ウラジーミル・ナボコフのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
本作を評して英語とのロマンスを描いているというほど言葉遊び(言語遊戯)が多い。例えもよく分からないことがある。そもそも文章が長すぎてかなり読みにくいのに。こうした特徴がそもそも翻訳小説でナボコフを読むのはどうなの?と思わざるを得ない。作中に散りばめられた文学的な挿入も英語・ロシア語圏の話で全く身近でない。読者に高度な知識と読解の忍耐力を要求している本を翻訳で読んでいるのが間違っている気がしてならない。そのとっつきにくさ緩和するためにを少女性愛というポルノをフックにしてるのだろうと思われる。
本書のいいところは読みにくい文をちゃんと読んだ後に訪れるイメージの豊かさにある。このすさまじい筆力によってドロレスの官能的な魅力と少女らしさのスナップ写真・記録映像が脳裏に展開される。
解説でもナボコフ本人の弁でもあるように、クライマックス近くにある、崖の上から見下ろした街から音が昇ってくるシーンは情緒にあふれている名シーンで本作で一番いいとこだ。
読むのに半端なく時間がかかった。内容が性犯罪者の苦悩であったせいでそもそも読む気が進まない上に文章が読みにくいという二重苦だった。
ただ、今振り返ってロリータの読書体験は瑞々しいきらめくようなイメージを伴っている。確かに美しさとの接触があった。
最後に1940年代アメリカ風俗紹介小説としても読めたことを付け加えておく。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ文章力のあるオタクっぽさがあって面白かった。
始まりこそ、幼少期に特別な女の子がいて、その子と別れねばならなくなり、拗らせた結果の逃避行劇なのかしらと予想していたが…、
急にp30にて、オリジナル理論の紹介が始まってまた話の流れが変わってきた笑
さて今から、次のような理論を紹介したい。九歳から十四歳までの範囲で、その二倍も何倍も年上の魅せられた旅人に対してのみ、人間ではなくニンフの(すなわち悪魔の)本性を現すような乙女が発生する。そしてこの選ばれた生物を、「ニンフェット」と呼ぶことを私は提案したいのである。p30
などと言い出し、どこかのオタクみたいなことを言い出す奴だなと笑った。
健全に楽しむだって?冗談じゃない!p328
などと、時折興奮して”!”をつけて心の中で叫んでいる。ロリコンゆえの表現の気持ち悪さもありながら、いつの間にか主人公を応援したくなっている。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ『ボヴァリー夫人』読後すぐに、ギュスターヴ・フロベールの章を読んだ。
フロベールの手紙も引用して『ボヴァリー夫人』を詳細に紐解く。かなり細かい説明があり、共進会の読み難かった部分は交響楽を模して表現していた事に納得した。
フロベールは対位法的手法を取り入れて書いている。この手法は、複数の会話や思考の流れを、平行して挿入したり、絡ませたりする。
また、章の中で主題が波のような流動態で移行していく、構造的移行も用いている。
正にナボコフの講義を聞いているようであった。
ナボコフは言う。良き読者は小説と同化して読まない。共感ではなく、客観的に読むということかな。そして再読し、情景を脳内に再現できるぐらいにかなり緻密に読むことを勧めている。
-
Posted by ブクログ
ネタバレ大久保康雄訳で読んだ。
もちろんロリコンの語源になった作品だが、ロリコン男がうひひひひと思いながら読むような本ではまったくない。
周りくどく分量が多い文章のために読むのにとても苦労した。これは翻訳のせいではなく、作中作である犯人の獄中記が晦渋なため。
犯人ハンバートが逮捕された理由は性的虐待容疑ではなく、道路交通法違反および殺人容疑だと思われる。ロリコン部分についてはたぶん病気として扱われている。
うっかりすると読み飛ばしてしまいそうだが、
「私のなかに棲む原始の野獣は、殺人がすんで、もはや何も気にすることがなくなり、何をしてもかまわなくなったとき、しばらくのあいだ抱いていられるような薄着の少女をさがしもとめていたのだ(P.404)」
と書かれている部分に一番どきっとした。あ、これは救いようがないのかな、と。
ロリータは無垢でもなんでもなく、ハンバートが考えるようなニンフェットとは異なるので、ハンバートが気の毒と思う部分もある。
冒頭の方はすっかり忘れているし、読み落としている部分もたくさんありそうなので、再読したい気持ちはある。しかしこの労力を思うと気が重い。 -
Posted by ブクログ
ナボコフはぼくにとって躓きの作家だ。
文学の鑑賞のしかたがきっと根本的に違うから。
彼の主義主張はざっとこんな感じだと思う。
・文章はぶつ切りにして顕微鏡の下に晒せ
・描写の緻密さ・特異性こそ至高
・会話文がおおい俗な小説は犬にでもくれてやれ
・「感傷性」と「感受性」を区別すべし→青臭い感情移入は唾棄すべきだ
ナボコフはこの上巻ではゴーゴリを絶賛し、ツルゲーネフは情状酌量、ドストエフスキーに至っては「嫌い」とはっきり断言している。
現代の評価からすればむしろ逆の結果……というのは言わずもがなだが、それだから彼の評価はあてにならないということにはならない。
おそらく彼の文学観は主流ではない。だが確固とした見方があるのだから、「ふむふむ、そういう考えもあるか」とちょっくら研究してみようという気になるし、それでいいのだと思う。
さて。たとえばゴーゴリの「死せる魂」、これはいま読んでいるけれど、なにか風景描写らしいものを読んでいるなと思って目を動かしていくのだが、じきに自分が何を読んでいるのかよくわからなくなるという代物だ。
なにしろひとつの描写が長い。それに突然ナニカが紛れ込む。
〈風景描写→どっかのロシアの役人の描写?→彼が着てる外套の描写?→また風景描写?〉という風に。(おまけに訳が古い)
しかしナボコフにいわせればこれがいいのだ…と。
描写というのは何だろう?
ぼくにはロシアの広大な大地も森林も想像がつかない。屋敷のかたちや彼らが旺盛に口にする食べ物やなんかも。
ナボコフが芸術的だと絶賛する「死せる魂」の、深い森の蔭の描写、白樺だかなんだかが雷でぽっきり折れていたり……なんてのは、まるで浮かんでこないのだ。
なんといっても文章はある程度のスピード感をもって読めなければ頭には入ってこない。ところでまるでイメージのつかないこれらの長たらしい描写は、鑑賞の対象どころかむしろ障害として映るのだ。
描写の経年劣化ということを考えてみる。
ドストエフスキーの描写はたしかにすんなり入ってくるし、逆にナボコフのいうとおりチープと言えるかもしれない。
ところでナボコフの限界というのは芸術性にこだわるあまり、ドストエフスキーの八方破れ感がかえって今の読者に面白くとられるということを見通せなかった点ではないだろうか?
だって「カラマーゾフの兄弟」の「大審問」の章はいらないとか言っちゃうんだから……あれがなかったらカラマーゾフはさぞかし味気ないものになっていたに違いない。
「ロシアの作家、検閲官、読者」の章はその当時のロシアの様子をよく描けてると思う。上からは検閲による圧迫、下からは革命熱にうかれた読者からの的外れな批判。当時の文学作者(芸術家)はこの両者の狭間でその作品をつくっていた。
「政府と革命、皇帝と急進主義者は、どちらも芸術の世界では俗物だったのである。」 -
Posted by ブクログ
とにかく「精読」、引用ばっか、でも…ーー
引用が非常に多い。自説の主張が乏しい。
結局は何が言いたいのか?そればかり気になっていたが、気づいた。
「読み込む事によって、小説の醍醐味をとことん感じろ!」ってことだ。
引用の分量に比べ圧倒的に少ないが、
ナボコフの鋭い(時に鋭すぎる!)指摘がそこここに散りばめられていて、盲を開かれることが沢山。
その表現が典雅で詩的な表現で書かれていて、読んでいてふくよかな気持ちをもたらしてくれる。
・・・とてもじゃないが本書のレビューなんか書けんわw どだい無理なはなしw
・・・結局、世界文学の"超"名作を(断片的ながらも)感受させてくれたことには、いくら感謝しても足りない。
敬愛しまくるプルーストの「失われて〜」に関しては読んでいた頃(10年前)の感動を蘇らせてくれた。
そして憧れながらいまだ読んでいない(そしてこれからも読むことはないだろう)「ユリシーズ」に関しても、その魅力や叙述の圧倒的力を(断片的ながら)疑似体験させてもらった。
「ユリシーズ」の結末の引用で、思わず知らず泣きそうになった!あまりに良すぎて、つまり感動して!!
この感動をもたらしてくれただけでも、この一冊は忘れがたいものになった。
本棚に大切に収納します。 -
Posted by ブクログ
ナボコフが大学で行った講義のメモを、編集者がまとめたもの。どうやら残されたノートはかなり断片的であるらしく、この本を読んでいても、小説についての「まとめ」の批評が無いままに終わる章が多く、アレ?という気にさせられる。ナボコフはきっとアドリブで、講義の最後を華麗にまとめたのだろう。
取り上げられた「世界文学」のうち、オースティンの『マンスフィールド荘園』だけは読んだことがない。他は読んだとは言ってもかなり昔のことで、再読もほとんどしていない。ナボコフは再読を「良い読者」の条件の一つに挙げているので、私はぜんぜん、良い読者ではない。
芸術としての小説という観点にナボコフは厳しく絞り込むので、いわゆる「思想」を中心にしたような作品は退ける。だからドストエフスキーは嫌いらしい。ドストエフスキーは思想というより各人物の意識の異様な粘着と互いの確執にその面白さがあるのだと、私は思うのだが・・・。
どうやらナボコフはとりわけ、ディケンズとフローベールを賞賛しているようだ。カフカについても、彼に比べればリルケもトーマス・マンも「小石か石膏の聖人像のようなもの」と形無しである。こういったあたりも、どうもナボコフの断言は偏ったところがある。
そのカフカ『変身』の読解だが、ザムザの家族、虫に変わったザムザを見捨てた父母と妹について、ナボコフは「俗物」として批判している。しかし、私の理解ではこの読み方はカフカにふさわしくない。カフカは明らかに、彼ら(ナボコフの言う俗人)の方を称揚しているのだ。だからこそ、明るい未来へと向かう妹の姿が、結末において燦然と輝くのだ。カフカは自己を無化し、他者たちの他者性の世界を、なんのわだかまりも屈折も卑下もなく、賞賛した。このリアルで冷たく、一切の弁解を拒絶する「自己の死」こそがカフカ文学の本質なのではないか。ナボコフはそこに至らなかったのではないだろうか。
ジョイスの『ユリシーズ』については、全部の章を順に取り上げ、細かく解説を加えている。いつか『ユリシーズ』を再読することがあったら、参考になるかもしれない。
全般に、ナボコフの文学観は、意味内容(思想や教訓)ではなく作品の構造や文体に絞り込まれているという点で、構造主義や脱構築を思わせる面もある。しかし決定的に違うのは、やはりその読解には「味」の比重が極めて大きくなっているということだ。つまり知が最優先ではないということ。
ナボコフの好みはちょっと偏っているようにも思えるが、毅然として「好み」を貫き通すというのは、小説家ナボコフにとっては当然のことだったのだろう。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ『ロリータ』は評価が非常に難しい作品だった。
初読では、まずハンバートのロリータへの異常な執着や、生々しい性的描写の印象が強く残った。美しい文章で語られる一方で、その内容には強い嫌悪感も覚え、読んでいて複雑な気持ちになった。
しかし、読み進めるうちに興味を引かれたのは、物語そのものよりも「語り」の構造だった。本作はハンバートの回想という形で書かれているため、読者が知る出来事はすべて彼の視点を通して語られる。そのため、「どこまでが事実で、どこからが彼の自己正当化や脚色なのか」を常に考えさせられる。
特にクイルティという存在は初読では掴みどころがなく、「結局何者だったのか」と読み終えてから改めて考え込んでしまった。後から振り返ると、初読では見逃していた伏線や、ハンバートの語りの信頼性そのものが作品の大きなテーマだったのだと感じる。
読後は「面白かった」と単純には言えない一方で、「これが文学なのか」と考えさせられる作品だった。ストーリーを楽しむというより、一人の語り手に翻弄され、その語りを疑いながら読む体験そのものが、この作品の魅力なのだと思う。
だからこそ、この作品は一度読んで終わりではなく、再読することでまったく違う景色が見えてきそうだ。次に読むときは、クイルティの存在やロリータ自身の言動にも注目しながら読み返してみたい。 -
Posted by ブクログ
わかりやすい物語に毒されてしまっている脳みそには難しかった。いや、自分の中の小説国の法律とあわなかった?適切な期待と投下できる時間の設定があわなかったか。
1個前に読んだ本のお陰で、小説に対する物差しみたいのが充実した気がしたので、今なら読める!と思ったけど見通しが甘かったみたい。この小説は何を明らかにしようとしてるんだろう、なんて考えながら読めるようになったのは前進なんだが、期待する内容と時間が今のスケールにあわなかった、ということか。イキって海外小説に手を出すときは、もう少し余裕と忍耐があるときにしよう。
前半はサスペンスっぽく読めたんだけど、後半は流し読みになってしまった。著者あとがきで痛烈に批判されている出版社の人間と同じようや読み方になってたみたいで笑った。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ友人Tからのプレゼント。読みにくいしなぜロリータをそんなに魅力的に感じるのか良く分からなかった。読みにくさは、表現が分かりにくいのと、よく海外文学の文章を引用して使うがそれらに馴染みがないから真意が伝わりにくいからだと思った。そして最後の方は誰が誰だか分かりづらく、なぜクィルティを殺したのかあまりよくわからなかった。最後の方は、ロリータの姿かたちも変わり望んだ再開ではないところに、少しハンバートの哀愁を感じる一方で、それでも全て通して結局一貫して一人の人をこれだけ愛せるのはすごいことだと思った。ここまで書いた後にチャットに色々自分の理解の確認や意見を求め、クィルティの部分を聞き、「ハンバートにとって彼は『自分の歪んだ欲望の完成形』なのです。そのため、クィルティを殺すことは、自分自身の欲望を殺す行為でもありました。」と書かれたのを見たときに、『火の鳥』のクローン人間の話が彷彿とさせられ、チャットに聞いてみると関連性があると言われた。ただ読んでいる時は良く分からないが、チャットと意見交換したり、理解を進めることで面白いものが見えてきたように思う。
-
Posted by ブクログ
ネタバレチェスに取り憑かれたルージンの物語。ルージンの妻となる女性に一貫して名前がないこと、彼女も夫をルージンと呼び、作中で登場人物がルージンに名と父称を尋ねてもルージンが答えないこと、最後にルージンが窓から飛び降りた後に、彼がアレクサンドル・イヴァノヴィチと呼ばれることに何か意味があるんだろうか。前書きに、ルージンはイリュージョンと韻を踏む、とあったから、チェスに魅せられた彼の人生は全てチェス盤上の幻で、彼が死んだ瞬間に幻から人間性を取り戻したんだろうか。僕はゲームから降りる、と言って飛び降りたルージンの人生はチェスのゲームであったとは言えそうだけど、そこまでが難しくて頭に入ってきづらい文章だった。