ジル・ドゥルーズのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ドゥルーズガタリのオイディプスへの告訴文が個人的体験と結びついたこともあり、非常に好感度な読書体験へと昇華できた。
正直理解半分なとこも多々あり、参照すべき文献に全く当たれていないため時間をおいて再読する予定。
精神分析の広まりが薄い日本においては、ドゥルーズガタリの言説にどれほどの適用範囲を与えるべきか曖昧なところ。
要点は、フロイトの権威が確立されて以降の20世紀ヨーロッパ精神医学において、オイディプス的還元という絶対的神話が患者だけでなく、一般の人や知識人、芸術家等に多大な影響を与え、その余波は多くの分野に広がったということ。
そのせいでどこか世間一般の常識や始まりとして措定されるに至ったという大きな事実。
それら複雑多岐にわたる文脈を加味した上で、ドゥルーズガタリは強烈なカウンターとしての今作を生み出した。
「アンチ・オイディプス」というタイトルはニーチェの「アンチキリスト」を思い浮かべたが、まさに価値観の転倒をハンマーで持って成し遂げようとした偉大な先輩に対する敬意と、そのさらに先を行こうと欲する野心がチラチラと見える。
三角形的家族構成に絶対的価値をもたせることに対し疑義を抱き、強烈な批判をぶつけ、ひいては資本主義における欲望の生産について、器官なき身体、欲望機械、外延や内包など、独創的な言葉で持って、舌鋒鋭く事細かに論ずる二人の胆力ある文体には、哲学、社会、心理学の垣根を超えた言葉の芸術としての「文学性」すらも帯びていて、その衝撃のでかさを前巻とはいえ大きく痛感。
底なしのヤバさを食らう大著。 -
Posted by ブクログ
「リゾーム」「多様体」「器官なき身体(CsO)」「強度」「顔貌性」「非正確(不正確ではなく)」「存立平面」「戦争機械」「抽象機械」といった数々のD-G用語について、おぼろげながら理解した。
本の主題は、資本主義と分裂病なのだが、内容は資本主義の分析にとどまらず、「人間」「言語」「国家」「生命」を、歴史的・宇宙的な規模から考察するどえらい内容となっている。
思考のフィールドが広大すぎて、さすがの翻訳者(宇野邦一先生)も、その全貌をとらえきれないという感じで、あとがきを書いておられる。発刊後43年が経過して、まだ、この本の本格的な解説書は現れていない。
リゾーム概念は、おそらくブロックチェーンやDAO、DeFiといった非中枢型・分散型組織/経済が実装化した現代においてこそ、さらなる発展可能性をもっているような気がしている。 -
Posted by ブクログ
哲学に対しての知識はほぼ皆無だったけど挑戦してみた。読み終えるのにかなり時間を要したが、読んで良かったと思う。読んでいて今までの自分の考えが刷新されるような感覚が何度もあったので、門外漢の自分でも理解ができるような、比較的わかりやすく書かれた傑作なのではないかと思った。
わかりやすく書かれてはあるが、一般的なレベルの普通の言葉の使い方ではないので、理解できたとは簡単に言ってはいけないような気もする。またドゥルーズが言葉と格闘して練り上げられた、いくつかの概念を示す言葉は斬新な扱い方をされていて、詩にも近いような感触もある。
ドゥルーズの他の著作、スピノザのエチカ、アンリミショーなどにも興味を覚えるきっかけとなった。 -
Posted by ブクログ
凄く面白い。
シンプルでありながら物凄く重い荷物を背負い込んだ本だ。
言及範囲、取り扱い射程が長大である。ギリシャ哲学、ベルクソン、ニーチェ、カント、ヘーゲル、ハイデガー、ダーウィン、フロイト … …。万物を縦断し、横断し、掘り上げ、そして掘り下げる。
次から次へと諸事象が繰り出される。
それゆえに私のような凡人にはあまりに突飛な論脈だと感じる箇所もしばしばであった。
何かと何かが違うということ。
同じことを繰り返すということ。
差異と反復は共存し得ない対立概念でありながら、それと同時に、両立するものでもあると汲み取った。その霊妙さが本書全体を覆っていた。
下巻の前半、微分、積分の話題で数式が幾度も飛び出してきた。自分にとっての険しい峠であった。
印象的な節は数知れず。
強いということ、強度についての数的、数学的説明。物理的、物理学的解釈。
生きるというのは墓場へ向かうことではない。
「パラドクスが哲学におけるパトスである」、胸の内側に深く浸透してきた。
根拠づけることは、何によって成立するのか? 何に対して行使されるのか?
分からないことを分かるために読む。
分かろうとしないわけではない。
もちろん分かろうとしているがそれでも分からないことがある。
分からないことがあるということから人は目を背けがちであるが、そこに抗ってみてはどうか? という、メッセージにもならないメッセージを勝手ながらに嗅ぎ取ったりもした。 -
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「生成変化」「リトルネロ」および、既出ではあるが幾度もリロードされアップデートされる「(脱/再)領土(化)」の3つの概念が中巻においては差し当たり極めて重要。その周囲に彼らの独創的ではっとするようなテリトリーがあり、おそらく彼らの予想を越えた含蓄がある(その予感が「文学をひきあいにだしすぎる」と非難されながらも[上p ]、文学性に近づけた動因ではないだろうか。その美しい表現は、まわりくどく曖昧ないいかただととらえることもできるだろう。しかし、「すべてを曖昧にしておくのは容易だなどと考えないでほしい。」[p64])。
第7-9章は、それらの重要な概念をもちいた実践例。「顔貌性」や「切片性」といった概念は触発される美しい概念ではあるが、周辺機器であり、実践の結果細分化されたもの。ただし、「此性 hecceite」は散発的で短命(※その前後で表立たない)だが、重要[p208「人称や主体、あるいは事物や実体の個体化とはまったく違った個体化の様態がある。われわれはこれを指して<此性>hecceiteと呼ぶことにする。」]。そうはいっても、ひとによって、気分によっては有用性がありうる。
馴染みがないひとは、事前に「原子」「分子」「モル(状)」「質量[料]」「コード(化)」「強度」「速度」などについて調べて、自分なりに考えておくとつまずかない。メタファーに馴れないと翻弄される。こんな絵画的な書物はない。いや、地図的な書物だ。たとえば、「存立平面」「緯度」「経度」といったなぞらえは、「地図化すること」に基づいて理解できる[p207「存立平面の上では、一つの身体はもっぱら経度と緯度によって定義されるのだ。」]。地図はつかうことができる(車のナビ…)。それはリゾームともたとえられる。それが「千のプラトー」全体を貫く原理であり、この書物が目指された姿。 -
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序章の「リゾーム」は全体の概観を示す。まずこの小片が書かれて発表され、本書に繋がった。ここだけで「アンチ・オイディプス」とは比較にならないほどの射程と奥行きをもっているのがわかる。新しい語が唐突に用いられるので(リゾーム?脱領土化?器官なき身体?強度?存立平面?)、ごく一般的な生活をしている人には「浮いている」ので馴染みずらいか。まず書き方に慣れ、全体を通読、あるいは結論意外の章を[「結論だけはおわりに読むべきである」※冒頭の緒言より]好きな順に、開いた順にでもとにかく通読すること。細かい意味はあまり気にせずに、何度か通読して全体に慣れること。そうすると、この書物全体が地図であることがわかる[p18]ので、次は現在地と目的地を確認するだけだ。これが「千のプラトー」の意義、活用法であって、従来の哲学書のイメージを覆す。ほとんどハウツー本。
なぜ、何度か通読する必要があるのかというと、この書物自体が帰結ではなくドゥルーズとガタリの手探り感がある生き生きとした思考の過程そのものの提示であるような、悪く言うと「曖昧な」書き方に貫かれているからだ。例えば、捨てられる、あるいは潜り込んでしまうイメージの概念もたくさんある[「それらを網目組織と呼ぶことにしよう」p25などは、このあとほとんど用いられない]ところ。でもそれは、やっつけ仕事などではなく、序章で示されたように「リゾーム」としての書物だから。言い方は厳密ではないが、「活用してもらう」ことこそ、彼らの願いであったはず。様々な新しい概念のキワが絶妙にぼかされていて、読み手の可変的(可塑的)な解釈を許す(=柔軟性がある)ので、絵画にも近い。 -
Posted by ブクログ
p307
或るひとつの差異がおのれをそこから抜き取るその表面的な反復に、その差異が(深さにおいて)必然的に所属している場合、そうした差異の本質はどこにあるのかを知ることが問題になる。そうした差異は縮約であるが、しかしこの縮約の本質はどこにあるのだろうか。そうした縮約はそれ自身、弛緩のすべての水準とすべての度においてそれ自体と共存する或るひとつの過去のもっとも縮約された度、もっとも緊張した水準ではないだろうか。各瞬間、過去全体が、ただし、様々な度と様々な水準において[それ自体と共存する]。現在の度と水準は、それらのうちのもっとも縮約されたもの、もっとも緊張したものでしかない。それが、ベルクソンの輝かしき仮定であった。その場合、現在の[現前する]差異はもはや、先ほどのようには、諸瞬間の表面的な反復から抜き取られて、その反復が存在するのに必要不可欠な或る深さを素描するような差異ではない。 -
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1082夜
ドゥルーズの中では一番好きだなあ。
1976年くらいのことだとおもうのだが(『アンチ・オイディプス』は訳されていなかったし、『千のプラトー』はまだ原著も発表されていない)、ガタリをぼくのところに連れてきたのはアラン・ジュフロワで、それはぼくが主体性を嫌っているためだった。それ以前にジュフロワとそんな話をしたことがあって、それをおぼえていて「この男も主体性が嫌いなんだ」とガタリを紹介してくれた。
初対面の理屈屋のフランス人との会話をそんな話題から始めるなんて、まったくツイてないほどの最悪のコースだったけれど、ガタリが主体性そのものを嫌っているのではなく、20世紀の精神分析が勝手につくりあげたニセの主体性(そのくせ後生大事にされている主体性)を嫌っているんだということだけは、すぐわかった。「たとえば?」と尋ねると、「フロイトもユングも、それからラカンもね」と、眼鏡の奥でニコリと笑った。精神分析医のガタリがそんなことを言うのだからよほどのことだろうが、そのときはそれ以上の話はしていない。
ここに登場してきた、これまた奇妙な「器官なき身体」という概念は(ドゥルーズは概念を考えることが一番好きな哲学者なのだ)、アルトーが使っていた用語をそのまま流用したもので、ドゥルーズの説明では、ヨーロッパの歴史と社会の深層の危機を告げる拠点にあたるものだとされた。
そのイメージはアルトーの次の詩に暗示されている。
皮膚の下の体は過熱した工場である
そして外では病者が輝いている
彼はきらめくあらゆる毛穴を炸裂させて
まさに分裂症の渦巻く衝動を綴っている。ドゥルーズはしかし、この衝動を本物ととらえたのである。意識の本来の正体はこういうものだとピンときた。
そして、このような分裂症的な衝動(すなわち欲望)こそが思索の本来を貫くものとなり、さらには社会の滞留点をどんどんぶっこわしていくものになるのではないかと推理した。ただし、そこにニセの主体性やニセの精神分析による制御が加わらないかぎり――。
こうした内容をもつ『差異と反復』の発表のあと、1968年のおわり近く、ドゥルーズはガタリと初めて出会う。ガタリはまさに精神病を研究している現場の精神科医だった。 -
Posted by ブクログ
ドゥルーズの対談や、知人の本に寄せた序文などをまとめたもの。
対談なので比較的読みやすいのではないかと思い、手に取った。
とはいえ、例によって、理解したとは言い難いので、読書ノートという形で心に残った箇所を引用するに留めたい。/
【プルーストの場合は、記憶の探索をおこなっているのではなく、ありとあらゆる種類の記号に目を向け、環境、記号の発信様態、記号の素材、記号の体制に照らして記号の性質を解明することが作家の責務となっている。『失われた時を求めて』はひとつの一般記号学であり、さまざまな階層に分かれた社交界を診断する症候学でもあるのです。カフカの仕事は私たちの行く先々にひそむであろう悪魔的な力を、ひとつ残らずつきとめた診断です。ニーチェがいうように、芸術家や哲学者は文明の病を見極める医師なのです。】(「哲学について」)/
【創造とは、いわゆる伝達ではなく、耐久力をもち、抵抗することです。記号、〈事件〉、生、そして生気論は深いところでつながっている。そしてこれらに共通するのが非=有機的な生の力能であり、この力能は絵画の、文章の、あるいは音楽の線にも宿るのです。有機体が死んでも生は残る。作品は、それが作品であるかぎり、かならず生に袋小路からの出口を教え、敷石と敷石の隙間に一筋の道を通してくれるものです。私が書いたものはすべて生気論だった、と自分では思っていますが、そこから見えてくるのは記号と〈事件〉をめぐるひとつの理論でした。】(同上)/
【最近、革命の惨禍を告発するのが流行っています。(略)要するに革命はかならず悪しき未来を用意すると言いたいのです。しかし、そんな意見が出てくるのは、ふたつのこと、つまり歴史のなかにある革命の未来と、生身の人間がおこす革命の生成変化とを、いまだに混同しているからにすぎないのです。それに、歴史のなかの革命と、革命の生成変化では、同じ人間でもそのあり方が違います。人間の唯一の希望は革命の生成変化にある。恥辱を払いのけ、許しがたい所業に報いることができるのは、革命の生成変化だけなのです。】(「Ⅴ 政治」)/
【ナチスの強制収容所は私たちの心に「人間であるがゆえの恥辱」を植えつけたと述べるプリーモ・レーヴィの文章に、深い感銘を覚えたことがあります。レーヴィによると、(略)私たち全員にナチズムの責任があるのではなく、私たちがナチスによって汚された。強制収容所を生き延びた人たちですら、(略)やはり数々の妥協を余儀なくされた。ナチスになるような人間がいたという恥辱、それをさまたげる可能性も力ももちあわせていなかったという恥辱、そして妥協に屈したという恥辱。こうした恥辱が集まったものを、プリーモ・レーヴィは「グレーゾーン」と呼ぶわけです。】(同上)/
これと同じ恥辱が、現在のロシア社会にも蔓延しているのだろう。 -
Posted by ブクログ
村の隅々をあちこち探索してみても、「城」への入り口は一向に見えてこない。
注の極小ポイントの活字が眼を射る。
まるでカリンティ・フェレンツ『エペペ』の、未知の言語を使用する国に迷い込んでしまったブダイのようだ。
あるいは、そもそも僕は最初から追放されてあるのだろうか?/
カフカの『流刑地にて』の「処刑機械」は、キリスト教のことではないか?
「処刑機械」は、そのシステムに拘束された者の身体に馬鍬で刑罰を書き込むのだから。
馬鍬で身体に書き込まれる刑罰=最後の審判ではないだろうか?/
【注(1)ザッヘル・マゾッホの評伝(略)の中で、ベルナール・ミッシェル(略)は、『変身』の主人公の名前そのもの、グレゴール・ザムザ Gregor Samsa が、おそらくマゾッホに捧げられたオマージュであることを明らかにしている。グレゴール Grégoire というのは『毛皮を着たヴィーナス』の主人公が受け取る仮名〔ワンダの「奴隷」としての名前〕であり、ザムザ Samsa はたしかに、ザッヘル・マゾッホ Sacher-Masoch の略称ないし部分的アナグラムであると思われる。カフカにおいて頻出するのは、ただ単に「マゾヒズム」的主題だけでない。それだけではなく、オーストリア−ハンガリー帝国におけるさまざまなマイノリティの問題が、この二つの作品に活力を与えているのである。】(第7章 マゾッホを再び紹介する)/
【バートルビーは独身者、カフカが次のように語っているあの〈独身者〉である。(略)ーーそしてまた、冬に雪の中に寝て子供のように凍え死にする人間であり、散歩しかすることはないが、どんなところにいても、動かずに散歩ができてしまう人間でもある。バートルビーは身元保証なき、所有物なき、属性なき、身分なき、特性なき男である。】(第10章 バートルビー、または決まり文句)/
【この書物、世界で最も偉大なものの一つたるこの書物は、はじめにそう思われたようなものではない。(略)
『エチカ』は三つの要素を呈示している。それらは内容であるのみならず、表現の形式でもある。すなわち、〈記号〉あるいは情動(略)、〈概念〉あるいはコンセプト(略)、〈本質〉あるいは知覚対象(略)がそれである。】(第17章 スピノザと三つの『エチカ』)/
【死の直前にジル・ドゥルーズは、短いテクストを書き残している。「内在ーーひとつの生‥‥‥」((略)、『狂人の二つの体制 1983ー1995』河出書房新社、(略)、所収)ーー簡潔だが、決定的に重要な、そして美しいテクストだ。呼吸器の重篤な病いに冒され、すでに補助装置なしには生きられなくなっていた哲学者は、しかし、内在とはどのようなことか、一つの生とは何かについて、ここでおよそ最も厳密な思考を差し出している。(略)
書かれているのは、たった一つのことである。すなわち、一つの生とは一つの特異性であり出来事であるということ、そして、その特異性−出来事は一つの純粋な内在面においてのみ、それとしてみずからを指し示すということーーこれである。】(訳者あとがき)/ -
Posted by ブクログ
ネタバレ総括して、まだまだ理解が及んでいない。全体像を理解してからまた読むことの必要性を感じている。しかし所々で自分にはなかった文学の見方、或いはそもそも世界に対する認識の視点を得ることができたと感じている。
中でもお気に入りは「l prefer not to」というそれ。この文章によって全てが曖昧になる様。この言葉を吐く人物の心情や世界への視座というものは、驚くべきものであった。
「拒否しないが、受け入れもせず、彼は前に進み、この全身の動きの中で後退するのであり、言葉のかすかな後退の中でわずかに身をさらすのだ」
すべてをその決まり文句のうちに閉じ込めてしまうことで、前進=彼がその決まり文句を使うたびに、彼は段々と後退=何もできなくなる。この前進と後退の関係に面白みを覚えた。