ウラジーミル・ナボコフのレビュー一覧
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スティーヴンソン ジキル博士とハイド氏の不思議な事件 9-60(52ページ)
プルーストのスワンの家のほうへ 61-138(78ページ)
カフカの変身 139-202(64ページ)
ジョイスのユリシーズ 203-375(173ページ)
文学芸術と常識 376-
だからなんだ、という声も聞こえてきますが小心者なので耳栓をして、進めます。
後半のナボコフ先生、ようこそ!
各作品にあてられた先生の熱意?講義内容?をいろんな角度から考えられないかとなんとはなしに思って、各講義をページ割りしてみました。ジキル博士とハイド氏や、変身のような比較的短編?中編?ともいえる話にでもこれだけ時間を割いている -
Posted by ブクログ
書評どころかまさしく読書感想文になってしまうので先に謝りますゴメンナサイ。
だって、ナボコフ先生の授業、面白いんだもん。
えっとね、第一印象は「いや~~ん、この、IQの高い陰湿インテリめ!」でした。
あ、すいません、石投げないでくださいそこ。
だって本当にそう思ったんだもん。ナボコフ先生、スキだな。いいなぁこの、IQの高い人が子供みたいに熱心に無邪気にかつ執拗に、重箱の隅をつつきまくってるトコ!たまらんぜ。だった。陽気な陰湿さというのかな、ねぇ、もう、楽しくて大好きで仕方ない、その姿勢は伝わるんだけどそもそもIQ高い人だから、あ、そこ、そこまでえぐりきっちゃいますか?で、容赦がない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ『ボヴァリー夫人』読後すぐに、ギュスターヴ・フロベールの章を読んだ。
フロベールの手紙も引用して『ボヴァリー夫人』を詳細に紐解く。かなり細かい説明があり、共進会の読み難かった部分は交響楽を模して表現していた事に納得した。
フロベールは対位法的手法を取り入れて書いている。この手法は、複数の会話や思考の流れを、平行して挿入したり、絡ませたりする。
また、章の中で主題が波のような流動態で移行していく、構造的移行も用いている。
正にナボコフの講義を聞いているようであった。
ナボコフは言う。良き読者は小説と同化して読まない。共感ではなく、客観的に読むということかな。そして再読し、情景を脳内に再現できるぐ -
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ナボコフはぼくにとって躓きの作家だ。
文学の鑑賞のしかたがきっと根本的に違うから。
彼の主義主張はざっとこんな感じだと思う。
・文章はぶつ切りにして顕微鏡の下に晒せ
・描写の緻密さ・特異性こそ至高
・会話文がおおい俗な小説は犬にでもくれてやれ
・「感傷性」と「感受性」を区別すべし→青臭い感情移入は唾棄すべきだ
ナボコフはこの上巻ではゴーゴリを絶賛し、ツルゲーネフは情状酌量、ドストエフスキーに至っては「嫌い」とはっきり断言している。
現代の評価からすればむしろ逆の結果……というのは言わずもがなだが、それだから彼の評価はあてにならないということにはならない。
おそらく彼の文学観は主流ではな -
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とにかく「精読」、引用ばっか、でも…ーー
引用が非常に多い。自説の主張が乏しい。
結局は何が言いたいのか?そればかり気になっていたが、気づいた。
「読み込む事によって、小説の醍醐味をとことん感じろ!」ってことだ。
引用の分量に比べ圧倒的に少ないが、
ナボコフの鋭い(時に鋭すぎる!)指摘がそこここに散りばめられていて、盲を開かれることが沢山。
その表現が典雅で詩的な表現で書かれていて、読んでいてふくよかな気持ちをもたらしてくれる。
・・・とてもじゃないが本書のレビューなんか書けんわw どだい無理なはなしw
・・・結局、世界文学の"超"名作を(断片的ながらも) -
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ナボコフが大学で行った講義のメモを、編集者がまとめたもの。どうやら残されたノートはかなり断片的であるらしく、この本を読んでいても、小説についての「まとめ」の批評が無いままに終わる章が多く、アレ?という気にさせられる。ナボコフはきっとアドリブで、講義の最後を華麗にまとめたのだろう。
取り上げられた「世界文学」のうち、オースティンの『マンスフィールド荘園』だけは読んだことがない。他は読んだとは言ってもかなり昔のことで、再読もほとんどしていない。ナボコフは再読を「良い読者」の条件の一つに挙げているので、私はぜんぜん、良い読者ではない。
芸術としての小説という観点にナボコフは厳しく絞り込む -
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ネタバレチェスに取り憑かれたルージンの物語。ルージンの妻となる女性に一貫して名前がないこと、彼女も夫をルージンと呼び、作中で登場人物がルージンに名と父称を尋ねてもルージンが答えないこと、最後にルージンが窓から飛び降りた後に、彼がアレクサンドル・イヴァノヴィチと呼ばれることに何か意味があるんだろうか。前書きに、ルージンはイリュージョンと韻を踏む、とあったから、チェスに魅せられた彼の人生は全てチェス盤上の幻で、彼が死んだ瞬間に幻から人間性を取り戻したんだろうか。僕はゲームから降りる、と言って飛び降りたルージンの人生はチェスのゲームであったとは言えそうだけど、そこまでが難しくて頭に入ってきづらい文章だった。
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Posted by ブクログ
ネタバレ3年ほど前に『ロリータ』を40ページほど読んで挫折したのを除けば、人生初・ナボコフ。
ずっと前からナボコフの著作のなかで特に読みたいと思っていた本作がこのたび文庫化されたので即購入し、奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』でロシア文学の機運が高まっているのもあり、読み始めた。
〜2ヶ月後〜
ようやく読み終わった!!! 初めてナボコフの小説を読み切った感慨よりも、もうこの話に付き合わなくていいという開放感のほうがおおきい。
文章がうまいのは否定しようがない。単に修辞的で技巧的なだけでなく、「流麗」とでも言おうか、ページの端から端まで一息で読ませる力がある。
特に好きだったのは(幼少期を扱った序 -
Posted by ブクログ
カフカのところだけ。
「変身」について場面ごとにひとつひとつ解説していて、この評論を読めばあらすじどころかストーリーを完全に追えちゃうという細かさ。
最後にグレゴールが死に、家族が晴れ晴れしているシーンを取り上げて、「虫になったグレゴールの心は人間のままだったが、周りの人間の心は虫けら同然だった」と切り捨てる。...これは確かにプロットとしてはすっきりするが、本当にそうだろうかと少し疑問が残った。この対比は「断食芸人」のなかの芸人と豹の対比を思い起こさせる。つまり醜い死に損ないが死ぬことで、それに代わって若く美しい生命が躍動するというイメージだ。ここで豹であるところの若く美しい妹の心が虫けらだ -
Posted by ブクログ
「文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年がすぐ後ろを一匹の大きな灰色の狼に追われて、ネアンデルタールの谷間から飛び出してきた日に生まれたのではない。文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、その後ろには狼なんかいなかったという、その日に生まれたのである」
とりあえず上巻。「ロリータ」で有名になる前のナボコフ先生が大学で文学を教えていた時の講義録。上巻は、オースティン、ディケンズ、フロベール(下巻はスティーヴンソン、カフカ、プルースト、ジョイスとのこと)。
文学はフィクションであるというその一点を徹底的に突き詰めて、文体の奥の奥まで読み込んでいく。そこまで読み込むか、と -