あらすじ
医療、教育、政治……あらゆるものが売買されるこの時代。市場主義の暴走から「善き生」を守るために私たちは何をすべきか? 現代最重要テーマに挑む、サンデル教授待望の最新刊
「結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。」 (本文より)
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多くのことがお金になったこの時代で、大事にするべきことをよく教えてくれる本である
仮に全員が経済的に得することであったとしても、社会的規範という側面を考えていきたい
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行き過ぎた資本主義は、全ての物をお金で取引できる市場主義へと変えてしまった。お金の為に人身売買や臓器売買までもが需要と供給によって成り立ってしまう場合だって有るのだ。そこには道徳やモラルが歯止めになる事もあるが、当事者同士が双方利益を享受出来るとしたら、そして市場として成り立ってしまったら、そう考えると恐ろしい世界になってしまうだろう。イスラエルの幼稚園では、時間になっても子供を迎えに来ない親を如何に減らすか、対策として罰金を設ける事にした。結果はどうだろう?意に反して子供を迎えに来ない親が増えてしまった。親たちは、罰金を料金と受け止めてしまったのだ。
などなど、色んな考えさせられる事例がこの本には挙げられている。「これから正義の話しをしよう」の著者マイケル・サンディルの行き過ぎた市場主義に疑問を投げかける素晴らしい本だ。
Posted by ブクログ
十数年前にサンデル教授の「正義論」を学び、
議論し続けることの大事さを訴える実践的な講義に感銘を受けました。
今回この著書をあらためて読み、
政治哲学を経済学との関係で考え議論することが不可欠であることを再度学びました。
すべてが売り物になる懸念として挙げられていた2点は、
1、公正の議論:お金のあるなしがあらゆる違いを生み出す
2、腐敗の議論:あらゆる領域の価値観を侵食する
不平等、格差、公平についての倫理基準の考え方は、経済と政治を議論するうえで主要なトピックであるように思いますが、
本書では、とくに2点目の腐敗の議論に焦点を当てられています。
商品なると腐敗、堕落したりするものがある。これについて考えます。
商品とは、金銭的に取引ができるもの。
実際には、売買できるものとしてあらゆる物の価値が適切に測られるわけではない、はず。
でも現代社会は、どんどんあらゆるものやことを財務情報化したり、商品化していっている。
それにより何が失われているか、失われているものがあるかさえ、考える間もないままに。
「市場経済」が「市場社会」になるとき、私たちが被る代償は。
___この30年のあいだに起こった決定的な変化は、強欲の高まりではなかった。そうではなく、市場と市場価値が、それらがなじまない生活領域へと拡大したことだったのだ。こうした状況に対処するには、強欲さをののしるだけではすまない。この社会において市場が演じる役割を考え直す必要がある。市場をあるべき場所にとどめておくことの意味について、公に議論する必要がある。この議論のために、市場の道徳的限界を考え抜く必要がある。お金で買うべきではないものが存在するかどうかを問う必要がある。(本文より)
…
- 腐敗の議論
英語だと、”corrupt”。
サンデル教授が強調する市民としての「美徳」との関係で考えると、
道徳的な価値を低減させるー”diminish their value”ことを意味しています。
___われわれは、腐敗というと不正利得を思い浮かべることが多い。だが、腐敗とは賄賂や不正な支払い以上のものを指している、ある財(善)や社会的慣行を腐敗させるとは、それを侮辱すること、それを評価するのにふさわしい方法よりも低級な方法で扱うことなのだ。公聴会の入場料を取るのは、この意味における腐敗の一種である。(本文より)
経済学は、道徳的議論を含まない市場原理を理論立ててきた。
この領域は、公的生活を扱うものではなかったはずが、
今やこの経済理論が公的生活を支配するようになっている、道徳理論を書いた領域に公的生活をゆだねる状況になっていることを懸念しています。
あらゆる物事に効率を求める傾向にある社会状況を考えると、印章論としてもとても説得力があります。
近年はやっている行動経済学も、前提として、人間が選択肢のコストと利益を比較検討する、あらゆるものに経済的価格があると考えること。
経済学的アプローチはあらゆる人間行動に当てはまる包括的なものだという議論は、
ゲイリー・ベッカーの『人的資本』 (1976出版 )に代表される、シカゴ派経済学にたどることができ、
その合理的な人間観が、今もなお、強固なものとして現在にも浸透しているのですね。
理論の力すごい、と改めて思う。
人間の合理的判断は例外、と疑い始めてもいい状況にあるように思いますが、
金融危機など経ても、そこまでパラダイムはシフトしていないということなのですね。
- インセンティブを疑う
「インセンティブ」がますます使われるのは現代社会の特徴でもあったのですね。
もともとそうではなかったのか。
インセンティブをつけることで、
私たちが持っている本来の動機が書き換えられてしまう。
保育園のお迎えお迎え時間を有料化(追加料金を払って遅くに迎えに来る親が増えた)する事例はよく取り上げられていますが、
経済理論に則った制度設計が人の動機を動かす、重大な責任ある行為であることをあまり自覚できていないのが現状。
罰金かインセンティブか、その選択にも道義的責任を伴う。
だから、その制度設計によって、どのような姿勢が強化されるかをきちんと考慮する必要がある。
たとえば価値観に裏打ちされた制度設計がなされているフィンランドの事例が紹介されていました。
「共通善への貢献を含む道徳的配慮によって、ときとして価格効果が打ち消される」、それを象徴するスイスの核廃棄物処理施設の住民投票(補助金を払うとなると市民の反対が高まった)の事例。
動機がすり替わる場合とそうでない場合は、どのような違いがあるのだろう…
市民的義務感、教育、規範、などが関係してくるのかな、と思ったりしました。
プロセスも大事なのかもしれない。一人ではなくて、周りとのかかわりの中で行為を選択したり考えを定めていく部分もありそうだし。
だから、何が優位かきまっているわけでもないのかもしれないけれど、
価格が設定されていたら単純に一番明確な判断軸として、デフォルトで採用するのかもしれない。
たっぷり払うか、全く払わないか、のどちらか、
という話は、なるほど、そうだな、と思ったり。
ボランティアでするか、たくさん給料もらってするか、どのどちらかが一番やる気が出る。
中途半端に安い給与で働くことになったら、もともと持っていたやる気もなくなるような経験、あるなーと。
- どこまで商品化するかという倫理
本来すべてに価格をつけているわけではないのに、金銭的インセンティブにより、金銭化する、あらゆる関係性、人間関係も市場関係化する。
「商品化効果」(ヒルシュ)については、これまでも論じられてきていて、
それは、内的動機を消す、締め出し効果がある、ということ。
一方で、 商品化は性質を変えない、逆に寛容や利他、市民的義務は有限である、というような意見もあることも紹介(経済学者ケネス・アロー、デイビッド・ロバートソンなど)。
実際、商品化の闇は倫理的領域にまで浸透していて、それを人生や死の商品化を取り上げ、リアルに論じられています。
アメリカでは、従業員保険が1990sから発展し、さらに広まって2000年代頃には政府の規制も出てくるものの、歯止めかからずに突き進んでいった。
2009年のWSJ紙では、
「…結局、生命保険が遺族のためのセーフティネットから企業財務の戦略にいかにして変質したかという、ほとんど知られていない物語なのだ」
という議論がなされています。
そのほか、テロの先物市場、
バイアティカル産業、
ライフセトルメント産業、
スピンライフ型保険生命保険、とその二次市場死亡債…
など、
大手の証券会社(GSなど)もこのビジネスに乗り出しているという事実。
人の生死を商品化することの倫理はどこまで考えられているのか。
と疑問を投げかける暇もなく、
さらにこの領域のビジネスは発展していっているのでしょうね…。
ビジネス戦略の倫理性を問うような問題は、日常にも広がっている。
広告プロダクト・プレイスメント、
命名権や自治体マーケティングにも触れられています。
- 市場は社会規範にその跡を残す
失われるものがないかを考える必要がある。
商品化により何が失われてしまっているのか。
この問いへの思考停止こそが、今日の資本主義の問題ともいえそうです。
サンデル教授は言います。
マネーボール市場の効率性を高めることが美徳ではない。
責任ある環境倫理にもとめられる自制や犠牲の共有の精神が蝕まれる。
世界がどう動いているのかを説明する経済学が、世界がどう動くべきか、という道徳的領域に侵食している。
まずこれを自覚し、
実際にビジネスに取り組むときには、
出口戦略としても、線引きをまず意識したらいいのかも、
そして、フィンランドの教育の例にもあったように、
金額や金銭的利益が究極の目的や決定的達成指標とならないようにすること。
それ以外に、もっと大事なものがあることを制度設計側だけではなく、利用者側にも共有されるような設計と運営をすること。
美徳。
徳ある人間として一人一人が生きるだけではなく、
徳ある社会を皆で作っていく一員でありたいと思いました。
Posted by ブクログ
やはり、深い著書だった。
一つひとつの事象を突き詰めると、お金で買って良いものと良くないものがあることがわかる。
普段、そのことを意識することができない。
市場の力は、とてつもなく強い。
意識することが、大切。
市場は立派な嗜好と低俗な嗜好を区別しない。
オフセットは危機をもたらしたりもする。
購入者が気候変動に対してそれ以上の責任はないと考えてしまうのだ。
Posted by ブクログ
再読。ちょうどコロナ騒ぎの時だったので、以前とはまた違って考えさせられる。JUSTICEでもそうであったが、社会、人間、その他の生物やモノに至るまで、在るべき姿、良き姿というものは、存在していて欲しいと考えるし、それを考えること、議論する事をやめてはならないと思う。マスクを欲しがる人がいる限り、どんな値段で転売しようと構わない、という意見が確かにあるこの国は、果たしてこの本に書かれている、御伽噺のような商業主義を笑えるのだろうか。
Posted by ブクログ
マイケル・サンデルによる、経済的合理性の追求が、人間本来の倫理観や慈しみを腐敗させていくという論の本。
帯からして、重厚なメッセージ。
「金融危機の際に『強欲さ』が一定の役割を果たしたことは確かであるものの、問題はもっと大きい。この30年のあいだに起こった決定的な変化は、強欲の高まりではなかった。そうではなく、市場と市場価値がそれらがなじまない生活領域へと拡大したことだったのだ。
こうした容共に対処するには、強欲をののしるだけではすまない。この社会において市場が演じる役割を考え直す必要がある。市場をあるべき場所にとどめておくことの意味について、公に議論する必要がある。この議論のために、市場の道徳的限界を考え抜く必要がある。お金で買うべきものが存在するかどうかを問う必要がある。」
Posted by ブクログ
市場主義、資本主義ってものに漠然とした嫌悪感があるけど、結局金持ちへの嫉妬なのかもしれない。
ほぼ全てが金でどうにかなる時代、どうにかならないものに焦点を当てて生きたいけどその時点で金に囚われている気もする、難しい。
Posted by ブクログ
読書録「それをお金で買いますか」4
著者 マイケル・サンデル
訳 鬼澤忍
出版 早川書房
p169より引用
“実のところ、それだけではない。一二週間
ほどしてから保育所が罰金を廃止しても、上
昇した新たな遅刻率はそのままだったのだ。
お金を払うことで、迎えの時間に遅れないと
いう道徳的義務がいったん蝕まれると、かつ
ての責任感を回復させるのは難しかった。”
目次より抜粋引用
“市場と道徳
行列に割り込む
インセンティブ
いかにして市場は道徳を締め出すか
生と死を扱う市場”
哲学者である著者による、経済学の市場原
理が人の日常生活に及ぼす影響について論じ
る一冊。
行列に並ぶことについてから公共物への名
付けについてまで、値段が付くことがどのよ
うに作用するかの多くの実例を挙げてかかれ
ています。
上記の引用は、保育所のお迎え遅刻と罰金
に関する一節。
一度壊れてしまったものは、完全に元に戻す
のは難しいようです。形のあるものでも、修
復した跡が残るのに、目に見えないものは、
ちゃんと元に戻ったかどうかも、確かめられ
ません。
お金を払うことで商品として扱うようになる
ことは、思っている以上にリスクをはらんで
いるものなのかも知れませんね。
経済市場がどれ程人の日常生活に影響と変
化を与えるのかが、多くの実例を示して書か
れているので、説得力が高く感じ取れます。
どのような物事になら、お金を使って介入し
ていいのかについて、考える元になる一冊で
はないでしょうか。
姿形の無いものにお金を使うときは、よく
よく考えて使いたいものです。
著者は哲学者であるためか、人は考え続け
ることで良い方向へ動くものだと、信じてお
られるような感を受けます。
しかし、作中で示される事例を見ていると、
考えれば考えるほど強欲になっていく人々も
居るものではないかと、思わざるを得ませ
ん。
ーーーーー
Posted by ブクログ
2012年刊。
それをお金で買いますか?というテーマの一例…
・刑務所独房の格上げ…一晩82ドル
・インド人代理母による妊娠代行サービス…6250ドル
・米国移住権…50万ドル
・欧州で企業が1トンの炭素を排出する権利…13ユーロ
・製薬会社の安全性臨床試験で人間モルモット…7500ドル
この世であらゆるものにプライシングされ、お金さえ払えば大体のものは買えるのだ、という態度について考えさせられる。
いい指摘はしているが、翻訳本なので読みづらく、読書中何度も眠くなった。
機会あれば再読して価格をつけることのモラルについて考えたい。
Posted by ブクログ
市場主義の問題について、実際に行われている市場取引の例を挙げて述べている本。
まず驚いたのが、そんな事をお金で取引しているの?と思う事例が非常に多かったこと。じっくり読むと取引する双方にメリットがある内容なのでなるほどと思うが、道徳的には?と思うものが極めて多い。世の中は知らない事ばかりだなぁと改めて痛感した
Posted by ブクログ
けっこう前に出た本だが、普遍的なテーマを扱っているので、今読んでもいろいろと考えさせられる。
これまで価値のなかったものに値段がつけられ、需要と供給が生まれたケースは、今も増え続けていると思う。
本の中で扱われた列への割り込み、命名権などは、今日本でもそれほどの忌避感もなく受け入れられているような気がするし、自分自身、ユニバーサルスタジオでファストパスを買うことや、映画館で少し高い値段を払って周りの人が気にならないボックス席をとることを、それほど疑問には思わずに過ごしている。けれど、それがもともと無料の、慈善事業コンサートなら同じことは思わない。似た事柄でありながら、その溝は以外に深い。裏を返せば精神的な違和感ほどにその事柄は相違がないのだ。そのことにはっとした自分がいた。
経済は大事だし、経済が上手くいっていればたいていのことは解決するものだと、私は思っている。しかし、鈍感になってはならない。自分を戒めた一冊だった?
Posted by ブクログ
「実力も運のうち」が面白かったので、サンデル教授の過去本を読んでいます。
お金と道徳という問題。お金で買う・売るという行為が入ってくることで、道徳的な「善」が失われてしまう。
腎臓、幼児、入学試験、爵位、スポーツ選手のサインなどなど。名誉とされるものも売買対象になると。。。
チケットを転売する。腎臓を売る。物事の解決策として「市場」を用いる経済学者。経済学的には全員がハッピーだが、人間の道徳・心では引っかかる。。
その引っかかる部分を主張すると古いと言われてきたのが、この30年、市場万能の新自由主義時代だったのかと思いました。この市場万能主義に翳りが見え、最後の学歴万能への警鐘が、新刊「実力も運のうち」だったのかなと思いました。
Posted by ブクログ
「ハーバード白熱教室」「これからの『正義』の話をしよう」のマイケル・サランデルの経済と市場と倫理の話
何度も読み返したり、読み直したり、考えたりしすぎてなかなか読み終わらなかったけどやっと読み終えた~というか読んだだけなのかもしれん。
私たちの生活に密着した「市場主義」
世の中にお金で買えないものはない?ある?
買えるもの
・刑務所の独房 1晩82ドル
・インドの代理母による妊娠代行サービス6250ドル
・絶滅の危機にあるクロサイを射撃する権利15万ドル
・主治医の携帯電話の番号 年に1500ドル~
あとは、逆にもらえる方法
・ダラスの学校で1冊本を読むと2ドルもらえる
・体のどこかに広告を出す777ドルもらえる
などなど…
世の中に値段のついていないものはない…
「需要と供給」「ギブアンドテイク」で成り立ってるならいいじゃん~
これが市場自由主義の世界だ~
という声が世の中にある
いやいや…果たしてそうなんだろうか?
マイケル・サランデルはこの本の中でこういう例を出している
「国立自然公園にゴミを捨てる人に罰金を科す。じゃあ金持ちはお金を払うから国立自然公園にゴミを捨て放題でもいいのか?」
これってすごくわかりやすい
お金払ってるから何してもいいだろ的なことを主張する人はたいがいこんな感じの俺なりの理屈を通す。
「道徳の売買」の恐ろしさ
後半は生命保険の話をしてるんだけど
これもまた考えさせられる
知らないうちに人は「お金」と「市場」に踊らされていて
「道徳」「倫理」を売り買いしているのかも
いや、結局「正義」の話なのか…
いや~この本あと100回ぐらい読まないと
ちょっと私では浅すぎてちゃんと理解できてないかもしれん…
うむむ…また読もう。
Posted by ブクログ
2012年の作品。その時点で市場主義が蔓延る結果としての市民の分断を指摘している。
市場主義をどこまでがよく、どこからが悪いとするかは道徳の問題としており社会によっても時代によっても違うのだろうと思った。
Posted by ブクログ
【感想】
われわれはなぜ転売ヤーを疎ましく思うのだろうか?
転売ヤーへの批判は、主に次の2通りに分けられる。
1つ目は、転売を挟むことで価格がつり上がり、供給者から転売ヤーに利潤が吸い上げられているという批判。2つ目は、転売によって本当に欲しい人に品物が届かなくなるという批判だ。
しかし、この2つとも有効な批判とは言えないだろう。
1つ目の批判に対しては「自由主義的」な観点から擁護できる。モノを売る会社の一方的な値付け価格では、市場価値が正確に反映されていない。買い手の需要と売り手の供給とが合致した結果としての「転売価格」が、むしろ正統な値段であるという擁護だ。
2つ目の批判に対しては、「本当に欲しい人とはいったいだれを指すのか?」という観点から擁護ができる。本当に欲しい人とは、市場の性質を考えれば、他者よりも多くお金を払う人だ。転売ヤーから言わせれば、安すぎる商品に人が殺到することこそ「欲しい人の気持ちを考えていない」行いになる。そこで転売ヤーが適切に高い価格で再販することで、どうしても欲しい人と商品の橋渡しをするのだ。
結局のところ、どちらの言い分も一長一短である。
本書では、この2つの観点から市場主義を問うのは効果的ではないと述べている。
では、サンデル氏はいったい何に着目したのか?どうやってこの禅問答のような議論を崩しにかかったのか?
それは、「善き行いか?」という観点からの批判であった。
ライブチケットを転売する人は、チケットを買うことが目的であり、ライブ自体を楽しみだとは思っていない。言い換えれば、歌手への尊敬に欠けている。
これは日用品でも同じだ。例えばマスクの転売である。マスクの転売が批判されるのは、転売ヤー本人が「マスクを自分で使おうとは思っていないこと」つまり、「マスクを買うための目的が倒錯している」ことにある。
これらはどちらも「善」に関する議論だ。買う人間に対して、「それを買うのにふさわしい態度を身につけるべき」という批判をする。この批判をもとに、あらゆることを市場化することへの警鐘を鳴らす。
当然ながら、これは経済学の領域では論じきれない。経済学では、ものを買う目的を俎上に載せることはない。また、この批判は「では、善とされるものの定義はなにか?」という道徳的な議論を行う必要がある。その難しさから、「あまりに理想主義すぎる」という反論も起こりうるだろう。
しかし、経済学に倫理を持ち込むことは、確実に必要である。
何故か。
それは、あらゆるものに価格をつけるという行為が、「下から上への再分配」を生み出し、格差を拡大するからだ。
累進課税に代表されるように、社会には多くを持つ者からあまり持たない者へと資源を再分配するシステムが取り入れられている。それは格差の是正と、資本主義を過熱しすぎないようブレーキをする役割を持っている。
しかし、今まで価値のつけられなかった(無料であった)ものに値段をつけるという行為は、持たざる者が手にしていた「機会」を、金に換えてそっくりそのまま売り渡すことになる。持たざる者の「機会」を買う値段は、持つ者にとっては微々たる金額だ。そこで起きるのは平等な「等価交換」ではなく一方的な「分配」であることは言うまでもない。
そうしてなにより、機会の値付けの際に「選択肢」を持っているのは、裕福層側であるのだ。
金による解決は、社会にとって決してよい結末を産まない。
であるならば、――日常領域に市場が侵食してきたように――善という「非市場的な概念」を市場に持ち込むことこそ、過熱した資本至上主義を止めるのに必要なものなのだ。
────────────────────────────────────
【本書の概要】
市場や商業は触れた善の性質を変えてしまう。われわれは、市場がふさわしい場所はどこで、ふさわしくない場所はどこかを問わざるを得ない。そして、その問いに答えるためには、善の意味と目的について、それらを支配すべき価値観についての熟議がかかせない。
格差が広がる時代に、あらゆるものを市場化するということは、格差がますます広がることを意味する。市場をその持ち場にとどめておくための唯一の頼みの綱は、われわれが尊重する善と社会的慣行の意味について、公の場で率直に議論することだ。
【本書のまとめ】
1 市場が日常に侵食してきている
代理母、デザイナー卵子、環境汚染権の売買、大学への入学権など、かつては値段をつけられなかった物すべてが売り物となる社会が来ている。
お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなければならない。日常生活における市場の役割と範囲を考え直さねばならない。
最初に、この本の結論を述べる。
それは、生きていくうえで大切なものの中には、商品になると腐敗したり堕落したりするものがあるということ。したがって、市場がふさわしい場所はどこで、一定の距離を保つべき場所はどこかを決めるには、問題となる「善」――健康、教育、家庭生活、自然、市民の義務など――の価値をどう図るべきかを、問題ごとに議論する必要がある。
2 行列に割り込む
遊園地のファストパス、行列に並ぶ「並び屋」、診察券のダフ屋、コンシェルジュドクター。「先着順」という行列の倫理は、「安かろう悪かろう」という市場の倫理に取って代わられつつある。
「金で順番を買う」ことへの擁護は、主に次の2パターンが挙げられる。「市場は買いたい人と並びたい人の効用を最大化させる」という擁護と、「買い手と売り手の自由意志を妨げてはいけない」という擁護だ。
しかし、ここで財の配分方法に関して議論するのは、適切ではない。問題は「善」に関することがらなのだ。
無料で行うコンサートに「並び屋」が並べば、我々は快く思わない。これは価値無きモラルに「市場価値」をつけることで、ある財における「善」を腐敗させるからだ。無料コンサートはまったくの商品でも、市場財でもない。にもかかわらず、そうであるかのように扱えば、コンサートを貶めることになる。
だからこそ、われわれはダフ屋や行列屋を疎ましく思う。それは、かつては「良識」の範囲内で楽しんでいたものごとが、金銭によってその倫理的価値を歪められたからなのだ。
3 インセンティブ
お金を払って避妊手術を受けさせる。いい成績を取った子に賞金を与える。タバコをやめた人にお金をあげる。
健康的な行動と引き換えに賄賂を渡すことは、一見winwinに見えるのに、贈収賄であるという非難が当てはまるように思えるのはなぜだろうか。
それは、金銭的動機によって、ほかのよりよい動機――学ぶことへの悦び、肉体の健康への正しい姿勢――を排除するからである。
言葉を変えれば、市場のせいで、出産や勉強や禁煙が「どう扱われるべきか」という見方が変わってしまうのだ。
●罰金と料金の違い
イスラエルのとある保育園が、迎えに来る親に罰金を科すことに決めた途端、遅刻が倍増した。今までは、遅れてきたときに「良心の呵責」を感じたが、今では「お金を払えば預かり保育を延長してくれる」という心理に変わってしまったのだ。
これと同じことが、より広範で国際的な取り組みである「排出量取引」でも起こっている。
善への罰である「罰金」が、しかじかをする権利である「料金」に変わってしまい、よりモラルから逸脱することがありうる。市場の範囲が、非市場的規範の律する生活領域に広がると、標準的な価格効果は失われてしまうことがある。
端的に言えば、規範が重要なのだ。市場に任せることで効率化が進んだとしても、ときにそれは責任ある倫理に求められる「自制」や「自己犠牲」、「良識的マナー」の意識を傷つけ、行動を悪化させる危険があるのだ。
したがって、ある善を商品化するかどうかを決める際には、効率性や分配的正義の先にあるものを考えなければならない。また、市場的規範が非市場的規範を締めだすかどうか、締め出すとすれば、それが配慮に値する損失かどうかを問わなければならない。
われわれは、金銭的インセンティブの効果を予測するだけではなく、道徳的な評価――そのインセンティブが、守るに値する姿勢や規範を蝕むか否か――を下す必要があるのだ。
4 市場が道徳を締め出す
お金で買えるが、そうすべきではないものがある。友人やノーベル賞の売り買いは、お金で買えるが善が台無しになるものであり、臓器や子供の売り買いは、善はなくならない(お互いが納得した上で取引するため)がほぼ確実に腐敗するものである。
市場での評価と取引によって堕落してしまうという善がある。市場が非市場的規範を締め出し、より低俗な規範に取って代わってしまうのだ。
5 生と死を扱う市場
バイアティカル投資、用務員保険、生保賭博など、「ある人が死ぬかどうか」に賭ける金融商品がある。
たいていの人間は、死ぬ確率に賭けるギャンブルを道徳的に不快なものとみなす。しかし、ギャンブラーが当事者を苦境に陥れず、ただ遠くから賭けを楽しんでいるだけならば、なぜ非難されるいわれがあるのだろうか。
死の賭けがあるまじきものだと仮定すれば、その理由は市場の論理を超えた、そうした賭けに現れている「非人間的な態度」にある。
ときとして、われわらは道徳的に腐敗している市場慣行と共存する道を選ぶ。それがもたらす社会的善のためだ。生命保険はこの類の妥協の産物として始まった。しかし、生と死を扱う現代の巨大市場が証明しているように、保険はギャンブルとの境界線があいまいなものになろうとしている。市場の範囲が非市場的範囲を飲み込もうとしているのだ。
あらゆる「低俗」とみなされる市場還元には、2つのパターンがある、一つ目は「強制と不公正にかかわるもの」もう一つは「腐敗と堕落にかかわるもの」だ。そして、前者だけ議論しても決着はつかない。大切なのは、後者について論じる場を設け、どこまでに値をつけてよいか社会の中で決定していくことだ。
なぜそうした議論が必要なのか?それは、自由主義や功利主義といった従来の経済学のパラダイムでは、市場的思考や市場関係が人間のあらゆる活動に侵入してくる世界の何が問題なのかを説明してくれないからだ。こうした状況の何が不安をかき立てるのかを説明するには、腐敗や堕落といった道徳的な語彙を使う必要がある。そして、腐敗や堕落について語るには、「善き生」という概念を避けては通れないのだ。
Posted by ブクログ
2012年の作品。「これからの正義の話をしよう」が大ベストセラーになった、サンデル教授の1冊。こちらも面白いですね。
行きすぎた市場主義。本来は道徳的に、社会規範的に取引の対象になってはいけないはずの物事にまで、市場主義の影響が及ぶ。取引可能な汚染許可証、貴重な野生動物の狩猟権、血液や臓器の売買、公共財の命名権、生命保険の売買によって人の死までもが取引の対象に。。
リーマンショックで、行き過ぎた市場主義に警鐘が鳴らされたはずなのに、トランプ政権的な流れの中でまた、社会正義は軽視されるようになり、そしてまたバイデン政権で揺り戻しが起きようとしている。サンデル教授は、どこまでが市場主義が入っていい分野なのか、社会的な議論をしっかりと進めなければならないと主張されていますが、この大きな流れをみると、揺れ動きながらもアメリカ社会は、ちゃんと悩んでいる印象もあります。
一方で、日本はどうなんだろう。ゼロリスクを好む国民性もあって、行き過ぎた市場主義にはなっていないとは思うのだけど、正面からの議論が苦手な国民性もあるので、社会的なコンセンサスは構築されていない。だから何か起きると扇動的なマスコミの報道にも影響されて、極端な方向へ全体が流されがちということも言えるかもしれません。
Posted by ブクログ
1.最近になってますますお金の重要性が増してきた現代ですが、豊かな人ほど「お金は必要ない」と言っています。なぜここまで貧富の差が激しくなったのか、なぜお金が人の心を惑わせてしまうのかが気になったからです。
2.市場主義が浸透し、すべてが市場原理に委ねられ始めた昨今ですが、それに伴って大きな問題が2つあります。まず、公平性の問題です。本書では行列に並ばなくてもプレミアムを払うことで先に行けるシステムが導入されています。それによって、金銭に余裕がある人は進んでそれを支払うことで、生活に余裕を持たせていきます。一方、貧しい人は永遠に待つことになります。これにより、本来は業道で会ったシステムが崩れていくことを指摘しています。次に、腐敗の問題です。昔から裏口入学が問いただされていますが、まさに腐敗の証拠と言えます。金さえ払えばどうにでもなるという考えが蔓延し、施行することや競争させることを避けてきてしまったがゆえに、生じる問題があります。
このように、お金が全てになりつつある社会に対して、改めて問いかけるのが本書の役割だと思っています。
3.貧富の差が拡大してきた大きな理由は、中流階級が貧しくなっていくことだと考えました。今まで出費をしなくてもよかった部分に出費せざるを得ない状況になりました。すると、必然的に支出が上がり、貯蓄率は低下してきます。これにより、生活費の負担が上昇し、貧しくなってしまう構図だと思いました。
Posted by ブクログ
タイトル通り、世の中にこれをお金で買うものなのか?何が問題なのか?
考えさせられる。
需要と供給という経済観点だけで片付かないことが多すぎる…
Posted by ブクログ
値段がつかない、つけられないものにも広告や先物としての価値を見出だし、間接的に値付けされ始めている現実を問う。
「ランナーがホームイン。セーフです。
安全と安心の、ニューヨーク・ライフ」
興ざめしてしまう中継中の広告が、当たり前と感じる世界になるのか。
Posted by ブクログ
お金で買えるものは何か、お金で買うべきでないものはあるか、あるとすればそれを決めるのは何か、そんなお話。
世界では突拍子もないものに値段がついている。驚くような例がたくさん出てきた。
一番印象に残っているのは、「薬物中毒の女性が不妊手術か長期の避妊処置を受ければ、300ドルの現金を与える」という慈善団体の話。その目的は不幸な赤ん坊の誕生を未然に防ぐこと。
当然ながら、猛烈な批判の声がある。では何が問題なのか?と議論を深めていく。
また、値段を設定することで、意図した効果の真逆になることもある。
・(イスラエル)保育園の迎えに遅刻する親が多い問題に対し、罰金制度を設けた結果、遅れる親が増えた。お金を払うことで後ろめたさが消え、延長料金で延長する権利を買っている感覚になっている。
・(スイス)ある山村で、核廃棄物処理場の建設を受け入れるか?というアンケートを取った。条件なしの場合と、村民への補償金を提示した場合とで、なんと後者の方が賛成は激減した。公共心(国に貢献する気持ち)が浸透している場では、金銭的インセンティブは逆効果になることがある。自分は賄賂に動かされたりしない、と。
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『これからの「正義」の話をしよう』のマイケル・サンデル教授が市場主義と倫理の問題を扱った本。原題は、"What Money Can't Buy: The Moral Limits of Markets"でもう少しストレートに道徳上の観点から市場主義を批判していることを示している。
サンデル教授の授業をTVで見たが、事例が豊富で対話での対応が非常にうまい。本書でも市場で取引される微妙な事例が多数取上げられている。『正義』では、その事例の判断を読者に委ねるところが多かったが、本書では踏み込んで市場主義を倫理によって制限すべきであるとする著者の立場を鮮明にしている。その点は『正義』の方が抑制的であった。
サンデルの問題意識は、「市場と市場価値が、それらがなじまない生活領域へと拡大したこと」にある。その事例として非常に多くの具体的な事例を挙げている。
・刑務所の独房の格上げ
・インドの代理母による妊娠代行サービス
・絶滅危惧種のクロサイを撃つ権利
・ディズニーランドのファーストトラック
・主治医の携帯電話の番号
・CO2排出権
・額のスペースを広告に貸し出す
・ソマリアやアフガンの傭兵
・公聴会の席取りのための行列並び
・生命保険の買取り
・セックス
・腎臓
サンデルは、市場主義にその根拠として「不平等」と「腐敗」を挙げる。倫理において「腐敗」を論じるとき、何らかの論理的跳躍が必要になる。「市場はものを分配するだけでなく、取引されるものに対する特定の態度を表現し、それを促進する」という観点は正しく重要だ。保育園での迎えの時間に遅れた場合に罰金を徴収することとなったとい逆に遅刻する親が多くなったというエピソードは、意図と反対の結果になったとともに直感的には意外ではあるが、よく考えると当然のことのようにも思われる。値付けをして金銭に替えることができるものとすることで、それまでの倫理的な義務の性質が変質した例である。しかし、「生きていくうえで大切なもののなかには、商品になると腐敗したり堕落したりするものがあるということだ」ということの間にはまだ大きな間隙が存在しているようにも思う。
市場と道徳についての考え方について、サンデルの意見に完全に賛同できるわけではなく、どちらかと言えば市場にまかせてしまった方がいいと思う範囲は広いように思うが、いずれにせよ提起されている問題は切実であり、検討に値するものだ。
柄谷行人がかつて資本主義は選択できるものではないという意味で「主義」ではない、といったことを思い出した。当時の状況で柄谷がどこまでのことを意味していたのか分からないが、市場を否定しても、市場社会から抜け出ることはもはやできないという意味で捉えた。
サンデルは、市場の論理が生活から道徳的議論を排除する方向に向けることを危ぶんでいる。市場自体は倫理や道徳について判断を下さないからだ。そう主張するときに、柄谷のことを思い出す。
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自分の周りにある様々な"お金に結びつくもの"(例えば広告や企業のロゴなど)やビジネスモデルについて、社会へ浸透させる上での限界点を考察した一冊。
経済的に見ると合理的な事が人間の感情によって不合理になっていく様子が書かれており、どこまでだったら自分らの生活に入り込んでも大丈夫か、お金お金し過ぎて気分を悪くする人が増えないかなど、社会へのお金(ビジネス)の訴え方について、社会/個人とのバランスが非常に大事であることを改めて考えさせられた。
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お金があればなんでもできる?できそう、でも何かが違う。そんな例をいくつも紹介。買えるが倫理を失う。色々な事例紹介があり、それに対する筆者の感想をまとめた本。よく言えば広い知見、悪く言えば淡々と事例を述べてるだけ。総合的な評価は普通かなぁ
Posted by ブクログ
それをお金で買いますか?汎用的なものかと思ったが、市場にウェイトのある本でした。日本というより世界向け。期待のベクトルが違かったので星三つです。
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「金で買えないもの、買えるが買うべきでないものはどこに線引きされるべきか」
ハーバード大学名物教授による市場主義の問題提起。
・良かった点
2012年出版。世相を見るに慧眼だなーと。日本はアメリカより10年遅れる、とよく聞くけど予言書みたいな現実に「おわ~~」と呻きながら読む。「金が全てじゃねぇが、全てに金が必要だ」って漫画にもあったよなー。
・よくなかった点
「ファストトラック」「インセンティブ」「非市場的規範」「商業主義」・・・問題の根っこは同じなので早めにまとめに入ってほしいのですが結構堂々巡りしていて長い。あと多分「お金で買えない道徳的・市民的善というものがあるべき」という論旨なんだけど、ならばそれをどうやって普及していくか、そこまでは言及していないのであくまで端緒。
総評
切り口は面白いが話が長い。
このままだと多分市場の失敗がどうしようもなくなるまで、各々が欲望のままに非市場的領域を踏み荒らして不毛の地を作るんだろうなあと。一方最近、地球規模の良心的運動・SDGsが流行りなのは激しさを増す商業主義への揺り戻しなのかなーという気も。
とりあえず個人でできることといえば「それはちょっとね・・・」という自分のラインで都度NOということくらいかなぁ。みんなやってる、そんなのやせ我慢だ、って馬鹿にされそうな流れでも、守るべき一線があればそれは最終そんなに悪い選択肢じゃなかった、と思えるようになればいいのだけどどうだろう。
Posted by ブクログ
なかなか難解な一冊でした。
社会経済と道徳をどう考えるかというのが本書の大きなテーマ。
その中で、第1章では「行列に割り込む」、第2章では「インセンティブ」、第3章では「いかにして市場は道徳を締め出すか」、第4章では「生と死を扱う市場」、第5章では「命名権」を例にあげ、経済学的に金銭でそれを購入することと、道徳的にそれはどうかということを論じている。
奥が深すぎる。
説明
内容紹介
国民的ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』のサンデル教授、
待望の最新刊登場! 現代最重要テーマに、教授はどう答えるか?
結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。
(本文より)
私たちは、あらゆるものがカネで取引される時代に生きている。民間会社が戦争を請け負い、
臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる。
市場の論理に照らせば、こうした取引になんら問題はない。売り手と買い手が合意のうえで、
双方がメリットを得ているからだ。
だが、やはり何かがおかしい。
貧しい人が搾取されるという「公正さ」の問題? それもある。しかし、もっと大事な議論が欠
けているのではないだろうか?
あるものが「商品」に変わるとき、何か大事なものが失われることがある。これまで議論され
てこなかった、その「何か」こそ、実は私たちがよりよい社会を築くうえで欠かせないも
のなのでは――?
私たちの生活と密接にかかわる、「市場主義」をめぐる問題。この現代最重要テーマに、国民
的ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』のサンデル教授が鋭く切りこむ、待望の最新刊。
著者について
マイケル・サンデル(Michael Sandel)
1953年生まれ。ハーバード大学教授。専門は政治哲学。ブランダイス大学を卒業後、オックスフォード大学にて博士号取得。2002年から2005年にかけて大統領生命倫理評議会委員。1980年代のリベラル‐コミュニタリアン論争で脚光を浴びて以来、コミュニタリアニズムの代表的論者として知られる。類まれなる講義の名手としても著名で、中でもハーバード大学の学部科目「Justice(正義)」は、延べ14,000人を超す履修者数を記録。あまりの人気ぶりに、同大は建学以来初めて講義をテレビ番組として一般公開することを決定。この番組は日本では2010年、NHK教育テレビで『ハーバード白熱教室』(全12回)として放送されている。同講義を著者みずから書籍化した『これからの「正義」の話をしよう』は、日本をはじめとする世界各国で大ベストセラーとなった。
訳者略歴
鬼澤 忍(おにざわ・しのぶ)
翻訳家。1963年生まれ。成城大学経済学部経営学科卒。埼玉大学大学院文化科学研究科修士課程修了。おもな訳書にワイズマン『人類が消えた世界』、サンデル『これからの「正義」の話をしよう』『日本で「正義」の話をしよう』(以上、早川書房刊)『公共哲学』、バーンスタイン『華麗なる交易』など多数。