豊田有恒のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
韓国は日本と同様、漢字を多用した言語を持って「いた」。これがハングルに統一されたため、元の意味が失われ、ハングルの「音」だけでは意味が伝わらないケースが多い、と指摘する。
江戸から明治大正期にかけて欧米の言葉を漢字で意訳した日本産の熟語が多く韓国語に取り入れられているため、克日を国是とする韓国としては漢字を使うわけにはいかないのだろう、と。(経済、物理、など。韓国が純化と称して使用しない政策をとっているが中国語はその多くを受け入れている)
もともと漢字を使っていた国なので音だけで判別するには前後の文脈から判断せざるを得ず、語源や正しい意味がどんどん失われている、とします。例えば弥勒菩薩像、のような長い単語をハングルで聞いてもぱっと意味を取るのが難しいが、漢字とハングル混ぜることで意味が伝わる、韓国人のみならず、中国人、日本人にも意味がとれる。
この本には出てきていませんが、韓国で古い法律を改正しようにも同音異義語が多すぎてハングルだけの表記では対応できない、と聞いたことがあります。 -
Posted by ブクログ
日本の周辺には付き合い方の難しい国が幾つも存在する。その最大たる国は韓国に間違いはない。北朝鮮の様に敵意剥き出しの国、中国の様に明らかに政治体制や社会が異なる国であれば、素直に相容れないのはもっともだし、それなりの距離感で付き合うのは容易だ。問題は韓国との付き合いだ。アメリカを含む日米韓の強固な同盟体制が無ければ北朝鮮や中国、その後ろに控えるロシアなどに対抗しきれないのは明白だ。だから仲良くしなければならないのは判っているのだけれども、けれども好きになれない。好かれてもいない。
勿論一般市民のレベルでは互いの文化や食が好きで、個人レベルの旅行でも近場の韓国との間に相当量の観光客の行き来があるのはわかっている。日本の芸能界にも韓国出身者は多いし、放送局によっては明らかに韓国よりの立場を執る番組構成になっている。
一方国家レベルではこれまで通り、韓国による「自己都合外交」や「搾取外交」、北朝鮮に至っては単なる脅しを超越した、最早、オモチャが欲しくて床で転がる駄々っ子の様な外交になっている。朝鮮半島という場所が大陸や日本からの侵略を受け続けた歴史があり、他国・他民族から長きにわたり支配されてきたという劣等感にしか思えない態度を示し続ける。背景には慰安婦問題などがあるのは間違いないだろうが、近年は政治の失敗から目を逸らすためのスケープゴートの様に半日が叫ばれる。敵を外に作っておけば良いというのは安直な考え方だが、結局如何にそうした態度をとってきても、辞任後に不幸な人生を送る大統領が多い。いい加減国民もそうした手法に気づいていると思われがちだが、幼いころから徹底的にそうした感情を埋め込む教育制度が、普段はそれ程までに表に出さなくても(若年層は日本好きを公言するものも多い)、ある日爆発的に表に出てしまう。
日本人も普段は静かでも、国を挙げてのスポーツイベントや代表チームの活躍に熱狂し易い国民性と言われる。普段静かな分、爆発する事も多いが、それでも韓国には敵わないだろう。韓国という国は前述した様に歴史的には非支配者・非侵略者としての国民性が身につく土壌があった。支配者の下で如何にして上手く生きていくか。使えるものは何でも使うし、オーバーな態度で相手に心情を伝える能力が高い。それがドラマや映画、音楽などの経済的な力に生かされているのは同国にとっても、世界にとっても嬉しい事だ。だが、一度本書に記載する様な、日本やアメリカとの関係悪化を招き、北朝鮮や中国に蹂躙される様な結末に向かわないとも限らない。
筆者が述べる事全てを現実にあり得るリスクとして認識しておくのは重要だ。
将来、韓国と日本が真の意味で対等な立場でわかり合って手を取り合う様な未来が来て欲しいと心から願う。民間レベルなら十分できそうに感じるが、肝心の国家レベルでは未だ未だ話し合いに相応しい相手にならない様だ。 -
Posted by ブクログ
「宇宙戦艦ヤマト」という魔性
「宇宙戦艦ヤマト」のSF設定にかかわった作家の豊田有恒さんがヤマト制作にまつわる暴露話を本にまとめている、という話は、私の記憶違いでなければ、かれこれ10年以上前から聞こえていたように思う。その出版がいつのことになるのか、何の音沙汰もなく半ば忘れかけていたころ、祥伝社新書より刊行されたことを、SNSで知った。松本零士先生のイラストの入った帯に惹かれたこともあり、購入を決意。読み始めると、あっという間に読み終えてしまった。
「宇宙戦艦ヤマト」といえば、アニメファンでその名を知らない人はいないであろう、国民的アニメである。1974年(昭和49年)に放送が始まったいわゆる「旧作ヤマト」の本編を見たことがなくとも、主題歌のメロディーくらいは誰しも聞き覚えがあるはずだ。甲子園では高校野球の応援曲として毎年のようにどこかの学校が演奏し、小学校では器楽合奏を講堂で発表したことがあるという人もいるかもしれない。2012年からは装いも新たに生まれ変わったリメイク版のシリーズ「宇宙戦艦ヤマト2199」の成功も記憶に新しい。「ヤマトがなければガンダムもエヴァンゲリオンもなかった」と言われるが、その言葉が決して大袈裟なものではないことが、本書を読めばわかる。ヤマト誕生から深く企画に携わった豊田さんにしか言えないこと、見えないことがたくさん詰まっている。
ヤマトのファンとして、最初の放送時以来40年を超す年月にわたってその浮沈を見守り続け、手元に資料を集め続けた古株ファンの私でも知らなかったことが書かれていて、それだけでも興味深かった。もちろん、「ここに書かれていたことはなんら目新しいことはない」といったディープなファンもいることだろう。だが、本書は「ヤマトについて目新しい事実に出会うこと」よりも、「ヤマト」という作品が、ほぼほぼ奇跡のようなタイミングで世に出たのち、低視聴率にも拘らず再放送を機にファンの熱烈なラブコールに押されて70年代アニメブームの牽引役として社会現象を引き起こすまでに至る経緯を、現場の中心にいた当事者でなければわからないリアリティでもって、語りつくされていることに目を見張るべきだ。そして、「柳の下の泥鰌」を追い続けたが故の凋落。権利関係をめぐるいざこざ。それは、稀代の怪物プロデューサー西崎義展氏の存在抜きにしては語ることはできないし、彼の人物的評価とヤマトの作品的価値がほぼシンクロしているというファンとしてはあまり喜べない事実と向き合うことでもある。
豊田さんにしてみれば、西崎義展という人物との出会いはほぼ「人災」と言ってもいいようなものだったかもしれない。人たらしで身勝手で、儲けた金はぜんぶ俺のもの、趣味と女と実りのない企画に費やしたと豊田さんは語っておられるが、ヤマトのファンに対する面目の施し方も並ではなかった。現在当たり前のように行われているアニメのキャンペーンやイベントの数々は、70年代のヤマトブームの際、西崎氏が先鞭をつけたといっていい。ファンの気を殺がないための先行投資といってはそれまでだが、採算を度外視したファンサービスはほとんど魔法のようにファンを魅了した。アニメのプロデューサーとして、あれほど真正面からファンに向き合った人はいるだろうか、と私は今でも思う。
ヤマトを語ることは、西崎氏について語ることと、80%くらいは同じではないかと思う。好むと好まざるとに関わらず、それは仕方がないことだ。西崎氏の気まぐれと横暴に振り回されながらも、「今度のヤマトを 手伝って欲しい」と電話が入ると、ついつい断れない豊田さんに、なにか微笑ましいものを感じてしまう。なんだかんだいって、豊田さんはヤマトがかわいくて仕方がないのだ。目鼻が付く前からの、「ヤマト」という名前が付く前からの『ヤマト』に深く関わった豊田さんなればこそ、ヤマトに対する深い愛情がひしひしと伝わってくる。
思えば、西崎氏自身がいちばん「ヤマト」に翻弄された人間ではなかったか。
多くの人間を巻き込み、輝かしい一時代を築いたかと思うと、転落と汚辱にまみれながらもたびたび復活を遂げる不屈の艦(ふね)。
つくづく「ヤマト」というのは魔性の艦だと思う。
西崎氏の「クリエイターをないがしろにする」といった姿勢も、もしかしたら、自らが「クリエイター」たりえないことを知りながら焼け付くような憧れを持っていた裏返しだったのでは、と思えてくる。クリエイターとは創造主、すなわち「神」である。ヤマトには西崎氏と松本先生、として豊田さんという三人の「神」がいた。西崎氏がヤマト以外の企画にたびたび手を染めてはみるものの、どれもうまくいかなかった。それは「ヤマト」が自分の力だけではここまで成功しえなかったことを 、心の中ではわかっていたからではないかと、勝手ながら想像する。とはいえ、西崎氏がヤマトの生みの親の一人であることは間違いない。だが、それはクリエイターとしての仕事ではなかった。そうなりたかったという渇望だけが、彼を突き動かしていたのではないだろうか。
「ヤマト」という魔性の艦が導いていったその先には、なにがあったのだろうか。
松本零士先生と西崎氏の権利関係を巡るいざこざでは、豊田さんは結果的に松本先生側に立たれた。それは西崎氏の「クリエーター軽視」の姿勢に対する異議申し立てであった。ヤマトを作ったのは誰か。豊田さんは「おおよそ松本零士原作といい続けて」おられる。(「おおよそ」に傍点)。 なにしろ戦艦大和から造形とネーミングを、登場人物では沖田艦長や古代進、森雪といった魅力的なキャラクターを造形し、「ヤマト」を目に見える形に作り上げた最大の功労者なのだから、考えるまでもなくヤマトという作品の大部分は松本先生に帰属する・・・。とはいえ、その企画の原点は西崎氏が温めていたものだ。法の判断が下され最終的に西崎側に権利が確定したわけだが、ファンとしては生みの親たちが争う姿を見るのは胸が痛んだ。さながら「大岡越前」の生みの親と育ての親が幼子の両手を引っ張る評定のようなものだ。どちらが「生みの親」で「育ての親」なのか、判断は人それぞれだろうが、果たして法の判断は正しかったのだろうか?
豊田さんはまえがきで書いておられる。
――『宇宙戦艦ヤマト』は(中略)反戦アニメだと思う人がいてもいいし、好戦的だと感じる人がいても、いっこうにかまわない。(中略)あの大新聞から、統一的な解釈を強要されるような性質の作品ではない。
「あの大新聞」というのがどの新聞社をさすのか、だいたいの目星は付いているがそれを公言するのは野暮というものだろう。まあ、70年代のヤマトが社会現象と呼ばれたムーブメントを起こしたときに「戦争礼賛」とさんざん叩いてくれたあの新聞社であろうことは想像に難くない。豊田さんは、ヤマトというひとつのアニメ作品、「もともとただただアニメ好きという人が集まって創り出したサブカルチャーに過ぎない」ものに対して、自分たちの都合のいいレッテル貼りを、さも自分たちは正しいことをしているのだから事実を捻じ曲げるのは当たり前、といったことを平気な顔でやってのける巨大メディアの傲慢ぶりに怒りをおぼえておられるのだ。それは、巻末での「作品」を「コンテンツ」というモノ扱いする広告代理店的な発想に違和感を覚える、というような発言にもつながっている。それはまた、ヤマトというアニメの娯楽作品にイデオロギーや政治的主張をこじつけることがいかにそぐわないことであり、ばかばかしいことであるか、まえがきで懇切丁寧に語っておられることと根はいっしょであろう。
「作品」は「作品」として、「受け取る側の自由」に解釈されていい。
その自由さえ、メディアは奪おうというのか。
クリエイターの自由な発想と権利は「作品」を「コンテンツ」と言い換えたときから失われた。
豊田さんの叫びが聞こえるようだ。
最後に、2012年から始まった『宇宙戦艦ヤマト2199』が成功した理由が、ここにあったかと膝を打つ事実が記されていたことは『2199』を応援していた身にとってこの上なく喜ばしいことであった。出渕裕総監督の先人を尊ぶ誠実なお人柄と、ヤマトに対する真摯な姿勢が『2199』という作品全編を貫いていたと思うと胸が熱くなる。この一文を読んだだけで、本書を読む価値があったと思う次第である。