ヘンリー・ジェイムズのレビュー一覧
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読み進めるほど著者の精緻な心理描写がさえわたり、人の愚かさや醜さなどが浮き彫りになっていく様は、読み応えがあります。登場人物は少なく、場所もほぼワシントン・スクエアのスローパー博士の邸宅での話し。文章も会話文が多くテンポ良く進み、時折挟まれるユーモアと相まってとても読みやすかったです。ただ、『アスパンの恋文』同様に絶版なのが残念です。
なお、本作は、『女相続人』の名で映画化されています。
あらすじ:
ニューヨークの町に、裕福な開業医であるオースティン・スローパー博士が住んでいました。彼には、キャサリンという優しくも地味で不器用な娘がいましたが、亡き母の美しい容貌を受け継ぐことなく、また社交性にも欠けた控えめな態度を見るにつけ、博士はとても失望していました。それは、キャサリンが幼い頃に亡くなった母親の代わりに、博士の妹のラヴィニア・ペニマン夫人が世話をしてきましたが、博士の賢い娘に育てて欲しいという希望に、決して応えたとはいえないことも一因でした。
そんな中、博士の下の妹であるエリザベス・アーモンド夫人の娘マリアンの婚約パーティーに招かれ、そこにいた若くてハンサムなモリス・タウンゼンドにキャサリンが求婚されます。彼は海外渡航歴も豊富で弁舌もたち、洗練された容貌の魅力的な男性ですが、定職についておらず財産もありません。
スローパー博士は彼と会話するうちに、さてはキャサリンの持参金や自分の遺産目当てで近づいてきたのではと動機を疑い、娘に結婚をやめるよう説得し、モリスにも冷淡に接します。しかし、キャサリンはモリスを深く愛し、父の反対もよそに結婚を望みますが……。
と、話し的には、娘の結婚に気を揉む性悪な金満おやじと、実直すぎてちょっとめんどうな娘という親子関係に、それを取り巻く人たちの言動や態度などが、実に見事に絡み合った心理描写と相まって、どんどん先を知りたくなるストーリー展開。ただ、読み終えたあとでは、娘のことを思うと複雑ですね。金満おやじに振り回された娘が不憫でならないですが、どっちも頑固だなと。なんだか、物寂しい余韻が残る作品でした。 -
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「幽霊」(苦手)とあったので読むの後回しにしていたんだけど、、、これはおもしろかった!!
ホラー?ミステリー?謎が多くて先が気になるからどんどん読めた。
お屋敷に住み込みで子供たちの家庭教師をすることになった女性が語り手。ずっとその先生視点で物語が進んでいく。子供は眉目秀麗な兄と妹。楽しく過ごしていたある日、先生はお屋敷に不穏な影を見てしまい、色々なものが徐々に崩れていく。
面白いけど難解。結局何が真実なのかわからない。もはや真実なんて無いのかも。と翻弄されてる。
読み終わってからもう一度序章を読んでみたけど、余計混乱しただけだった笑
ネタバレになるので詳しく書けないけど、何をホラーと捉えるか、という小説だと思う。
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一人称小説の語り手が、幻覚を見ているのか嘘をついているのか偏見を持っているのか、いずれにせよ素直に読むと読者の足下を掬われる語りのスタイルを獲得したのが20世紀。19世紀末英国は大英帝国の繁栄とオカルトブームが同居する実に奇妙な空間で、アメリカとイギリスの両国で暮らしたジェイムスによる難解な幽霊譚の語りを通して20世紀文学が用意されたと言える。
この作品において、幽霊はただ佇むだけである。映画「シャイニング」の亡霊のように。幽霊が悪をなしているというのは、語り手である家庭教師の思い込みではないのか。作品は敢えて核心を外していて読者を宙吊りにする。歯切れの悪さを感じられても仕方ないだろう、とは思う。 -
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果たして幽霊は居るのか?居ないのか?
126年前に描かれた怖い話。純真無垢な子供が
不気味。見えてるの?見えてないの?謎は深まっていく。
両親と死別し、イギリス郊外の古い屋敷に暮らす聡明な兄妹。離れて暮らす伯父に雇われ、赴任してきた家庭教師である「私」。
可愛く従順な子供達と屋敷を仕切る事となった「私」はある日、高い塔に見知らぬ男の影を見てしまう。それは以前勤めていた使用人に似ていた。しかし、その男はすでに死んでいた。
YouTubeで知った本作。ホラー苦手な私はこれなら読めるかもと手に取った。ほど良い怖さで一気読み。いろんな解釈ができる。元祖、信頼できない語り手かも。人が一番恐ろしい。
イギリス、子供、古い屋敷には幽霊がとても似合う。めちゃめちゃ面白かった。
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1874-1892年の作品を収めた短編小説集。
高校生の頃岩波文庫の『ヘンリー・ジェイムズ短篇集』に出会って大きな衝撃を受けて以来、ジェイムズは私が偏愛する作家の一人で、書店で見つけ次第購入して読んできた。
岩波文庫のそれには、ジェイムズ中期から後期にかけての「曖昧法」を用いた精妙な作品が4作収録されている。そこでは語りのストリーム上の「視点」は一人の人物に限定され、従って、知人のAさんとBさんが見えない所で干渉した出来事について、「視点」の人物はただ推測するしかない。出来事の推移を見つめていても、その真相はどうなっているのか、また他者であるAさんやBさんの心中については永遠に謎のまま残される。この不可知の世界を、ジェイムズは現実の人間の生をリアルに描出するために構築したのだが、掴み得ない他者や世界に取り残されて五里霧中に包まれる孤独感と不安が、私には「これが現代芸術だ!」という感嘆をもたらしたのだ。
さらにジェイムズの文体は精妙であり、それを辿ることは大きな読書の喜びを約束してくれる。私は岩波文庫の短編集をもちろん何度も読み返したものである。
さて講談社文芸文庫の本書には5編が収録されているが、そのうち「五十男の日記」「嘘つき」の2つはずっと昔に福武文庫『嘘つき』で読んだことがある。
巻頭の「モーヴ夫人」(1874)は初期の作風を示し、「国際もの」のジャンルに属している。視点は複数の人物のあいだを渡り歩き固定されていない。ヘンリー・ジェイムズの初期の作品群を私はあまり好きではないのだが、本作はやや複雑で精緻なジェイムズの文体をじっくり味わえて、なかなか面白かった。
「五十男の日記」(1879)「嘘つき」(1888)には視点の限定による「曖昧法」の手法が見られ、特に後者は、以前福武文庫で読んだ時にはさほど高く評価しなかったものだったが、今回読むとやはりこれは素晴らしい文学作品になっていると感銘を受けた。若い画家ライアンの目を通して世界は観察され、以前求婚してふられたが、実はライアンから現在も密かな恋心を抱いて見られているキャパドーズ夫人、その夫で虚言癖のあるキャパドーズ大佐との三角関係を中心に事象は展開してゆく。この作品は更に後期の作品に見られるような出来事における「完全な謎」はあまり無いのだが、当然キャパドーズ夫妻の心は測りがたく、「他者の遠さ」が絶対的なものとして屹立する。しかもどうやら、これら3人の主要人物は3人ともが嘘をついているらしく、最後のライアンの感慨についても、読者は共感するよりも異質なものとして客観視せざるを得ない。
この、テクストの記述ストリームと読者の胸中に流れる解釈の意味ストリームとが分離してゆくという二重性が、ヘンリー・ジェイムズの曖昧法の素晴らしい現代芸術的感触を感得させてくれると私は考える。記述ストリームに完全には没入し得ず、「覚醒する」ことを読者は要求されるのだ。この点は確かに「現代芸術」の核心であろう。
出来事のレベルで「完全な謎」ではないという点、本作の5編ともがそうであるのだが、それでも「教え子」(1891)のような作品は非常に賢いが純粋な少年の像を描き出してとても魅力的だし、ジェイムズの文体や構成の精妙さが味わえて、やはり本書を通して、この作家が私にとって最も重要な、かけがえのない作家であることを確信したのだった。邦訳で全集が出版されていないことがすごく残念だ。 -
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恩田陸さんも以前『ねじの回転』というタイトルの長編小説を発表しており、タイムスリップSFモノだったので本作もそっち系なのかと思っていたのですが、全然違うお話でした。もっとも、本作の特徴である説明しすぎず解釈を読者に委ねる趣向は恩田さんも得意とするところなので、何かしらのオマージュは捧げているのかなあという気はします。
その趣向について少し述べます。主人公は語り手である「私」。両親と死別した兄妹の家庭教師として住み込みで雇われた「私」が、屋敷に出没する男女の幽霊から兄妹を守ろうとするのですが、実はこの幽霊は「私」以外の人間は見ることができません。そのため「幽霊は実際に登場した」という解釈や、「幽霊は語り手の妄想に過ぎない」等、物語の核となる部分で複数の解釈が読み手に委ねられています。私は子供たちの振る舞いを鑑みて、わずかの差で「幽霊は登場した」に一票を入れたいと思いました。さすがに裏表紙の内容紹介にある「私こそ幽霊なのではないのか」説はちょっと無いかなと思いましたが。これ以外にも様々な箇所で真相をぼかした表現が用いられており、その多面性こそが本作の大きな魅力になっています。
様々な解釈を許すことで作品世界に奥行きが出る小説は今でこそ数多く目にすることができますが、その先駆けとして本作の果たした役割は非常に大きい、というのも納得の面白さだったのでした。 -
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いろいろな作家、評論家が「名作」と言っているので、いつか読もうと、なるべく知識を入れないように人生を過ごしてきた。読んだときの楽しみや驚きが減るから。
題名を知ってから数十年、ついに読みました。
一回目読んだときはまだるっこしい会話や表現が多く、結末も唐突でなんだこりゃと思ったけど、それだけではないはずと、二回目。ああ、これ「信頼できない語り手」だなと。そして、はっきりと山岸凉子の絵で再生された。
この作品が文学界に激震を起こし、物語の世界を塗り替えたのは確かだなと思った。似たような小説、マンガ、映画を読んだ、見たことがあるから。
山岸凉子で再現されたのは「ハーピー」や「スピンクス」や「ストロベリーナイトナイト」「バンシー」など、似た作品(物語る人物ではない視点から見たとき真実が明らかになる物語)を山岸作品でたくさん読んだから。孤独な独身の女性が幸せな妄想を抱いて破滅するような作品を、山岸凉子はたくさん描いていて、その雰囲気にも近い。ちょっとホラーテイストなところも。
語り手のガヴァネスの身の上は少ししか書かれていないが、田舎教師であった父が奇行を繰り返していたことがちらっと出てくる。流し読みすると見逃してしまうが、この辺りに彼女の不幸な出自が伺われるし、だからこそ裕福で見た目も良い紳士の雇い主との上昇婚を夢見たとしても不思議はないと思う。
ヒントをあちこちに散りばめてあるところも、深読みしたい読み手には嬉しいところだろう。イギリスのガッチリとした階級社会の歪みも感じる。(ガヴァネスは普通の使用人より上だが、教える子どもよりは下という苦しい立ち位置)
現代の小説をたくさん読んでいる人には今更感はあるだろうし、エンタメ作品ほどすっきりと「実はこうなんです」と示されているわけではない。読み手の解釈に任されている。でも、だからこそ、世界中の作り手たちを刺激したのではないかと思う。
読書好きなら、やはり読んでおきたい名作だと感じた。死ぬまでに読みたいと思ってたけど、読んでよかった。 -
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モダニズム文学の先駆者ヘンリー・ジェイムズの伝説的ホラー小説。
ある屋敷に宿泊する人たちが百物語のように一夜ずつ怪談を語っていく集いを開いており、そこで語られる一つの話がこの『ねじの回転』
作中作という形で語られる話であるが、主人公はいわゆる”信用できない語り手”で、幽霊の目撃談を始め、その幽霊に子供たちが操られているという話もどこか怪しい。
この話を屋敷で出会う家政婦に語るのだが、その家政婦の存在すらも主人公に都合の良い扱いがされており、だんだん彼女の存在すらも主人公の妄想なのでは? とさえ思えてくる。
何ならこの話そのものの存在すらも危ういバランスのもとで成り立ってるような、終始そんな不安感に包まれている。
ちなみに本作は映画の方も有名。
いくつか映画化されており、どの作品も解釈が違うよう。
そのなかでも特にジャック・クレイトンが監督した1961年に映画化された『ねじの回転』は伝説的作品として有名で、90年代から00年代にかけてブームとなったJホラーに与えた影響は強い。
さすがに百年以上前の古典だけあって今読んで新鮮さや、恐怖を感じることはない。
だが、未だに欧米圏ではこの物語をどう解釈をしたらいいのか論争が起きるような作品ってことも面白い。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ新訳ということで、読みやすくなった(わかるようになった)と期待していたんですけど……
しょっぱなから延々4行にわたって続く一つの文に(しかも続けて2文章)、思わずうめいちゃいました(笑)
いや、その後はそれほど長い文章はなかったんですけど、まあ、それでも読みづらい、読みづらい。
ただ、それは訳のせいでなくて、作者の地の文章がそうだから仕方ないんでしょう(たぶん)。
(ただ、訳はかなりこなれた日本語になっているように感じます)
訳者のあとがきを見ると、ヘンリー・ジェイムスという人の文章はわかりづらいということですが、この『ねじの回転』については、わざとわかりづらく書いている面もあるのかなーと。
つまり、幽霊は出たのか?出ないのか?ではなく、出たとも出ないとも読めるように書いたんじゃないですかね。
『ねじの回転』は10年前に創元文庫のものを読んだことがあるのですが、その時はそんな風には思わず、たんに「結局どういうことだったんだろう?」で終わってしまったんです。
でも、この新潮文庫のものは、なんとなくでも「もしかしたら、そういうこと?」となったんで、そういう意味ではこっちの方がいいのかなー。
ただ、創元版の方が、読んでいて情景が浮かんだような気がするんですよね(ただし、10年前の記憶なのでソート―いい加減w)。
なんと言っても、創元版は冒頭の一文が4行に渡ってないから、とっつきはいいし(笑)
まあ、幽霊は出た?出ない?じゃないですけど、どっちがいい/よくないは人それぞれなんでしょうね。
しかし、語り手のマイルズに対する、最初の萌えぇぇ~っぷりと終盤の怒りからくる嫌悪の落差。
「かわいい」というのはポジティブな感情である一方で、それはあくまで対象が自分の意に逆らわない、自分の興を削がないと感じた時の感情で。実は、身勝手に一方的に押し付ける、かなり“黒い”感情でもあるんだなーと思っちゃいました(笑)
で、結局どうだったのか?というのは、この訳を読んでもわからないですね。
というのは、終わりがかなり唐突に来るというのもあって。結局「え?どういうこと!?」になってしまうんですよね。
というか、読者がそうなるように書かれているんじゃないでしょうか(?)
そこいくと訳者はさすがで、何がどうなったのか?をわかっているようで、あとがきで「やっぱりそういうこと?」と読者がおぼろげに想像できるように書いてくれています。
ただ、あくまでそれは訳者の見解であって。何が起きたのか、起きていたのかは、オバケは出た?出ない?を含め、正解なんてものはなく、読んだ人がそれぞれ思ったストーリーでいいんじゃないですかね。
(訳者もそんなようなことを書いていますし)
正解(?)という意味では、訳者があとがきで、「…成就しない恋愛感情を、〇〇を可愛がる職務で代償して…虐待に行き着くのと、どっち(前任者と語り手の家庭教師)が醜悪だったのだろう」書いていましたけど。
その前任者の不義のエピソードをこの小説の「答え」代わりに、誰でもいいから書いてくれないかと切望します
(それでも、その作家の解釈でしかないわけですけどね)。