に由来すること、その特徴が膨張の運動それ自体にあること、それが国民国家の在り方とはそぐわないこと、人種思想の経緯、海外帝国主義と大陸帝国主義の違い、法を軽視する官僚制、人権という概念のもつ問題など、どの議論をとってもほんとうに面白く、それぞれが全体主義への架け橋として描き出されるので、たしかにこれは第三部から読んでおいてよかったなあと思った。自然とか人工世界とか循環あたりの話は『人間の条件』を彷彿とさせる。カフカの官僚制の話もうれしい。あいだに寄り道していたせいもあって全部を読むのに三ヶ月ほどかかってしまったけれど、ほんとうに読んでよかった。
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旧版を読んだのは5年前。全体主義やホロコーストについて、勉強を始めたばかりの頃。読んだときはかなりの衝撃を受けた。
その後、この本が出版された60年代前半以降の研究も読んで、この本の歴史的な資料としての重要性は下がって、アーレントの思想を知るための本ということにわたしの中ではなっていた。
新版になって、字も大きくなり、その後の通例にしたがって、固有名詞や用語の統一がなされ、読みやすくなったとのことで、読んでみた。
すると、アーレントの歴史事実に関する理解は、最近の研究とくらべて大きく異なるわけでもなさそうなことがわかった。この本のフォーカスは「アイヒマン裁判」であり、「全体主義」や「ホロコースト」全般ではないので、強調しているがポイントは違うというわけだ。
最初に読んだときには印象に残っていなかった「最終解決」以前に行われていたポーランドやウクライナなどでのジェノサイドについても書いてあるし、ソ連側の「カチンの森」でのジェノサイドについても記載されている。(この問題について60年代前半に言及しているにはわりと早い時期だと思われる)
と歴史的な記述としても、今読んでも、そこまで偏っているわけでもないと感心した。
さて、今これを読むと、シュタングネトの「エルサレム“以前”のアイヒマン」の議論との比較が気になるわけだが、あらためてアーレントを読み直してみて、シュタングネトが主張するほど、両者の議論には違いがない気がした。
シュタングネトはアルゼンチンでの「サッセン・インタビュー」におけるアイヒマンの発言を詳細に分析しており、その内容の説得力は高いのだが、この「サッセン・インタビュー」については、アーレントも言及している。その当時はその全貌がわからなかったわけだが、主要なポイントはおさえているように思える。
シュタングネトの基本的主張は、アーレントが「悪の陳腐さ」と言ったことへの反論なのだが、アーレントももともとアイヒマンが全体のなかでの小さな歯車でいわれたことをただやっただけのサラリーマンだったというような意味で、「悪の陳腐さ」といっているわけではない。ましてや、そのことによってアイヒマンの裁判の死刑判決に異をとなえているわけではない。
アーレントのいう「悪の陳腐さ」とは、「自分で考えないこと」、つまり当時の「慣用句」、「クリシェ」を状況に応じて使って反応しているだけであること。で、一見、それらしいことを言っているように聴こえるときもあるが、さまざまな主張を全体として組み合わせてみると、矛盾だらけ。でも、アイヒマンはそれに気づかない。ある時代、ある状況のなかでは、こういうふうにいうものだ、ということを繰り返しているだけなので、そのときはそれでよかったわけだから、あとでそのクリシェの一貫性を振り返るということをしないわけだ。
シュタングネトによると、アイヒマンは、主体的に自分で考える人で(ナティスの考えを全て受け入れているわけではなく、自分の価値観に沿って取捨選択している)、確信犯的な反ユダヤ主義ということなのだが、アーレントがここで描いているアイヒマンの人物像とそこまでのギャップはない。
アーレントが「サッセン・インタビュー」の全貌を知ることがあったとしても、アーレントは、アイヒマンはその状況に応じて、その当時の「慣用句」や「決め台詞」を話しているだけ、と考えたんじゃないかなと思う。
あらためて、「エルサレムのアイヒマン」を読んでみて、思いのほか、いろいろな観点からの「バランスのよい」記述になっていることに驚いたわけだが、それと同時に、当時、これが大バッシングをうけた理由もよくわかる気がした。
アーレントも書いているように、ここに書かれている事実関係は、アーレント独自のものではなく、アイヒマンの裁判記録や当時でていた歴史書や報道など2次資料に基づくもの。つまり、事実関係における記述はアーレントが初めて言ったことではないのだ。
それでも、バッシングになったのは、書いてあること、というより、書き方の問題であったのだろうなと思う。あらためて、読んでみて、アーレントらしいちょっと上から目線の皮肉や毒舌がこの問題の当事者の怒りを買ったのは仕方のないことだと思う。
それが事実であったとしても、アイヒマンの裁判という文脈に関連させて、ホロコーストへのユダヤ人自身の協力という論点を実名入りで記載している(そして、それらはその人たちはおおむね「名士」である)わけだから、ユダヤ民族への「愛がない」ということになり、ほとんどのユダヤ人の友人を失うということになってしまったのも仕方がないことと思われる。
エピローグの最後にある有名なアーレントの「判決文」についても、そこにアーレントの主張が要約されているかというのも微妙な感じがした。もちろん、ここにはアーレント思想の中核概念である「複数性」の話しもでてくるし、改訂増補版の「追記」にあるバッシングに対する反論も意図して自身の考えをよりストレートにあらわした記述とも矛盾するものではない。
が、それでも、なにかこの「判決文」は、だれが話しているのかよくわからない、不気味なもやもや感がある。
そのもやもやはおそらくは、アルゼンチンに隠れていたアイヒマンをイスラエルのモサドがイスラエルに連行し、国際裁判ではなくイスラエルの法廷で裁判にかけるという経緯とも関係していると思われる。アーレントは、そこについては、あまり深追いしていないが、一種の「無国籍」状態になったところを超法規的に逮捕、国外連行するということのプロセスがナティスがユダヤ人に対して行ったこととパラレルになっているということは多くの人が気づくことであろう。
アーレントはその経緯は一旦脇において、そういうなかにあってもイスラエルの法廷がどこまで正義を実現することができたかを検証しようとしている。
だれがこの犯罪を裁くことができるのか、こうした「悪の陳腐さ」をどういう理由でさばくのが正義なのか?
この「判決文」は、アーレントの主張を表現したものであるとともに、読者が引き続きこうした問いについて「考える」ことを促しているのではないか?と思った。
この本は、裁判のレポートという性質から、アーレントの思想のなかでの位置づけが微妙なのだが、あらためて読んでみて、アーレントの中核的な政治思想が具体例と密接に絡まったなかで展開されおり、さらにその後のアーレントの思考の方向にも影響した重要な本だと思った。
また、アーレントに関心なくても、全体主義、そして私たちが今生きている時代を考えるのに、重要な視点を与えてくれる本であることも確認できた。 -
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カタチ的には一周したが、まだ読めていない。
読んでよかったし、今読んでよかった(若いころだとたぶん、ほとんど、今よりもずっと、この本の意義がわからなかったと思う。いまは、意義があることだけは、すごくわかる)
ヒトラー率いるドイツ帝国の、ユダヤ人問題の〈最終的解決=絶滅〉において、ユダヤ人を殺戮収容所に輸送する任務に着いていた、アドルフ・アイヒマンについて書かれているこの本は、ずっと思っていたように、舌鋒鋭く「陳腐な悪」を断罪するものではなかった。これは裁判記録ーーしかも、不親切なほど注釈が少ないーーである。
「ザ・ニューヨーカー」で連載されたこの報告(レポート)は、エルサレム裁判の法廷のようすからはじまり、主に、裁判で(または裁判の前に)明らかになっている「ユダヤ人の輸送」について、順を追って述べている。
正直なところ、歴史や地理、人名がほとんど分からないので、「本書の大部分には、ユダヤ人の輸送が、各国や地域の状況に応じて進められてきたことが書かれている」ことしか読み取れていないが、これらの部分の、アイヒマンのどちらかといえばつまらない人物像と、「その裁判の場がどのような意味を帯びていたのか」「裁判でなにが裁かれているのか」を語るとき、筆者の思いが強くなっている、気がした。
また、ドイツ帝国のユダヤ人絶滅にかかわる要求に対して、各国が軒並み肯首するなかで、政治的理由からデンマークが、人間的?文化的状況からイタリアが、簡単にユダヤ人の迫害に協力しなかったこと、また、逆に、ルーマニアはドイツより早く、むごい形でユダヤ人を虐殺し、引き際もドイツより早かった、という部分が印象的だった。
たぶん、この本の宣伝文句に取られている、読みどころでもある部分は、「エピローグ」と「追記」だろう。「エピローグ」でアーレントは、けっきょくアイヒマンが何によって裁かれるべきだったのか、その唯一の理由を、判事による仮定の呼びかけの形で語る。また、「追記」では、この本が巻き起こした論争を整理したうえで、この本が扱っている問題について、改めて述べている。
彼女によると、アイヒマンは、かつて例のない、そして、人類の未来に再び起こりうる、起こった時点の法では裁き得ない罪、すなわち「人類に対する罪」によって裁かれるべきである。たとえば、国家の政策としてある民族を追い出すとか、利害関係のある国の人間を大量に殺すとかではなく、その必要がないのに、無意味に、ある民族を地球から殲滅する計画に服従(服従とは支持である)した、というのが、彼の罪であるという。
また、後者について、アーレントは「どの程度までエルサレムの法廷が正義の要求を満たすのに成功したかということ以外には何も語っていない」という。すごく俗っぽく大雑把に、言葉ではなくこの部分から受けた印象を述べるならば、「あることを一般化しすぎたり矮小化しすぎたりするのではなく、ひとつの、この事象のなかに、人間が正義や法を考えるための『なにか』がある」という感覚とか、「それが何なのかという考えを拙速に導こうとしたり、本に書かれていることの一部を取り出して賞賛とか批判とかを加えたりするのではなく、ただ、きちんと事実関係と関連する文脈を追って、ひとのことばやアリモノの思考に頼らず、自分で意味づけすべきだ」という信念とかを、このあたりは述べている気がする。
いずれにせよ、まごうことなき名著だし、この本が世界にある意味とか、人が思考し語り残すことの意味みたいなことをきちんと思ったはじめての本かもしれない。 -
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暴力について―共和国の危機
(和書)2012年02月01日 16:15
2000 みすず書房 ハンナ アーレント, Hannah Arendt, 山田 正行
ハンナ・アーレントさんの本は良いです。自分自身もそれに近づける様にしたいと思うことができる。そういう人の本は非常に有益だし、生きていくのに必要なものだと思います。
こんかいは『暴力について』でした。アレントさんの他の本を借りにいったら貸し出し中だったのでこの本を借りた。非常におもしろい。次は『革命について』を読んでみたい。
アレントさんの全集などでないかな?あったら買いたいけど高そうだから借りたい。きっと誰かが企画してるかもしれない。その人達に期待しています。 -
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アルゼンチンから拉致したアイヒマンをエルサレムで法廷に引きずり出した、その裁判の話。前代未聞の犯罪と、一方で国際法を無視してのこの裁判という、法哲学的にも深い本。
ヒトラー暗殺計画に携わった人たちは道徳的な問題についてではなく、無謀な戦争でドイツを敗北させてしまうことからヒトラー暗殺を企だてた。アイヒマンもユダヤ人を殺害することそのものには良心の呵責を感じなくなっていて、それは他の多くのドイツ人もそうだったという指摘。ナチに属さない政府高官もヴァンゼー会議で全く反対しなかったことや、ユダヤ人自身が絶滅に協力していたこと。デンマークやイタリア、ブルガリアの抵抗や、反対に過剰に協力したルーマニアやスロヴァキアなど国ごとの違い。そういった話もこの本を読むまで知らなかった。 -
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「暴力について」。ハンナ・アーレント著。英語版初版1972年。山田正行訳、みすず書房、2000年、261頁。
ハンナ・アーレントさんは1906-1975。ドイツ生まれのユダヤ人?ユダヤ系だったそうです。
お父さんは電気工事技師さんだったそう。ご両親ともかなりなインテリ教養人。ドイツで哲学を学んで、ナチス政権成立後の1933年(27歳くらい)にパリに亡命。亡命ユダヤ人の救出活動などに関わったそうです。ネットで拾えるレベルの情報で言うと。
この、パリ亡命までの青春期に。どのような哲学者から影響を受けたのかというと。
キルケゴールの教えを受け。
ハイデッガーの愛人の時期を経て。
フッサールとヤスパースの下で学んだ、という履歴。
挙がった名前の哲学者みなさん、正直読んだことはありませんが、有名人ですね。
若きアーレントさんは、華麗な履歴(男性遍歴も?)を持つスーパーエリートな哲学者の卵だった、ということなんでしょうか。(かなり雑な感想ですが)
ただ、学問だけでなく、政治的な活動も行い。
フランス亡命前には一度逮捕されたりもあったそう。ナチスと同時代のユダヤ人哲学者として、政治、権力との因縁も深かったんですね。哲学、と言っても「政治哲学」、と呼ばれたりするのが専門になります。
そして、一度結婚して離婚。で、再婚。
再婚相手はスパルタクス団などの政治活動家さんだったそうで、つまり、革命家であり後に惨殺されるローザ・ルクセンブルグさんとかとも仲間だったという。
アンナ・ハーレントさん自身は惨殺されずに。1941年にアメリカに亡命します。
以降は、アメリカ人として大学で教鞭をとり、研究を続け、著作を発表し過ごします。
生まれた時代を反映してか、「全体主義、ある時期、ドイツで言えば、みんなが熱狂してヒトラーを支持してしまったりしたよね」というようなことを研究したりしています。なんというか、「国家」の在り方とか、「大衆社会」の危険性とか。「ポピュリズム」とか「極右」とか「愛国」とかが飛び交う2017年現在でも、けっこう刺激的な思想家、哲学者さんだと思います。
ま、ただ書かれている文章は、発表当時(この本だと1970-1972くらい)の事件や状況をもとにしているので、結構分かりにくいところもあります。(もともと、哲学書、思想書、というようなジャンル分けをされる本なんで、難解でもあります…。翻訳ももうちょっと平易にならないかなあ、と思うンですが…)
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この本は、
●「政治における嘘」
※ベトナム戦争当時のアメリカで、CIAがいろいろ現地を調査した報告書が、政治家たちに全く無視されていた、ということが発覚するという事件がありまして。「ペンタゴン・ペーパー」。これについての論考。
●「市民的不服従」
※政府がやってることに納得いかないから、服従しない。市民的不服従。「税金払いたくない」とか「徴兵行きたくない」とか。60年代後半~70年代の、「学生たちの反乱」の時代。お祭り的な、狂信的な学生運動と区別しながら、「ちゃんとした市民不服従という選択肢も良いよね」的なお話。
●「暴力について」
※つまり国家というのは大きな暴力を持っているものなわけで。というような意味合いでの「暴力」についての論考。
●「政治と革命についての考察」
※いちばん読み易い。インタビューに答える形式。やはり、学生運動みたいな、そういう政治的な、革命を目指す的な動きをどう思うかみたいなお話。
の、4編が入っています。
正直、どれも難解でした(笑)。
その時代の、主にアメリカ社会の状況を踏まえた内容になっているので、余計に分かりにくい。
それでも、意外に読めてしまいました。
全体像はともかく節々がアフォリズムというか、警句というか、ハッとさせられる文章に充ちていてオモシロイ。
以下、抜粋。
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嘘をつく人は聴衆が聞きたいと思っていることや聞くだろうと予期していることを前もって知っているという非常に有利な立場にいるので、嘘はしばしば現実よりもはるかに真実味があり、理性にアピールする。
嘘をつく人は公衆が信用して受け入れてくれるように注意深く目配りしながら物語を用意するが、現実はわれわれが受け入れる準備のできていない予期せぬものをつきつけるという、いやな習慣を持っている。
(うーん。2017年3月現在、政治に関わる人が、「どちらかが確実に嘘を言っている状態」がありますね。そしてそれはいずれにせよ証明不能であり、状況証拠は全て目を背けられていく…力強く「やっていない」と言っている人は、はたして嘘をついていないのか…)
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未来を支配することができると感じるところまで行動する人間は、過去をも支配したいという誘惑にいつまでも駆られるものである。
(成功者は過去を飾る…。強大な権力者は、歴史を(歴史の解釈を)支配しようとする…)
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ベトナム戦争において恐るべき数の戦争犯罪が犯されているにもかかわらず、政府のいかなるレベルにおいてもそのような大量破壊への意思はまったくなかった。
(初めから、「悲惨なことをするよ」と言って始まる戦争は、古今東西、ない。今後、未来においても、当然「大したことぢゃない」「悲惨なことにはならない」という言葉から始まります)
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軍がひとたび投入されれば、敗北を認めることなく撤退するのはむずかしいだろう。
世界の最強国というイメージが必要とされ、イメージそれ自体が目標となった。
あらゆる兆候が消耗戦における敗北を示すようになると、目標はもはや屈辱的な敗北を避けることではなく、敗北を認めることを避けて「面子を保つ」方法と手段を見つけることになった。
敗北よりも敗北を認めることの方が恐れられる。
(戦争、かつての日本軍…。でもそれよりも、会社や仕事や上司という世界でも、こういうことは必ずある気がします)
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中世の小話。敵が近付くのを見張り、町の人々に知らせる役目を負った1人の番兵が、冗談で偽の警報を鳴らしたところ、彼がでっちあげた敵から町を守る為に、最後には彼自身も城壁に駆け付けた…。
嘘つきは自分自身の嘘を信じるようになる。
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報道機関は、自由で腐敗していない限り、途方もなく重要な機能を遂行するものであり、それがなければあらゆる意見の自由は残酷なねつ造に堕してしまう。
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人がこの世にやってきたのは、何よりもまずこの世を住みよい場所にするためではなく、それが良い場所であれ悪い場所であれ、そこに住むためである。
(思想やイデオロギー、主義主張というのは、現実の生活の上に立たねばならないんだろうな)
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ひとりきりになって自分自身に直面しなければならない恐怖は、悪事を思いとどまらせるように説得する上で非常に有効。
(つまり…集団でいることの、安らぎと危うさよ…)
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人間は、よそ者にして新参者としてこの世界にやって来て、(限られたケースではあるが)世の習いについて「知恵がある」ようになれるような経験と習熟を積んだまさにそのときに世を去っていく。
(限られたケースではあるが、という但し書きに、年長者が必ずしも知恵ものではない、という含意、、、)
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最も急進的な革命家が革命の翌日には保守主義者になるのは周知のことであろう。人間の変化の能力も、明らかに無制限のものではない。
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生まれてくるすべての人の状況には、ある種の同意が含まれている。言いかえれば、彼の生まれつき属している特定の集団の中で行われている世界と言う大いなるゲームのルールに従うということが含まれている。我々はみな、ある種の暗黙の同意によって生きており、生き延びるのだけれど、それを自発的な同意と呼ぶのは難しい。とにもかくにも存在しているものを、いったいどのように欲しがることができるだろうか。
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トクヴィルはおよそ150年前に、合衆国の未来を脅かすのは、彼が廃止を予見していた奴隷制度ではなく、「その領土内の黒人住民の存在」と予言した。これらの人々が、アメリカ共和国の一番最初の「全員の同意」にはまったく含まれていなかったという単純にして恐るべき事実があったからである。
ジェファソン曰く「等しく自由である二つの人種が同じ政府の下では生活できないこともまた確実である」
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人間は、かよわい葦であって、悪行を犯さないとしても、黙認しがちである。
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予言することのできない突発的な出来事を「偶発事故」とか呼んで、どうでもいいものとして貶めるのは大昔から見られる巧妙なやり口。
なるほど理論をわかりやすくしてくれるが、その代わりに理論は現実離れする。
危険なのは、これらが現在の趨勢を証拠としているためにもっともらしいだけでなく、つじつまがあっているために人々を催眠術にかけてしまう。我々の常識を眠らせてしまう。
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暴行を受けた者は暴力を夢想し、抑圧されたものは抑圧するものと立場を逆にすることを夢に見、貧しい者は富める者の財産を夢に見ることをいったい誰が疑うだろうか。
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第三世界とは実在ではなくてイデオロギーである。
(なにを物差しにするかで変わる、という意味でしょう)
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われわれは完成されうるものとして生まれてくる。しかしわれわれは、けっして完成されることはない。
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人間には他者を支配する権力をふるいたいという欲望と、他者に権力をふるわれるのを好まないという、二つの傾向の在り方がある。
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権威を維持するためにはその人間もしくはその役職への尊敬の念が求められる。それゆえ、権威の最大の敵は軽蔑であり、権威を傷つける最も確実な方法は嘲笑することである。
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暴力を正当化することはできるが、しかし暴力が正当なものであることはけっしてない。
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権力の失墜は暴力を持って権力に代えようとする誘惑となる。
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暴力は権力を破壊することはできるが、権力を創造することはまったくできない。
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革命行為においても軍事行為においても、最初に消える価値は個人主義である。
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労働者は労働条件と生活条件が満足の行く水準に到達したとたんに、プロレタリアであるつづけて革命的な役割を演ずることを断固拒否するようになる。
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人種差別主義は、いかなる説得も権力も変えることのできない、白い肌もしくは黒い肌を嫌うものである以上、ほんらい暴力に充ちたものなのである。
人種差別主義はイデオロギーであり、反射的な行為ではなく、意図的な活動である。
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暴力の実践は、あらゆる行為と同様に、世界を変えるが、もっともおこりやすい変化は世界がより暴力的になることである。
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公的生活の官僚制化が進めば進むほど、暴力の魅力は大きくなる。官僚制が余すところなく発展すると、議論できる相手はいなくなり、不満をぶちまけられる相手も権力の圧力をかけられる相手もいなくなる。
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自然の恵みである「頭脳の力」だけにもとずく「実力主義の支配」への恨み。
これは、以前に抑圧、少なくとも抑圧されている理由がけっして自分自身の「欠点」ではないことに慰めを見出していた者の恨みと比べて、より危険で暴力的である。
抑圧される、不利な立場にある人は、数の上で圧倒的なのだ。また、社会的流動性がほとんど皆無である。
デマゴーグや人気のある指導者の危険性は、実力主義を暴政や専制へ押しやるほど大きい。
(これはぐさっと来ますね。自由競争という美名の下、事実上社会資本が世襲されていく格差社会。金持ちしか議員になれず、2世ばかり。それが伴う、危険なポピュリズムへの招待)
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連邦議会には535人の議員がいるが、この中の多くは子供がいる。そのうち何人が子供をワシントンの公立学校に行かせているかご存知か。6人だ。
(2017年の日本で言うと、6人もいるのかぁ、と感心してしまう)
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徴用、資本の原始的蓄積。これが資本主義が歩み始めるときの法則であり、この過程に本来的に含まれている怪物的な力を統御し抑制できるのは、いわゆる「福祉国家」においてです。
労働者が「自分たちの工場を所有している」などということが存在するといえる人などいません。集団的所有権は、ほんのちょっとでも考えればわかるように、言葉の矛盾です。
資本主義と社会主義という二者択一は誤りです。どちらもその純粋なかたちで存在しないばかりではなく、二つは違う帽子を被った双子だからです。
資本主義は個人と個人の財産を保護していたあらゆる集合的な集団を粉砕してしまいました。そうした集団は、完全ではないにせよ、ある程度の安全を保障していたのですが。その代わりに「階級」、実質的には搾取者と被搾取者のふたつですが、これをつくったのです。
マルクスでさえ、社会主義ということで具体的に何をイメージするのか、根本のところでわかっていなかったのです。
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ソ連とその衛星諸国は多民族国家です。独裁権力は多かれ少なかれ支配的な民族の手中にあります。それに対する反対はつねに民族解放運動に転化する危険があります。
(うーん。1972年段階で鋭い予言)
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人種融合政策で公立学校はもっぱら黒人からなるルンペン・プロレタリアートの重みに耐えかねて、崩壊してしまいました。
(ニューヨークでは)近いうちに非常に貧しい人と非常に豊かな人しか住めなくなります。余裕がある人の全ては良質な私立校などに子供を通わせます。労働者階級、中流階級の下の人たちはできません。
この人たちが憤慨しているのは、中流階級から上のリベラル派が提案した法律であるにもかかわらず、その結果は中流階級から上の人たちには痛くも痒くもないという点です。
下級の階層にかぎってナショナリズムに染まりやすいのです。
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Posted by ブクログ
「暴力について」の他に、数編論文が収められているが、やはり中心となるのはこれ。
アーレントは、まず、暴力=Violence=Gewaltをたの混同しやすい概念からの分離でもって、論述を開始する。
すなわち、権力、力、強制力、権威などからである。
この暴力についての考察は、ベンヤミン「暴力批判論」と比較することで理解をしやすい。
「理論的に見て、権力と暴力が生物学的用語で解釈される、政治的な事柄をめぐる有機体思考の伝統ほど危険なものはありえないとわたしは思う。
…政治的な用語ではなく、生物学的な用語で語るかぎり、暴力の礼賛者たちは、自然の営みの中では破壊と創造は自然の過程の両面にほかならないという否定しがたい事実に訴えることができるので、集合的な暴力行為は、それが本来もっている魅力とはまったく別に、動物王国における生命維持のために生存競争と暴力死がそうであるのと同様に、人類の集合的生活にとって自然な必要条件であると訴えられるかもしれない。」
国家の擬人的表現には大きな落とし穴が、付きまとうことは、憲法学、政治学、社会学を取り扱うものは意識しなければならないと思う。
目次
政治における嘘―国防総省秘密報告書についての省察
市民的不服従
暴力について
政治と革命についての考察―一つの註釈 -
Posted by ブクログ
なんとか読み切った。というか、ほとんど、字面を追った感じだった。
何を書いているのか?分からないことだらけだったが、
それは(人生)経験、思想・哲学の読書量・勉強・思考の量、知識の蓄積、使うことば、どれをとっても、アーレント様と私とでは、英語で言えば”リンゴとオレンジ”のたとえ(ここでは、日本語の、”月とスッポン”のほうがふさわしい)のように比較しようが無いほどに違うのだから仕方がない、と思う。
ただ、書いてあることは正確には理解できなかったが、だいたい、”こんなことを言っているのだろな…”ということは、部分部分では分かったように思うし、
読んでいて、退屈では無く、なんとなく、温かい場所で守られているような感覚も覚えた。
書いてあることは分からないけど、読んでいたい。そんな感覚。
そして、copilotと少し、"ハンナ・アーレントとイスラエル"というワードでチャットしたところ、copilotからは「あなたはアーレントの書いていることを理解していると思う」という趣旨のお褒めの言葉を頂いた。正直、嬉しい。
ただ一方で、copilotも、そのように訊き手に心地良いように反応するまでに成長しているようで、その仕組みを分かっていないとコワイ、とも思わされた。笑
分からないことだらけの本であるが、最高の知性だと思いたいし、またリベンジでいつか読み返すべきなのだろう、と思っている。
読んで良かった、と私は思っている。 -
Posted by ブクログ
読む前は、全体主義の歯車として誰もがアイヒマンのようになり得る、ということが書かれているのかなと思っていたけれど、そういうわけではなかった。
悪の陳腐さとは「思考しないこと」。
悪の一部にならないためには、思考を止めてはいけない。自分の判断でその枠組みそのものを問うこと。個人が大きなシステムを変えることはできなくても、それに加担しないという方法を選択することはできる。
では自分はアイヒマンにはならないか?うーん生死がかかっていたらわからない。でも彼の場合は生死はかかっていなかった。ナチの理念に陶酔していたわけでもなかった。ユダヤ人への憎しみもなかった。ではなんでガス室に送ったのかというと自分の出世のためだった。あぁ陳腐。
この先の世界がどう進むかはわからないけれど、陳腐な悪だけにはなりたくないなぁと思う。また、人に優劣をつけることにも加担したくない。(ただし家族は別)
それにしても、アーレントによるアイヒマンのこきおろしぶりが凄まじい。「アーレントとハイデガー」往復書簡での、ハイデガーへの敬意と愛に溢れたメロメロな言葉遣いとは対極のワードチョイス。こんなに人を軽蔑して見下して憎悪にまみれた表現をパブリックでやっちゃうって少しだけひいちゃったよ。