児玉博のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ宇野さんは父親の存在が大きいと言う。
仕事で1-2ヶ月家を開けることもあった父が、すぐ飯や、早よ用意せんかい」と他人の都合など構わず言いたいことばかり口にする。
ちょうどその頃、宇野さんが高熱で、お母さんが父に「康秀が高熱で死ぬかもしれない」と言ったら「死んだらまた作れば良いやんか」と言ったそう笑
忘れ難いその一言を今も覚えているそう。
大阪有線が設立された1961年は、1960年に所得倍増を掲げて池田勇人が首相となった翌年。三種の神器を代表に、活気づいていた。
当時国鉄の初乗りが10円、コーヒー1杯50円と言う時代に、月額1500円と言う有線放送の契約が嘘のように取れた。
ヤーさんやらがたくさんいるから大手が参入して来ずに成功出来た。
宇野さんは子供の頃父が嫌いだったそう。
自分がトップであとは雑魚、人扱いしないような言動もたくさんあった。
1985年に大阪府警が自宅に立ち入り逮捕になった際は家族に対して「これでお前らも有名人だな」と言ったそう。
逮捕容疑は有線放送に使用するケーブルを、電柱の所有者(日本電電公社)の許可を取らずに使用したと言うもの。
当時、瀬戸大橋の開通式典が行われたが、開通式前に、秘密裏に忍び込んでケーブル線を引いてたり、電柱の使用料を払わずに夜影に紛れて電柱に登り、ケーブル線を引いたり。
それを指摘されると「法律が間違っとる」と言うスタンス。そんな父が宇野さんは嫌いだった。
しかし高校生の頃、経営者の自伝を読み始めると心境が変わる。
社長として働く姿に尊敬を覚えるようになる。
ある日のこと、母親が「休日もなぜそんなに働くのだ、社員に任せたら良いでは無いか」と言ったら「何アホなことを、ワシより働くやつがいたらそいつが社長や」と。
この言葉を鮮明に覚えているそう。
インテリジェンスで「宇野さんは24時間会社にいる」と言う伝説が生まれるほど働いた。
大阪有線を業界No.1に押し上げ、宇野さんの父の側近中の側近だった人物に、谷口洋一さんと言う方がいる。
彼は、元々、福井の繊維系の家業を営む家出身で、新卒には繊維商社の名門、帝人に就職していた。
しかし、家業を継ぐのにわだかまりがある中、大阪有線の求人広告を見て、転職。
そんな大阪有線は12時定時出社、出社しても近くのきっさてんて高校野球で賭けたり、競馬、競艇など博打をやっていた。
14時頃になるとそれぞれの盛り場に行くよな環境だった。
入社1週間でトップセールスになっていた。
そして半年が経った頃、1970年に北陸出身という事もあり、富山県高岡営業所の所長に任命される。そして1ヶ月で成果を出し、すぐに金沢も兼務させられる。
しかし、所長といえど、最小人数、ケーブル線を引くのもやらなくてはいけなかった。
全国所長会議というのが毎月あり、そこでは成績報告などと合わせて、各所の給与を現金で渡していた。
入社して9ヶ月目、所長になって3ヶ月目にして給与袋を見ると、元々四万五千円の給与だったのが、九万五千円入っていた。
帝人時代の四万二千円よりも元々多かったのにさらに倍の額を貰って衝撃を受けた。
北陸駐在は6年に渡り、同世代の3倍以上貰っていた。
シンプルといえばシンプルで、目標を決め、成果を出したものに相応の報酬を与えるというやり方、そして三億円事件があり給与を自動振り込みにした時代の中、現金の方がありがたみがあるという理由で現ナマで渡したり。
34歳になった1968年に名古屋赴任を命じられ、それとともに役員就任も言われた。
その頃、大阪有線は全国制覇を狙っていた。
北海道で有線会社を始めていた人から、日本音楽放送が参入してきて厳しいとSOSを出していたため、大阪有線が北海道にガンガン参入、一方日本音楽放送は大阪有線相手に大阪に進出し安い価格でシェアを奪い合っていった。
また、お互いがお互いのケーブルを切って、サービス提供できないようにするなど泥沼化した。
相手の動きを事前に把握し警察に通報したことで戦争は終わったが、自分たちが攻撃を仕掛けられたことで、他者を人数や資金的に凌駕していた大阪有線が他の地域に進出していけばシェアを取りに行けると確信し、様々な地域でシェアを取り、買収交戦を仕掛けにいった。
宇野さんは明治学院大学に進学した1980年初頭、イベントサークルや広告研究会、プロデュース研究会が乱立し、宇野さんもそこに参加した。
そこを通して、インテリジェンスに参画する仲間と多く出会った。
後のインテリジェンスで社長となる鎌田和彦(慶應大学)、社長補佐として宇野さんを支え、USENの立て直しに尽力した竹林聡(中央大学)、リクルートの峰岸さん(立教大学)、インテリジェンス創業メンバーの前田徹也(明治学院大学)
と言ったメンバーがイベントを企画して協賛企業を募るために企画書を作ったりして企業にプレゼンをしていた。
こうした学生が一様に目指したのがリクルート。
宇野さんが社会人になった年にリクルート事件が起こり、江副さんの指示で不動産会社のリクルートコスモスの未公開株が政界だけで90人余りにばら撒かれた。
リクルートは江副さんの大学時代の友人で、森ビルののちの社長となる森稔さんに便宜を図ってもらい第二森ビルの屋上にあった掘建て小屋から始まった。
自走する社員を良しとするリクルートでは、月間の売り上げNo.1を記録すると、江副さん自らが電話をし、社長室から現場に握手をしにくる。
そして写真を撮りポスターとして廊下の壁に張り出される。
社員を鼓舞するシステムとして江副さんが考えたそう。
1980年代、中曽根政権が官営企業の民営化、特に電電公社の民営化に伴い、
京セラの稲盛さんがKDDIの前身となるDDI、日本テレコム(現ソフトバンク)、トヨタと日本道路公団の関連会社が出資した日本高速通信(現KDDI)などが生まれ通信の時代に突入。
江副さんもそこを見逃すまいと京セラを求めた際、稲盛さんに「あなたと仕事はできない」とはっきり言われた。
そこでNTTの初代社長、真藤さんにデジタル回線の又貸し、リセールをすがった。
時を同じくして、ソフトバンクの孫さんはNTTより安井が煩雑さを強いられるデメリットがあったDDIに対して、電話機をダイヤルするだけで回線に繋がるアダプターを開発し、稲森さんに営業。
ロイヤリティを求めたが、当時53歳の稲盛さん相手に29歳の孫さんは跳ね返され、一括の買い上げ(@4000円×50万個→20億円)になったそう。
宇野さんがリクルートを受けた頃、人事を担当していたのが、のちにリンクアンドモチベーションを創業する小笹さん。
自分より優秀な人を採用しろというのが江副さんの号令で、人を採るとなると、なぜその人が自分より優秀か説明を求められたという。
島田亨さんという方は1987年リクルート入社、インテリジェンスの創業に参画し、副社長まで登り詰め、三木谷さんに乞われ、楽天球団の副社長、社長、2014年には楽天本体の副社長にもなった。
16年に退社後、宇野さんに呼び戻され、U-NEXTの副社長に。
大学2年までにほぼ全ての単位を取り切り、3年からリクルートでフルタイムでバイトをした。
江副さんがリクルートを作り出した原点「自らが機械を創り出し、その機会によって自らを変えよ」という言葉を体現している人だった。
宇野さんはアルバイト時代に広報部でリクルートの映像記録などを片っ端から見て、ビジネスモデルと事業戦略が分かったからという理由で、リクルートではなくリクルートコスモスに行った。
88年の新卒入社当時、銀沢の本社地下には社員用の仮眠室がカプセルホテルのように並んでいた。
宇野さんは同期やサークルの仲間からの飲み会の誘いを全て断った。
そんな働いてどうするんだ、楽しまずどうするんだと言われたが、
「彼らが働いてる時に一生懸命仕事をするから成功できるんだ」と自分に言い聞かせた。
また、父親の「わしより働く奴がおったらそいつが社長や」という言葉も胸に刺さっていたそう。
ある日、東京外苑前にあるビルの空きスペースの活用を考えてほしいという依頼が島田さんの元に入ってきた。
宇野さんや、前田さん、鎌田さんらで色々考えたが固まりきらず、鎌田さんが「自分たちでここで起業すれば良いのでは?」と思い立ち、それに他3人も賛同し、事業は何をやるか決めずに辞表を出し起業。リクルート事件が起きた年の9月だったそう。
当時は会社設立に最低1000万円必要だったため、その資金集めから始めた。
4人合わせて1枚50万円までキャッシング出来るクレカを7枚持っていて、350万円はキャッシング、残り650万円は同級生や知り合いなどを回って集めた。
その時はバブル真っ只中で、特に金融機関が採用が強かったため、とある鉄鋼大手の人事はそれを恨んでいた。
そこにビジネスチャンスがあると考え、〇〇大学の××が三菱に呼ばれた、などの学生の動き、情報を人事に売った。
最初の契約は三菱自動車、噂で瞬く間に広がり年間25万円、翌年からは35万円、最盛期には400社を越え、億単位の売り上げとなった。
1年目で1億、2年目で5億、3年目で10億と伸びていったそう。
新たな事業として人材派遣を考えていた。
当時、パソナとテンプスタッフの上位2社を合わせてもシェア10%にも満たなかった。
また、女性求人情報誌のとらばーゆを毎週買っていた宇野さんはどの会社も毎週同じ広告を出しているだけということに気づき、キャッチコピーを変えるとか写真を新しくするとか当たり前の努力をやれば勝てると思ったそう。
特に派遣ビジネスでは大差ない状況のため、スピード勝負が肝だった。
システムでデータベース作りをしていった。
人材募集を増やすために、メルセデスをプレゼントするという企画もあった。
また、その当時、ある社長から「30人では大きくならない」と言われた。
30人は1人でマネジメントできる限界、それを超えるには何らかの手立てが必要、と。
それを機に人を大胆に増やそうと判断し、日経新聞の一面を買い取り、広告を打ち、1年で70人まで増えた。
当時社員として在籍してた藤田さんも、いきなり知らない社員が多数占める状況に「この会社大丈夫かよ」と思うこともあったが、相手が納得するまでとことん説明した。
父の元忠さんは病に倒れると、宇野さんに社長を都合と言う。
当時インテリジェンス上場するタイミングだった事と、家業は継がないと言っていたことから断ろうと思ったが、
違法に電柱720万本、地球3周分とも言われる量のケーブルを不正に敷いてる会社を誰も継げない、継げたとしても迷惑をかけると感じ自分で継ぐことに。
(民法上、非常に煩雑な手続きをしないと撤去できなかったたま大阪有線の不正占拠は成立していたそう)
それをインテリジェンスの創業メンバーたちに告げると、継がないと言ってたじゃないか、などと言われるかと思ったが快諾してくれて、涙が出たそう。
1998年、63歳の若さで元忠さんは息を引き取った。
会社を引き継いでから、正常化に舵を切る。
かなりの大規模な作業だった事と、通常の営業活動と別で行わなくてはいけなかったので、休みもなく、疲弊しきっていた。
そのため、正常化を反対する社員が多数出てきたり、当時出てきた2chでボロクソ書かれたり、挙げ句の果てには血染めの藁人形が家に送られてきた。
家族に迷惑を掛けてしまうリスクもあったが正常化を果たした。2000年のことだった。
-
Posted by ブクログ
ネタバレ現役時代にご本人にお会いしていないのが悔やまれる。
平和相互銀行と住友銀行の合併を影の立役者だった國重氏の視点から描く。驚くのは詳細なメモをもとに再構成した合併までの経緯。住友銀行は関東地区の地盤固めのためどうしても平和相互銀行を吸収合併したかった。しかし直前に関西相互銀行を吸収しようとして関西相互側の職員に大反対され合併を白紙撤回した苦い経験があった。
「今回は失敗できない」という状況の中、住友銀行の水面下の動きが活発化し、その相手は大蔵省、日銀にとどまらず東京地検内部、政権の中枢にまで及ぶ。
それの相手方を飛び回り、情報を収集し折衝を行うポジションにいたのが國重氏だった。
そして平和相互銀行との合併は成功する。
國重氏は行動派で相手に取り入るのが上手だったのは間違いない。それは女性にも同じ。
國重氏が平和相互銀行合併に暗躍していた時、怪文書がまかれたが書いたのは國重氏本人だった。そして信ぴょう性を高めるために平和相互銀行のロゴの入った便箋を当時ねんごろだった女子行員に持ってこさせていた、と。また國重氏が住友銀行を追われるきっかけになったのは、当時天皇と言われた磯田会長の秘書と不倫関係になり、子を設けたことが経営陣の逆鱗に触れたため、と。
イトマン事件ではイトマンに会社更生法適用させ、膿を出すスキームを提案したがいろいろな金融スキャンダルが白日にさらされることを恐れた住友銀行の経営陣から最後にはしごを外された、と書いている。
おおよそ35年前の出来事。いまなら書ける状態になったということか。 -
購入済み
2ヶ月早く読んでいたかった
これを読んでいたらUSENを次の会社に選んでいたと思う。
そう思えるような創業者のお話でした。
是非多くの方に読んで頂きたいです -
Posted by ブクログ
西田社長ー会長 東芝の戦略を確立した 「半導体と原子力」に選択と集中を進めた
尊敬するウェルチGE氏の経営戦略手法を踏襲したものか・・・
そのダイナミックさは社内外の高い評価を得、株価も倍へ
しかし時は味方せず
リーマンショックと
東北大震災・福島原発事故
半導体と原発を直撃
それまでの西田経営には誤りはないが、結果的にリスクが過大だったということ
経営は結果責任 でもリタイアした西田氏は責任を受け入れず
むしろ自己正当化
東芝ものでは出色の一冊 それでも後味は不味い
世界グローバル化に対応してきた男 西田社長
それでも晩節を汚す
勲章と財界ポストはダメ 人を腐らせる -
Posted by ブクログ
先日亡くなられた西田元社長を軸に書かれたもの。「東芝機械ココム事件」「イラン革命」「Dynabook」「ロータス1-2-3」など、懐かしい事象に揉まれながら歩んだ西田氏の経歴が語られます。丸山眞男氏、大前研一氏なども登場し、今では反原発派の小泉氏が政権掌握時代に原発を推進すべく、東芝に圧力をかけたなども紹介。この頃の日本の政治・経済を包含しながら、今の東芝の姿に至る第一級のドキュメンタリーになっています。
大変な勉強家で、就任時には「陽」で皆からも歓迎されながら、どうしてこうなってしまったのか、「陽極まれば陰に転ず」と言えばよいのか、読後には考えさせられます。
「負けず嫌い」な性格でひたすら業績をあげることに注力したのでしょうが、最後のインタビューで、社員に対するコメントがなかったのが痛切です。 -
Posted by ブクログ
[異能故の功罪]後に大きく傷つくことになる原子力事業に大きく舵を切り,粉飾の原因を作り出したとも批判される元東芝社長の西田厚聰。イランにおける現地法人に採用され,韋駄天のごとく社長の椅子を手にした人物は,どこで歩みを間違え,名門企業を存続の淵に立たせることになったのか......。著者は,『堤清二 罪と業 最後の「告白」』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した児玉博。
ノンフィクションの醍醐味を凝縮したような作品。西田厚聰という人間の歩みが東芝と重なり,そしてそのまま「壊滅」へともたれ込んでいく様子が丁寧に描かれています。他方,本書をしてただの批判本となっていない所以は,西田の成功が東芝の壊滅につながった点を示唆している点。読み終えた後の寂寥感が凄まじい作品でした。
〜光と影。言い古された言い回しだが,西田厚聰という人物の人生にわずかばかりだが,触れさせてもらった率直な感想は,圧倒的に光り輝いた部分と,その光があまりに強いがゆえに濃さを増した影を見たような気がする。〜
サラリーマン/ウーマンなら読んで損なし☆5つ -
Posted by ブクログ
先見の明か鬼才か
出井氏の「失敗」なのか慧眼か
経営者としてのビジョンとリアリズム
経営は10年にしてならずだが...
リレーを余儀なくされる時の必要な犠牲か
評価/感想
これまでの著者の伝記で書かれた経営者と異なり評価が難しい。著者は出井氏に対するポジティブな見立てだが、本当にそうか。世間の単一的な評価「エレクトロニクス軽視、ものづくりからの脱却失敗」へのアンチテーゼである一方で、東芝(西田氏)やUSEN宇野氏に比べると、学びが薄い
そもそも経営とは何か、というのは常に問われる
おそらく出井氏の先見の明は正しく、ソニーが製造業(メーカー)の強みを持ったまま、ITやコンテンツ産業にも進出する構想は後に平井氏のもとで復活した。
ただそれを成し得なかった経営者なのか、企業経営においては、
いや大企業の「リレー型」経営者においては、そういう犠牲となる=種となる経営者も必要なのか?
() -
Posted by ブクログ
トヨタを中国で発展させた男、服部悦雄の一代記。
満州国で農林技官の息子として生まれた彼は、敗戦により、共産党支配下の中国で27歳まで生きる。飢えと差別、そして恐怖の下で持ち前の明晰な頭脳により進学し、日本へ帰国。
母国である日本でも異邦人である服部は、中国ネイティブとして、トヨタの中国進出の尖兵となって、奥田・章男といった上司の庇護の下で辣腕を振るう。
サラリーマンとして、これ以上ない業績を上げつつも、役員に取り立てられることも、中国に帰化することもできずに、彼は日本で孤独な老後を送る。
やはり、戦後の貧しく厳しい中国共産党の支配下での生活を、日本人として詳細に語るところに最大の価値がある。現代日本はまだまだ、平和で豊かだ。
-
Posted by ブクログ
トヨタの中国総代表を務めた服部悦雄氏の半生とトヨタの中国市場での歴史を、服部氏へのインタビューをもとに追う一冊。トヨトミシリーズを読んで奥田社長と服部氏について深掘りした本があればいいなと思っていたが、まさに読みたかったそのものの本だった。
この本の読み応えは、トヨタ中国での服部氏の大活躍ぶりにもあるが、やはり戦後中国で服部氏が過ごした27年間の過酷極まる生活についての部分だろう。国民党残党への凄惨な弾圧、大躍進運動など不条理な政策とそれによって引き起こされた地獄のような飢餓、文革による中国の歴史と精神の破壊、これに日本人差別も加わるのだから、人生の厳しさが度を超えている。一方で中国を憎み悪夢にうなされ続けたとしても最後には中国人になろうとした服部氏の深い悲哀が伝わってきて、人生譚として感情が揺さぶられること多だった。
中国という国がどういう国かを理解する一助にもなる本作、とても充実した内容の一冊だった。 -
Posted by ブクログ
前半は山崎豊子の『大地の子』とか最近の『三体』を彷彿とさせるような大躍進政策とか文化革命の暗い記憶が語られて、後半は豊田章夫会長が中国駐在してた時代の中国事務所総代表として、出遅れていた中国の事業展開をウルトラCの奇策で推し進めていった経緯が詳細に語られる。
そんな奇策を成し遂げられる胆力はやっぱりくぐってきた修羅場が異次元だからなのだろう。やっぱりぬるい環境に身をおいてたらそれなりのレベルまでしか成長できないんだなと思った。
そんな今の中国におけるトヨタの地位を築いた立役者でも役員にはなれなかったのかと今でも悔やむ服部氏には同情の念が沸く。
-
Posted by ブクログ
経営の原点は自責、当事者意識
自分の手でコントロールできないことが多すぎるからこそ、自分にベクトルを向けるパラドックス
■概要
東芝の栄枯盛衰を1人のサラリーマン経営者である西田厚聰氏にフォーカスし、ドラマチックに見ていく。ウェスティングハウスのM&Aは博打だったのか?3.11と原発事故が無かったとしたら?"不正会計"なのか"不適切会計なのか"?大企業の権力争い、社長指名の実態と経営者の資質...
迫真のノンフィクション
■感想
・経営者は自責というタイトルに関して
不確実性が極めて高く、従業員の生活を背負う覚悟、株主や顧客(競合も交えた市場)といったステークホルダーに向き合い、何より「意思決定」の最高責任者である経営者に必要なものは自責である。
環境のせい、部下のせい、過去からの...こういう言葉が出てくる者は経営者に値しない。西田氏はサラリーマンとしては極めて優秀だったのだろうが、サラリーマン経営者、操業経営者とも呼べないのではないか。様々なフォロー、観点もあって然るべきだが、このインタビューの発言が本当であれば、いくら切り取りが仮にあったとしても酷い考え方である。その反面教師になる個人ドラマだった
→圧倒的当事者意識を持つリクルートがなぜ経営者(何なら起業家)を輩出できるのか?その対偶を見ているようである
・1人のサラリーマンとして捉えると
これは大変優秀な方であるし、婚約者の事情とは自らイランに行って、現地採用→本社採用→社長にまで出世する、というのは圧巻であった。特にイランの国政や環境に翻弄されながらも、東芝の中東進出の足掛かりを作ったことや、後に出てくるラップトップPCの普及と欧州市場攻略に胸躍るものや学ぶものはある
・そもそも経営者任期が短すぎる
4年の社長任期じゃ何もできないし、結果責任を取れないだろう。半導体にしろ、原子力発電にしろ長期で投資判断の是非が問われるのに対して、後任に対する足枷になりかねない意思決定を簡単にしかねないインセンティブ設計に見える。
そこを後任が思い通りに進めないことに対して、他責になるのも納得であり、西田氏の資質というよりは東芝という会社としての経営者選定プロセスが機能不全を起こしており、日本企業の多くが同様の悩みを持つのであれば、その問題点を濃縮した様な企業であった