小学生の頃父親の本棚にあった本の中で坂口安吾の本が別格の威圧感を漂わせながら佇んでいた事を鮮明に覚えている。
先月一時帰国する機会があり、今の仕事の話や読書談義をしていた時にふと坂口安吾の事を思い出して父親に好きだった作家の話を聞くと坂口安吾の名前が出てきた。
彼の文体には人を惹きつける力と魅力があり好きだったと話をしており今回手に取ってみた。
なんだか父親の本棚の本を大人になり、読めるっていうのは気恥ずかしくも、少しだけ追いついた気もして嬉しい気分になった。
坂口安吾の文章を見て、一つの事象や人間について深い洞察と、語り口は確かに魅了されるものがあった。
内容について自分がどうこうと語るにはあまりにも浅くチンケな感想になるので気に止まった分だけ引用させてもらい今回のメモにしたいと思う。
いつか自分もこれだけの深い洞察と人間理解、教養から繰り出される言葉を紡ぎ出せる様になりたい。
久しぶりにそう思わせてくれる人物だった。
【引用】
小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦
僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。
美は、特に美を意識してなされたところからは生まれてこない。
どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。
ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。
そうして、この「やむべからざる実質」がもとめたところの独自の形態が、美を生むのだ。
実質からの要求をはずれ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たあいもない細工物になってしまう。
これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ。
堕落論 p34
人間の、また人性の正しい姿とは何ぞや、欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。
好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、ボ裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることがまず人間の復活の第一の条件だ。
そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。
日本国民諸君、私は諸君に、日本人および日本自体の堕落を叫ぶ。日本および日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。 堕落論 p107
人間は生きることが全部である。
死ねば、なくなる。
名声だの、芸術は長し、バカバカしい。
私は、ユーレイはキライだよ。死んでも生きるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
生きることだけが、だいじである、ということ。
たったこれだけのことが、わかっていない。
ほんとうは、わかるとか、わからんという問題じゃない。
生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、ただなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。
生きてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。
いつでも、死ねる。そんな、つまらぬことをやるな。
いつでもできることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。
私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、ただ白骨、否、無である。
そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生まれる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。 堕落論 p 239
しかし、生きていると、疲れるね。
かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。
戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。
しかし、度胸は、きめている。
是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。
そして、戦うよ。
決して、負けぬ。
負けぬとは、戦う、ということです。
それ以外に、勝負など、ありやせね。
戦っていれば、負けないのです。
決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。
勝てるはずが、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。 堕落論 p 239
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。
時間というものは、自分が生まれてから、死ぬまでの間です。 堕落論 p 239