香西秀信のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
[ 内容 ]
論理ではなく、詭弁を身につけてみないか?詭弁と聞くと、子供だましの芸当と聞こえるが、口先だけ達者になることではない。
詭弁には、思考そのものを鍛える力がある。
人が詭弁を使う時、その人特有の癖があらわれる。
その癖を見抜くことで、思考のパターンが理解でき、おのずと論議も強くなる。
論理的思考に満足しない人のための一冊。
[ 目次 ]
序章 馬鹿だから詭弁に騙されるのではない
第1章 詭弁なしではいられない
第2章 曖昧さには罠がいっぱい―多義あるいは曖昧の詭弁
第3章 弱い敵を作り出す―藁人形攻撃
第4章 論より人が気に喰わない―人に訴える議論
第5章 一を教えて十を誤らせる― -
Posted by ブクログ
相手の言ったことに対して、「どこか違う。」と違和感を抱きながらも、うまく返す言葉が思いつかずに苦い思いをする。自分の伝えたいことをうまく言語化できないモヤモヤが晴れない方は、議論の型を身に付けることが打開策につながると聞き、本書を手に取った。
人を納得させる議論というものには5つの型があるという。本書はその型を様々な書籍や論文から引用しノウハウを伝えてくれる。ただ、ふりがながなければ読み進めることが難しい箇所がいくつか登場することと、引用される文章がやや難解である部分があり、一度で全てを理解することは難しいと思われる。
しかし、論を組み立てるトレーニング量を積むうえでは好適といえると感じ -
Posted by ブクログ
淳良さを欠いた著者が、無菌室で純粋培養された非形式論理学の弱点を徹底攻撃する。
論理学の素養がある人は、例示された詭弁が著者によって市民権を与えられるのをどう捉えるのだろうか。それでもより広い視点ではその論法がやはり詭弁であるとして打ち棄てるのか。そのあたりの感覚があればもっと面白く読めそう。
面白かった点を何点か。
事実と主張の区別は難しい。いかなる客観的な陳述も、それが陳述の対象として選択されている時点で、価値判断であることから逃れることはできない。あるものが「ない」という陳述は果たして常に事実でありうるか。
人に訴える議論が犯す、論点のすり替えという虚偽は日常によく見られる。論理 -
Posted by ブクログ
・「議論においては、責めるよりも守る方がはるかに難しい」(p.174)
・「議論においては、何かを主張した側に、それを論証する責任がまず課せられる(=立証責任)」(p.174)
∴「議論において絶対にやってはならないミスは、相手方に立証責任があるときに、勘違いしてこちらがそれを引き受けてしまうことだ……それは議論の最も強力な武器を放棄し、無防備なまま相手方の攻撃さらされることを意味する」(p.174-5)
この「立証責任」というのが、本書全体を通底するテーマである。
ある議論を支配するためには、立証責任を負う相手方の説明に対し、こちらが好きなだけ反論するという方法を取ることが最も有効である -
Posted by ブクログ
今論理学を勉強している。だからこそそれに反するような本を読んでみようと(とはい 言ってもたまたまネットで見つけただけなのだが)読んでみたのが本書。
◼️議論に世の中を変える力などありはしない。もし本当に何かを変えたいのなら、議論などせずに、裏の根回しで数工作でもした方がよほど確実であろう。実際に、本物のリアリストは、皆そうしている。世の中は、結局は数の多い方が勝つのである。 論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である。
なるほど、ここまで言い切られると爽快だし、事実、その通りだと思う。論理はあくまで純粋に言葉の意味するところだけを問題にする。だが人間社会において、