ジル・ドゥルーズのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
この本の真骨頂である「欲望機械」や「分裂分析」、「器官なき身体」の定義、「欲望的生産」と「社会的生産」、死と強度の問題、革命の話などが展開される下巻。「脱コード化」という概念は流行ったが、今読むとそこはあまり面白くない。
むしろ、オイディプスの三角形、端的に言えば近代家族モデルであるが、これを解体するに飽き足らず、「人間」そのものも概念的に解体し、あらゆる欲望という切り口でその存在を捉えなおし、その欲望が社会の中へはめ込まれていく、あるいはそこから逸脱していくさまを描いたところが非常に面白い。この説明はわかりにくいだろうか?
つまり、自我を持つ主体としての人間という定義すら、DGは投棄し -
Posted by ブクログ
もう流行ったのは一昔前になるだろう。ドゥルーズ=ガタリのもっとも初期の著作、アンチ・オイディプス。
上巻は、「資本主義と分裂症」の後者、分裂症と精神分析、そしてオイディプスの三角形の批判が行われる一章と二章。そして、モルガン=エンゲルス的な唯物史観と絡めて論じる三章の前半だ。
多くの概念が、その内容を提示されないまま並べられ、論旨が進んでいくので、上巻だけでいろいろと読み込んでいくのは難しい。ただ、もう最初の方だけで「アンチ・オイディプス」という論の趣旨は十分に理解できる。とはいえ、この本の面白いところは「アンチ・オイディプス」の立論とは別にあるので、上巻はまだ前座といったところだ。
困っ -
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Posted by ブクログ
かつて、高価で分厚くやたら重いハードカバーのドゥルーズを、こづかいはたいて買っていた身としては、河出文庫で次々と廉価・軽量に発売されていく状況を見て悔しい気持ちがつよい。
『千のプラトー』だけは買ってなかったので、文庫で購入、早速読んだ。
面白い。
ドゥルーズと言えば「ポップ哲学」などと言われたりもするが、この著作にはまさにぴったりな言葉だ。
ポップということは、ヴィヴィッドで人の目をひくカラフルな表現、そのシニフィアンの連鎖に内容=シニフィエの重さが伴わない、むしろ空疎な構造体を指すが、この本はまさにそんな感じである。
『アンチ・オイディプス』よりもずっと「面白い」この本は、かなり独自で奇抜 -
Posted by ブクログ
はっきりいってほとんどわからない。精神分析にも資本主義にもたいして知識を持っていない自分にはわからない理論が多すぎるし、脱領土化、脱コード化というような重要単語も、どれだけ読み進めても今一つ意味が定かにならない。こういうことなのかなと自分なりに解釈して読み進めていくと、ぜんぜん違ってましたということもしばしば。
でも、わからないならわからないなりに読んでて面白い。わからないものが次々と繰り出されて、頭くらくらになるのが心地よいというか楽しいというか。蛇行してうねりながらものすごいスピードで展開する精神分析批判・資本主義批判を、振り落とされないようになんとついていく(完全に振り落とされているけ -
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Posted by ブクログ
欲望を一定の方向に導くような秩序・規則はない。例えば、母を愛の対象とし、父親に打ち勝とうとする欲望(エディプス)は、家族という枠組み(秩序・規則)に限定されない。欲望の矛先は木の根っこのように色んな方向にごちゃごちゃになって向かう。遊牧民のように次から次へと住処を変え、一つの場所にとどまることはない。だから、異なるものを整理して、統一して、秩序だった体系を作るのではなく、異なるものを異なるものとして受け入れよう。▼同様に、価値観や「自分とは何者か」を体系化するのではなく、その時々で様々な価値観や「自分とは何者か」をこだわりなく受け入れよう。ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ Deleuze
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Posted by ブクログ
田舎の純朴な少年がドゥルーズ=ガタリなんて知るはずもなく、いざ大学に入ってみればそれを当然に読んで議論できる秀才たちはごろごろいて、到底埋まりそうにない格の違いにキャッチアップも早々に諦めて平穏無事に終わった学生生活も今は昔、それを今になって読むというのも感慨深い。
さて、そのドゥルーズ=ガタリの「千のプラトー」、副題の「資本主義と分裂症」は前作「アンチ・オイディプス」から引き継いでいるものの、その思想は分裂症分析から大きく離れてあらゆる方向へと広がっていく。広がり蛇行しながらぎりぎりの表現を試みつつより壮大な資本主義分析、資本主義批判が展開される。
それは、変化の哲学であり、より具体的には -