本書は、今後確実に進んでいく人口減少の中で、どのような社会の形をとるべきかという議論である。
印象に残った点は、人口減少の原因が、未婚化・晩婚化にあり、結婚している世帯の出生率自体はそこまで落ちていない点。
そして、未婚化・晩婚化の原因として、若者の所得については、非正規雇用の増加等も原因となり、1980年代ごろから低下していると言う点である。それゆえ、広井氏は人生前半=若者への社会保障の拡充をまず訴える。
また、広井氏はコミュニティ論の大家として知られるが、冒頭の人口減少や格差の増大と並列して、「社会的孤立」の指標を取り上げていた点が印象深かった。日本は先進国の中で社会的孤立の指標が相対的に高いが、これは他者への無関心にもつながり、家族や血縁を超えた日本の中での相互扶助である社会保険料負担への忌避に繋がりやすいという点が述べられている。
私自身も感じることではあるが、都市におけるコミュニティというものが日本では極めて希薄であると述べられている。無論、農村コミュニティでは非常に密な繋がりがあるが、これが都市に出ると個人としての仕事や家族以外での繋がりが希薄である点は、社会的孤立にも繋がっていると考えらてる。さらに、都市のムラ社会であったカイシャと核家族のうち、前者は流動化し、後者も多様化の流れの中でいかにして、「集団を超えて個人と個人がつながるような仕組み」を構築するかは、まさに喫緊の課題である。
第4章の社会保障の章では、社会保障という本質的な富の分配に関する議論について、日本人が不得意としている点も述べられている。日本人は、議論の中で、その場の空気や流されやすい傾向にあるため、その場にいないメンバーに関する思慮が欠ける結果に落ち着きやすい。そうした中で、社会保障に関する富の分配の議論は、その場にいない将来世代に常に先送りされてきた背景がある。このような本質的ではない議論の形も、経済成長や拡大期にはそこまで問題にならなかったが、人口減少社会の中で、本格的に定常的なフェーズに入る中では、社会保障論の核となるような分配の公正、公平、平等とはなにかというようなプリンシプルに関する議論に正面から向き合わなければならない。それができない場合には、まさに破局に向かう。
まず、日本には理念の選択が求められる。資本主義の多様性と言う観点でも、アメリカモデルでは、強い拡大傾向と小さな政府、ヨーロッパモデルでは環境志向と相対的な大きな政府というプリンシプルや理念がある。前者は医療なども一定レベルで商品化されており、低負担低福祉モデル、後者は高負担高福祉モデルである。両者は価値観の問題であり、国民の合意形成がなされていれば、問題はない。しかしながら、日本の場合、当初はヨーロッパ型の高福祉モデルを参照してシステムを構築していたが、大きな保険料や税負担を国民に強いていない、低負担中福祉というアンヘルシーなモデルが運用されてきた。無論、低負担のツケは、GDP等の経済成長で賄われるという発想であったが、低成長となった今、限りない赤字国債の発行により賄われ、結果的に将来世代に先送りしている状況を脱することができていない。極めて無責任な状況と言える。
こうした中で、人生前半の社会保障や、予防的な施策の重要性を広井氏は訴える。
これまでの社会保障の歴史的変遷を読み解くと、事後から事前という流れがある。イギリスの救貧法は市場経済のひずみとして格差が広がったものに対して、事後的に修正を加えるものであった。その後、事前に保険料を集めて、いざ貧困に陥ったり、医療が必要となる人々のセーフティネットを事前に構築する社会保険制度がドイツで広がっていった。しかしながら、その後の世界恐慌等によって、雇用喪失が進む。社会保険制度は、一定の雇用を前提として労働者の給与から保険料が捻出されるモデルであるため、雇用の喪失はシステムの不具合に直結する。そうした中で、次はその根本である雇用政策というものが主題化され、ケインズ的な政策が実践されてきた。そして、その流れをくむのがベーシックインカムであり、BIが予防的施策の先端であると説く。
放っておけば格差が生まれてしまう領域に、予め給付を行うことでスタートラインの格差をできるだけなくすという点がBIの基本である。
なお、日本の年金施策についても別途コメントがなされており、昨今下流老人という本で有名になった高齢者の貧困問題についても触れられている。現在の日本年金制度は厚生年金等、若い世代の時に納入した保険料(そしてその基礎となる給与水準)によって、受給できる年金額が異なる仕組みになっている。しかし、公的制度である限り、多く保険料を払った人間が、多くの給付を受けるというモデルは必ずしも実践する必要がなく、より相互扶助的なシステムに変換すべきと述べている。
この意見には、私も賛成であるが、公的保障であるからには、所得の高い人ほど高い社会保険料を払うというロジックを理解するには、自分自身の所得の高さに対して、社会的サービスや運によるところが大きいという感覚がそもそも必要であろうと思う。私自身、中学受験をさせてもらい(親の教育投資に関する運)、大学も国立大学(社会的サービス)を卒業しているため、現在の所得に対して、自分自身の努力は一要因にすぎず、感覚的には半分程度は運や周囲の支援によるものであると感じている。そうした感覚を持っている場合、所得が多い人間が、多くの保険料を払うというロジックは理解できる。これは損得勘定の問題ではなく、ノブレスオブリージュのような倫理観、価値観を涵養する文化施策や教育施策の問題ではないかと感じる。
ここで、前段の社会的孤立に関する先進国における日本のランキングの低さがボディブローのように効いてくる。
高所得層におけるノブレスオブリージュの感覚の涵養という文化的、哲学的施策の、今後の主題足りうるのではないかと思う。