792
田中修
甲南大学特別客員教授。1947年京都府生まれ。京都大学農学部卒業、同大学大学院博士課程修了。スミソニアン研究所博士研究員、甲南大学理工学部教授などを経て、現職
ラフレシアは大きさも世界一ですが、匂いの強烈さでも世界一の部類に入ります。 その匂いは動物の死骸が腐った匂い、トイレの悪
...続きを読む臭のような匂いと言われています。 それはラフレシアの受粉活動に必要なハエをおびき寄せるためだそうです。
私たちは、「変わっている」というと、文字どおり、〝変〟なことと思いがちです。しかし、その目的がまともなものであり、変わり方が世の中のルールに反しないものなら、「変わっている」ことは、〝変〟なことではないはずです。 しかも、その変わり方が、独自の技術や特技を身につけたことによるものならば、他の人との横並びの競争をしなくてもよくなります。 もちろん競争をすることで、切磋琢磨することは悪いことではありません。それがどうしても必要なこともあるでしょう。 でもその一方で、他のものとは違う、自分独自の術を身につけ、他の人との無駄な競争をできるだけさける生き方もあるのです。
植物たちにとっては、ハチやチョウチョなどの虫こそが、子ども(タネ)をつくるための相手を見つけ、結びつけてくれるキューピッドです。植物たちは花の中にキューピッドを誘い込まなければ、花粉を運んでもらえません。そこで多くの花は、美しい色で装い、いい香りを放ち、おいしい蜜を準備して、懸命にキューピッドを誘い込む努力をします。 多くの花がいっせいに咲けば、この競争はとてつもなく激しくなります。そこで植物たちは、他の種類の植物と、開花する月日を少し〝ずらす〟という知恵を絞ります。 これが「花ごよみ」です。花ごよみは各月に、どのような草花や樹木が花を咲かすかが書かれたものですが、たとえば春に咲くサクラ、コブシ、ボケ、ハナミズキ、フジ、ツツジなども、同じ地域で少しずつ、開花の時期がずれています。
私たち人間で言えば、朝の通勤ラッシュをさけて、時差出勤をするようなものでしょう。 アサガオは朝早く、ツキミソウは夕方、ゲッカビジンは夜一〇時ごろというように、開花する時刻をずらします。
花の香りがクサいというのは、「花の香りは、いいもの」と思っている私たちにとっては、とても変わっているように思われます。でも、これらの植物の香りが変わっていることには理由があります。なぜなら多くの花が、花粉をハチやチョウチョに運んでもらうのに対し、これらはハエに花粉を運んでもらうからです。 だからキューピッドになってくれるハエの好きな香りを漂わせるのです。クサいにおいは私たち人間には悪臭に感じられますが、花粉を運んでくれるハエを誘うための香りなのです。ですから、ハエたちには魅力的な香りなのでしょう。
こうした植物たちの生き方は、それぞれの植物たちが懸命に工夫を凝らして、生きる姿そのものです。変わっていることは、ともすれば、よくないことのように思われます。しかし、変わっていることこそが大切なときもあるのです。 その見きわめはむずかしいかもしれません。 でも変わっていることで他人と自分を差別化し、目指しているものを争うことなく手に入れられるのならば、あえてみんなと同じに〝変わっていない〟ことを選択する理由など、果たしてあるのでしょうか。
植物たちは自分ならではの力や価値をもち、かしこく競争をさけながら、長い歴史の中で、それぞれが〝実り〟のときを迎え、りっぱにたくましく生きています。競争をさけることは決して負けではありません。本章で紹介した、競争をさけた植物たちを考えてみてください。 ハエトリソウやヒガンバナが、工夫を凝らして身につけた独創性のあるしくみは、時代や場所が変わっても、りっぱに評価されるものです。 競争をさけている植物たちは、決して負け組なんかではありません。逆に、競争をさけるために身につけた工夫やしくみを生かして、自分たちの存在感を示し、多くの植物たちとともに、りっぱに生きているのです。
私たちも他人と異なる力をもって、地域や社会の役に立てば、大切にされ、評価を受けることができます。自分だけの〝実り〟を手に入れ、他人と競うことなく求められる存在になることができるのです。
能力が十分に発揮できない環境であっても、与えられた場でめげることなく、精いっぱい生き抜くという、この植物の〝かしこさ〟には感服せざるを得ません。
私たちはともすれば、完全であり、完璧であることばかりを求めがちで、いつも「何かが欠けている」と、不安を感じてしまいます。でも、「必ずしも、完全、完璧であることを求める必要はない」ということを教えてくれる植物たちはたくさんいます。この章ではそうした植物を、紹介したいと思います。
ダーウィンは、「この世に生き残るのは、最も力の強いものでも、頭のいいものでもない」につづいて、「〝変化〟に対応できる生き物だ」という言葉を残しています。あるいは同じ意味で、「この世の中では、最も強いものが生き残るのではなく、最もかしこいものが生き延びるのでもない。唯一生き残ることができるのは、変化できるものである」とも言われます。これには諸説あり、ダーウィンの言葉ではないという説もありますが、誰の言葉であるかは別にして、その内容は十分に納得できます。
私たちは「若いときには、言葉や感情にトゲや角が多くあるが、年齢を重ねると、トゲや角が取れて人間性が丸みを帯びてくる」と言われます。そこでこのような生き方に「ヒイラギ人生」という語が当てられます。 ただしヒイラギが、トゲをなくした丸い葉っぱをつくり出すのは、年齢を重ねて性質が丸くなり、トゲや角が取れたからだけではありません。年齢を重ねたヒイラギは、そこからさらに何年も生きつづけます。ですから、「虫に食べられるなら、自分が食べられることで、若い葉っぱが食べられるのを防ぎたい」と考え、これまでの姿を手放して、種をつなぐ役に立とうとしているはずなのです。
私たちは、年齢を重ねるとトゲや角が取れて人間性が丸くなることだけを、「ヒイラギ人生」と表現しがちです。しかし、それでは不十分かもしれません。 私たちも歳を重ねたら、「自分が、自分が」と自分の人生ばかりを完璧なものにしようとするのではなく、若い人の役に立つようになるべきなのです。トゲや角が取れて人間性が丸くなると同時に、若い人たちの役に立ってこそ、ほんとうの「ヒイラギ人生」と言えるのです。
動きまわれる動物と、動きまわらない植物のどちらが生き物として優れているかということを決める必要はありません。しかし、植物が動きまわらなくても生きており、繁栄している姿を見ると、動きまわれることだけが、生き物としての完璧な姿であると考える必要はないでしょう。また、それこそが生き物として繁栄する要因ではないとも考えねばなりません。
私たち人間も、見えない完璧を求めて、「足りない、足りない」とどん欲に求めつづけるのではなく、植物の自給自足とともに、動きまわらない生き方を、少し取り入れていく必要があるようにも思われます。
高山植物に、美しくきれいであざやかな色をしている花が数多く存在するのは、空気が澄んだ高い山の上では、紫外線が多く照りつけるからです。 強い太陽の光が当たる、畑や花壇などの露地で栽培される植物の花も、紫外線を吸収するガラスの温室で栽培される植物の花より、ずっと色あざやかです。これも紫外線を含んだ太陽の光を直接受けるからです。
私たち人間も、ひとりでは生きていけません。何かを食べることを考えても、「つくる人」「運ぶ人」「売る人」などのつながりがあります。 趣味や特技は自分のものといっても、他の人とのつながりなしにできるものは、ほとんどないでしょう。 私たちの暮らしの中にも、多くのつながりの中に、〝助け合う〟という気持ちでつながる絆があります。この絆が地域、組織、社会に広く張りめぐらされ、太く強いものになって機能すれば、私たちの世界も、より心豊かに暮らせる社会になるのかもしれません。