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645P
チャールズ・ディケンズ
(1812-1870)英国ポーツマス郊外の下級官吏の家に生れる。家が貧しかったため十歳から働きに出されるが、独学で勉強を続け新聞記者となる。二十四歳のときに短編集『ボズのスケッチ集』で作家としてスタートし、『オリヴァー・ツイスト』(1837-1839)でその文名を高める。他にも自伝的作品『デイヴィッド・コパフィールド』(1849-1850)など数々の名作を生んだイギリスの国民的作家。
オリバー・ツイスト (光文社古典新訳文庫)
by ディケンズ、唐戸 信嘉
ノアは慈善学校の生徒で救貧院の孤児ではなかった。私生児でもなく、ちゃんと両親もいた。両親はすぐそばに住んでいた。母親は洗濯女で、父親はのんだくれの下級兵士だった。兵士といってもすでに退役しており、片足が義足で、日割りにすると二ペンス半と少しの恩給をもらって暮らしていた。もうずいぶんと長いこと、近所の店の小僧たちは往来でノアを見かけると、「半ズボン(3)」とか「慈善学校」とか不名誉なあだ名で彼を呼んだ。ノアはじっとこらえて彼らを無視した。だが幸運にも、とうとう名なしの孤児――どんなに卑しい者でも、後ろ指をさすことのできる人物――が彼の前に現れた。彼の鬱憤は利息つきでオリバーにぶつけられることになった。これは、よくよく考えてみるに値する事例である。なぜなら、ノアという人物を観察すると、人間の本性の瞠目すべき特徴が明らかになるからである。王侯貴族であろうと下劣な慈善学校の少年であろうと、愛すべきこうした性格は、身分に関係なく育まれるのだ。
バンブル氏がこのように話すと、オリバーはまた自分の母親が悪くいわれていることを聞きつけ、ほかの一切の物音を消し去るほど激しく扉を蹴りはじめた。と、そこへ、サワベリー氏が帰宅した。夫人たちは、彼の憤怒を誘うような尾ひれをつけてオリバーの不祥事を報告した。彼はただちにゴミ置場の扉を開け、生意気な弟子の首根っこをつかみ、オリバーを引きずり出した。
すぐわきの一里塚には大文字で「ロンドンまで百十キロ」と記されていた。その地名は彼の心に、かつてない、さまざまな連想を呼び起こした。ロンドン! あの偉大なる大都市ロンドン! そこへ行けば誰も――あのバンブル氏でも――もはや自分を見つけることなどできまい! 救貧院の老人たちがよくこんなことをいっていた。気骨のある若者ならロンドンで食うに困ることはない。田舎者には思いもよらぬ生活の手立てがいくらでもあるものだと。助けてくれる者がなければ、行き倒れて死ぬほかない自分のような宿無しの少年にとって、ロンドンこそ目指すべき場所に違いない。このような考えが脳裏をよぎり、オリバーはすぐに立ち上がってまた歩き出した。
その部屋は壁も天井も、古さと汚れのために真っ黒だった。暖炉の前に 樅 の木でできたテーブルが据えてあり、その上にジンジャーエールの空壜にさしたロウソク、何個かの錫のマグ、パンやバターや皿などが置かれていた。紐で暖炉の上に固定され、火にかけられたフライパンの中では、ソーセージが焼けていた。そして手に大きなフォークを持った、年老いた皺だらけのユダヤ人が、そのフライパンの前に立っていた。卑しい、ぞっとする顔立ちは、もじゃもじゃの赤毛によって隠されていた。彼は油で汚れたフランネルのガウンを着て、喉元を大きくはだけ、フライパンと、大量の絹のハンカチがぶら下がっている物干し竿の両方に注意を向けているようだった。年代物の麻袋で作った粗末なベッドが所狭しと並び、四、五人の少年たちがテーブルを囲んで座っていた。彼らはドジャーと同い年ぐらいに見えたが、大人びた様子で、陶器製の長いパイプをくゆらし、酒を飲んでいた。ドジャーがユダヤ人に何事か耳打ちすると、少年たちは彼のそばへ寄り集まった。そしてふり返ってオリバーにニヤニヤと笑いかけた。ユダヤ人も同じように、フォークを手にしたままオリバーのほうを向いて笑った。
このゲームが何回もくり返されたころ、若い女二人が少年たちを訪ねてやって来た。一人はベットといい、もう一人はナンシーといった。二人とも豊かな髪をしていたが、結い方はいい加減で、靴も靴下も薄汚れていた。美人とはいいかねたが、厚化粧をしたその顔はたくましく、威勢のいい感じがした。二人は少しも飾らず人当たりがよかったので、オリバーは実に感じのよいお姉さんだと思った。実際二人はその通りの人物だった。
「多分そうでしょう」オリバーは答えた。「天国はずいぶんと遠くにあって、そこでみんな幸せに暮らしているから、哀れな子供の枕元までわざわざやって来るはずはありません。でも、僕が病気だと母さんが知ったら、きっと天国にいても心配してくれると思います。母さんだって死ぬ前、とても重い病気だったんです。でも、天国にいると、僕のことなど少しも知りようがないかもしれません」オリバーはちょっと黙ってから、そうつけ加えた。「僕が苦しんでいるのを知ったら、母さんも悲しい気分になると思います。夢の中に出てくる母さんは、いつも優しくて幸せそうですけど」
オリバー・ツイスト (光文社古典新訳文庫)
by ディケンズ、唐戸 信嘉
ノアは慈善学校の生徒で救貧院の孤児ではなかった。私生児でもなく、ちゃんと両親もいた。両親はすぐそばに住んでいた。母親は洗濯女で、父親はのんだくれの下級兵士だった。兵士といってもすでに退役しており、片足が義足で、日割りにすると二ペンス半と少しの恩給をもらって暮らしていた。もうずいぶんと長いこと、近所の店の小僧たちは往来でノアを見かけると、「半ズボン(3)」とか「慈善学校」とか不名誉なあだ名で彼を呼んだ。ノアはじっとこらえて彼らを無視した。だが幸運にも、とうとう名なしの孤児――どんなに卑しい者でも、後ろ指をさすことのできる人物――が彼の前に現れた。彼の鬱憤は利息つきでオリバーにぶつけられることになった。これは、よくよく考えてみるに値する事例である。なぜなら、ノアという人物を観察すると、人間の本性の瞠目すべき特徴が明らかになるからである。王侯貴族であろうと下劣な慈善学校の少年であろうと、愛すべきこうした性格は、身分に関係なく育まれるのだ。
バンブル氏がこのように話すと、オリバーはまた自分の母親が悪くいわれていることを聞きつけ、ほかの一切の物音を消し去るほど激しく扉を蹴りはじめた。と、そこへ、サワベリー氏が帰宅した。夫人たちは、彼の憤怒を誘うような尾ひれをつけてオリバーの不祥事を報告した。彼はただちにゴミ置場の扉を開け、生意気な弟子の首根っこをつかみ、オリバーを引きずり出した。
すぐわきの一里塚には大文字で「ロンドンまで百十キロ」と記されていた。その地名は彼の心に、かつてない、さまざまな連想を呼び起こした。ロンドン! あの偉大なる大都市ロンドン! そこへ行けば誰も――あのバンブル氏でも――もはや自分を見つけることなどできまい! 救貧院の老人たちがよくこんなことをいっていた。気骨のある若者ならロンドンで食うに困ることはない。田舎者には思いもよらぬ生活の手立てがいくらでもあるものだと。助けてくれる者がなければ、行き倒れて死ぬほかない自分のような宿無しの少年にとって、ロンドンこそ目指すべき場所に違いない。このような考えが脳裏をよぎり、オリバーはすぐに立ち上がってまた歩き出した。
その部屋は壁も天井も、古さと汚れのために真っ黒だった。暖炉の前に 樅 の木でできたテーブルが据えてあり、その上にジンジャーエールの空壜にさしたロウソク、何個かの錫のマグ、パンやバターや皿などが置かれていた。紐で暖炉の上に固定され、火にかけられたフライパンの中では、ソーセージが焼けていた。そして手に大きなフォークを持った、年老いた皺だらけのユダヤ人が、そのフライパンの前に立っていた。卑しい、ぞっとする顔立ちは、もじゃもじゃの赤毛によって隠されていた。彼は油で汚れたフランネルのガウンを着て、喉元を大きくはだけ、フライパンと、大量の絹のハンカチがぶら下がっている物干し竿の両方に注意を向けているようだった。年代物の麻袋で作った粗末なベッドが所狭しと並び、四、五人の少年たちがテーブルを囲んで座っていた。彼らはドジャーと同い年ぐらいに見えたが、大人びた様子で、陶器製の長いパイプをくゆらし、酒を飲んでいた。ドジャーがユダヤ人に何事か耳打ちすると、少年たちは彼のそばへ寄り集まった。そしてふり返ってオリバーにニヤニヤと笑いかけた。ユダヤ人も同じように、フォークを手にしたままオリバーのほうを向いて笑った。
このゲームが何回もくり返されたころ、若い女二人が少年たちを訪ねてやって来た。一人はベットといい、もう一人はナンシーといった。二人とも豊かな髪をしていたが、結い方はいい加減で、靴も靴下も薄汚れていた。美人とはいいかねたが、厚化粧をしたその顔はたくましく、威勢のいい感じがした。二人は少しも飾らず人当たりがよかったので、オリバーは実に感じのよいお姉さんだと思った。実際二人はその通りの人物だった。
「多分そうでしょう」オリバーは答えた。「天国はずいぶんと遠くにあって、そこでみんな幸せに暮らしているから、哀れな子供の枕元までわざわざやって来るはずはありません。でも、僕が病気だと母さんが知ったら、きっと天国にいても心配してくれると思います。母さんだって死ぬ前、とても重い病気だったんです。でも、天国にいると、僕のことなど少しも知りようがないかもしれません」オリバーはちょっと黙ってから、そうつけ加えた。「僕が苦しんでいるのを知ったら、母さんも悲しい気分になると思います。夢の中に出てくる母さんは、いつも優しくて幸せそうですけど」
婦人の名誉のためにいっておくが、彼女は行かないとはっきり断りはしなかった。ただ、警察に行くのは「どうしても気がすすまない」と確固たる意志を示し、丁寧にやんわりと拒絶したにすぎない。こうした礼儀正しさは、にべもなく断って仲間を傷つけたくないという、生来の育ちの良さに由来するものであった。
恐怖に耐え切れず、オリバーは本を閉じるとわきへ押しやった。それからひざまずいて、自分がそのような罪を犯さぬようにと神に祈り、もし自分がおぞましい犯罪に手を染める運命ならば、今すぐこの命を終わらせてくださいと願った。やがてオリバーは落ち着きを取り戻し、低いきれぎれの声で、この窮地からお救いください、家族にも友人にも愛されたことのない孤児を憐れんでくださるならば、どうか今こそ、邪悪な犯罪を前にして孤立無援でいる自分をお助けください、と嘆願した。
医者はカーテンを戻しながらため息をついた。「悪はどんな人間にも宿る。美しい風貌の奥に、悪徳が宿ることだってある」
朝の散歩がもはや一人きりでなくなったことは、注目すべき変化だった。オリバー自身もそう感じていた。ハリー・メイリーは――花束を抱えて帰宅するオリバーと出会ったとき以来――すっかり花に夢中になり、花の生け方にもなみなみならぬセンスを発揮し、年若い友人をすっかり引き離していた。けれども、こうした点で遅れをとったにせよ、一番いい花がどこに咲いているかを心得ているのはオリバーだった。二人は毎朝一緒に野辺を駆けまわり、とびきり美しく咲いた花々を持ち帰った。今では若い婦人の寝室の窓は開け放たれていた。ローズは豊かな夏の香りを部屋に入れることを好み、その爽やかな香りは彼女の回復を助けた。格子窓のすぐ裏には、丁寧に作られた小さな花束がいつも花瓶に生けてあった。その花瓶に生けられた花束は――水は頻繁に取り替えられていたが――枯れても決して捨てられることがない事実に、オリバーは気づいた。ロスバーン医師が朝の散歩に出かけようと庭を横切るとき、決まってその部屋の窓辺を見上げ、意味ありげにうんうんとうなずくことにもオリバーは気づいていた。そうこうしているあいだに日々は飛ぶように過ぎ、ローズはぐんぐん回復していった。
「上等なウサギのパイだぞ、ビル」チャーリーは肉入りパイを相手に見せていった。「ウサギは美味いぜ。手脚もやわらかいしな。口の中で骨が溶けるほどだ。口からつまみ出す手間もいらない。それから、一ポンド七シリング六ペンスする緑茶を二百グラムだ。濃いの何のって。沸騰した湯に入れればティーポットの蓋がぶっ飛ぶほどだぜ。あとは、精製してない砂糖を七百グラム。アフリカの連中にはこういう上等な砂糖は作れまいよ。一キロもあるパンを二個、極上のバターを五百グラム、グロスター・チーズ一切れ。お終いは、とびきり上等の酒だ!」
「心配するな、チャーリー」慰めるようにフェイギンはいった。「あいつは有名になる。そりゃあ間違いのないところだ。あいつの賢さが知れ渡るときがきっと来るよ。自分でそれを証明するだろうし、旧友や恩師の顔に泥をぬることはあるまい。それにあいつはまだ若い! あの年齢で流刑になるなんて勲章ものさ!」