十数年前にサンデル教授の「正義論」を学び、
議論し続けることの大事さを訴える実践的な講義に感銘を受けました。
今回この著書をあらためて読み、
政治哲学を経済学との関係で考え議論することが不可欠であることを再度学びました。
すべてが売り物になる懸念として挙げられていた2点は、
1、公正の議論:お金のあるなしがあらゆる違いを生み出す
2、腐敗の議論:あらゆる領域の価値観を侵食する
不平等、格差、公平についての倫理基準の考え方は、経済と政治を議論するうえで主要なトピックであるように思いますが、
本書では、とくに2点目の腐敗の議論に焦点を当てられています。
商品なると腐敗、堕落したりするものがある。これについて考えます。
商品とは、金銭的に取引ができるもの。
実際には、売買できるものとしてあらゆる物の価値が適切に測られるわけではない、はず。
でも現代社会は、どんどんあらゆるものやことを財務情報化したり、商品化していっている。
それにより何が失われているか、失われているものがあるかさえ、考える間もないままに。
「市場経済」が「市場社会」になるとき、私たちが被る代償は。
___この30年のあいだに起こった決定的な変化は、強欲の高まりではなかった。そうではなく、市場と市場価値が、それらがなじまない生活領域へと拡大したことだったのだ。こうした状況に対処するには、強欲さをののしるだけではすまない。この社会において市場が演じる役割を考え直す必要がある。市場をあるべき場所にとどめておくことの意味について、公に議論する必要がある。この議論のために、市場の道徳的限界を考え抜く必要がある。お金で買うべきではないものが存在するかどうかを問う必要がある。(本文より)
…
- 腐敗の議論
英語だと、”corrupt”。
サンデル教授が強調する市民としての「美徳」との関係で考えると、
道徳的な価値を低減させるー”diminish their value”ことを意味しています。
___われわれは、腐敗というと不正利得を思い浮かべることが多い。だが、腐敗とは賄賂や不正な支払い以上のものを指している、ある財(善)や社会的慣行を腐敗させるとは、それを侮辱すること、それを評価するのにふさわしい方法よりも低級な方法で扱うことなのだ。公聴会の入場料を取るのは、この意味における腐敗の一種である。(本文より)
経済学は、道徳的議論を含まない市場原理を理論立ててきた。
この領域は、公的生活を扱うものではなかったはずが、
今やこの経済理論が公的生活を支配するようになっている、道徳理論を書いた領域に公的生活をゆだねる状況になっていることを懸念しています。
あらゆる物事に効率を求める傾向にある社会状況を考えると、印章論としてもとても説得力があります。
近年はやっている行動経済学も、前提として、人間が選択肢のコストと利益を比較検討する、あらゆるものに経済的価格があると考えること。
経済学的アプローチはあらゆる人間行動に当てはまる包括的なものだという議論は、
ゲイリー・ベッカーの『人的資本』 (1976出版 )に代表される、シカゴ派経済学にたどることができ、
その合理的な人間観が、今もなお、強固なものとして現在にも浸透しているのですね。
理論の力すごい、と改めて思う。
人間の合理的判断は例外、と疑い始めてもいい状況にあるように思いますが、
金融危機など経ても、そこまでパラダイムはシフトしていないということなのですね。
- インセンティブを疑う
「インセンティブ」がますます使われるのは現代社会の特徴でもあったのですね。
もともとそうではなかったのか。
インセンティブをつけることで、
私たちが持っている本来の動機が書き換えられてしまう。
保育園のお迎えお迎え時間を有料化(追加料金を払って遅くに迎えに来る親が増えた)する事例はよく取り上げられていますが、
経済理論に則った制度設計が人の動機を動かす、重大な責任ある行為であることをあまり自覚できていないのが現状。
罰金かインセンティブか、その選択にも道義的責任を伴う。
だから、その制度設計によって、どのような姿勢が強化されるかをきちんと考慮する必要がある。
たとえば価値観に裏打ちされた制度設計がなされているフィンランドの事例が紹介されていました。
「共通善への貢献を含む道徳的配慮によって、ときとして価格効果が打ち消される」、それを象徴するスイスの核廃棄物処理施設の住民投票(補助金を払うとなると市民の反対が高まった)の事例。
動機がすり替わる場合とそうでない場合は、どのような違いがあるのだろう…
市民的義務感、教育、規範、などが関係してくるのかな、と思ったりしました。
プロセスも大事なのかもしれない。一人ではなくて、周りとのかかわりの中で行為を選択したり考えを定めていく部分もありそうだし。
だから、何が優位かきまっているわけでもないのかもしれないけれど、
価格が設定されていたら単純に一番明確な判断軸として、デフォルトで採用するのかもしれない。
たっぷり払うか、全く払わないか、のどちらか、
という話は、なるほど、そうだな、と思ったり。
ボランティアでするか、たくさん給料もらってするか、どのどちらかが一番やる気が出る。
中途半端に安い給与で働くことになったら、もともと持っていたやる気もなくなるような経験、あるなーと。
- どこまで商品化するかという倫理
本来すべてに価格をつけているわけではないのに、金銭的インセンティブにより、金銭化する、あらゆる関係性、人間関係も市場関係化する。
「商品化効果」(ヒルシュ)については、これまでも論じられてきていて、
それは、内的動機を消す、締め出し効果がある、ということ。
一方で、 商品化は性質を変えない、逆に寛容や利他、市民的義務は有限である、というような意見もあることも紹介(経済学者ケネス・アロー、デイビッド・ロバートソンなど)。
実際、商品化の闇は倫理的領域にまで浸透していて、それを人生や死の商品化を取り上げ、リアルに論じられています。
アメリカでは、従業員保険が1990sから発展し、さらに広まって2000年代頃には政府の規制も出てくるものの、歯止めかからずに突き進んでいった。
2009年のWSJ紙では、
「…結局、生命保険が遺族のためのセーフティネットから企業財務の戦略にいかにして変質したかという、ほとんど知られていない物語なのだ」
という議論がなされています。
そのほか、テロの先物市場、
バイアティカル産業、
ライフセトルメント産業、
スピンライフ型保険生命保険、とその二次市場死亡債…
など、
大手の証券会社(GSなど)もこのビジネスに乗り出しているという事実。
人の生死を商品化することの倫理はどこまで考えられているのか。
と疑問を投げかける暇もなく、
さらにこの領域のビジネスは発展していっているのでしょうね…。
ビジネス戦略の倫理性を問うような問題は、日常にも広がっている。
広告プロダクト・プレイスメント、
命名権や自治体マーケティングにも触れられています。
- 市場は社会規範にその跡を残す
失われるものがないかを考える必要がある。
商品化により何が失われてしまっているのか。
この問いへの思考停止こそが、今日の資本主義の問題ともいえそうです。
サンデル教授は言います。
マネーボール市場の効率性を高めることが美徳ではない。
責任ある環境倫理にもとめられる自制や犠牲の共有の精神が蝕まれる。
世界がどう動いているのかを説明する経済学が、世界がどう動くべきか、という道徳的領域に侵食している。
まずこれを自覚し、
実際にビジネスに取り組むときには、
出口戦略としても、線引きをまず意識したらいいのかも、
そして、フィンランドの教育の例にもあったように、
金額や金銭的利益が究極の目的や決定的達成指標とならないようにすること。
それ以外に、もっと大事なものがあることを制度設計側だけではなく、利用者側にも共有されるような設計と運営をすること。
美徳。
徳ある人間として一人一人が生きるだけではなく、
徳ある社会を皆で作っていく一員でありたいと思いました。