黒岩重吾のレビュー一覧
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700年ごろ。藤原鎌足の次男である不比等の物語。不比等は天武朝と戦った大友皇子の父天智天皇の側近鎌足の子として生まれ,天武朝ではその才を認められつつも不遇の日を送っていた。陰では天智の子供ではともささやかれていたという。
しかし,鎌足譲りの策謀で次々と持統皇后,その子供の文武天皇に近づき,類まれな才覚により寵を得,政界に躍り出て,いつのまにか誰も立ち打ち出来ない寵臣になった。
自分の子供である宮子を文武の夫人とし,のちの聖武天皇が生まれ,聖武の妻には,これまた自分の子供である安宿姫(あすかひめ。のちの光明皇后)を送り込んだ。藤原氏による天皇家の略奪の感さえある。
不比等は蘇我氏のように豪腕で有 -
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670年ごろ。大海人皇子(天武天皇)が中大兄皇子(天智天皇)の子供の大友皇子を倒し,天皇になるまでの物語。いわゆる壬申の乱の話。
戦自体の記述は少なく,主に,大海人皇子が天智やその取り巻きに疎外され吉野宮滝に仏門に入るまでのやりとりが物語の半分を占める。
このため,上巻は読んでいても少しだらける。下巻になると,挙兵までの大海人と舎人達のやりとりがスピード感を増し,いっきに読める。
また,黒岩小説の割には,鵜野讃良(大海人の妻。後,持統天皇)など女人との関係の記述は少ない。
本小説は大海人側に立った見方だが,大友皇子の取り巻き連中である左大臣の蘇我赤兄,右大臣の中臣金らは,近江朝側が持ち応えられ -
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600年ごろ。蘇我馬子と物部守屋との戦いにより,物部氏が滅びるまでを描く。
守屋と妻の矢鳴姫の仲睦まじさが際立った作品。
終始守屋は馬子に押され気味であった。守屋は仏教の新鮮さや考えを理解し,自分でも寺を建立しつつも,馬子との駆け引き上,大王を守屋側に引入れるべく廃仏派(親神祇派)を唱えざるを得なくなっていく。
大王が亡くなった後の世の中の流れを的確に読めるような先見性を持った馬子だったが,それに加え,渡来系の東漢氏を味方につけ,大陸文化・物品を輸入し財を成し,それを利用し豪族たちを手なずけたということも大きいだろう。
大和政権が近畿に起こる前に既に大和を支配していたニニギノミコトからはじまる -
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大和の巻,西征の巻に続き,倭建が駿河を勢力下に置く廬原王(イオハラオウ)が居る倭の国の東方の平定に行く話。
九州の熊襲征伐では武勇一辺倒だった倭建だが,東征へは始めは乗り気でなく,戦を行うことに嫌気を持っていた。
しかしながら,倭建の父であるオシロワケ王は建を嫌い,東征に向かわせ,出来ることなら殺されてしまえばいいとさえ思っていた。
これは,オシロワケ王のほか,物部十千根などの陰謀でもあった。
だが,倭建の戦の強さもさることながら,西征,東征での度の間に人望にも磨きがかかり,東征では戦というより,王者としての風格・徳により東方の部族を従えていった感じである。
最後にイオハラ王も倭建に従うのだが -
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白鳥の王子(大和の巻)の続編。
倭男具那が父のオシロワケ王(景行天皇)に九州の熊襲討伐を命じられ,熊襲の首長である川上建(カワカミノタケル)を討つまでのストーリー。
九州は卑弥呼が支配していた頃は邪馬台国が熊襲(九州南部の国)の北上を抑えていたが,邪馬台国が大和に移って以来,熊襲は九州北部に勢力を伸ばしていた。
三輪王朝の王であるオシロワケ王は,九州北部の熊襲に対抗する国からの応援を求められた。断れば倭の国を代表する権威もなくなるため,西討には男具那を送った。
男具那には,男具那の妻の弟橘姫の兄である穂積内彦,葛城宮戸彦,吉備武彦,久米七掬脛(ナナツカハギ),日向襲津彦,それと,オシロワケ王と -
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日本の古代史を題材にした小説を初めて読んだ。学校で習った知識と言えば,蘇我虫殺す大化の改新ぐらいしか覚えておらず,中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を殺したとしか覚えていない。
そこでこの小説を読んで見た。入鹿は独裁者的では在るが,行動力もあり,読んでいて人を惹きつける魅力があった。たしかに横暴なところがあることは否めないが,嫌いではない。権謀術数に優れている訳ではないので,そこまでドロドロしたものを感じなかったせいでもあるだろう。
最後には中大兄皇子等にやられてしまい,何だか寂しくなってしまった。というのも,蘇我入鹿一人に対し,皇子以下多数が寄ってたかって殺してしまうのだから,入鹿がとてもかわいそう