青山南のレビュー一覧
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最高だったっ…!
冒頭の10ページほどでもう好きになってしまっていた。
要約の合間に描写がはさまれてるような感じなのに退屈さを感じないのは、文体がリズミカルなだけでなくて、語彙センスがずば抜けてるからなんだろう。
ディーンの父親は最後まで見つからず、サルはディーンを置き去りにした。おそらく、ここでディーン父は何かのメタファーであろう。
たしか1890年だかにフロンティアはなくなったとの宣言があったはずだが、ディーン父が産まれたのはもしかしたらその前後の年なのもしれない。であれば、ディーン父の不在はフロンティアの消滅を表してるのであり、かつてのアメリカのメタファーである。サルの旅が西へと向かうところから始まったこともそれを意識してるからだろう。
父を探していたディーンすらもサルは置き去りにする。もはや、かつてのアメリカはどこにもないし、それを探すこともしなくなった。
それでも最後は、僕はディーンとディーン父のことを考え続ける、という文章で終わる。サルは諦めたわけではなく、まだ旅の途上にいるのだろう。 -
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ネタバレロサンゼルス入り(出張)のお供に連れて行きましたが、よかった…!アメリカ!という感じで、心身がlandingに向けて準備された笑。ナボコフのロリータとは全然違うロードノベルw
もっと若い時に手に取ってたらどういう感想だったのだろう。
ふたり並んで仰向けに寝て、天井をながめながら、神はいったいどういうつもりで人生をこんなに悲しいものにしたんだろう、と考えていた。ぼくらはフリスコで会う計画を漠然とたてた。…アメリカの男と女はいっしょにいてもひどく淋しい時を過ごしている。すれてくると、ろくに話もしないでいきなりセックスに入りたがる。まともに口説こうともしないー魂について率直に語り合うべきだ、人生は神聖で、一瞬一瞬、貴重なのだから。(p.92)
「ニューヨークで会おう、テリー」ぼくは言った。一ヶ月したら兄さんと車でニューヨークに来ることになっていた。でも、きっと来られないのはふたりとも承知していた。(p.163)
ぼくは好きなことが多過ぎて、いろんなことをごちゃごちゃにしたまま、流れ星から流れ星へと走りまわったあげく落っこちるというのだ。でも、いまは夜だ、夜とはそういうものではないのか。ぼくがあげられるものは混乱した自分しかない。(p.200)
「…ねえ、淋しいのよ」
「なにが淋しいの?」
「ぜんぶ。あーあ、ディーンがあんなに狂ってるんでなきゃいいんだけど」(p.261)
「あんたは何年もずっとだれにたいしても責任を持とうとはしなかったもの。ひどいことばかりして、こっちも口の出しようがなかった」…「あんたはね、自分のことと自分の下らない楽しみのことしか、考えてないのよ、頭にあるのは、股の間にぶらさがってるもののことと、ひとからどれだけ楽しみと金が引きだせるかってことだけで、そういう人をも要らなくなるとさっさと棄ててしまう。それだけじゃない。あんたはバカよ。人生をまじめに考えて、人生をきちんとしたものにしたいと頑張っているひとがいるのがわからないの。みんながしょっちゅうマヌケなことをしているわけじゃないのよ」
それがディーンだ。聖なるマヌケ(ホーリー・グーフ)。(p.310)
ぼくらのじっさいの人生が、じっさいの夜が、その地獄が、意味のない悪夢の道がボロボロの狂気と騒乱でいっぱいだったとは夢にも考えないのだろう。なにごとも、内側は終わりもなく始まりもなく、空っぽだ。無知がさまざまな悲しい形になる。(p.406) -
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スタインベックが愛犬チャーリー(プードル)とともに,ピックアップ型のキャンピングカーで全米を一周した記録.「実は,ほぼ創作」説もあったりするらしいのだが,だとしても,良質のエッセイである.
結局,「アメリカとは何か?」というスタインベックの問いに対する答えは,明らかにはなっていない.アメリカはとてつもなく広く,いろんな側面を持っている.特にこの旅が行われた1960年は公民権運動の騒乱期で,特にニューオーリンズの「チアリーダーズ」およびその周囲にいる市井の人の描写にはゲンナリする.ただ,これも現在のICE騒動の渦中にあるアメリカの源流だろうし,一方,それと比較すれば好意的に描かれている北部にしたって,物語の中盤の「ロシア」のエピソードのような面を持っている.それら全てがうねりながら一塊になって,前に進んできたのがアメリカなんだろう. -
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最近は何かとタイパを求めすぎていて、理解しなければ、身につけなければ、アウトプットしなければ、などという強迫観念に縛られていた中で、本書は、まさに『本は眺めたり触ったりが楽しい』ということを気づかせてくれた。
各章(といっても目次立てて分かれているわけではないが、)の終わりのことばに、その章がよくまとめられていた。なかでも、全章の最後に記されたことばにもっとも惹きつけられた。以下に該当部分を引用する。
「おもうに、これが読書の醍醐味である。読書という、きわめて個人的でひそやかで秘密めいた作業は、あらゆる記憶違い、思い違い、読み違い、を許容する。正しい読み方などない。読書の力とは、エーコがいうように、心を鍛えてくれるところに、思索にはずみをさずけてくれるところにある。 p210」 -
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この本は、スタインベックが愛犬チャーリーと改造したトラックでアメリカをぐるっと一周する旅の記録だ。スタインベックは自分の国を知らないことに気づいたから真実を探そうとして旅立ったのだが、楽しい出会いや壮大な景色を楽しんでいたかと思えば、辛い思いをすることもある。そして悲しいことに、1960年に大きな問題となっていた人種差別は今でもなくなってはいないなど、現在に通じるものもある。いろいろなことがあるけれど、いつもチャーリーが良き相棒となっていてほっとさせてくれる。
こどもが小さかった頃、私と一緒にキャンピングカーでずーっと旅をしながら楽しく暮らしたい、と言っていたことがあった。ほんとにそうできたらいいなと思ったけれど、この本を読んだら、ずーっと続く旅よりも、ちゃんと家があって帰ることになっているほうが旅を楽しめるのかもしれないなんてことを思った。 -
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とても良い本だった。
1997年刊行の『眺めたり触ったり』を文庫化したもの。コラムの内容を集めた本のため、短い文章がポンポン連なる感じが読みやすかった。
1997年は私が生まれた年なのだが、本書の中にはもう電子書籍(電子読書)の話が出て来てちょっと驚いた。
斜め読み、拾い読み、索引読み。速読、積読、黙読、朗読。本を買うこと、本を手放すこと。作者の実体験をはじめ、小説やエッセイに書かれていた内容など、様々な「本との付き合い方」が詰まっている。誰でも1つは絶対に「共感出来る付き合い方」が載っているのではないかと思う。
私は時々、「大どんでん返し!」「衝撃のラスト!」などの宣伝文句の話題書を、本屋で最後の2、3行だけ読んで戻す、ということをする。これも私の付き合い方なんだな〜と思った。 -
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『怒りの葡萄』『エデンの東』のジョン・スタインベックが、1960年、愛犬チャーリーと、宿泊できるよう改造したトラック「ロシナンテ」でアメリカ中を旅した記録。
各州のもつ地域性を、著者の目を通して、まるで異なる国を旅しているかのように明確に語っていく。
そして各地で出会う人々とのエピソードを通して、彼が今住んでいるアメリカという国をあぶりだしていく。
ただ、あぶりだされようとしたアメリカは、各州、各地域が歯車のようにうまく噛み合って機能している統一的なものではない。
それぞれの地域性があり、それでも全員同じ方向を向いて発展していっている、というのでは全くない。
折しも1960年のアメリカは、戦後経済成長で都市が急発展し、黒人の公民権運動が高まっている最中であり、とりわけスタインベックが主に旅した南部は新たな価値観の受容と拒絶の狭間で揺れに揺れ動いている。各州が独自の美しさを持っている一方、独自の醜さを持っている。
最後に立ち寄ったニューオーリンズでの「チアリーダース」のエピソードは、いかに差別が醜いものであるか、そして人間を盲目にするのかを知らしめてくれる。
この、スタインベックの地域の切り取り方も素晴らしいのだが、一方、淡々としたリズムで徐々に退屈になるという旅行記が根本的に持っている宿命を、愛犬チャーリーとのやりとりで回避している点も素晴らしい。ときに擬人化されるこの老犬は、実にチャーミングで、読者にとってもこの長旅のかけがえのないパートナーになる。
彼がいることで、旅が退屈しない。彼がいることで、スタインベックの考えも深まるし、引き立つし、私たちによく伝わる。
差別などトピックとしては、真剣にとらえるべきものも多くあるのだが、それでも肩の力を抜いて彼と一緒に旅を楽しんで欲しい。
文章を通して目の前に広がるアメリカの景色は、素晴らしいよ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ主人公の作家・サルと親友ディーンはアメリカ大陸をヒッチハイクや自分の車で東西(最後はメキシコ)に行ったり来たり、道中はほぼ酒、盗み、ドラッグ、セックス、しかない。
盗んだバイクで走りだしてずっと走り続けたらこうなった、みたいな…(汗
「あらゆる文化に決定的な影響を与えた伝説の書」(裏表紙)だそうですが今だと迷惑系ユーチューバーっぽいかな。文章や構成も、めちゃくちゃなスピードで車で走った!いい女がいた!走り去った!目的地に着いた!という繰り返しで動画っぽい。
「旅がしたい」と思って手に取りましたが衝撃的でした。女性がモノ扱いというか、心を通わせるとかないんかーい、みたいな。でも自分にとっては異文化すぎて面白いと言えば面白かったです。令和の文学にもこういう「ありえない」疾走感が必要なのかも。 -
Posted by ブクログ
正直言うと、いったい、いつになったら読み終えるものかと途方に暮れてしまった。おそらく僕自身、読むことで、読みながらにして日常生活の隙間から見える“旅路の果て”へと意識を向けていたかのような、読書の最中というものは少なからず意識は“飛ぶ”ものだと思うけれど、今回のそれは、いかにも広大な旅路の眺めだった。
ちょっと言い過ぎかな。呑まれ過ぎかな。
“ロード”をして即ち人生に擬えることは、きっと安易で、有りがちなことで、すでに数多の言葉にて語り尽くされているだろうことは想像に難くない。時代とか世代とか、今を生きる僕らは、いつでもそれらの真っ只中にいて、気付かないこともたくさんあると思うけれど、気付かないことや、知らないことを、そのままにして次代を望むことなど出来はしない。ゆえに僕らは考えたり、探したり、悩んだり、摑みどころのない問題の数々を解こうと試みる。“ロード”に何らかの、解決の糸口を見出そうとした彼らの、剥き出しの物語だった。“ロード”については時代も世代も、じつは無関係で、そもそも人類は移動を繰り返すことで生を繋いできた。それこそ人類の生命力の源であり、根元的な欲求であることは間違いないだろう。思い思いの場所に根を下ろした彼らの振る舞いから、何らかの彩りを感じただろうか。生命力を誑かす数々の誘惑に溶けきってしまった日常は一見居心地が良く思えるけれど、何らかの違和感の、それらが不満や鬱憤などとは気付かないほど些細な齟齬の積み重ねなどは避け難く、少しずつ表出し、漏れ出し、いずれ隠しようのない、明らかな居心地の悪さとして確信に至るだろう。その場に居たのが僕らなら、きっと茫然としてしまうに違いない。
しかし彼らは実践してみせた。
“ロード”へ、と。
止まることのない移動の、すなわち生への欲求の発露。誰へ向けても、分け隔てなく開かれた“ロード”へ。
その一端に立つことで、僕らは、きっと自由を手に入れる。唯一無二の人生を手に入れることができるのだろう。