竹内正浩のレビュー一覧
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時々、仕事上がりに皇居ランに行くのだが、一周5キロのコース左側は常に鬱蒼とした闇である。ところどころアップダウンがあるのたが、地形のことを考える余裕はなく、一緒に走るランナー達の背中に集中している。
ある日、休日の昼間に同じコースを走ってみたら、都内とは思えない景色とダイナミックな地形に驚かされた。木々の合間に見えてくる堀、高石垣、櫓、皇居の一部と思われる重厚な日本風家屋の屋根など。
ランニングしながら感じていた「あの高低差はどこだろう?」「あのイカツイ屋根は何だろう?」といった謎を1つずつ解くように読ませて頂いた。江戸城の中で最も高い場所は天守台てはなく別の場所だったり、吹上御所の中に昔はゴルフ城があったり、沢山新発見があった。
乾通り公開や、新年参賀など、皇居の中に入れる機会もあるることを初めて知った。是非参加してみたい。それまでに何度も走って、皇居を360度の角度から観察してみたい。密かにランニングのモチベーションも上がった。 -
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この連休を使って山手線の池袋から大崎まで運行停止。
どうしてかというと、重機が入る隙間のない渋谷駅の線路を人海戦術で移動している。
山手線の路線図を見ると特徴がある。それは、大崎から品川を見るとかなり曲がっている。どうしてそうなったのか。
品川~池袋は、1885(明治18)年に開通したが、この路線は日本初に私設鉄道の日本鉄道によるものだった。
日本初の新橋~品川間は、1872(明治5)年に開通したが、官設鉄道。
当時の列車の速度は時速30キロ程度と言われていて、この区間の曲線が問題視された形跡がないそうだ。
官設鉄道は予算を確保するのに苦しんでいて、新橋~横浜間の路線を払い下げようとしていたくらいだ。
どうしてそうなったのか不思議だったのは、西武鉄道にもある。西武池袋線と西武新宿線は所沢駅で交差する。
その理由はもともと池袋線も新宿線も違う会社のものだった。
しかも、犬猿の仲だった。その跡が鉄道会社が発行する路線図にある。両社とも相手の路線を全く掲載しないという徹底ぶり。
ここまで来ると相当なものだ。
西武になったのは堤康次郎の力が大きかった。
深さで印象的なのは、JR京葉線の東京駅だ。山手線などの他の路線から離れたところにポツンと一軒家いや、一路線。
どうしてそうなったのかというと、もともと成田空港へ走る成田新幹線を計画していたが、1983年5月に用地買収のめどが立たないので、成田新幹線の工事が凍結した。
同年7月に京葉線の東京~新木場間の工事が認可された。
ここから今の京葉線へとつながっていく。
この京葉線は新宿まで延伸する計画もあったそうだ。
どうしてここはこのような所に駅があるのか、どうしてこのような形になったのか、知られざる歴史があった。 -
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電車に乗っていると不思議なことがある。
例えば、東武浅草駅から出発するあるいは到着する電車に乗ると、急カーブに出くわす。
あのような窮屈な形になったのは地形が関係しているとブラタモリだったどこかの番組で言っていたと思う。
東海道と言えば、日本の大動脈で1872年に日本初の路線として開通した新橋〜横浜間は、東海道本線の一部としてあるものだと思っていた。
しかし、明治時代前半の頃は事情が違っていた。東海道よりも中山道を東京〜西京(京都)を結ぶ「両京幹線」として構想していたルートだったというからビックリ。
東海道をルートにすると、鉄道が外敵の侵略する際に利用される可能性のある、築地居留地付近に停車場を設けると、外国人がやってきて日本人との間で、不測の事態が起きる可能性があり、そこから外国軍隊の介入への口実を与える懸念があったからだ。
さらに東海道だと、険しい箱根や富士川、大井川などの大河があり、工事に手間取るといった理由で中山道ルートが進められた。
しかし、現実はそう甘くなかった。中山道ルートが思ったよりも険しかった。群馬と長野県境にある横川〜軽井沢間にある碓氷峠(うすいとうげ)は、標高差552メートルにもなる。この他にも馬籠峠(まごめとうげ)など難所が待ち構えていた。
その後もいろいろあったが、1889年7月1日から新橋から神戸まで1日1往復の直通列車が運転された。この当時の所要時間は20時間あまり。
路線を整備しようとしたらお金がかかるし、地形や政治も関わってくる。