山本昭宏のレビュー一覧
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東日本大震災で日本の福島県は「フクシマ」となった。世界で初めて人類が核兵器を開発し、その最初の被害者となった「ヒロシマ」「ナガサキ」と同じく、カタカナ表記で世界から注目を浴びる都市となる。日本は太平洋戦争末期にアメリカにより原子爆弾が投下される。そして今、その被害を受けた広島県や長崎県は、核兵器廃絶のシンボルになっている。だが世界はそれに逆行した。アメリカに続いてソ連が対抗するように核兵器を量産する。その数、最大でアメリカは三万発、ソ連は四万発あったとされる。勿論広島長崎の二都市に落とされた数は各一発ずつであるから、世界中の主要都市全てに投下されたとしても余る数を持っていた計算になる。その後、世界は核兵器廃絶の流れと逆行するように、「経済的な兵器」として核開発が進む。イギリス、中国、フランスが続き、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮の合わせて九カ国が核を保有するに至る。パキスタンや北朝鮮は、周囲だけでなく外に敵を抱えており、戦略的に国家が滅亡に瀕した際の最後の手段としての保有である。
一方、日本のように核兵器被害国でありながら、それを平和利用しようとする国も多数存在している。化石燃料の枯渇が叫ばれる中で、他国の資源に左右されない社会を築こうとする流れは、かつての日本がアメリカの石油に依存し、輸出停止の措置を受けた経験からも自然な流れであるが、被害国である日本がそれを積極的に推進し、東日本震災で第三の被害都市を生み出したことは、歴史の皮肉というより、悲劇でしかない。そして今なお安全性への確たる保障も無い中で、多数の原発が稼働もしくは稼働再開の準備段階にある。前述した被害三都市以外の都市に住む人なら、資源の無い国である日本ではやむを得ないだろうと考えるかもしれないし、電気代が高騰すれば背に腹はかえられない、という状況かもしれない。現にこのスマホの電源だって、温かい風呂に浸かれるのも電気=エネルギーのおかげである。
近年化石燃料や原子力から脱却し、地球環境にも優しい自然エネルギーを利用しようとする流れは顕著である。だが太陽光パネルを設置するには、それを作る(主に中国製品だが)際に必要とするエネルギーも必要だ。果たして日常の電気利用に加えて初期のエネルギーコストを回収できているのだろうか。勿論海外からの輸入製品を使うなら輸送に必要なエネルギー、設置工事に必要なエネルギー、販売したり取り付けるために要する人件費と、関わる人々の消費するエネルギーなどの総量での試算が必要になるだろう。
話は逸れたが、本書は核の利用に関する日本人や世界の向き合い方を、その歴史的背景などから考察する内容となっている。世界で唯一の核兵器被爆国である日本が、如何にして原子力を平和利用しようと試みてきたか。そしてその過程に潜むリスクや、顕在化してしまった原発事故。様々な苦難を乗り越えつつ、そのリスク想定が甘かったことによる、地球からとも言えるしっぺ返し。本書を読むことで、改めてリスクの大きさを感じるかもしれないし、リスクを取らなければ、その先の安全も平和もないと考える人もいるだろう。先ずは本書の様な書籍を読み、自身がどう考えるか。きっかけになる一冊だ。 -
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最近の国内外のニュースを見ていると、田辺聖子さんの「ほんまかいな?」という言葉が頭をよぎる。防衛費の拡大、憲法九条の改憲論議、核の抑止力……。軍靴の足音が、少しずつ近付いて来ているように感じるのは私だけだろうか。
この本に出てくる12人の女性たちを見てると、彼女たちの「戦後」はまだ終わっていないんだなって思う。男性中心の社会で、自立して平和を切り拓いてきた彼女たちの行動力は本当にすごい。そしてその力強さに圧倒されてしまう。
特に黒柳徹子さんの「子どもを泣かせない」という覚悟、田辺聖子さんの「笑って生き抜く勇気」とユーモア、そして吉永小百合さんの「原爆詩の朗読」と「戦後が続いてほしい」という祈り。みんな「自分にできる小さなこと」から始めるフットワークがすごく軽くて、信念があって格好いいんだよね。
もし戦前、土井たか子さんの「護憲」や中山千夏さんのような「個」の声が政治に届いていたら、日本はあんな破滅的な道を辿らなかったのではないか……そう思わずにはいられない。
ロシアや中東の紛争が続く現代、「新しい戦前」に一歩足を踏み入れているのかもしれない。 国家という大きな力に個人は微力に見えるけど、まずは【自分にできる一歩】を始めること。それが、彼女たちから受け取った平和のバトンを繋ぐ鍵であり、「あなたなら何が出来る?」という問い掛けなんだと思う。
私に出来ることは少ない。「知ること」を止めないことと、定期的に行っている献血で大切な誰かの命の繋ぐ一助になればと願っている。
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1989年~2023年までの日本社会における「戦争と平和」論を追跡する。情報は手際よく整理されていて、いろいろなことを教えてくれるが、どうにも記述に深みがない(4000字ぐらいで一つのトピックが片付けられ、すぐに次に進んでしまう)。印象が残らない。たぶん、ここで展開されている議論に文化的・思想的な深みが感じられないからだろう。宮崎駿の諸作品や岡崎京子『リバース・エッジ』、岡田利規『三月の5日間』などのフィクションも取り上げられているが、基本的には従前の議論の紹介と再解釈にとどまる。よく言えばジャーナリズム的な、皮肉に言えば気の利いた学生のレポート、というところか。
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憲法の価値に加え(一国)平和主義と直接民主主義と平等主義を重んじた戦後の思想の総称。厭戦気分から生じた「公」への不信感が「私」の盲目的尊重に繋がったという印象を受けた。戦後世代が主流の今、厭戦という動機が消えてただの個人主義に収束したとみると、戦後民主主義の変質が理解できるような気もした。なので著者の言う戦後民主主義の衰退には賛同できない。昨今ジェンダー系の運動が盛んなことを踏まえれば、個人の主体性を尊重しようというリベラル側の勢いは未だに衰えているわけではなく、対象が非武装中立などの国策の話題から個人の権利を求める個人主義的運動の話題に変化したと見るのが自然だと思う。平和主義は厭戦の動機を離れて日本人の意識に深く刻み込まれた観念だと思うので、新たに根本的な変革が起こらない限り意識は変わっていかないだろうというのが僕の見立てだ。本書は占領軍による戦後民主主義の成立(憲法制定)から保守・新左翼による批判、それに対する革新知識人の反論を総集的にまとめているので一つ一つの議論が簡素だが、その分俯瞰して見ることができるので全体像は見やすくなる。2021/5/19
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神戸市外大准教授(社会学)の山本昭宏(1984-)による戦後の「平和論」紹介。
『核エネルギー言説の戦後史1945-1960』『核と日本人』など、原子力をめぐる戦後の言説・メディア分析を専門としており、話題性のある著作を発表している若手と言える。
ただし、本書については、率直に言って、期待外れ。
「教養としての」と書いてあるのだから、およそ基本事項は抑えてあってしかるべきだが、そんなことはない。
評者は1955年体制構築そして60年安保に至るまでの期間は平和論を語る上で、非常に重要な時期だと考えるが、本書の政治史の纏め方はかなり雑。本当に理解をして書いているのか疑問を呈さざるを得ない。
なぜ日本の「平和論」なるものがここまで捻れているのか、という問題意識を持っていないことに愕然とする。
戦後隆盛を極めた日本の平和論が、原水禁・60年安保・ベ平連の活動を頂点にして変質・衰退したことは事実だろう。しかし、その背景について、運動側(左派)の内在的な問題や、国際環境の変化があったはずだが、本書では何も触れられていない。
90年代に坂本義和の「一国平和主義論に対する批判」を取り上げているが、これは皮肉な引用だろう。本書の構成そのものが日本の周辺で繰り広げられた数々の紛争や、軍事的緊張、核開発には一切触れず、東アジアの政治構造の変化にも頓着せず、ただひたすらに日本の文壇の言説分析に終始している。
その意味で、本書は全く「戦後的平和論」である。
2016年現在において、これが「教養」だと認識しているのであれば、研究者としての資質に疑問を呈さざるを得ない。百歩ゆずってタイトルは出版社の意向だったにせよ、戦後史を概観する「平和論」を論じるのは、著者にとっては「背伸びのしすぎ」だったのではないか。
まずは、戦後の国際政治史を教養として身につけた上で、行きし歳月に浮かんでは消えていった平和論を相対化することを目指してもらえないだろうか。
1980年代生まれの人間が、1960年代・1970年代に侃々諤々議論された「平和論」を冷静な筆致で論じるのは意味のあることだと思う。しかし、本書のような内容ではダメだ。 -
Posted by ブクログ
広島、長崎の原爆から、ビキニ岩礁での漁船被曝。そして、いくつかの事故を経て、311の福島第一原発の重大な事故まで。
その間、マスコミだけでなく、映画、ドラマ、マンガ等日本人の意識を反映し、そして意識を形成する様々な媒体において、武器としての原子力「核兵器」と核の「平和利用」について、どのように表現され、報じられ、そしてそれらが日本人の意識に刷り込まれていったかを、客観的に分析している。
戦後70年の歴史は、軍事目的、そして平和目的(?)と主たる目的は異なるにしても、原子力利用の70年でもあった。
特に原子力の利用について表現されたものは、自分が生まれ、育ってきた時代と重なるので、非常によく親しんだものであり、あったあったと振り返ることができた。
そして、さらに興味深かったのは、私の上の世代、戦後すぐに子供だった時代は、米ソ冷戦のなかで、核は兵器として使用されるのが前提の時代であり、かつ、米国の日本支配において悲惨な核爆弾の被害から目を逸らさせ、強力な武器ではあるが、明るい未来を作り出すものと喧伝されてきたこと。
その時代に、幼少期を過ごした人たちが、現在、原発の利用シーンにおいて、東電の社長であったり、国会議員であったり、経済団体の重鎮の世代と重なるのは、決して偶然ではないのかもしれないということ。