服部龍二のレビュー一覧
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最近、田中角栄のことが気になってBOOKOFFオンラインで関連書籍をまとめ買い。その中の1冊。
日中国交正常化の年は1972年。奇しくも私が生まれた年だ。高校生の時に世界史で習った時にはなんとも思わなかったが、今は「そうなんだな」と思う。自分がこういう本にも興味を持つようになったことが感慨深い。
中国と国交を持つということは台湾(中華民国)と断行することを意味する。戦争の賠償を放棄した台湾の蒋介石への恩義への裏切りになる中、中国での田中角栄と周恩来の駆け引き。下手な小説を読むよりずっと面白い。エピソードから田中角栄の人物像も少し知れた。
高校3年生の時、どうしても世界史を学びたい先生がい -
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豪放な田中角栄と緻密な大平正芳という全くタイプの異なる二人の政治家が主導して成し遂げた日中国交回復。しかしリーダーの田中は「外交のことは分らん、大平君、君にまかせる。しかし責任は全部俺がかぶる」と腹をくくる(p216)。そして政と官との関係では、上が下を信頼し、下も上を信頼して、一点の目的のために仕事をする(p217)という体制があった。ソ連の脅威という時代背景はあったにせよ、中国は対日賠償請求権を放棄し、田中は(「ご迷惑発言」による混乱はあったものの)率直に戦争責任を認め、大平も中国に対する深い贖罪意識を持っていた。また田中が尖閣に言及すると、周恩来は「今、これを話すのはよくない」とその場で
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広田弘毅を著した服部教授による中曽根康弘の評伝。読み応え十分。
毀誉褒貶ある政治家であるが(というか政治家なんて毀誉褒貶あるのが通常だが)、その哲学、知力、胆力、理念、実行力は、今の政治家からは感じられないものであり、その主義主張や行ったことへの賛否はおいて、類まれな政治家であったことを実感させられる。
アラブ訪問時(だったかな?)、会談相手が突如フランス語で行いたいと言ってきたが、フランス語通訳がいない状況で、フランス語だったら自分でできるといって会談してしまうって。宮澤喜一といい、中曽根といい、どれだけ語学に長けていて、どれだけ頭いいんだと、ただただ感嘆するほかない。
このような政治 -
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近隣国との摩擦について、今に至った経緯を改めて顧みる為の一冊。ややもすれば即物的に判断しがちであるが、過去の(特に中国、台湾、韓国、及びアメリカとの間の)外交においての”agree to disagree”という知恵が、ここに至る日本の外交的地位を支えてきたことは厳然たる事実であり、それを否定するのであれば、それに置換しうる枠組みを実現できる政治・外交・軍事的な裏付けを以ってして否定すべきで、それ無しに感情的に反対するのは、徒らに国益を損ねることになることに、留意すべきだと、改めて感じた。昨今、外交について安易な言質が持て囃されるが、その代償を支払うのは、政治家でも外交官でも言論人でもなく、自
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亡くなった96年には色々な追悼企画が組まれたそうだが全く記憶に無い。
生きてはいないだろうなとは思っていたが、そんなに前とは思わなかった。
著作は「世界地図の中で考える」と「文明が衰亡するとき」で、読んだのは1982年頃、その頃はネットなんぞ無かったから、どんなキャラかもわからず。
もしかするとTVで見たかもしれない。
その頃世に出たのかと思っていたが、佐藤栄作の頃から政権ブレーンを務めていたとは今回初めて知った。
この本でも触れられている1988年の大みそかの朝生「僕らは関西だから、天皇さんになるんだね」は、今でもはっきり覚えている。
京都弁のゆったりした話し方で好きだった(その頃は西部ファ -
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高坂正堯が鬼籍に入ったのは1996年。
この年の私の読書録を読み返すと、「高坂正堯」以外にも「司馬遼太郎」「遠藤周作」の名があり、この3人が亡くなって、「これらの人の小説、評論がもう世に出てこないと思うと寂しい限り」との記載があった。本当にこの時は直接会ったこともない人の死が何故こんなに悲しいのかと思った記憶がある。
更にこの年には、渥美清、丸山眞男、星野道夫,岡本太郎が亡くなっている。
特に、丸山眞男の名前があったのは、高坂との因縁めいたものを感じた。
そして没後20余年たった今年(2018年)10月に本書が出版されたので、さっそく手にした。
戦後日本における進歩的知識人と言われた「岩波・ -
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著者も最後に書いているが、まだ存命の政治家について業績をまとめることはとても勇気のいることだったと思う。まずその労をねぎらいたい。そして、吉田茂が戦後を作った指導者ならば、中曽根康弘こそが戦後を終わらせ、冷戦を勝利に導いた指導者なのだろう。
総理になる前に、これほどまでに海外を歴訪した指導者は日本では唯一無二なのでは無かろうか。そうやって積み上げた者があったからこそ、外交を得意分野とした総理たり得たのだろう。
しかしながら、対米、対中、対韓の全方位の外交を上手くこなしてきた『自信』が、これまでの総理と同じく靖国神社に普通に参拝すれば済むところをわざわざ諮問機関を作って『公式参拝』し、しかもその -
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中曽根康弘。5年の長きにわたり、内閣総理大臣を務めた昭和を代表する政治家。特に評価されるのが外交手腕。米国大統領レーガンとニックネームで呼び合うほどの親密な関係を築き、中国や韓国との首脳とも会談を重ねる。好調な国内経済も後押しして、中曽根率いるジャパンの存在感は世界の中心を占めていた。
内政面でも中曽根のライフワークともいえる原発推進やNTT、JRなどの分社民営化を果たす。退任も鮮やかだ。首相候補に竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一の3人を競わせ、自身が最終決定を下すという形で後世に影響力を残した。
こうした中曽根首相の評伝を読んでみると、申し分のない首相人生に見える。心残りとすれば、憲法改正と -
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日本外交史、東アジア国際政治史の専門家が、日韓・日中間の歴史問題について、日本外交の視点からこれまでの政策過程を分析・提示している。
著者は、冒頭で「筆者が判断を下すというよりも、読者のために材料を整理して提供したい」と述べ、戦後の過程を以下のように説明している。
◆第二次大戦後、20余年をかけて、1965年の日韓国交正常化、1972年の日中国交正常化が成立し、1970年代は友好ムードが基調となっていた。
◆歴史問題が顕在化したのは、1982年に文部省が歴史教科書について「侵略」を「進出」に書き換えるよう求めたと報道されたことが発端で、これは誤報であったが、鈴木内閣の宮沢官房長官が、学校教育や -
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ネタバレ日中の国交正常化について田中角栄首相、大平正芳外相(いずれも当時)ら政治家と官僚のドキュメンタリー。
国交回復の前提と台湾との断交、国内の反対、そして1978年の日中共同声明にいたるまでの過程を資料と当事者(主に官僚)のインタビューから再現している。途中問題が起こり、日中、日華が一触即発になっても田中と大平は官僚をうまく使いこなし、官僚も実務と工作に明け暮れたことが肉声でよくわかった。一方で中国側の声も書かれているので、日中双方の認識がわかる。
他の方のレビューの通り、日中の国交回復に反対した台湾を除き、アメリカやソ連など近隣諸国の見解を知りたかった。現在も日中の問題は山積しているが、真の