服部龍二のレビュー一覧
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これまで安倍晋三もの、は何冊も読んできたが、
この新書は客観的に安倍政治を評価しているように読めた。
功は功として、罪は罪として、しっかり描いている。
世界中を飛び回り、QUADの枠組みを作った、などが功。
ロシアにも何十回も行き、北方領土の交渉を4島から
2島+αまで現実的な線で妥協案を出したが、
結果プーチンの増長を許したり、
習近平に国賓として来てもらおうとして、
コロナ時の渡航制限まで遅らせたが結局実現せず、
中国にもスキを与えたりが罪。
得意の外交においても上記のように功罪あり。
アベノミクスは若者の就職口を増やしたというカンフル剤の役目を果たしたが、
昨今の円安を招く遠因でもある。これも功罪。
悲願の憲法改正はできず、ただ、集団的自衛権は通した。
そして何よりモリカケサクラ。
お友達優遇。なんでこんなつまんないことしたのかねえ。
そしてヤジ。下品。
さらには「こんな人たちに負けるわけにはいかない」分断。
安倍派の裏金問題、統一教会、、、
若手のころ、官房副長官のころは、メルマガを出し、
新しいことに挑戦する、旧来のものを壊して作り直す若手政治家として
期待してたんだけどな。
長期政権は何にしても澱むってことかな。
安倍政権以来自民党はすっかり様子を変えてしまった。
石破で戻るかに見えたが、高市がまた思い切り振って、、、
安倍さんの功罪、罪のほうが大きいよ。
しかし、次男で晋三とは。ゴロでそうしたとは。
序 章 ブルーブラッドの「使命」
第1章 傍流から主流へ――安倍と森喜朗・小泉純一郎
第2章 戦後レジームからの脱却――第1次内閣の挫折
第3章 アベノミクスから積極的平和主義へ――第2次内閣 2012~
第4章 外交の充実、国内の分断――第3次内閣 2014~
第5章 瓦解する「一強」――第4次内閣 2017~
終 章 突然の死と安倍の遺産
あとがき
安倍晋三 略年譜 -
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中公新書から2026年に出版。安倍晋三の評伝である。200頁程の本文のみで描くには、安倍晋三の生涯はあまりに濃密である。本書で指摘の通り、FOIP構想と平和安全法制は安倍政権の最大のレガシーであることは衆目の一致するところだろう。一方で、各国との個別の交渉の場面では、不用意な譲歩や判断の揺らぎがあったことも本書は指摘している。「外交の安倍」の内実の端的な評価だろう。
あとがきでも述べているとおり、これから安倍晋三の評価は上がり続けるだろう。吉田茂がそうであったように、時の経過とともに、外交面の成果は高く評価され、「もり・かけ・さくら」問題や清和会の政治資金虚偽記載問題といった、政治不信を招いた諸問題は矮小化されていくことが予想される。2022年に安倍晋三が亡くなり、安倍晋三の負の記憶が人々の間にまだ残っている2026年に出版された本書は、同時代的評伝ともいえる。 -
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最近、田中角栄のことが気になってBOOKOFFオンラインで関連書籍をまとめ買い。その中の1冊。
日中国交正常化の年は1972年。奇しくも私が生まれた年だ。高校生の時に世界史で習った時にはなんとも思わなかったが、今は「そうなんだな」と思う。自分がこういう本にも興味を持つようになったことが感慨深い。
中国と国交を持つということは台湾(中華民国)と断行することを意味する。戦争の賠償を放棄した台湾の蒋介石への恩義への裏切りになる中、中国での田中角栄と周恩来の駆け引き。下手な小説を読むよりずっと面白い。エピソードから田中角栄の人物像も少し知れた。
高校3年生の時、どうしても世界史を学びたい先生がいて文転した。今学ばなければいつか後悔する、そう思った。紆余曲折あったが、今先生に習ったことが活きている。それで食っているわけでも、世の中に影響を与えているわけでもないけれどいいのだ。ただ世の中に対する理解が少し深まっただけで。 -
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豪放な田中角栄と緻密な大平正芳という全くタイプの異なる二人の政治家が主導して成し遂げた日中国交回復。しかしリーダーの田中は「外交のことは分らん、大平君、君にまかせる。しかし責任は全部俺がかぶる」と腹をくくる(p216)。そして政と官との関係では、上が下を信頼し、下も上を信頼して、一点の目的のために仕事をする(p217)という体制があった。ソ連の脅威という時代背景はあったにせよ、中国は対日賠償請求権を放棄し、田中は(「ご迷惑発言」による混乱はあったものの)率直に戦争責任を認め、大平も中国に対する深い贖罪意識を持っていた。また田中が尖閣に言及すると、周恩来は「今、これを話すのはよくない」とその場での議論を避けたという(p168)。日本の政治や政治主導のあり方、日中の関係において、現在では考えられないような状況が50年前にはあったということ。貴重な現代史だと思う。2011年刊行。
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広田弘毅を著した服部教授による中曽根康弘の評伝。読み応え十分。
毀誉褒貶ある政治家であるが(というか政治家なんて毀誉褒貶あるのが通常だが)、その哲学、知力、胆力、理念、実行力は、今の政治家からは感じられないものであり、その主義主張や行ったことへの賛否はおいて、類まれな政治家であったことを実感させられる。
アラブ訪問時(だったかな?)、会談相手が突如フランス語で行いたいと言ってきたが、フランス語通訳がいない状況で、フランス語だったら自分でできるといって会談してしまうって。宮澤喜一といい、中曽根といい、どれだけ語学に長けていて、どれだけ頭いいんだと、ただただ感嘆するほかない。
このような政治家がいない今を、残念と思うか、それとも、そのような政治家がいなくても何とかなっている状況自体を好ましいもの捉えるのが適切なのか… -
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近隣国との摩擦について、今に至った経緯を改めて顧みる為の一冊。ややもすれば即物的に判断しがちであるが、過去の(特に中国、台湾、韓国、及びアメリカとの間の)外交においての”agree to disagree”という知恵が、ここに至る日本の外交的地位を支えてきたことは厳然たる事実であり、それを否定するのであれば、それに置換しうる枠組みを実現できる政治・外交・軍事的な裏付けを以ってして否定すべきで、それ無しに感情的に反対するのは、徒らに国益を損ねることになることに、留意すべきだと、改めて感じた。昨今、外交について安易な言質が持て囃されるが、その代償を支払うのは、政治家でも外交官でも言論人でもなく、自衛官や海上保安官、警察官、そして一般の人々なのだ。
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亡くなった96年には色々な追悼企画が組まれたそうだが全く記憶に無い。
生きてはいないだろうなとは思っていたが、そんなに前とは思わなかった。
著作は「世界地図の中で考える」と「文明が衰亡するとき」で、読んだのは1982年頃、その頃はネットなんぞ無かったから、どんなキャラかもわからず。
もしかするとTVで見たかもしれない。
その頃世に出たのかと思っていたが、佐藤栄作の頃から政権ブレーンを務めていたとは今回初めて知った。
この本でも触れられている1988年の大みそかの朝生「僕らは関西だから、天皇さんになるんだね」は、今でもはっきり覚えている。
京都弁のゆったりした話し方で好きだった(その頃は西部ファンだったが)
「朝まで生テレビ」は西部邁、野坂昭如、黒川紀章、大島渚とか出ていたが、生きているのは田原だけか。
ソ連崩壊、東西ドイツ統合、湾岸戦争、中国の台頭をことごとく外したらしいが、それを潔く認めていたという。
まあそんなもん当たるわけ無いし、外れたことを恥じる必要もない。
そうか62歳で亡くなったのか。
20年以上経っても、かつての教え子(そんなに深い縁でもない)がこうした作品を作るのは、やっぱ人柄なんだろうな。 -
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高坂正堯が鬼籍に入ったのは1996年。
この年の私の読書録を読み返すと、「高坂正堯」以外にも「司馬遼太郎」「遠藤周作」の名があり、この3人が亡くなって、「これらの人の小説、評論がもう世に出てこないと思うと寂しい限り」との記載があった。本当にこの時は直接会ったこともない人の死が何故こんなに悲しいのかと思った記憶がある。
更にこの年には、渥美清、丸山眞男、星野道夫,岡本太郎が亡くなっている。
特に、丸山眞男の名前があったのは、高坂との因縁めいたものを感じた。
そして没後20余年たった今年(2018年)10月に本書が出版されたので、さっそく手にした。
戦後日本における進歩的知識人と言われた「岩波・朝日文化人」が闊歩していた1960年代に、28歳の若さでその時流に反旗をかざした「現実主義者の平和論」を発表し、衝撃的な論壇デビューを飾り(もっとも高坂はこの論文発表の後に「落下傘で降りたらまわりは敵ばかりだった」と述懐しているのは面白い)、その後豊富な歴史の知識を背景として、安全保障、国際政治経済、文明論など複数の領域を融合できる稀有な存在として、学術論文や多彩なメデア、また時の総理のブレーンとしても活躍した高坂正堯の伝記。
本書は幼年期から亡くなるまでの高坂の考え方の変遷、また高坂の生きていた時代背景や政治・論壇の様子、高坂に影響を与えた人達を、隈なく冷静にかつ平易に纏めており、非常に読みやすいものになっている。
本書を読んで、高坂は当初は保守と言われながらも「護憲派」であり、現行憲法の解釈の仕方で自衛隊を運用すべきと考えていたが、冷戦終了後の湾岸戦争を転機として「一国平和主義」では日本は衰亡しかねないとして、「改憲派」に変わったというのを始めて知った。
著者は、「高坂をよく知る大家や国際政治学史を専門とする研究者が多くいるにもかかわらず、本書を公刊するのは僭越ではないかとの思いが脱稿したいまも頭を離れない。それでも執筆をあきらめ切れなかったのは、高坂を直接知らない世代が学界の中枢を占めるようになった今日ですら、評伝が弟御の高坂節三『昭和の宿命を見つめた眼―父・高坂正顕と兄・高坂正堯』しかなく、このままでは国際政治学者たちの知的潮流や現実政治とのかかわりを把握することが次第に困難になると感じたからである」と述べている。
終章には高坂の若い時期の言葉だが「私は日本が好きだし、日本は悪くない国だと思っている。しかし自分は愛国者であると自認するとことには、なんとなくためらいを感ずる。また、私は自分のしていることが日本のためになって欲しいと思っている。しかし、自分は国家のために働いているのだといいたくはない。しかも、なお自ら愛国者と名乗りたくないが、何十年か後で、人びとが私のことを『彼は愛国者だった』といってくれたらうれしいと思うだろう」という引用がある。
これを読んでいると、高坂の早い死に対して思わず涙が溢れて来る。
名著である。 -
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著者も最後に書いているが、まだ存命の政治家について業績をまとめることはとても勇気のいることだったと思う。まずその労をねぎらいたい。そして、吉田茂が戦後を作った指導者ならば、中曽根康弘こそが戦後を終わらせ、冷戦を勝利に導いた指導者なのだろう。
総理になる前に、これほどまでに海外を歴訪した指導者は日本では唯一無二なのでは無かろうか。そうやって積み上げた者があったからこそ、外交を得意分野とした総理たり得たのだろう。
しかしながら、対米、対中、対韓の全方位の外交を上手くこなしてきた『自信』が、これまでの総理と同じく靖国神社に普通に参拝すれば済むところをわざわざ諮問機関を作って『公式参拝』し、しかもその後の中国の反発に応じて以後の参拝をやめるという『靖国神社の政治問題化』といった禍根を招いたのは間違いないところだと思う。
このような致命的な失敗があったものの、三公社の民営化をやり遂げたなど、中曽根氏の功績が偉大なのは言うまでもない。
とはいえ、無理矢理引退させられるまで議席に固執しないで息子の中曽根弘文に議席を譲って自らは参議院比例区に転出するべきだったんじゃねえのかなあ?福田は息子も総理になったぞw -
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中曽根康弘。5年の長きにわたり、内閣総理大臣を務めた昭和を代表する政治家。特に評価されるのが外交手腕。米国大統領レーガンとニックネームで呼び合うほどの親密な関係を築き、中国や韓国との首脳とも会談を重ねる。好調な国内経済も後押しして、中曽根率いるジャパンの存在感は世界の中心を占めていた。
内政面でも中曽根のライフワークともいえる原発推進やNTT、JRなどの分社民営化を果たす。退任も鮮やかだ。首相候補に竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一の3人を競わせ、自身が最終決定を下すという形で後世に影響力を残した。
こうした中曽根首相の評伝を読んでみると、申し分のない首相人生に見える。心残りとすれば、憲法改正と消費税導入ができなかったことくらいか。しかし、彼が首相にまでたどり着くには、苦難の連続だった。
自身が率いる派閥は常に少数派で、自民党の大勢力に飲み込まれそうになるたび、わずかなスキマを慎重に渡り歩く。その姿は風向きが変わるたびにクルクルと回る「風見鶏」と揶揄される。特に年齢も初当選も同じ、田中角栄との関係には細心の注意を払う。大卒で国家官僚OBのオレが、なんで同期で中卒の田中に気を使わにゃならんのだという感情を抑え、田中の首相就任を全力でバックアップ。その恩恵で自らも首相に就任するが、閣僚には田中派をズラリと並べ、「田中曽根政権」と、これまた揶揄される。
こうした批判を受けつつも、中曽根首相は過去の苦労を糧に、時代の流れを読む能力に磨きをかけ、国内外に多くのコネを作り上げた結果、長期政権を維持できたのだろう。結果的に歴史ではなく政治史の中で中曽根が田中角栄よりも名を残したことは、ハッピーエンドとしてよくできている。 -
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日本外交史、東アジア国際政治史の専門家が、日韓・日中間の歴史問題について、日本外交の視点からこれまでの政策過程を分析・提示している。
著者は、冒頭で「筆者が判断を下すというよりも、読者のために材料を整理して提供したい」と述べ、戦後の過程を以下のように説明している。
◆第二次大戦後、20余年をかけて、1965年の日韓国交正常化、1972年の日中国交正常化が成立し、1970年代は友好ムードが基調となっていた。
◆歴史問題が顕在化したのは、1982年に文部省が歴史教科書について「侵略」を「進出」に書き換えるよう求めたと報道されたことが発端で、これは誤報であったが、鈴木内閣の宮沢官房長官が、学校教育や教科書検定に際して、アジア近隣諸国に配慮するとの談話を発表した。それでも、中国の胡耀邦総書記と中曽根首相の信頼関係は強く、1984年国慶節は戦後日中関係最高のときと言われた。
◆1985年の中曽根首相の靖国神社公式参拝は、1978年のA級戦犯合祀後の大平、鈴木両首相の参拝にも抗議をしなかった中国、韓国から激しい反発に会い、1987年には胡耀邦総書記も失脚した。
◆1993年に宮沢内閣の河野官房長官が、従軍慰安婦の広義の強制性を認定した河野談話を発表。1995年には社会党の村山首相が、「植民地支配と侵略」に対する「痛切な反省」と「心からのお詫び」が含まれた村山談話を発表し、1990年代は歴史問題はほとんど表面化しなかった。また、村山談話は、「反省とお詫び」を表明しながらも、個人補償は行わないことを確認する、一時しのぎではない、長期的な視野に立ったものであった。
◆今世紀に入り、2001年と2005年に『新しい歴史教科書』が検定に合格し、小泉首相が2001年から2006年まで靖国神社に参拝したことによって、歴史問題が再浮上した。その後、安倍(第一次)、福田、麻生各内閣、民主党政権でも大きな改善は見られないまま、現在の安倍第二次内閣、習近平体制、朴槿恵政権となったが、現在も好転の兆しは見られない。
◆歴史問題が以前に増して混迷を深めている背景は、人権を前面に押し出す法体系が広まったこと、旧イデオロギーの崩壊過程でアイデンティティ希求が高まったこと、記憶を生のまま伝承するオーラルが大衆文化で主流となったこと、インターネットの発達で個人の権利が増大したことなどであるが、現在では特に領土問題と関連付けられることが大きな要因となっている。
そして、著者は「歴史問題は、「保守」対「反日」という二分法で解されるようである。・・・二分法は便利だが、不毛でもある。国を憂えることは、自国の歩みを問い直すことと矛盾するものではない。過去を顧みることは、関係国の一方的な主張に同化することとは異なる。・・・国の将来を真剣に考えればこそ、過去に学びながら未来を見据えるのは自然なことであろう」と結んでいる。
日韓、日中間で歴史問題がこれまでどのように扱われてきたか、戦後70年を経てなぜ今改めてクローズアップされているのかを理解、整理することができる。
(2015年2月了) -
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ネタバレ日中の国交正常化について田中角栄首相、大平正芳外相(いずれも当時)ら政治家と官僚のドキュメンタリー。
国交回復の前提と台湾との断交、国内の反対、そして1978年の日中共同声明にいたるまでの過程を資料と当事者(主に官僚)のインタビューから再現している。途中問題が起こり、日中、日華が一触即発になっても田中と大平は官僚をうまく使いこなし、官僚も実務と工作に明け暮れたことが肉声でよくわかった。一方で中国側の声も書かれているので、日中双方の認識がわかる。
他の方のレビューの通り、日中の国交回復に反対した台湾を除き、アメリカやソ連など近隣諸国の見解を知りたかった。現在も日中の問題は山積しているが、真の「政治主導」とはこういうことかと感じた。