人はどう事物を見て(認識)、どういうふうに覚え(記憶)、どう考えるのか(思考)といったところ軸に、人間の認知の仕方をつぶさにながめ、解き明かしていくのが認知科学です。認知科学は学際的な学問で、多領域を横断して作られていく学問と言うことです。認知心理学、発達心理学、社会心理学、哲学、言語学、社会学、教育学、神経科学、動物心理学、生態学、コンピューターサイエンスなどが、認知科学で使われたり参照されたりしています。本書では、認識、記憶、思考についてのとらえ方、現在わかっている知見を読んでいくのもかなりエキサイティングなのですが、ここでは僕が特に気になったトピックをまとめる記事とします。
サバン症候群のナディアという女性が五歳の時に描いた馬の絵が図4-3としてp116に掲載されています。馬に乗った近衛兵を描いた絵なのですが、五歳が描く絵ではないような躍動感や写実的正確性を感じさせるスケッチなのでした。ナディアはこのとき、ほとんど言葉を発することができず、社会的に無反応で、動きもぎこちないものだったといいます。次に、数字の順序(1の次は2,2の次は3ということ)を覚えたチンパンジーに行わせた実験が例に出されていました。タッチパネルの数字の「1」をタッチすると、表示されていた残りの数字にマスクがかけられてしまい、まるでトランプゲームの神経衰弱のようではあるのですが、どこに次の「2」があって「3」があって、というのを覚えておいてそのマスクされたタッチパネルを押していくというゲームがこの実験です。チンパンジーはこれをそつなくこなしていくのですが、同じゲームを大学生にやってもらうとなかなかうまくいかないそう。
こうした例に共通するのはなんなのだろうか、という疑問に答えるのが、下の引用になります。
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ここからは哲学者であるハンフリーの考え方に従ってこの問題を考えてみたい。彼はナディアの描いた絵を、一万五千年から三万年前にクロマニヨン人によって描かれたとされる、写実的で、躍動的、遠近感のある馬の洞窟画と比較している。彼の『喪失と獲得』に掲載されているクロマニヨン人による馬の群れの洞窟画とナディアの絵との類似性は衝撃的なほどである。ここからハンフリーは、優れた視覚的な記憶の背後には、言語の欠如があると主張している。裏を返せば、私たちの視覚的記憶が驚くほど貧弱なのは、言語を獲得したせいということになる。(p117)
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→視覚でとらえたものを言葉にして記憶する、という行為をあたりまえのように私たちは行います。この、「言葉にする」段階で、実際の視覚的情報からかなりの情報量を削っているということなんです。言葉は抽象的ですし、簡便なものです。情報を言葉に置き換えると、そのぶん、情報を扱うエネルギー的にも記憶する行為的にも省エネで済む。その結果、本来の情報元を実はぼんやりとしか把握できていない、という結果になっている。これはこれで、省略してもっと多くの物事や概念を覚えたりしてそれらを組み合わせてアイデアを作っていったりする方向に頭を使う、という思考システムとして有効だからなのかもしれません(この一文の部分は僕自身の素人考えではありますが)。音楽を作る人や、絵を描く人で、ぼんやりと考えていたり言葉を使わないで考えていたりする人はいると思いますけれども、そういった人たちは、外界からの情報量をなるべく損なわないで感じていようとする姿勢が、無意識的に働いているのかもしれません。あと、余談ですが関係がありそうなのは、精神に疾患が生じる人のケースです。一般的な人のように外界からの情報をフィルターで濾して、少なくなり適正な情報量として受け取る、ということができなくなっている、というのが精神疾患が発生した人にはあると言われます。フィルターが破れてしまったからだ、なんていう喩え方がありますけれども、言語を獲得した現代人にとっては、外界からの情報の扱い方として精神衛生上、言葉がフィルターとなっているとも考えられます。
なにか大きな事件、インパクトのある事件などがあると、マスメディアはそれ一色になります。新聞、週刊誌、テレビのニュース、ワイドショーなど事件の経緯、経過、今後について細かく、時間をふんだんに使って伝えてきます。それが認知の偏りをつくることについての引用が次になります。
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このような報道が繰り返しなされると、それは当然記憶に定着しやすくなる。記憶に定着すれば、それは随時呼び出し可能、つまり思いだしやすくなる。ここで利用可能性ヒューリスティックがはたらき、思い出しやすいのだから発生の頻度が高いという判断を下してしまうのである。
はじめにも述べたように、利用可能性ヒューリスティック自体は実世界では有用な場面も多く、それ自体が間違っているとは言えない。おそらく多くの場合、このヒューリスティックは有益な情報をもたらしているはずである。(p182)
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→こうありますが、このヒューリスティックはメディア社会では誤作動を起こしてしまうのです。その理由は。マスメディアの性質自体にあり、それは、めずらしいこと、変わったことに報道の価値があると考えるからです。「ニュースの価値がある」とは「めったに起きない」にあり、それが連日さまざまなところで報道されることにより「よくあること(発生しやすい案件)」だと誤認してしまう。これによって、誤認なのに「厳罰化」を求める声が高まったり、監視社会化が進んだりします。ちなみに、ヒューリスティックとは、コンピューターによるしらみつぶしのやり方とは違って、勘のようなものが働いて「だいたいこうすればこうなる」的に問題を解決する人間らしい思考の癖のようなものです。
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生死が関わるような状況が作り上げられると、また別のバイアスもはたらくようになっている。どうも私たちは死が関わるような危機的な場面になると、集団主義的傾向を強めるとともに、、そこからの逸脱者に対して不寛容になることが多いらしい。たとえば戦時中の日本とか、9・11後のアメリカなどである。そういう時には団結心が高まると言えば聞こえはよいが、通常と異なる意見に対するきわめて激しい弾圧、バッシングがある。こうしたことが恐怖管理理論(存在脅威理論)という立場から研究され、実験的にも確かめられている。たとえば、死についてのアンケートに答えた後には、それとは全く無関係の法律違反者に対して厳しい罰を望んだり、葬儀場の前にいると、自分と同じ考えを持つ人の数を高く見積もったりする。(p196)
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→たとえば東日本大震災のときに自粛ムードが漂いましたが、そこは集団的傾向の強まり、そして「逸脱者に対しての不寛容」に合致するところです。また、精神医学の観点から見ると、不安障害の人が、とくに大きな障壁がないにも関わらず、家族を束縛し支配する例がありますが、これがここで引用したバイアスと関わっていることが推測されると思います。
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実は、一九九〇年あたりに認知科学に起きていた変化は、生物学的シフトだけではない。もう一つとても重要なシフトがあった。それは社会学的シフトよ名付けることができると思う。知性を個人の内部に求めるのではなく、他者、人工物、社会、文化との関係の中で考えていくという立場である。これは認知科学の中に状況論、状況的認知という大きな勢力を作り出した。(p269)
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→社会心理学で言われる「帰属の基本的エラー」の話がこれに相当します(社会心理学も、学際的である認知科学に貢献する分野ですから、まったくの門外漢としての知見ではないのですが)。帰属の基本的エラーについては、過去に山岸俊男さんの『日本の安心はなぜ消えたのか』で読み知っていました。別の本の引用になりますが、それをご紹介します。<人間の行動が、つねにその人の本心から行われているものとはかぎりません。周りの状況からやむなくそういう行動をしている場合もありますし、第三者から強制されて、しぶしぶやっている場合もありえます。そんなことは誰でも分かってはいるのですが、こと他人がやった行為については、そうした「事情」があってのことではないかと思わずに、その人がそういうことをする「心の持ち主」だと考えてしまうのです。(中略)このように、相手の行動から「相手の意図」を推しはかる性質が人間にあるために起きる認知の間違いを「帰属の基本的エラー」というわけです。 『日本の安心はなぜ消えたのか』山岸俊男 p80-82>
また、これは「人間は思いたいように思うもの」というリップマン『世論』に通じる知見でもあります(リップマンはステレオタイプという概念を『世論』によって世に広めました。そのベースにはどうやらカントの哲学があるみたいです)。