児玉博のレビュー一覧
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土光は社員らに、「チャレンジ」と「レスポンス」(素早い対応)を叩き込む。土光の言う「チャレンジ」とは、目標達成ができなかった場合、その原因を突き止め、その上でさらに挑戦するという意味だ。1977年発行の社史『東芝百年史』によれば、やがて「チャレンジ」と「レスポンス」は、組織と組織のコミュニケーションにも応用されるようになり、当時の東芝社内ではこれが「合言葉になった」と記されている。
「仕事十訓」とタイトルがついた紙には元ホテルオークラの副社長で数多くの著書を持つ橋本保雄の『感動を創る』(現在はPHP文庫に収録)から抜き出されたものが記されている。
1.バイタリティを持て
2.常に頭脳を酷使せよ
3.周囲の変化に挑戦せよ
4.他から信頼される人になろうと努めよ
5.ルールはルールとして重んじよ
6.一度計画したものは、万難を排して完成させろ
7.失敗を恐れるな、失敗は次への成功の足がかりだ
8.今日のことは今日やっておけ、明日は明日の仕事がある
9.おのれの時間を大切にせよ
10.生きがいのある職場で価値ある人生の創造を
■西田がジャック・ウェルチから感銘を受け、自己鍛錬としてきた6つのルール
1.あるままの現実を受け入れろ
2.にも誠実であれ
3.ネージャーではなく、リーダーになれ
4.わらなければならない前に変化せよ
5.争優位を持てないならば競争をするな
6.自分の運命は自分でコントロールせよ。でないと、他人にコントロールされる -
Posted by ブクログ
一代で西武グループ(コクドグループ)を作り上げ、衆議院議長まで勤め上げた豪傑堤康次郎の子として生まれた異母兄弟の堤清二と堤義明。
2人は帝国の後継として、その生い立ちから注目が集まり、弟である堤義明に全事業が相続されるということから、マスコミの駆り立てあり、兄弟関係りに亀裂が走る。
堤清二は倒産寸前の池袋西武百貨店のみを譲り受けながらも、そこから破竹の勢いでセゾングループを作り上げ、天才の名を恣にする。
清ニに対し、康次郎の指針を愚直に守り、天皇へと化していく義明。この2人の骨肉の争いは、西武グループの崩壊という形で幕を閉じる。
堤家はあれだけの起業家でありながらも、どこか負の側面を持って語られることが多いのは、康次郎の奔放さと、それが引き起こした内紛によることがよく分かった。
惜しむらくはインタビューに基づくため、やや内容に乏しく、もう少し内容に厚みが欲しかったところ。
とはいえ、西武グループ、コクドグループ、堤家について初めて勉強する方にはおすすめの一冊。 -
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ネタバレ堤清二 罪と業
最後の「告白」
著者:児玉博
発行:2016年7月30日
文藝春秋
ノンフィクションライターの著者が、2012年7月~11月にかけて合計7回、のべ十数時間に及んで堤清二にインタビューした内容をまとめた本。〝最後〟という言葉が使われているが、実は朝日新聞の「証言そのとき」シリーズが、2013年1~3月に10回にわたって堤清二へのインタビュー記事を掲載している。堤清二が死んだのは2013年11月、どっちが〝最後〟なのか、よく分からない。しかし、この本で著者は堤との初めての出会いを2012年6月24日とした上、その10日後からインタビューがスタートした、7月中旬だった、と書いている。最初から不正確な情報が掲載されていて、この本、少し怪しくもある。
西武グループを壊滅させ、最後は犯罪者にまでなった異母弟の堤義明と違い、堤清二はインテリでセンスがよく、経営者としても良心的。辻井喬という小説家・詩人・歌人でもある。そんなイメージだったが、実はそうではなかった。朝日新聞とこの本の内容は一致する(もちろんこの本の方が遙かに詳しい)。清二も最後は〝反省のない人間〟だったことが、どちらからも十分に読み取れる。西武鉄道を創業した父親の堤康次郎のえげつなさ、評判の悪さは誰しもが知るところだが、その〝汚い〟商売をまるまる受け継いだのが義明。そんなイメージは間違いではないが、父・康次郎が許せず自ら東大在籍中に絶縁状を出して勘当を申し出た清二も、やがては与党側の政治家、そして衆議院議長という権力者となった父親の秘書官となり、また、自らが年を取ると父親を認め、「お詫び」と称して父親の偉大さを讃え、継承する。そこに明確な理由は見えず、聞こえてくるのは、やっぱり親子だからという類いの浪花節に近い声だ。
著者は清二のことを「努力の天才」とし、それが故に他人も同じようにできるものと決めてかかったため、部下の仕事ぶりを容赦なく叱責。人を見下していて、それを口に出してしまうため、かつて側近だった人たちが清二のことを口にする時には怒気をはらんでいるという。また、清二を最終決定者とするセゾングループの会議は、議論の場ではなく、清二の〝神託〟を聞く場だった。独裁者として君臨していた彼の怒りをみんな恐れた。著者は、それは康次郎から引き継ぐ独裁者の「血脈」だと表現し、暴君として立ちはだかった康次郎と変わらないとする。
堤清二は、ただ単にビルを建てただけでなく、そこに文化の拠点を築いたことをいろいろな場で自慢している。受け継いだときに破産状態だった西武百貨店を立ち直らせ、巨大な流通グループにまで育て上げ、西洋環境開発という文化拠点つき不動産事業を成功させたことを自慢する。しかし、バブル崩壊とともに西洋環境開発が破綻し、多くの従業員を路頭に迷わせたこと、そして、おそらくそれはバブル期の強引な不動産事業によるものであろう自分の責任を一切、語ろうとしない。彼が経営から手を引いて辻井喬1本で生きていきたいと言い出したのは1991年。バブル崩壊年。自分ではその後も責任を取らされた、私財100億円を提供した、と言っているが、本当はそうではなく、経営者としての引退希望声明時には、もうどうにもならないことを把握していたに過ぎなかったのであろう。
清二VS義明という構図において文句なく清二派だった者たちを、見事に失望させ、清二の本質を悟らせるという意味で、評価できる一冊かもしれない。
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堤康次郎は、次々と愛人を抱えて平然とし、有無を言わさぬ暴君ぶり、果ては女中にまで手を付け、同衾している姿。それを目の当たりにした堤清二の康次郎への憎悪は激しかった。しかし、つばを吐きかけてもそれは同じ血を引く自分にもかかる、そのようにも後に考えた。
堤清二は東大の同級生だった氏家齊一郎(せいいちろう)(元日テレ会長)にオルグされ、渡邉恒雄(読売新聞)らとともに日本共産党の〝細胞〟として活動していた。しかし、日本共産党の分裂に巻き込まれ、党中央本部から除名処分。
清二は父親から見限られたのではなく、東大在籍中に自分から絶縁状を出した。しかし、東大を出ると結核で入院生活、それから衆議院議員の父親の秘書へと転身した。
堤清二は、父・康次郎が死ぬ少し前に西武鉄道は義明に継がせたいといいたいのだと察知し、先手を打って自分は義明のバックアップに回ることを宣言した。それについて清二は、「清々した気分だった。権力も金も資産もいらないと父親に言ったわけだから気分は良かった」としている。父の死後の親族会議で清二が自ら望んでもらったのは、池袋の小さな百貨店に過ぎなかった西武百貨店だった。
清二は「義明君は凡庸だったから」「利口な子ではなかった」といって見下していたが、結局、義明が引き継いだ不動産を清二もやりたかったに違いない。そこで西洋環境開発という会社をつくったようだ。しかも、同じことをしていては義明との違いが出せないため、サンシャインシティのようにいろいろな文化施設を含めたものにしていった。それが終生の自慢点でもあったようだ。
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1945年の大空襲、康次郎が所有する麻布の3千坪の大邸宅も業火に包まれる。被災した人々が堤家の敷地に入ろうとしているのを見つけた康次郎は、下男に「一歩も入れてはいかん。外に叩き出せ」と怒鳴った。清二に「財産を守るということはこういうことだ」と説明。
康次郎は滋賀県愛知具八木荘村(現・愛荘町)で1889(明治22)年に生まれた。
義明の弟・猶二(清二の異母弟)は、誰に対しても公平で笑顔を絶やさず、人望を集めていた。東京プリンスホテルのフロント係がスタート。やがて高輪プリンスホテルを育て上げる。プリンスの格式をあげたウエスティンホテルとの提携を実現した上、その会長の娘と結婚した。しかし、義明の側近たちは「猶二はプリンスを海外に売り渡すつもりだ」と懐柔したため、義明の鶴の一声でトロントに飛ばされてしまう。清二は猶二を買っていたので、後に自らの不動産会社「西洋環境開発」に入れ、ホテル西洋銀座づくりを任せる。
堤康次郎は、滋賀県にある祖父の田畑を売った資金を握りしめて上京し、早大入学後に株式投資をし、総会屋まがいの活動を行い、儲けた金の一部で三盗郵便局の局長の権利を買って学生ながら局長に。さらに、余った資金で鉄工所を買い取って経営者に。
康次郎はおそらく16歳年上の小林一三の事業モデルを真似た。1923年に伊豆・箱根の不動産開発のために「駿豆(ずんず)鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線)を乗っ取りのような買収で入手。9年後に西武鉄道の前身である武蔵野鉄道の実験を握った。
これについて清二は「康次郎はまず不動産ありき、その不動産価値を高めるための鉄道だった。小林一三は初めに鉄道ありき。根本的に違う」と分析。
小林一三は小説を書いていた。
清二は親しくしていた三島由紀夫から「楯の会の制服をつくりたいが、ドゴール大統領の軍服のデザインがいいのでデザイナーを調べてくれ」と言われ調べると、日本人で西武百貨店に席を置いていることが判明、三島は「灯台下暗し」と豪快に笑った。結局、西武百貨店で制服をつくった。
清二が西武百貨店を任された時、すでに破産寸前。しかも、親族(母親の妹の婿)がお金を着服し放題だった。康次郎は母親の妹にも手をつけていたので、その弱みを知って結婚した婿がやりたい放題にしていたという事情。清二は彼を切り、場末の街に過ぎなかった池袋にある百貨店を、西友やパルコなどを含めて200社、年商5兆円、従業員14万人になろうかというセゾングループに育て上げた。
昭和天皇の第五皇女・島津貴子は、西武百貨店の高級ブランドPISAで働きたいと訪ねてきた。こうして皇室と清二は関係を持つことに。平成時代になると、宮中の雰囲気は昭和時代とはまったく違っていた。天皇と皇妃(美智子妃)がわざわざ清二のテーブルまで来て、皇妃は「あの方はお元気でいらっしゃいますか」と尋ねる。その人はかなり進歩的というか、左翼的な人だったのでとても驚いた、という。
辻井喬「いつもと同じ春」(1983)、「暗夜遍歴」(1987):邦子(妹)と操(母)をモデルにしている松江津。
石川達三原作の映画「傷だらけの山河」は康次郎がモデル。 -
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数年前に東芝が「不正」会計問題でメディアに取り沙汰されていた頃、自分はあまり何も知らずに東芝を横目で冷ややかに見ていた記憶がある。もちろん西田厚聰なる人物も知らず、東芝がひとつの企業としてどのような歴史をたどり、どのようなことをしていたのかも知らなかった。単に、日本的な企業の成れの果て、というような単純で穿った見方しか持っていなかった。
西田厚聰はその経歴や考え方、物事の進め方などおよそ常人からはかけ離れており、そのような人物を社長に指名した東芝という会社も実は大胆不敵な組織であったのではないだろうか。しかし、WH買収、SWの減損問題、原子力事業に関わる成り行きを見ると、西田厚聰もどこかで目が曇り始めていたのだろうか。後継者の佐々木則夫との確執についても、佐々木則夫個人にも問題はあっただろうが、リーダーとしてもっと別のやり方はなかったのだろうか。単に世界の変化に対応しきれなかったと言うのは簡単かもしれないが、西田厚聰ほどの人物であっても、晩年にはそのすごみが陰ってしまった原因は何であったかのだろうか。 -
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目一杯、それとも分相応
内容に既存書と重複部分がある感。
就職したら目一杯(いい意味でも悪い意味でも)、それとも自分の能力自覚して、分相応の頑張りに心がけるか
考えさせられます。