鳥飼玖美子のレビュー一覧
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NHKの「ニュースで英会話」で有名な、同時通訳者で英語教育が専門の著者によるもの。
とてもまともなことを言っていて、こういう本を読むのは良いのだけれども、一連の著作において、小学校英語など早期英語教育反対、英語一辺倒反対、などはすでに何度も主張されていて、特に目新しい内容もなく、著者の本はどれか1冊読めばいいんじゃないかという気にさせられる。
それでも例えば人気の「シャドーイング」、「音読」も極めて冷静に分析している点が面白かった。シャドーイングの訓練をすると、「訓練生は、『通訳というのはオウムのように繰り返すことだ』と誤解してしまう」(p.94)とか、「外国語教育の研究では、声に出して読むと集中できなくなり内容理解が不十分になると音読に反対する学者もいます。」(p.97)といった見解も紹介されているのが良かった。あと、よくおれも「どうやったら英語できるようになるんですか」みたいな質問を受けて、よっぽど気を遣わなくてもいい人からの質問だったら「無理なんじゃないですか」と言ってしまうが、まさにこの本に「漫然と『英語が話せるようになりたいなあ』と願っているだけでは英語ができるようにはなりません。」(p.192)と書かれていた。いくら予備校の先生か何かの教材からか刺激は受けたとしても、「外国語は、自らが学ぶ意欲をもって主体的に取り組まなければ成果が出ない」(p.201)し、「外国語学習に自律性が欠かせないのは、言語というのは生涯かけて継続して学ぶものだから」(p.202)とか、どこかの時点では「自分で」「必要を感じて and/or 面白いと思って」やることが必要だ、というのは揺るがない真実なのではないかと思った。
科学者やスポーツ選手など、社会で活躍する人々がどうやって英語を身につけ、使っているかという話が出てくるが、中でも「宇宙飛行士の英語」の項が面白く、若田光一さんの話が面白かった。「どんなに大変だと思う仕事も、しばらくすれば慣れてきます。慣れて"定常状態"に入ると成長は鈍化する。そんなときはあえて、環境を変えて変化させるんです。不均衡状態をわざと作ることで緊張感を維持し、自らが進歩していけるのだと思います。」(p.194)というのが印象的だった。(17/04/16) -
Posted by ブクログ
通訳翻訳にまつわる誤訳と呼ばれる訳を考察する。
外国語能力の欠落によって引き起こされた誤訳は誤訳以外の何物でもないが、一般的に誤訳と呼ばれているものの中には、それらとは異なる種類のものがあるという。
例えば、文化の違いから引き起こされる誤訳は、文字面はきちんと対応しているのに、日本語と外国語でその言わんとしていることが異なる場合があるという。
さらに具体的には、orange catという例が挙げられている。これは、直訳すれば、「オレンジ色の猫」ということになるが、英語と日本語では同じ色でも色彩分類が異なるので、日本語でいう「茶色い猫」に当たるのだという。
この他にも、文化の違いだけではなく、外交などの政治がからむ局面においては、二か国間での利益の違いから、通訳者や翻訳者に圧力がかかり、故意に誤訳を行わなければならない場合もあるという。 -
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ほとんど異論違論の湧かない内容だった。
つまり、予想された通りの、言い尽くされたような論述だった。
というかまだ英語公用語が積極的に実施されてないから、
検証とかのしようもないのかな。
面白かった点としては、
「日本と海外の外国語教育についてのトピック」が、
印象に残った点としては、
「抽象的なことを英語で話せるかどうかが重要であること」が
挙げられる。
この本の書き方で印象に残ったのが、
参考文献や引用が多種多彩であったこと。
ブログとか週刊誌とかテレビ番組とか、
「そんなの根拠大丈夫か?」みたいな元もあったけど、
多面的なアプローチでそれはそれで良いと思う。 -
Posted by ブクログ
これからの英語、英語教育のあり方を考える1冊。ネイティブ信仰を捨て、「コミュニケーション」の本当の意味を考え、国際共通語としての英語を学びましょう、という本。
EUの複言語主義の考え方や、カチュルーのWorld Englishesの考え方を紹介しながら、英米人の使う英語、ではなく、国際共通語としての英語について解説している。そして、従来からの学習指導要領でも重視されている「コミュニケーション」の意味を考察し、その上で英語教育のあり方や学習の動機づけについて述べている。
言いたいことは分かるし、単純に道具として英語を身につけるのではない、「文法はいいから会話ができれば」のような考えは甘い、学習指導要領では、あまりにも「コミュニケーション」という言葉が何も考えずに使われている、のあたりは本当におれも賛成できるし、当然のことだと思う。
けれども、著者自身も指摘するように、「国際共通語」に対する志向性、動機づけ、というのは、探すのが難しい。著者を含めた多くの学習者がそうであるように、英語を身につけたいという動機は、意識的にも無意識的にも、英語圏の文化が知りたいとか、英語圏の人と交わりたいというのがまずあるのではないだろうか。まず英語の母語話者がいるからこそ、英語に対する動機づけが高まるというものではないだろうか。もちろん、自分の使う英語として「国際共通語としての英語」を選ぶ自由は当然、認められてしかるべきだけれども、勉強するときは、母語話者の英語を規範として選ぶのが妥当だと思う。そもそも、「国際共通語としての英語」は、おそらく母語話者の真似をしようとしたけれども、学習者自身の母語による干渉を受けたり、それらの「規範から外れた」英語が交わり合ったりすることによって、その最大公約数として、結果として出てくるものだと思う。なので、使ってみなければ何が「国際共通語」かは分からない、という側面があるのではないのだろうか。要するに、国際共通語としての英語は教える、というよりは勝手に生まれるものだと、おれは思った。(11/12/28) -
Posted by ブクログ
2月に同著者の『「英語公用語」は何が問題か』を読んだが,やはり英語は使えるに越したことはない。本書では,多言語共生という理想を追求しながら,普遍語となった英語を活用していく必要を説く。
前著でも繰り返し述べていたように,「英語支配」がもたらす弊害に注意することを強調。母語に裏打ちされた豊富な言語力を活かし,話す内容を生み出す思考力,対人関係の構築力,批判的読解力を磨いて,「世界語としての英語」でコミュニカーションできれば文句なし。
ネイティブスピーカーがどういう英語を話すかを気にしたり,「正しい英語」を追求するのでなく,英語を使う世界中の人たちが分かりあえる英語を目指すべし。英語教育界でもこういったパラダイムシフトが起きているらしい。
以前どこかで,"I can do it before breakfast!" でいいじゃんって話を見たことあるけど,著者も同意見のよう。え?どういう意味?って聞かれたら,日本ではそう言うんだよーと説明することで,話も弾み,異文化相互理解にも資する。うんおもしろい。
英語教育の新たな指針も示されてる。英米文化理解から,共通語としての英語を使っての発信へ目的をシフト。そのために,脱ネイティブスピーカー信仰,学習事項の仕分け,読み書きの重点化,自律した学習者育成を課題とする。(p.124)
国際共通語といえば,20世紀にはエスペラントが随分もてはやされた。英語よりずっと単純で憶えやすく,一時期は国際派知識人がこぞって普及を夢見ていた言語だが,全然定着せず,ただのマニアックな人工言語で終わってしまった。
結局,20世紀の歴史は英語を勝者とした。思考と密着し,日常的に使うのが言語だから,人工言語が失敗し,強者の言語が普及したのは当然すぎるほど当然だったのかも。今はそれを乗り越え,英語のコアだけが国際共通語として抽出され,活用されていくんだろう。それはもう本来の英語ではない。
何でもネイティブに倣えは最近流行らない。著者がショックだったのは,「何も姓名の順番を英米風にすることはない」って学生に気付かせてもらったことらしい。日本では鹿鳴館時代の欧化政策から,この慣習が長く定着してた模様。 -
Posted by ブクログ
経済界からの要請で即効性のある英語教育政策を推し進めてきたが、そこで身につく英語は果たして本当に万人に求められていることなのか。
単なる一つの言語でしかない英語が国際共通語として認知される一方、言語文化の多様性の維持は不可欠だ。
実効性以外の面で英語教育のあり方を捉え、外国語を通して世界を見ることで、自国文化や母語を客観的に見つめることで世界の中のアイデンティティーを自覚することも英語教育の効用であるはず。
そのことは唯一現場を知る英語教員が声をあげ発信していかなければならない。教員自身の研鑽とその制度的支援の拡充整備も求められる。
義務教育という形で画一的に英語を教え込む意義を改めて問い直し、その位置付けをはっきりさせること。 -
Posted by ブクログ
Q.仕事はできるが英語はできない人と、仕事はできないが英語はできる人はどちらが重宝されるでしょう?
A.仕事はできないが英語ができる人
本当か??
とうとうそこまできたかと。
世間の流れと自分の感覚がずれていっているように感じた。
本著はいわゆる「英語至上主義」に警笛を鳴らす著だと理解しました。
英語のテストでいい点を取るためのような目標が示されているものは"勉強"。
謎への好奇心から喚起されるものは"学び"。
この対比はおもしろかった。
経験から言っても、力が伸びるのはこの"学び"からくるものだと思う。
かのバートランド・ラッセルも、教育というものは講義を終えた後には
学生の目の輝きが変わっているものでなくてはならないと言っている。
そのような授業が行われているところがこの国にはあるのか。