阿久悠のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
「スタ誕」誕生のいきさつからスタートしてそれぞれの歌手にまつわる思い出話を展開していく。
10年間審査員として素人からアイドルになるその瞬間を見届けてきた内部中の内部の人なので、エピソード自体はどれも面白い上に、さらにそれを阿久悠の感性と言葉選びで綴られているのでいちいちビンタされたように痺れる。
「百恵はそれと悟られぬように変装し、ピンクレディーは変装を宣言して変装した。」(百恵には一曲も提供してないけどね。三人娘の初恋時代だけ。)
「(ピンクレディーのデビューを)手を振る人のない八月の船出。」
「リンダ、フィンガーに次ぐ第三の絵空事路線」
「全く産んだ覚えのない子が里帰りしてくる」
別の本を読んでいて阿久悠の「故郷」へのこだわりが希薄なこと、仕事仲間への敬意はあっても馴れ合いや思い込みがないこと、自身の願望である強い女性と女性の地位向上を徹底して書き出していること、冷静な目で書く歌詞に人は酔うのだなと思ってたけどここでも振付師土井氏との交流を「通勤電車ではそうはならないけど長距離なら。番組が長く続いたから。」とあっさりと書いてる。運命の仕事仲間、ではなく、たまたま長く乗り合わせた乗客になぞらえるドライさが彼が書く歌詞の輪郭のクリアさの秘訣なのかなとか思ったり。
都倉俊一、小林亜星とのエピソードもイキイキしててイイ。現体制をパロってたら桑田にやられて自分が現体制だと気付かされたってのもイイ。
スタ誕の話がひと段落して、ビートルズについて語る章は彼らがたった5日の滞在で日本の音楽の、文化の、何をどう壊して去っていったを分かりやすく書いてくれている。「新しくはあるが奇異ではなく美しかった」「若者を昂らせ大人を落ち着かせる」なるほど。
それにしても。黒木真由美と清水由紀子がプロ達垂涎の有望株だったと聞いたことはあったけどそれ程とは。(札が沢山上がったけどでも。。ってのは渋谷哲平とかもそうでしたよね)実力があっても売れない世界なのか、それともプロの審美眼打率はそれほど高くないのか、本人の魅力の波が活動時期とズレたのか、単に時代が変わったのか。
彼が書くようにただ時期の問題なのか。
理由なんて後から他人がいくらでもつけてくれるものですね。何事も。
最後に。
変わり者ばかりの芸能界。昭和の時代に平安貴族のような「方違え」を実行する中村泰二がキモくていい。(明菜ちゃんに99点くれたから許す) -
Posted by ブクログ
「やるな!小僧」
2007年のNHK「通(つう)」というバラエティー番組の中で、作詞家阿久悠が俳優半田健人に対して放った言葉である。ヘッドフォン越しに歌謡曲を聴く半田にダメ出していた阿久氏は、半田の玄人もどきの歌謡曲の捉え方に接すると、前言を撤回し、「同志」的目線で番組を進行していく。
「ザ・ベストテン」を始めとした歌番組を見て育った私は、「レコード大賞」「スタ誕」でお馴染みの阿久氏をこの番組で久しぶりに拝見したが、懐かしさと同時に、かなり老いたという印象を抱いた。(実際にこの放送直後に阿久氏は亡くなっている。)
その阿久氏が、亡くなる8年前に自身の曲を含む100曲の昭和歌謡の解説を1曲につき2、3頁にまとめたのがこの本である。肝心の中身は、歌謡曲の解説を絡めた阿久氏の昭和自叙伝であり、中でも、岩崎宏美の「思秋期」、ピンク・レディーの「サウスポー」、ダウンタウンブギウギバンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」のエピソードは、もっと頁数を割いてほしいほどの濃い内容となっている。
最近、筒美京平氏の死去の報に接し、「昭和」という時代がさらに過去となったと感じる一方で、一部の若い人たちの間で、昭和歌謡というジャンルが見直されているらしい。その背景は分からないが、私みたいな昭和歌謡のファンが世代を越えて増えているのは嬉しいかぎりだ。
阿久氏は、冒頭の番組の中で「歌謡曲」と「Jポップ」は、「映画」と「ブログ」ほど違うと語った。その「違い」を理解する若い「同志」たちが増えていることに、阿久氏は天国でほくそ笑んでいるに違いない。 -
購入済み
悪酔い
「阿久悠は才能・・」
この「悪魔のようなあいつ」の
第一話を読んだ時から、
本当にそう思いました。
物語の作り、
表現力、
人物設定、
どれをとっても
魅力的で、
僕は、
こんな話を書ける
阿久悠と村上一夫が
羨ましい・・
あまりに熱中して読んでしまい、
この作品の持つ世界観に
悪酔いして、
胸やけすら感じている僕です。
とにかく、
一度は読むべき本・・!
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日記というごく私的な記録について、私的でありながら他人と似た形式になりがちなのは何故か。オリジナルであることにこだわる。
そんな視点で語られており、とても参考になった。
日記力とは観察眼を磨くことであり、情報をキャッチして逃さない工夫である。
自分が目指したい日記の形がこの本の中にヒントとしてたくさん書かれていた。
阿久悠氏の書く詞のオリジナル性は彼のそんな考え、ポリシーの元に生まれていたのだ。
やはりオリジナルにこだわることはとても意味があることで、またそれこそが他人とは違う自分、個性なのだと思う。
日記力を磨くのは自分。毎日何となく過ぎていく時間の中にエッセンスがある。
見逃さないこと。忘れてしまっても自分の感性に刻まれていれば、他の瞬間にそれが飛び出してくる。
自分を見つめつづけることが日記であり、オリジナルを確立していくということなのだろう。
数々あるhow to本のような指南書ではなく、阿久さんの語りの中から自分の書きたい日記の姿について考えさせてくれる内容だったところが、とても読み応えがあり満足できた。 -
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主に、歌謡曲についての記述であるため、必ずしも、現在のJ-POPと呼ばれる音楽すべてに通じるものではないだろうが、阿久悠の「作詞」に対しての考え方や感覚が上手く表現されている。
ここでいう「作詞」とは、「ヒット曲をつくる」ということが大前提となる「作詞」である。だが、「作詞」といっても、その前段階(一部)となる企画や構成いう部分が内容のほとんどを占める。
その部分が、「作詞」において最も重要だということだろう。
また、本書の中では、作詞家の役割や作詞の基礎知識・テクニックに加え、実際のヒット曲の製作過程ということまで含まれている。
ヒットメーカーの考え方や感覚に触れることが出来る本ということだけでなく、幅広い意味での「作詞本」として価値があるだろう。 -
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有名な作詞家・小説家である阿久悠さんの、20年以上続ける日記の流儀や思いが語られている。
日記は自分の内省や日々の行動記録というイメージがあったが、その日一日の興味のアンテナに引っかかった世界情勢・スポーツニュース・自分の考えなどを同格に書き記していくという点が新鮮だった。確かにその方がその一日の世界と自分をより臨場的に記録できる。また、そうすることで、時代を感じられるということと、その中で何かになろうとする感性を持とうとすることができるということが書かれている。
時代を感知する個人の感覚と、時代にファッションとして飛びつくのではなく時代の中で何かになろうとすることを大事にしたいと思った。 -
Posted by ブクログ
秋元康に抜かれるまで日本で一番作詞をしてきた男、阿久悠。なにしろレコード大賞を5度も穫ったことがある、まさに昭和歌謡の巨人です。この本棚にも中川右介「阿久悠と松本隆」が置かれています。彼には「作詞家憲法」という原理原則があった、という話を、先日たまたま聞きました。例えば、『「女」として描かれている流行歌を「女性」に書きかえられないか。』とか。憲法というより歌謡曲というクリエーションへの彼の視点みたいなものか。なんか非常に興味そそられました。そのまなざしがこころざしになり時代の空気を作っていったのが昭和のあの頃なのだと思ったのです。で、そういう時にたまたま神保町付近で空き時間があり、前々から気になっていた明治大学阿久悠記念館、思い切って入ってみようと思い、その「作詞家憲法」15条も発見しました。また本書も展示してあり、速攻で手にした訳です。昨今、制度疲労な事件が頻発する芸能界とテレビ局が、一緒に夢を見ていた時代の備忘録として満喫しました。「夢を食った男たち」は「夢をつくった男たち」でした。
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Posted by ブクログ
阿久悠氏の日記に対する考え方、また、23年間、一日も欠かさずつけ続けたオリジナリティあふれる日記についての記述も。ハウツーやマニュアルではありません。
なぜ日記をつけることが大事なのか、続けるとどのように変われるのかなどが書かれている。
阿久さんは、日記につけたい出来事をあらかじめメモしておき、夜になるとメモを集めて、一日1ページの限られたレイアウトに何を書いて何を捨てるか、情報の取捨選択、一人編集会議を始めるのだそう。
阿久さん専用の新聞というか、キュレーションメディアみたいだなあと思った。
こういうことの積み重ねが、昨日と違う今日の確認ができたり、日々の創作活動の原点になっているのだろう。
私は日記といえば自分や身の回りの人の行動や自分が思ったこと感じたことを記録するものとばかり思っていた(発想が夏休み中の小学生と同じ…w)ので、政治、経済、訃報、スポーツの試合の結果など世の中の出来事を記録する日記でもいいんだ!と目から鱗。
日記を続けると、日々の生活で感性を磨かれ、言葉に敏感になり、みずみずしい手紙が書けるようになったり、会話が磨かれてくるようになったりすると書かれており、手紙を書くのが好きな自分には魅力的な利点が多い。
でも私は三日坊主で到底真似できそうにないので、Twitterや自分が書いた手紙の画像(スキャンデータで保存している)をたまに見返して、あの日、あんなことをツイートしたとか、手紙にあんな話題を書いたとかいうことを日記代わりにしたいと思う。もし本当の日記を始めるなら、手帳の空きスペースにちょっと書くことからなのだろうなあ…、一日1ページはハードル高い! -
Posted by ブクログ
ネタバレA面には、売らなければならないという絶対責任がある。それ故に、さまざまな制約を強く受けている。それにくらべ、B面は、今のところ、全く自由の身なのである。
なぜ、これを、音楽の解放区として活用しないのだろうか。A面を書いた作家が、ぜひ音楽的実験を試みたいというなら、そうさせないのか。タレントが、今はまだその時機ではないが、近い将来必ずこういう傾向のものに取り組まねばならないというようなもののテストの場に、どうして与えないのか。
また、いきなりコマーシャルなA面に起用するのは危険だが、その音楽センスを試してみたいという新人作曲家の力試しの場に、どうして解放しないのか。
考えれば、活用方法はいくらでもあるのである。
恋は栄養ではなくヒ素のようなものというのが、日本人の恋感覚なのである。だから、どうしても真正面から恋に取り組んだ歌というのは陰湿におちいりやすい。愁嘆場、修羅場である。だから、この場合、どうしても、恋とガブリ四つの歌はやめたかったのである。
たいへん残念なことである。日本という国民性が、もし、ブリジット・バルドーのような女性の行き方を認めるものならば、こんな悩みはしなかったであろう。
ぼく自身は、いろんな恋を経験して、そのたびに人間的にも大きく、そして、きれいになっていく女の子が大好きである。「あいつは遊んでしょうがないよ」などと、たとえ、悪くいわれても、事実、きれいになり、豊かになっていれば、それで素晴らしいことなのである。ただ、日本には、まだそういう女性はいない。そして、まだ、日本人は、そういう女性をほんとうには認めない。
歌謡曲の詩には、常に新しいということが要求される。新しいということは、今までになかったということである。今までにあったかなかったかを知るためには、現在使われているさまざまな形、約束事を知っておかなければならない。そして、今までになかったということの意味を知らなければ、決して新しいものは生み出せない。
今までになかったということは、未発見ということの他に、あってはいけないという理由も含まれているのだ。
アマチュアが新しいと称するものは、たいてい後者であることを考えておいたほうがよい。
常識はつまらない。しかし、非常識はなおつまらない。超常識であるために、基本編をおさらいしてみたいと思う。
形式というものは、それにしばられている間は実に腹立たしいが、自由につかいこなせるようになると、こんな強力な武器はないということを知っておいたほうがいいと思う。
物事を見る時、物事を考える時、必ず裏からも見てみる習慣を身につけよう。
歌謡曲とは完全にリアクションの芸術だといえるかもしれません。送り手がいかに意欲的であり情熱的であっても、リアクションがないかぎり何の価値もない。毎日、ひとつでもふたつでも、はねかえってくることを祈りながらボールを投げ続ける。そのうちいくつかはねかえってきて、はじめて作詞家として充実感を感じる。そういう構造だと思います。では、ボールをぶつける時、はねかえしてくる壁とはなにか。それは時代の飢餓感だと思うんです。
いまなにが欠けているんだろうか。いまなにが欲しいんだろうというその飢餓の部分にボールが命中したとき、歌が時代を捉えたといっていいでしょう。「言われてみてはじめてわかりました」とか、「わたしも実はそうだったのよ」という、死角に入っていた心のうめき、寒さ、これがつまり時代の飢餓感です。しかもいま、飢えているもの、欲しいものがよく見えない。かつては見えたんですよ。飢えとは文字通り飢え、不足は文字通り不足だったのだが、腹が満たされ、生活が整い、時間にも余裕が生まれてきて、豊かだなどといわれると、もう見えない。しかし、何かしら飢餓は存在している。この見えない飢餓にボールをぶっつけて、ああ、それそれといわせるのが歌なんですよ。
いま僕はこんな風に言っているんですが、歌とはつまり、「時代の中で変装している心を探す作業」であるとね。愛も、幸福も、悲しみも、淋しさも、怒りも、痛みも、何かの事情で隠れてしまっているのが現代なんじゃないか。少し化粧を落としてみたり、少し脱いでみたりしたら、そうすれば少し楽しく、少しのびのび心を開けるんじゃないか、歌はそれをやれるはずだし、やるべきだと思うわけです。変装してるんですよ、みんな。