未知なる「わたし」という
海へ飛び込もう
若き人よ
「わたし」という海を
どこまでも愛し
どこまでも豊かにしなさい――
カミュを読んだ後だと、リルケのことばは祈りにも似たあたたかさや開放を感じる。彼女はカミュを逆を歩んでいるひとだと。
反抗ではなく、必然。不条理ではなく、性。この性は肉欲ではなく、根源的な何かを求める力。ヤスパースのことばを借りるなら、無制約なものといったところだろうか。
カミュがひたすらに死に向かっていくことを叫ぶなら、リルケは生に向かって祈りを捧げる。そんな感じ。カミュは、無限に向かい届かないなら、開き直って問わない有限の実存を説いたが、彼女は問いそのものとして生きよと語りかける。2者分離の息詰まる対立から1なるものを見つけ出したカミュと2者合一によって1なるものへの回帰を目指すリルケ。
はじめこの手紙はリルケ自身の創作だと思っていた。仮想の相手に向けて、自分という相手に向けて励ますかのような。ところが、この手紙は実際のやり取りであったのだ。おそらく、リルケは語る対象が誰であっても、同じように語っただろう。彼女にとっては、自分も若き詩人も若き女性も広大な海で生まれた、畑に蒔かれたいのちなのだろう。だから、手紙が途絶えようと、詩人や女性がどのような道を歩もうと、リルケにとっては同じひとつのことなのだ。だから、少しでもよくあってほしいと「祈る」のだ。解説によると、結果として詩人がリルケのあれだけのことばを顧みず、ジャーナリズムに身を浸すことになった、という趣旨のことが書かれていたが、それでもリルケなら、「未知なるものが入り込んで、彼の運命となったのだから、わたしは構いません。わたしのことばを含め、彼が引き寄せた未来です」と静かに微笑んだことだろう。
リルケの語る偉大さとは、因襲ではない、ただひとり独力で「在る」というそのこと。カミュと対話させたくなる。
カミュ「在る、ということは決して偉大ではない。しょうがない受け容れてやっているのだ、不条理だ」
リルケ「まあまあそんなへそを曲げないで。若いうちからそんなだったらこの先生きづらいでしょうに」
カミュ「君はそうやって、若いひとから”在る”ということを巧く欺いたつもりでいるだろうが、俺はだまされないぞ」
リルケ「仕方ないでしょ。倦み疲れて八方ふさがりな若いひとに向かって、一回死んでみろだなんて言えないんだから。」
カミュ「それもそうだな。でも、俺ならナニクソってとことん反抗してやるがな」
リルケ「そういう風にできるひとたちばかりじゃないってこと。だからわたしもこの手紙のやり取りやめないんじゃないの。でも、書いてたってむなしいわよ。だってわたしのことばはわたしのことばでしかないんだから。届かないのを知って書かないとなんだもの。自分でいちいちどうしようもない孤独を確認しているようだし」
カミュ「だから不条理だというのだ。俺たちはどうあがいてもそこから離れられないのだから」
リルケ「そんなんだからわたしは祈らないとなんですっ」
リルケの女性という役割もまた面白い。これは池田さんの父という役割と見事に対になっているからだ。
女性というのは生を与える有限と立ち上がりそれを見渡せる死という無限を同時に併せ持つ2重のものだという。
家族というものにあてはめるなら、母というものは自分で子どもを産んだというのに、明らかに自分から生じたものなのに、この者は自分ではない、ということに気付いてしまう。一方、池田の父は、自分で産んだものではないから、自分ではないということに気付きつつも、自分から生じたものとしてこの者に出会わないといけない。
リルケにとっては女性でも男性でもどっちでもいいのだ。ただ、手紙のやり取りをしたのが女性だったから女性と書いたに過ぎない。
書くことで自分も差し出された相手をも浄化する。ことばが今もなお生きている。