世界史を勉強してる人には読んでもらいたい一冊。歴史を一通り勉強した上で、この本を読むと一層理解が深まると思う。繰り返し読んで理解を深めたい。以下気になったところをまとめる。
❶民族はこうして始まった
①我々は日本人というアイデンティティがあるが遺伝的には中国人や韓国人と同じモンゴロイドの人種である。
②人類はコーカソイド、モンゴロイド、ネグロイド、オーストラロイドの4大人種に分類できる。
③コーカソイドが一番分かりにくいかもしれない。ヨーロッパ人とインド人が同じ分類といわれてもピンとこないかもしれないが遺伝的には同じである。
④DNAなどの遺伝的な分類では4つの分類になるが、言語、文化、慣習による『民族』で分けると、我々が考える民族の分け方になる。
『国民』という分け方は法律、制度を共有する分け方をいう。
⑤コーカソイドの名前は黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地方に由来する。これにはキリスト教が大きく関係している。
⑥言語というものは民族の『歴史的血統書』ということができる。
⑦インド ・ヨーロッパ語族は『アーリア人』とも呼ばれ、もともとは中央アジアにいたが、紀元前2000年くらいに寒冷化を避けて、西を目指した多数派は中東を経てヨーロッパへ。南を目指した少数派はインド へ侵入した。
⑧フェニキア人はセム語族の中で最も先進的な文字の文化を持っていた。それをパクったのがインド ・ヨーロッパ語族のギリシャ・ローマ人であり、今のアルファベットの原型を作った。
❷東アジアと日本
①中国は戦いの歴史であり、その過程で様々な民族の混血が進んだ。『漢人の国』といっているが、言語などを考えてもそうとはいえない。歴代の皇帝は漢人以外も多い。隋、唐の建国者は鮮卑族といくモンゴル人である。宋の建国者はトルコ人の沙陀族である。元はモンゴル人であるし、清は満州人である。
②『華』というのは文化のことであり、漢人は文化の『中』にいる民族、すなわち中華である。この言葉を概念化して一般化させたのは宋王朝の司馬光である。
宋王朝は漢人ではなくトルコ系の沙汰族である。文治主義である宋王朝が民族主義を政治的に利用し、求心力を高める目的で利用したのが中華思想である。
③宋王朝は武力が弱く、モンゴル系の契丹族に毎年、献納することで体裁を保っていた。この状況を粉飾する目的として、『文明人である漢人が野蛮人を寛大に許して施しを与えている』という中華思想が持ち出された。
当初は弱気を隠すための言い訳として中華思想は始まったのである。
④古墳時代に日本にも朝鮮から大量の移民がやってきて混血が進んだ。政権の中枢にいた蘇我氏も朝鮮系と言われている。特に、百済が消滅した後は大量に日本に移民がやってきたとされる。
⑤日本は391年に百済を服従させたとされる。その後、百済を足掛かりに200年以上、朝鮮に影響力を及ぼしてきたが、7世紀に唐王朝ができると事態は変わる。唐が新羅と手を組んで、百済をとりにきた。これに対し、朝鮮へ出兵した出来事で有名なのが662年の白村江の戦いである。
この時、中大兄皇子はこの戦争を国威上昇の道具に使い、政権の求心力を高めるとともに、反発分子は徹底して糾弾して政権強化をすることに成功した。
⑥唐との戦いに備えて太宰府に国防軍を作ったが、この時に詠まれたと言われる防人歌は政権のプロパガンダとして書かれたものと思われる。あの時代に、歌を読める兵士など少数であった可能性が高いからだ。
⑦朝鮮人とは韓人と満州人という2つの流れにまとめることができる。韓人と満州人はもともとは言語系統からも血統からも異なる民族とされている。
⑧高句麗は満州人の国で、南の百済や新羅は韓人の国だった。高句麗は唐に滅ぼされ、唐の支援を受けた新羅が百済を滅ぼし、朝鮮を統一した。
⑨高句麗を滅ぼされた満州人は満州に渤海を建国。唐の衰退とともに新羅が衰退したところで、高麗を建国し朝鮮を統一した。
❸世界を支配したヨーロッパの国々
①ヨーロッパ人は大きく分けて3つの系列、ラテン人、ゲルマン人、スラブ人に分けられる。この区分は使う言語の文法による区分で血統や人種のカテゴリーではない。
②スラブ人が多く移住しているロシア・東欧地域はビザンツ帝国の影響を文化的にも宗教的にも受けている。宗教や文字も古代ギリシャの影響を強く受けたのがスラブ人である。
③イタリア ・スペイン・フランスなどのラテン人は古代ローマ帝国の言語や文化の影響を受けている。
④ゲルマン人はドイツ系の人々で、イギリス人や北欧の人々も含まれる。歴史的には4世紀以降、ローマ帝国の弱体化とともに帝国内に侵入し、395年のローマ帝国の分裂を誘因。476年には西ローマ帝国を滅ぼした。(ゲルマン人の大移動)ゲルマン人の大移動はフン族(トルコ人?モンゴル人?あるいは混血?)の西進によって追いやられたとも言われる。
⑤温暖化による影響で食料増産の機運が出てきた時に、勢力を伸ばしたのがゲルマン人である。ゲルマン人の中で有力な民族であったフランク族が今のドイツの場所で作ったのがフランス王国である。権威を得るために、ローマ教皇に接近し、800年に遂にローマ教皇から皇帝の地位を認められるに至る。こうして、スラブ人が治める東ヨーロッパと、ゲルマン人とラテン人が治める西ヨーロッパに分かれることになった。
⑥カール大帝の死後、フランク王国はドイツ、フランス、イタリア に分裂。ドイツはゲルマン人の言葉と文化を継承したが、フランス、イタリア はラテン人の文化と言葉が混ざる形になった。特に、イタリア はローマ教皇の居住地からラテン文化が強かった。
⑦9世紀以降になると北方に移住したゲルマン民族のノルマン人が航海技術を飛躍的に発展させた。(第二次ゲルマン大移動)ノルマン人=ヴァイキング(海賊)という印象が強いが、略奪者というより、航海技術を開発し都市ネットワークを作ったた創造者というのが実状だろう。
⑧ノルマン人はイギリスとロシアへ渡り、自らの国を築いた。
⑨12世紀、ローマ教皇が十字軍の安全な航行を目的として、ノルマン人を招き入れたことが、後にヴェネツィアやジェノヴァなどで造船などの海洋技術が発展する素地になった。
⑩アングロサクソン人は第一次ゲルマン大移動のときにドイツの北西部からブリテン島に移住したアングル人とサクソン人の総称である。
❹インド ・中東・中央アジア
①インド のカースト制度はインド の原住民であるドラヴィダ人をアーリア人が征服するためにバラモン教の教義として持ち込んだ。紀元前13世紀のことで今から3200年前になる。ヒンドゥー教はバラモン教から派生した。仏教もバラモン教とカースト制度の否定から始まったが、信仰は都市生活を送る商人や貴族に留まり、大多数を占める農民には広がらなかった。ヒンドゥー教は多神教で自然と生きる農民に受け入れやすかったこともある。
②16世紀に700年ぶりにインド にムガル帝国という統一国家が誕生した。国教はイスラム教であったが、建国当時は信仰の自由を認めていた。
17世紀に6代皇帝アウラングゼーブの時にこれまでの信仰の自由を破棄してヒンドゥー教の弾圧が始まった。そこにつけ込んだのがイギリスとフランスである。カースト制度をうまく利用しながら、ヒンドゥー教とイスラム教の対立を煽って互いに争わせて植民地支配に利用した。その痕が今のインド とパキスタンの対立である。
②今は混血が進んでわからないが、イランとイラクでは厳密には人種が違う。イラン人はインド ・ヨーロッパ語族であるのに対して、イラク人はセム語族、いわゆるアラブ人である。ペルシアはイラン人の国家である。
③ペルシアはササン朝の時に転機を迎える。もともとアーリア人の宗教の一つであったゾロアスター教を国教とし、イラン人優位主義、極端な排外主義をとった。
こうしたササン朝の支配に疑義を唱えたのがイスラム教の創始者であったムハンマドである。イスラム教はゾロアスター教のような選民思想を排除し、神の前の平等を説いた。また、他の宗教を敵視することもなかったため、商人を中心に急速に広まった。このイスラム教の台頭により、ササン朝ペルシアは敗れ、1200年に及ぶイラン人の支配に終止符が打たれるのである。
④ササン朝の後に創設されたのがウマイヤ朝であるが、アラブ人の特権思想に基づく軍国主義をとる政権であった。ヨーロッパ侵略に失敗した後に、すぐ瓦解し、アッバース朝が創設された。アッバース朝はウマイヤ朝のような帝国主義をとらず、経済を優先。また、アラブ人の特権も廃止した。これに反発した者がスペインに創設したのが後ウマイヤ朝である。アラブ人による支配はこの後700年続く。
⑤新疆ウイグル自治区のウイグル人はトルコ系である。中国には北方異民族の匈奴などモンゴル系も多いが、違いは何だろうか。同じアルタイ語系であるが、トルコはテュルク系である。(モンゴル人はモンゴル語、満州人はツングース語)
⑥ユダヤ人は白人のイメージがあるが、もともとはアラブ人と同じセム語族であったことからアラブ人の風貌に近かったことと思われる。
⑦ユダヤ人の迫害は、まずユダヤ教が閉鎖性と排他性が強いというものがある。さらに、歴史的に金融業で成功を治めており、イギリス議会への介入や第一次世界大戦後にはドイツ企業の多くがユダヤ資本下にあったことも大きい。
⑧ユダヤ人にとって約束の地であるパレスチナは永年オスマン帝国が支配していた。19世紀に入り、オスマン帝国が弱体化すると、シオニズム運動が起きた。(シオンとはエルサレムを指す古い呼称)
⑨第一次世界大戦時に、イギリスの三枚舌外交により、パレスチナを巡って現在も解決されていない問題が起きた。まず、ユダヤ人富豪のロスチャイルド家とイギリスの外相であったバルフォアにより資金援助の見返りにユダヤ人のパレスチナ帰還を約束させた。(バルフォア宣言)同時に、アラブ人のパレスチナ居住を認める代わりに対トルコ戦の協力を約束させたフサイン=マクマホン協定を結んだ。さらに、ロシア、フランスと戦後のオスマントルコの分割を協議したサイクスピコ協定により、パレスチナは混乱に陥った。
第一次世界大戦後、イギリスは国際社会から猛烈な批判を浴び、ユダヤ人のパレスチナ移住を制限した。それに失望したユダヤ人は米国のロビー活動を強化し、第二次世界大戦後のイスラエル建国につなげた。
❻アメリカ 、アフリカ、民族に刻まれた侵略と対立の傷跡
①トウモロコシ、トマト、ジャガイモなどは中南米原産の予算で大航海時代にヨーロッパはもたらされた。
②インカ帝国とアステカ帝国が崩壊した理由は病原菌であったとされる。天然痘やペストは中南米では存在せずパンデミックになす術なく滅んでしまった。
③19世紀に入るまでイギリスの三角貿易は莫大なリターンを稼いでいたが、19世紀半ばには衰退した。その理由としては、ブラジルで砂糖の生産効率が上がり、砂糖の値段が下がり、奴隷貿易で利益が出なくなったことがあげられる。
④17世紀から18世紀にかけてヨーロッパの人口は5000万人から1億人へ2倍くらい増加した。主な理由としては科学・医学の発展であり、感染症で死ぬ幼児の数が激減した時代であった。
⑤WASPと呼ばれるアングロサクソンのプロテスタント(イギリスでは清教徒と呼ばれ、貧困層に信者が多かった)は新天地の米国で己の宗教的使命に基づきインディアンに攻撃を加えて領地の拡大を進めた。
⑥18世紀の米国では、奴隷を輸入できるほどの財力がなかったため、増殖政策が取られた。この時、黒人の人口が飛躍的に増加した。負の歴史として、迫害したインディアンの女性を増殖政策として利用していたことを忘れてはならない。
⑦1863年にリンカーンが奴隷解放宣言を出して、黒人の奴隷化を禁止したが、経済的にも実質的な人権の確立も程遠いところにあった。特に、南部は戦後も差別が色濃く残り、キング牧師の公民権運動が身を結び市民権を得るには、1964年にケネディ大統領により、公民権法が成立するまで100年もかかった。
❼大帝国の成立
①歴史上、最初の大帝国はモンゴル帝国である。その力の源泉としては、シルクロードを支配したことが大きい。宋は経済政策に重きを置いた運営をしており、東ではヨーロッパの十字軍が東進してくる中で、ユーラシア大陸の経済が活性化した。
経済政策としては、関税の簡素化と共通通貨として銀を用いてグローバル経済に必要な仕組みを導入した。
❽民族の血統が教える世界
①国民国家では法的な立場を示す国籍より民族の同一性によって国民と認定される。日本人にとって馴染みの深い考え方であるが、中国や米国、欧州などはその限りではない。
②今日の国家主義は国民国家が急進したものというより、グローバリズムの反動のように思える。