佐々木敦のレビュー一覧
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プロローグの6ページ目に突如登場する「東浩紀もの」(厳密に言えば5ページ目のゼロアカが東浩紀を暗示しているが)から、 ニューアカ、蓮實と柄谷、福田/大塚/宮台、途中に村上隆や大塚英志を挟みながらその全てがゼロ年代一人勝ちの東浩紀に繋がるという佐々木敦の東浩紀好き好き本。「東浩紀もの」の言説を追うにはよいし、視点設定はとても面白いけど、日本の思想史なら仲正昌樹の方が良い。
終章、「東浩紀はメタのふりをしたネタのふりをしたベタ」という指摘、いい歳したオタクを拗らせたオッさんがマジになって社会を語るナイーヴな振る舞いは、『存在論的、郵便的』で指摘したパフォーマンスに自然と接続される。 -
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1960年代末から現在に至るまでのJポップの大きな潮流を語った本です。ただしとりあげられているアーティストは、はっぴいえんど、YMO、シブヤ系と小室系、中田ヤスタカと非常に限られており、著者自身の観点からJポップの大きな流れをえがきだすことがめざされています。
選択が偏っているという印象もたしかにあるのですが、Jポップの半世紀近くの歴史を現在から振り返ってそこに大きな流れのようなものを見いだそうとしたとき、著者の選択もまったく恣意的なものとはいえないのではないか、という気もします。ただ、ハロプロやPerfumeはむろん「ニッポンの音楽」であるとはいえ、アイドル史の観点から考察するべき対象で、「ニッポンの音楽」の歴史のなかではメイン・ストリームとは言い難いようにも思います。むろん、未知の音楽を追い求める「リスナー型ミュージシャン」が失敗し続ける「物語」としてJポップ史をえがこうとする著者の観点から、これらの「現象」に注目されるのも、それなりに理解はできるものではあるのですが。 -
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『邦楽』から『Jポップ』へといつの間にか名前を変えたニッポンの音楽について、Jポップが生まれ落ちたメルクマールを軸にそれ以前と以後に分けて45年間を通覧するという本である。
その手法として本書では45年間にわたる国内の音楽史を紐解くという通史的な手法は取っていない。
主に60年代末から70年代。70年代末から80年代。80年代末から90年代。90年代末からゼロ年代、そしてテン年代とされる現在まで、それぞれの10年間(ディケイド)において、『ニッポンの音楽』に少なからぬ影響を与えたであろう『主人公の物語』として、各年代における『ニッポンの音楽』の在り様、変容を通覧するという作りとなっている。
面白いことに、というかメルクマールとしている以上狙いもあるのだろうが、この40~45年に渡る通史の中のちょうど真ん中に『Jポップ』なるものの言葉の誕生が登場する。
したがって『Jポップ』前の20年、その後の20年という括りで『J』なるモノが思想、文化になにをもたらしたのか?文化的条件が出そろったから『J』になったのか?そのあたりに興味があり、本書を手に取ってみたのである。
著者は中田ヤスタカに代表される「内」と「外」をリアルタイムで同期させるオールインワン型のミュージシャンの登場をもって、リスナー型ミュージシャンの完成系、そして「内」と「外」という文化的枠組みと「過去」と「現在」という時間軸の消滅によりJポップは葬られたとする。
ここにボクは『ニッポンの音楽』には描かれていない、日本的変容を遂げながら、時代時代を奏でている『日本の音楽』の存在を再認識せざるを得ない。
あれだけ業界、聴衆を巻き込み、90年代に空前の音楽産業の好況を招いた『Jポップ』がその終焉を迎えたからといって、日々リリースされていく現在の日本の音楽は、ではいったいなにものなのだろうか?
J-WAVEがそのポリシーを曲げてまで国内の音楽を内包化させるために生み出した方便である『Jポップ』も著者が定義する『ニッポンの音楽』としてのJポップは終焉を迎えたのかもしれないが、相変わらず市井に『Jポップ』という言葉は存在する。
『Jポップ』という概念もまた、極めて日本らしい日本的変容を重ねて大衆化されてしまったからこそ、著者は終焉としたのではないだろうか。
そういう意味では、本書の対象はボク的には非常に関心を持ち続けてきたアーティストであり、読み物としてはとても面白いが、日本の音楽における歴史観・文化批評という面では非常に偏っていると思わざるを得ない。
本書であえて触れられていない、昭和歌謡やフォーク・ニューミュージック(ともに一部触れられてはいるが本書の本質ではない)、それに昭和のアイドル歌謡とバンドブーム。昨今のアイドルグループ全盛等々の大衆音楽の位置づけはどうなのか?
そしてボクがなにより気になる日本語の節。
5・7・5・7と気持ちよく詞が沁み込んでくるときの日本語の節の特徴。
古代万葉の時代から綿々と受け継がれてきた、日本という土地と季節と風景に裏付けられた日本独自のリズムと抑揚が、どのように現在の日本の音楽に受け継がれてきたのか?
時代時代の「外」の文化を取り入れた日本的変容がどういう形で表現されてきたのか?
むしろ、著者が『ニッポンの音楽』の対象としていない、日本の音楽におけるメインストリームである大衆音楽のアーティストが歌い、奏でる音楽と『日本』という関係性の分析こそ、『日本の音楽』というべき文化批評足り得るのではないだろうか?
といっても、「新書」という限られたパッケージであるので、限られた字数で特徴的なモノをまとめないと中途半端に終わってしまうというのもよくわかるのだ(笑)
そういう意味で、前書きである意味言い訳をしてるんでしょうけど(笑) -
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私が投稿した論文が返却されてきていろんな要求があるなか,それの対応としてふと思いついて購入した本。著者の佐々木 敦氏は音楽批評家で以前から名前は知っていたし,講談社現代新書として出版された本書のことも知っていた。
そんなことで,初めて佐々木 敦氏の著作を読んだわけだが,期待した以上の得るものがあった読書だった。
プロローグ 「ゼロ年代の思想」の風景
第一章 「ニューアカ」とは何だったのか?
第二章 浅田彰と中沢新一――「差異化」の果て
第三章 蓮實重彦と柄谷行人――「テクスト」と「作品」
第四章 「ポストモダン」という「問題」
第五章 「九○年代」の三人――福田和也,大塚英志,宮台真司
第六章 ニッポンという「悪い場所」
第七章 東浩紀の登場
第八章 「動物化」する「ゼロ年代」
講談社現代新書の帯は表紙の7割ほどを占める大きなものだが,その真ん中に大きく「この一冊で,思想と批評がわかる入門書」と書いてある。それはある意味正しくてある意味では間違っている。著者は本書で自分は思想の当事者ではなく,あくまで読者にすぎないというし,本書で検討されている作品群についても,場合によっては自分にはこれ以上理解できないと正直に書いている。本書は思想そのものを論じるものではなく,あくまでもそういう思想書が社会のなかでどのように生まれ,また受容されていったのかという,特定の時代に生まれた作品を出来事として捉えている。
私は正直,本書で取り上げられる作品をほとんど読んでいない。地理学者のなかでは思想系にはまっている部類に入る私だが,翻訳ではあるがなるべく原著を読むようにしている。浅田彰と中沢新一は雑誌『現代思想』に掲載された論文を1,2本読んだだけ,蓮實重彦と柄谷行人に至っては全く読んだことはない。九○年代の重要人物として挙げられている福田和也は名前すら知らなかったし,宮台真司も翻訳のスペンサー=ブラウン『形式の法則』と雑誌論文をいくつか。むしろ,『形式の法則』を共訳している大澤真幸はけっこう読んだ。クリプキやジジェクについては彼の影響で読み始めたといってよい。本書で出てくる主要な本として読んだことがあるのは東浩紀『存在論的,郵便的』のみだ。
私は本書を通して,本書で出てくる思想家の思想を知ることを目的としていないし,さらに進んで本書に登場する作品を読む気もない。知りたかったのは,彼らの作品が出版界を通して社会でどのような役割を果たし,どのように受け止められてきたのか,ということである。もちろん,それをきちんと調べるのは大変な作業だが,本書ではそれを可能な限り明らかにしている。
浅田彰の『構造の力』が本人が驚くほど売れ,出版界がそれらに飛びついて「ニューアカデミズム」という流行をつくり出したこと。ニュー「アカデミズム」とは名付けられたが,学術界ではむしろ冷ややかな目でみられたこと(浅田彰と中沢新一の大学就職事情にまで言及している)。表面上はお互いが批判し合っているけど,内実はそんなに変わらないこと。そして,これは私の印象にすぎなかったが,当初は積極的にフランス等の思想を取り込むことで自説を組み立てていたように,外向きの力が働いていたが,それが徐々に内向きの力を持つようになり,日本国内で充足する思想になっていくということ。そんなことを明らかにしています。
ただやっぱり気になるのは,あくまでも読者の視点で,冷めた目で本書が書かれているとはいえ,そういうものを読んでこなかった私とは違って,著者は好んで読んできたとう違いがある。そのせいか,あるいは新書であるが故の分かりやすさを重視したためか,八〇年代から始まって,九〇年代,そしてゼロ年代と,そういうように時代区分を明確に論じるのは,まさに内向きになったゼロ年代の研究者と同じやり方である。時折厳しい論調で書いてはいるが,あくまで批評であって,批判ではない。
まあ,それはともかく佐々木氏の本業の著書も読まなくてはと思った次第。 -
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J-POPの歴史についての本。
はっぴぃえんど/YMOの細野晴臣がいて、小沢健二や小山田圭吾など渋谷系がいて、小室が新時代を作り、ナカタヤスタカがまた新しい時代を作った。
特に渋谷系のあたりと、自分がリアルタイムで聴いていた小室時代以降は面白かった。
渋谷系のサウンドを掘ってみたい。
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memo
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音楽的な影響は日本ではそれほど大きくなかった。キャラクターで売れてくる国だな、と言う感想持ったことがありますね。(YMO 細野晴臣)
168
二人(小山田圭吾と小沢健二)が音楽性とはまた別の次元で魅力的な「キャラクター」を持っていなかったら、おそらくあれほど売れる事はなかっただろうし、渋谷系と呼ばれることになるじゃんでも、生まれていなかっただろうと思えるのです。
273
最近ですよ、多くの人が歌詞の方に感情移入して音楽を聴いたり、カラオケで歌っていることが分かったのは。(坂本龍一) -
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それぞれに主人公をたてて、1970年代から2000年代以降までのJポップを解き明かす、という発想とテーマはすごく面白いと思いました。
内容も、かなり駆け足での解説にはなっているものの、年代ごとのアーティストたちの動向をさらって考察するスタイルで読みやすかったです。
「です」「ます」調の丁寧な文章も、好感を持てました。
ただ、詳しく掘り下げて知りたい部分なのに、文章が足りなかったり、ニュアンスしか書かれていなかったりすることがいくつもありました。
特に、本を通して重要なファクターである「内」と「外」の部分は、感覚的な話でありながらひねりが入った解釈になっているので少しわかりずらく、もう少し丁寧に文章にしても良かったのでは?と感じました。
それでも、過去をリアルタイムで知らない世代にとっては、当時の日本の音楽とその物語を解説してくれる、わかりやすい入門書になると思います。 -
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1980年代からゼロ年代までの、日本の現代思想を分かりやすく整理した本です。
「ニュー・アカデミズム」と呼ばれた、浅田彰と中沢新一の活躍から説き起こし、理論的な補強をおこなった蓮實重彦と柄谷行人、90年代をリードした福田和也、大塚英志、宮台真司、そしてゼロ年代に「一人勝ち」を収めた東浩紀の仕事を総覧しています。
現代思想の担い手たちを、「思想市場」におけるパフォーマティヴな振舞いという面から、次々と主役が交代する一幕の劇のように描き出しており、たいへん分かりやすいのですが、同時にそうした現代思想という「場」に対するある程度の批評性も担保されているように思います。
著者は、思想と呼ばれる営みには世界を変革しようとするものと、世界を記述しようとするものがあると言い、初発の動機としては前者であったはずのものが、「現代思想」という場におけるパフォーマンスがくり返される中で、いつのまにか後者へとすり替わってしまったことを、「ニューアカの悲喜劇」と呼んでいます。そして、椹木野衣が「悪い場所」と名づけたような閉域として、あるいは福田和也が「虚妄としての日本」と呼んでアイロニカルに肯定して見せたような場所として、「ニッポンの思想」を理解し、やがてそれが東浩紀のデータベース消費論と呼応するような、徹底的にベタな「思想市場」というゲームの上での戯れに帰結したことを論じています。 -
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平坂書房で購入する。読みやすい本でした。登場人物を絞ったことは、いいことです。前半の主人公は、浅田、中沢、柄谷、蓮実の4人です。後半の主人公は、福田、宮台、大塚、東の4人です。そんなに間違った人選ではないと思います。1980年代前半、浅田彰ブームがありました。僕のような思想に無縁な者ですら、その名前を知っていました。残念ながら、その本を読むことはありませんでした。別に、今も、昔も、分かりもしない難しい本を読むのは嫌いではありません。にもかかわらずです。正直、理由は分かりません。この本も、多くの読者がつくような本ではないと指摘しています。基本的に、読むことではなく、購入するだけで、多くの読者の知的スノビズムを満足させただけだと指摘しています。この指摘は、正しいと思います。同時に、悪い時代ではなかったような気がします。後半に登場する思想家は、前半に登場する思想家のように本を売ることが出来ませんでした。そのため、東さんだけが一人勝ちの状態になっています。思想家を育てるには、その思想家を理解できる読者だけではなく、僕のようなその思想家を理解する能力のない読者が必要なことが理解できました。そんなところでしょうか。
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これはすべて「文学」の話でもあったのではないか……という話とは別に、「批評時空間」を続けながら、いま自分が書いているものが、限りなく一種の「フィクション=虚構」に近づいている、ほとんど「小説」に似たものになつつある、そう感じる瞬間が何度かあった。勘違いかもしれないし、そんな感触が他者にとって意味があるのかどうかもよくわからない。だがひとつ言えるのは、批評は表現ではないが創造ではあり得るということは、批評が批評のままで一編の虚構としても成立し得るということ、それが批評でありながら同時に小説のようなものとしても読まれ得るということ、そう出来なくて、それぐらいできなくて、どこが批評か、ということだ。だからたぶん、結局私はうまくやれたのだ。この感触を、手離さずにいきたいと思っている。
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[ 内容 ]
クラインの壺、脱領土化、天皇論、「悪い場所」論、物語消費、郵便的、動物化―この30年の論壇を読み直す試み。
[ 目次 ]
プロローグ 「ゼロ年代の思想」の風景
第1章 「ニューアカ」とは何だったのか?
第2章 浅田彰と中沢新一―「差異化」の果て
第3章 蓮實重彦と柄谷行人―「テクスト」と「作品」
第4章 「ポストモダン」という「問題」
第5章 「九〇年代」の三人―福田和也、大塚英志、宮台真司
第6章 ニッポンという「悪い場所」
第7章 東浩紀の登場
第8章 「動物化」する「ゼロ年代」
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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80年代の浅田彰から0年代の東浩紀までの日本の思想シーンを紹介。主な登場人物を極限まで絞り込んだせいで、相当おおざっぱで、海外との関連もわからなくなってるけど、かわりにかなり見通しがよくなってる。たったこれだけの人物で、ここ30年の思想の流れが何となくわか(ったような気にな)ってしまうのはすごい構成力。実はそれだけ思想ってものが限られたプレーヤーによるものだったということなんだろうか。
やはり読んでいて思ったのは、浅田彰はやっぱりスーパースターだったんだな、ということ。浅田彰の考えや立ち位置が良いのか悪いのかという判断は抜きにしても、80年代以降の思想界では別格だったことは間違いない。なにしろ、これだけ明晰で軽やかなプレーヤーはほかにはいない。現代思想を俯瞰するのに浅田彰から始めなくちゃいけないってのは当然のことかもしれない。
よくよく考えたら、浅田、蓮實、柄谷の80年代組の著作しか読んだことがない。ひさびさに、思想っぽい本でも読んでみようか。