リルケのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
マルテの手記が好きって人は、ちょっとヤバい。
何故なら、孤独者の視点が身に浸みてしまうから。
悲しみや苦しみ、そして孤独や不安、影や暗闇、そういったものたちに美しさや豊かさを見出してしまうから。
だけどもリルケが好きって人はそれでいいんです。
少しずつ読んで、隣にマルテがいるような感覚を覚えるまで、じっくり付き合っていくのも良いと思います。
私も実は五年くらい読んでるけど、まだ、終わりません。
リルケ自身も書きあげるのにものすごく時間がかかりました。そういう小説です。
何か面白いことを期待して読み始めると、きっと、面白くないと感じて投げ出してしまう人も多いと思います。
だけど、これらをじっと見つめてきたリルケのことを思うと胸が痛くなるのです。
そういうリルケ自身が詰まった一冊です。
-
Posted by ブクログ
リルケは、やはり詩人と言ってよいのでしょうね。愛の詩人、あるいは薔薇の詩人。この詩集は、最初の詩集から晩年のものまで、年代を追って編訳されています、1冊で「リルケ詩集」と銘打つにはじゅうぶんでしょう。「詩の味わい方」がよくわからなかった時期もありました。「物語の筋を追う」ことに慣れすぎていたからかもしれません。詩を、一気に読み飛ばしてはもったいないし、でも、ある程度まとまった数のもの(たとえばひとつの詩集として出されたものなど)を読まなければ感じられないことも多いし。だけど、なぜか「○○詩集」は色々と私の本棚にあるのです。理由ははっきりしています。新潮文庫にせよ岩波文庫にせよ、詩集は小体なものが多くて、そのぶん安価だったからです。お昼休みに、昼食代を削って「今日読む本」を探すのに、なるべく安い本を選んでいた頃もあったのでした。誰にでも、同じような経験があるのでは?さて、このリルケの詩、あらためて一瞥して、私は「好き」だ、と言おうと思います。詩の翻訳は、訳者に依存するものが大きいし、それだけ翻訳が難しいということは、ようやく感じられるようになりましたけれど。「翻訳の成立可能性」について、夜を徹して語り合ったこともありましたっけ。ずいぶんと雑駁な議論をしたものだ、とも思いますが、私の基本は、今でも変わりません。翻訳ものであろうとなかろうと、感じる人は何か感じる、分からん奴には分からん。むしろ、「感じる」「読み取る」側の感じ方・読み取り方に依存するもこそが大きいはずだ。よって私は、「普遍的なもの」を信じるという意味で「翻訳の成立可能性」を信じる、と。けれど、だからこそ、そこに「良い翻訳者」が介在したほうがいい。そして、受け取る者である私自身が、能う限り豊かで敏感であるほうがいい。「豊かで敏感である」ということは、つまりそれに応じて如何様にも鷹揚になれるということです。遅かったかもしれませんが、やっとこの頃、実感として得心します。
-
Posted by ブクログ
リルケの詩集ですね。
ライナー・マリア・リルケ(1875~1926)
ドイツの新ロマン主義の詩人。
訳は、富士川英郎さん(1909~2003、東京生まれ)
ドイツ文学者、比較文学者。
あとがきに『本書には「時禱集」以後の詩のうちから特にリルケ的な特徴の著しいものを選んだが、それは、紙数の関係でやむをえなかったという事情もあるけれども、主としてそれによってリルケの詩のもつ独自な風格を鮮かに浮かびだせようとする意図にでたものである。』と、語られています。
「或る四月から」
ふたたび森が薫る
ただよいのぼる雲雀の群は
われわれの肩に重かった空を引きあげ
木の枝を透かしてはまだ虚ろな日が見られたのにー
永い雨の午後ののち
金色の日に照らされた
新しい時がよみがえる
それを恐れて逃げながら 遠い家々の前面で
すべての傷ついた窓が
小心にその扉をはためかす
それからあたりはひっそりとして
雨さえいっそうかすかに
静かに暮れてゆく岩の光に降りそそぎ
すべての物音は若枝の
かがやく蕾のなかへもぐりこむ
「海の歌」
カプリ・ピッコラ・マリーナ
大海の太古からの息吹き
夜の海風
お前は誰に向かって吹いてくるのでもない
このような夜ふけに目覚めている者は
どんなにしてもお前に
堪えていなければならないのだ
大海の太古からの息吹き
それはただ古い巌のために
吹いてくるかと思われる
はるか遠くからただひろがりだけを
吹きつけながら
おお 崖のうえで 月光を浴びながら
ゆれ動く一本の無花果の樹が
なんとお前を感じていることだろう
「呼吸よ 眼に見えない詩よ」
呼吸よ 眼に見えない詩よ
絶えず私自身の存在と引き換えに
純粋に交換された世界空間 その中で
私がリズミカルに生まれでる対重よ
ただ一つの波よ 私は
それが次第に集まって海になったもの
あらゆる可能な海のうちで最も倹ましい海よ!
空間の獲得よ
空間の中のどんな多くのこれらの箇所が
既に私の内部にあったことだろう 多くの風は
まるで私の息子のようだ
お前は私を知っているだろうか 大気よ
嘗て私の場所にまだみちみちているものよ
嘗ては私の言葉のなめらかな樹皮であり
丸みであり 葉であったものよ
瑞々しい自然と人間の融合を高らかに詠え挙げて、溢れかえるロマンを感じさせます。
富士川英郎さんの訳も良いですね♪ -
Posted by ブクログ
他の人の訳も読まねばという感じではありますが、好きだった言葉を
「読書する人」『形象集』
…そして私がいま書物から眼をあげると
訝しいものは何ひとつなく すべてが偉大であるだろう
かしこの戸外にあるものは 私がこの内部で生きているもの
そしてこことかしこと すべてに限界はないのだ…
「ピエタ」『新詩集』マグダラノマリアの詩
…いま あなたは疲れています そしてあなたの疲れた口は
悲しい私の口を求めようとはしないのですー
ああ イエスよ イエスよ 私たちの時はいつでした?
なんと奇妙に 私たちふたりは亡んでゆくことでしょう
「別離」
どんなにか私は感じたことだろう 別離というものを
なんとよく私がなお知っているか 暗黒で 不死身で
残酷なものを。美しい結合を
もう一度さし示し さしだし そして引きちぎるものを
どんなにか私は術なく見やったことだろう
私を呼びながら 呼びながら 立ち去らせて
あとに残ったものを。それはみんな女たちのようで
しかも 小さい 白い一点にすぎなかった
それはただ一つの合図 もはや私をよぶのではなく
もはやほとんどその意味も分からない ただかすかに
合図しつづけるものーーたぶんそれは一羽の郭公が
つと飛び去ったすももの木であった
「オランジュリーの階段 ヴェルサイユ」
…初めから既にひれ伏している
欄干のあいだを ただ孤り
階段はのぼってゆく ゆるやかに 神の恵みをうけて
何処へということもなく ただ天をめざして…
「薔薇の内部」
何処にこの内部に対する
外部があるのだろう? どんな痛みのうえに
このような麻布があてられるのか?
この憂いなく
ひらいた薔薇の
内湖に映っているのは
どの空なのだろう? 見よ
どんなに薔薇が咲きこぼれ
ほぐれているかを ふるえる手さえ
それを散りこぼすことができないかのよう
薔薇にはほとんど自分が
支えきれないのだ その多くの花は
みちあふれ
内部の世界から
外部へとあふれでている
そして外部はますますみちて 圏を閉じ
ついに夏ぜんたいが 一つの部屋に
夢のなかの一つの部屋になるのだ
「読書する人」
…そこで自分の陰影にひたっているものを読んでいる男が はたして
彼なのかどうか? そしてわれわれ「時」を持っていたわれわれが
いったい何を知ろう 彼にどれだけの「時」が消え去ったかを?
最後にやっと彼は面をあげた 下の書物のなかに
とどまっているものを 自分の高さに拾いあげながら。
そして彼の眼は 外部のものを受け取るというよりは
与えながら そこに出来上っていた豊かな世界に突きあたっていたのだった
ちょうどひとりで遊んでいた物静かな子供たちが
急に外部の世界の存在を知るように。
けれども既にととのえられていた彼の表情は
いつまでも彼方にとどまっていた あの第二の現実のなかに
「春風」「1906-1909年の詩」
この風とともに運命が吹いてくる ああ 来るにまかせるがいい
これらすべての迫るもの 盲目なもの
そして私たちを燃えたたすものをー
(それがお前を見出すように お前はじっと動かずにおれ!)
ああ 私たちの運命がこの風とともに吹いてくる
「ヴォルフ・フォン・カルクロイト伯のための鎮魂歌」
…あなたは恥じないでいるがいい 死者たちが
終わりまで堪えぬいたほかの死者たちが
あなたに触れても(だが 終りとはなんだろう?)
静かに 習慣のように 彼等と眼ざしを交わしているがいい
そして私たちの悲嘆が あなたの奇体な重荷となって
死者たちを驚かしても そんなことは気にかけないがいい
出来事がまだ眼に見えるものだった時代の
偉大な言葉はもはや私たちのものではない
誰に勝利を語ることができよう? 堪え忍ぶことがすべてなのだ
「ベンヴェヌータに」「1913ー1920年の詩」
…ああ 星座を眺めるということにさえ
ささやかな地上の足場が要るのではなかろうか?
なぜなら信頼はただ相手の信頼のなかから生まれ
あらゆる施しは返礼にほかならないからだ
ああ 夜は私に何も望みはしなかった
けれども 傷ついた者が傷つかない者にすがるように
私が星たちに向って立ったとき
いったい何処に私は立っていたのだろう? 私はこの地上にいたのだろうか?…
「死」
…ああ嘗て橋のうえから見た
星の落下よ
お前を忘れずに 立っていよう! -
Posted by ブクログ
リルケが7年の歳月をかけて完成させた小説。ページをひらくとマルテが歩いたパリの町の空気がどっと押し寄せてくる感じがする。彼の目にするものは盲の新聞売りや、舞踏病のじいさんや、もとは家だったのに今は瓦礫の山になっている光景といったすさまじい退廃、惨めさ、貧困……ではあるけれど、マルテの瞳はそこで止まらずに彼らが祝福された者であることを発見する。
二十歳の頃に読んで、なんだかんだでこれで3度目くらいになるかもしれない。当時のほうがマルテの孤独な文体に深く同期できていたような気がする。いつでもどこでも開ける本じゃあない。妙になつかしい気分になるんだなあ。