304P
本名エリックブレア
オーウェルはギッシングとキプリングが好きらしい
川端康雄
かわばた・やすお
1955年、横浜に生まれる。明治大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。日本女子大学文学部教授。イギリス文学、イギリス文化研究。横浜市生まれ。明治大学文学部文学科英米文学専攻、同大学院博士課程中退。小野二郎、平野敬一に師事。十文字学園女子短期大学教養学科専任講師、助教授、十文字学園女子大学社会情報学部助教授、教授を経て、2002年より日本女子大学文学部英文学科教授。2016年度より日本ヴィクトリア朝文化研究学会会長、2019年度より日本ワイルド協会会長。
「オーウェルは一九〇...続きを読む 三年に生まれ、一九五〇年に亡くなった。五〇年に満たない短い生涯であったが、じつはもっと早く、一九三七年五月に死んでいてもおかしくなかった。スペイン内戦に義勇兵として共和国陣営のために戦っていた彼は、塹壕から顔を出したときにファシスト兵の狙撃を受け、喉を銃弾が貫通する重傷を負った。その詳細は後述するが、もしこのとき命を落としていたら、『動物農場』(一九四五)も『一九八四年』(一九四九)も書かれず、少なくとも現在知られているようには、世界的な名声を得てその著作がいまなお広く読まれていることはなかっただろう。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「自分自身の私生活についてはそれほど饒舌ではないオーウェルであったが、自身の経歴をつづった文章を多少は残している。そのひとつが『動物農場』のウクライナ語版のために求められて一九四七年の春に書いた序文にふくまれる略歴である。私は一九〇三年にインドで生まれた。父親は現地で英国政府の役人をしていた。私の家は、軍人、牧師、官吏、教師、弁護士、医者などからなる、ありきたりの中流階級家庭のひとつだった。教育はイートン校で受けた。これは英国のパブリック・スクールのなかでいちばん金がかかる、お高くとまった学校である。だが、私がそこに入れたのはひとえに奨学金のおかげで、それがなければ、父にはそんな学校に私をやる余裕はなかった。 ジョージ・オーウェル( George Orwell)という名は二〇歳代の終わりに採用したペンネームであり、本名はエリック・アーサー・ブレア( Eric Arthur Blair)という。父親のリチャード・ウォームズリー・ブレア(一八五七―一九三九)はインド植民地の役人を一八七五年から一九一二年まで勤めた。英国南部ドーセット州の出身で、先祖は貴族階級とも血縁関係がある裕福な家柄だったが、一九世紀にしだいに資産が減り、リチャードは一八歳で植民地の下級役人として就職。少なくとも上層中流階級の体面(リスペクタビリティ)を保ち、そこそこの収入を確保できる職種ではあった。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「官吏となって二三年目にあたる一八九七年、リチャードは一八歳年少のアイダ・メイベル・リムーザン(一八七五―一九四三)と結婚した。アイダの父はフランス人、母は英国人で、ロンドン郊外で生まれたが、チーク材の輸出と造船業を営む家業の関係で、結婚まで大半をビルマ(ミャンマー)の港町モールメイン(モーラミャイン)で過ごした。結婚後ブレア夫妻はベンガル地方に八年間住み、その間にふたりの子どもをもうけた。一八九八年に長女マージョリー、そしてその五年後、一九〇三年六月二五日に本書の主人公エリックがベンガル地方のモティハリにて誕生。翌一九〇四年夏にリチャードひとりがインドに残り、アイダは幼子ふたりを連れて英国へ、オクスフォード州、テムズ河畔の市場町ヘンリー・オン・テムズに居を構えた。リチャードは一九〇七年の夏に三カ月間の休暇を取って一時帰国するが、つぎに英国にもどるのは一九一二年、定年退職してからのことだった。なお、一九〇八年に次女アヴリルが生まれている。オーウェルは八歳まで、実質上父親不在のまま母と、またそれぞれ五歳離れた姉妹とともに暮らしていたわけである。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「エリックがなによりも安らぐことができたのは長期休暇で実家に帰省していたときだった。ブレア家は一九一二年秋にヘンリー・オン・テムズの家から三キロほど南にあるテムズ河畔のシップレイク村のローズ・ローン館に転居していた。広い庭に囲まれた館はなだらかな丘の頂近くにあり、数分歩けばテムズ川まで行けた。しばらくはひとりでいるか姉妹と遊ぶかして過ごしていたが、一九一四年の夏に当時一一歳だったエリックは近所に住むバディコム家の子どもたちと知り合った。長女のジャシンサ(当時一三歳)、長男プロスパー(一〇歳)、次女グウィネヴァー(七歳)の三人である。ジャシンサの回想によると、彼らが館近くの野原で草クリケットに興じていたとき、ふと隣の敷地を見ると逆立ちをしている男の子がいる。エリックだった。三人が近づいていって「なんで逆立ちしているの」と聞くと、「ただ立っているより逆立ちしているほうが目立つから」との答え。これを機に遊び仲間となり、一九一五年にブレア家がふたたびヘンリーに転居してからも帰省中はシップレイクまでよく会いに出かけた。プロスパーとは一緒に川釣りをしたり、火薬を使った危険な遊びをしたりして過ごしたが、ジャシンサとは本を貸しあって感想を語ったり、それぞれが創作した詩を読み合ったりした。ある時点でエリックはジャシンサに恋心をいだきはじめたようである。彼らの交際は一九二一年夏まで、七年間つづく(バディコム『エリックと私たち』)。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「 「私は一三歳から二二、三歳まで、避けられる仕事はほとんどひとつたりともしたことがなかった」という言葉を先ほど引いた。これはイートン校時代と後述するインド帝国警察官時代の両方をふくむ期間である。じっさい、イートン校では、ラテン語、古典ギリシア語、フランス語、数学、理科、英語、神学などを履修したが、初年度から全科目で成績はふるわなかった。まもなく「コレッジャー」のなかでは最下位に近く、能力別クラスで「オピダン」たちと一緒のほうが多くなった。もっとも、留年はしなかったので、最低限の勉強はしたようである。イートン校時代で特筆すべき点を挙げるなら、講師陣に作家のオールダス・ハクスリー(一八九四―一九六三)がふくまれていたことである。同窓生のスティーヴン・ランシマン(一九〇三―二〇〇〇。長じて歴史学者となる)の回想によれば、ハクスリー自身は教師仕事を苦にしていたようであるが、彼に興味をもつ生徒もいて、とりわけエリックはそうだったという。「ハクスリーの言葉遣いは私たちにはかなり印象的でしたが、私の記憶では、それを話題にしたのはエリックだけでした」(『思い出のオーウェル』)。のちに『すばらしい新世界』(一九三二)と『一九八四年』という二〇世紀の代表的なディストピア小説を書くふたりの邂逅がこのときあった。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「奨学生(コレッジャー)であればオクスフォードかケンブリッジへの大学進学が通常の進路であった。だがエリックはその道に進まなかった。関係者の回想のなかには、ジャシンサ・バディコムのように、エリックはオクスフォード進学を希望していたと言う人もいるが、早い段階で彼は大学に進む意志を放棄したか、あるいは初めからその気がなかったかのどちらかであったようだ。いずれにせよ大学で奨学生になる成績はとっておらず、ブレア家では彼を大学に行かせる経済的余裕はこれ以上なかった。母親より父親のほうが消極的だったようだ。スティーヴン・ランシマンによれば、エリックは「東洋に行きたがっており、一種感傷的な思いをいだいていました。東洋のことをほとんど覚えていないのに、ノスタルジアを感じていたのです」(同)。長い期間事実上の母子家庭で育ったエリックは、八歳のときに定年退職で帰国した父親を特別に敬愛していたようには見えないが、結局父親と似た道に踏み出すことになった。インド帝国警察官として植民地ビルマに赴任したのである。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「合格後、副警視見習いとして研修を積んだうえで、いよいよアジアに赴任となる。希望する任地を問われてブレアはビルマ(現ミャンマー、当時は英領インドの一地方)を第一希望とした。次いでインド北部の連合州、ムンバイ、マドラス、パンジャブの順に挙げた。ビルマは当時インド植民地のなかで犯罪発生率がもっとも高く、また折しもビルマ人のイギリス政府への反感が強まっていたこともあり、赴任地としてはもっとも人気がなかった。そこを希望したブレアは、「同地に親族がいるため」と理由を挙げている。ブレアが赴任したときには祖父は没していたが、祖母のテレーズ・リムーザン(一八四三―一九二五)は健在だったし、伯母のノラ(テレーズの長女、一八六六年生)も林野庁勤務の夫とともにモールメインに住んでいた。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「インド帝国警察の一員となった時点でブレアはどのような思想をいだいていたか。セント・シプリアン校とイートン校で刷り込まれたイギリス帝国の一員としての誇りと自負心が心中に根を張っていたのではなかったか。イートン校の高学年では仲間たちとともにロシア革命にかぶれて「革命的」になり、愛国歌を嘲笑していたとのちに回想しているが、愛国心の根強さは否定できない。若年期に彼がラドヤード・キプリングやヘンリー・ニューボルト(一八六二―一九三八)といった愛国詩人たちの帝国讃美の詩に大いに鼓舞されていたことは、「右であれ左であれ、わが祖国」(一九四〇)ほかのオーウェルの文章に明らかである。一九三六年にキプリングが没した際に寄せた一文で、英国民にとっていかにこの詩人の影響力が強かったのかを指摘し、「私自身について言えば、一三歳のときにキプリングを崇拝し、一七歳のときに大嫌いになり、二〇歳で愛読し、二五歳で軽蔑し、いまはまたかなり称賛するようになっている。とにかくその作品を読んだことがある人なら、彼を忘れるということだけは絶対に不可能である」(『ニュー・イングリッシュ・ウィークリー』一九三六年一月二三日)と書いている。愛唱した詩のひとつは「マンダレー」(一八九〇)で、その出だしはこうである。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「T・ S・エリオット(一八八八―一九六五)が編纂した『キプリング詩選集』(一九四一)の長文の書評として書かれた一九四二年のエッセイ「ラドヤード・キプリング」では、オーウェルはキプリングを「すぐれた通俗詩人」( good bad poet)という独特な表現で評価している。「マンダレー」はエドワード・サイードのいうオリエンタリズム、すなわち「東洋に後進性・官能性・受動性・神秘性といった非ヨーロッパ-イメージを押しつける、西洋の自己中心的な思考様式」(広辞苑)に満ちた詩であるといえるが、一九歳のこの時点で、ブレアは帝国主義への批判意識はまだ持ちえていなかったように思われる。それには経験が必要だった。希望する赴任先の筆頭に他の合格者たちが避けたビルマを挙げた動機として、「親族がいるため」というのはたしかにあったのかもしれないが、こうしたオリエンタルな異国情緒を多分にもつキプリングの「マンダレー」の詩が少なからず作用していたのではないか。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「コロンボに寄港した際の思い出も後年書き残している。その土地の苦力のひとりがブリキ製の重いトランクをふらふらした足取りで運んでいる。そばを歩く乗客や船員には危なくてしようがない。それを見て白人の巡査部長が苦力の尻に思い切り蹴りを入れる。白人の乗客たちから、巡査部長の行為を是認するような声がもれる。だがこれがもしイギリス国内でのことだったらどうであったか。鉄道駅の(白人の)ポーターがおなじ仕打ちをされるのを見たら、どんな身勝手な百万長者であっても、少なくとも一瞬は憤慨することだろう。それはイギリス人同士だからである。ところがここでは、ふつうのイギリス人でもこれを見て心を動かされず、むしろ是認してしまう。「自分たちは白人で、苦力は黒人、言い換えるなら、その男は人間以下であって、異なる種類の動物」とみなしてしまえるからだ(「走り書きノート」『タイム・アンド・タイズ』一九四〇年三月三〇日)。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「このジョン・フローリーはビルマの白人社会に溶け込めずにいる。生来左頰に目元から口元まで青黒い痣があるのが要因でもともと引っ込み思案であったのだが、そこにイギリス帝国の支配への違和感が加わっている。いま彼〔フローリー〕の考えの中心を占めていて、すべてを毒しているものは、自分を取り巻く帝国主義の雰囲気へのますます強まる憎悪の念だった。頭脳の発達は止められない。そしてようやく頭脳を発達させたときにはすでにまちがった生き方をしてしまっていて手遅れになっているというのが、中途半端に教育を受けた者の悲劇のひとつである。そのようにして彼の頭脳が発達すると、イギリス人と彼らの帝国の内実がわかってきたのだった。〔英領〕インド帝国は暴政である。おそらく慈悲深いものではあっても、窃盗を最終目標とした専制であるのは変わりない。(第五章)」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「インド警察に五年いて、その終わりごろには、なんとも言えぬ苦々しい気分で、自分の仕えている帝国主義を憎んでいた。英国の自由な雰囲気のなかにいたらまったくそれに気づけない。帝国主義を憎むにはその一部とならねばならない。外から見ると、インドでのイギリスの支配は慈悲深く、必要なことであるようにさえ見える。じっさい、たしかにそうだ。おそらくフランスのモロッコ支配、オランダのボルネオ支配も同様なのだろう。たいてい外国人を統治したほうが自国民を統治するよりもうまくいくからだ。だがそうした体制の一部になると、それを申し開きようのない圧政として認識せずにはいられない。(『ウィガン波止場への道』第九章。強調は原文)」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「ブレアが在職中のビルマは反英感情が高まっていた時期であった。一八八六年に英領インドの属州となって以来、第一次世界大戦が終結した一九一八年あたりまではイギリスのビルマ統治は比較的円滑になされていた。悪化したのは一九一九年、インド統治法が制定されたときである。中央政府からインドの各州に部分的に権限委譲がなされ、「両頭制」が施行されたのだが、ビルマはその適用除外とされたために、ビルマ人のナショナリズムが一気に高揚した。一九二〇年(ブレアが赴任する二年前)には大学でストライキが決行され、学生や若い僧侶たちの反英・民族運動が拡大した。二三年にビルマでも「両頭制」が導入されたものの、英領インド中央政府の支配は実質上変わらず、とりわけ農村の貧困が深刻化した。治安も悪化した。一九二〇年代前半のビルマの警察官の数は一万三〇〇〇人強、一九二三年から二四年にかけて四万七〇〇〇件の犯罪事件が発生、一九二五年に八〇〇件の殺人事件が起きている。監獄に収容された囚人の数はビルマ全体で一時期一万六〇〇〇人にのぼった(テイラー『オーウェル』第四章)。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「 『ウィガン波止場への道』とほぼ同時期に書かれた「象を撃つ」(一九三六)の冒頭はこう書き出される。「下ビルマのモールメインで私は大勢の人に憎まれていた──そこまで憎まれるほど重要人物だったというのは、生まれてこのかたそのときだけだった」。語り手である「私」は警官であることでとくに現地民の嘲笑と嫌がらせの標的になっている。サッカー試合でビルマ人の相手からトリッピングの反則を受けるとビルマ人の審判が見て見ぬふりをする、それを見て群衆が悪意のこもった笑い声をたてる。「なかでも仏教徒の若い僧侶が最悪だった。彼らは町に数千人といたが、街角に立ってヨーロッパ人を嘲ること以外にすることがないように見えた」。そうしたことが再三起き、神経がまいってしまう。その一方で、「私」は当時すでに「帝国主義は悪であり、さっさと仕事をやめて逃げ出したほうがよい」と思っている。刑務所の悪臭に満ちた監房に押し込まれた囚人たちの痛々しい様子を見ると、「やりきれない罪悪感」に苛まれる。つまり「私」はふたつの矛盾しあう感情の板挟みにあっている。「一方では、イギリスの統治は強大な圧政であり、ひれ伏した諸民族の意志を永遠に踏みにじるものだと思いながら、もう一方では、僧侶どもの腹に銃剣をぶちこめたらどんなに嬉しいだろう、と思っていたのである」。 右で監獄の囚人への言及があった。『ウィガン波止場への道』でもこれは言及されている。植民地の警察官という「現実的な暴政の一機構」を自分は担った。「汚れ仕事に手を染めることと、単に汚れ仕事から利益を得ることとはまったくの別問題である。たいていの人は死刑制度を認めているが、絞首刑執行人の仕事はご免であろう」。そしてこう言う。「人が絞首刑に処されるのを一度見たことがある。それは千回の殺人よりも邪悪なことであるように思えた。牢屋に行くと(牢屋に行く人はたいていおなじ気持ちになるのだが)、自分の居場所は鉄格子のあちら側だと思えてならない」(第九章)。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「奇妙なことだが、その瞬間まで私は、ひとりの健康な、意識のある人間を殺すということがどういうことなのか、まったくわかっていなかった。ところが、囚人が水たまりを避けようとして脇にのいたのを見たとき、盛りにある生命を突然断ち切ってしまうことの不可解さを、そのなんとも言えない不正を悟った。この男は死にかけているわけではない。われわれとまったく変わらずに生きている。〔中略〕彼もわれわれも一緒に歩いている人間の一行で、おなじ世界を見、聴き、感じ、理解している。それがあと二分もすれば、突然ガタンといって、われわれのうちのひとりが消えてしまう。〔中略〕精神がひとつ欠け、世界がひとつ欠けてしまう。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「 この囚人の罪状がなんであったのかは記されていない。死刑制度全般の非道さを問う作品と解することも可能かもしれないが、文脈からして、植民地でのイギリス帝国の暴政への批判が込められていると読んで差し支えないだろう。処刑を「無事に」終えた一行(そこには「私」もふくまれる)は、まだ朝なのだが、刑務所長にすすめられてみなでウィスキーを飲む。冗談を言って笑いあったりもする。「絞首刑」はこう結ばれる。「私たちは、原住民もヨーロッパ人も区別なく、みんなで和気あいあいと酒を飲んだ。男の死体は一〇〇ヤード〔約九〇メートル〕離れたところにあった」。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「 これは先に引いた「象を撃つ」の矛盾する心情のうちの片面をホリスに語っていたわけであり、それはおそらく噓ではなかったとしても、帝国主義への嫌悪感というもうひとつの面はおくびにも出していなかったことがわかる。一〇年後に述べたように、英領インドに住むイギリス人は罪悪感に苛まれてもそれを人に知られないように努めねばならない。言論の自由がないからだ。帝国主義批判をしようものなら一生を棒にふりかねない。安全だと判断できた例外的な場合にのみそれを打ち明けられる。あるときブレアはマンダレー行きの夜行寝台列車で乗り合わせた同国人の役人と会話をかわした。三〇分ほどかけて相手が「安全」な人物だと判断してから、イギリス帝国への呪詛の言葉を存分に口にしあう。「理路整然と、また実情をよく知る者として、帝国を内部から罵った。おたがいそれは気持ちのいいことだった。だが私たちは禁断の話をしてしまったのだ。朝のやつれた光のなか、列車がゆっくりとマンダレーに入っていったとき、ふたりは、さながら姦通を犯した男女のように、後ろめたさを覚えながら別れていった」(『ウィガン波止場への道』第九章)。『一九八四年』において「ビッグ・ブラザーが監視している」オセアニア国の一地方、エアストリップ一号(「滑走路一号」 =旧イギリス)の首都ロンドンで自身の非正統的な思いをひた隠しにしながら、しかし秘めた思いを日記に書き連ねる、あるいは反逆行為としてジュリアと逢引する、そうした禁断の行為をせずにはいられない主人公ウィンストン・スミスの原型が、帝国の警察官エリック・ブレアにあると見てよいのかもしれない。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「 一九四六年に発表したエッセイ「なぜ書くか」の冒頭でオーウェルは「ごく幼いときから、五、六歳頃からだろうか、大人になったら物書きになるのだと思っていた。一七歳頃から二四歳ぐらいまでのあいだはこの考えを捨てようと努めたのだが、それは自分の本性に背いている、いずれは本腰を入れて本を書くだろうという意識は消えなかった」と述べている。作家志望を断念しようとした期間は、イートン校最終学年からビルマ勤務の五年目まで、インド帝国警察官の身分であった期間にほぼ重なる。断念しようとしてはいたが、それができなかった。じっさい、ビルマ在住のあいだに彼が創作の試みをしていたことは残された草稿によって明らかである。またビードンの回想にあったように、クラブに行くよりもひとり読書にふけるほうを好んだブレアは、同時代の文学の動向もよく押さえていたように見受けられる。 残っている草稿には詩が六篇、シナリオがひとつ、戯曲のダイアローグ、また小説用と思われる五つの断片的スケッチがふくまれる。それらのスケッチには『ビルマの日々』の主人公と同名のジョン・フローリーが出てくる。おなじく登場人物のラッカースティーン夫妻も出てくるし、架空の舞台となる「チャウタダ」の地名も見られるが、『ビルマの日々』とは筋が異なる。ひとつの断片「ジョン・フローリー、私の墓碑銘」は一人称の語り手のフローリーが自身の埋葬を語り、「ジョン・フローリー/一八九〇年生/一九二七年に酒で死去」という墓碑銘に三連の韻文がつづく。その第一連は「ここに眠るは哀れなジョン・フローリーの遺骨/やつの物語は昔ながらの物語/金と女と博打とジン/その四つでここに入りぬ」となっていて、『ビルマの日々』のフローリーの最期とは異なるが、作家になろうという「考えを捨てようと努めた」時期の習作として注目される。詩作について見るなら、「ロマンス」と題された三連からなる詩はこう始まる。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「貧乏になる道をわざわざ選んでいたように見える──いや、たしかに意図してそうしていたということを『ウィガン波止場への道』で明言している。イギリス帝国主義という専制の片棒を担ぐためにビルマにもどるなどもうご免だ、と彼は思った。だがそれだけでは気持ちが済まない。五年間圧政に加担していたことの後ろめたさはそう簡単には消えない。「被告人席の囚人たち、死刑囚監房で処刑を待つ男たち、私がいばり散らした部下たち、鼻であしらった老農夫たち、かっとなって拳骨をくらわせた召使いや苦力たち」──ブレアには無数の顔が思い出される。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「彼らの顔が脳裏を去らず、耐えがたいほどだ。罪滅ぼしをしなければならないが、犯した罪の大きさは並大抵ではないと自覚した。大袈裟だと受け取られそうだが、まったく意に染まぬ仕事を五年もやれば、あなたもおなじように感じるだろう。私はあらゆることを、抑圧された側はつねに正しく、抑圧する側はつねに間違っている、という単純な理論に還元していた。誤った理論だが、自分自身が抑圧者のひとりであることの当然の帰結だった。帝国主義にかぎらず、人が人を支配するあらゆる形態から逃れねばならぬと感じた。身をしずめ、抑圧された人びとのなかに潜行していきたい、彼らのひとりとなり、彼らの側に立って圧制者と戦いたいと思った。そしてなによりも私はすべてを独力で考え抜かねばならなかったために、抑圧への憎しみを過剰につのらせてしまった。そのときは失敗が私にとって唯一の美徳と思えた。出世につながることは、年収数百ポンドをかせぐという人生における「成功」でさえも、私にとっては精神的に醜悪で、一種の弱い者いじめのように思えたのである。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「作家修業の新たな展開としてブレアは一九二八年四月、それまでに書いた草稿や浮浪生活の日誌などを携えてパリに行き、セーヌ左岸、パリ五区のポ・ド・フェール通りにある安ホテルに落ち着いた。パリ滞在は翌二九年一二月まで、一年八カ月にわたる。ここで彼は最初の長編小説『ビルマの日々』の初期草稿を書きはじめ、ジャーナリストとして何本かの記事も(主にパリの新聞・雑誌にフランス語で)発表した。そしてなによりも、パリでの生活の経験は『パリ・ロンドン放浪記』のパリ編に生かされることになる。 もっとも、『パリ・ロンドン放浪記』で描かれる極貧生活はブレア自身の経験を事実に即して正確に報告したものではなく、取材した事実の取捨選択と時系列の変更をともなうある種の虚構化がなされていることに注意しておかねばならない。サウスウォルドで知り合った女友だちのブレンダ・ソルケルドに進呈した同書の初版本には欄外に彼の注記が入っており、「これはすべてじっさいに起こったこと」とか、「すべてじっさいに起こった出来事のかなり的確な描写」とあるのに加えて、「つぎの数章は文字どおりの手記ではなく、見聞にもとづく」という注記も見られる(シェルダン『人間ジョージ・オーウェル』第七章)。そもそもブレアはパリに来た当初から極貧生活をしていたわけではなく、それなりの蓄え、つまり警察官時代の収入からの貯金をもってこの地に入っていたのだった。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「一九二九年二月には暖房のないパリの下宿で風邪をひいた。栄養不良状態のためそれがこじれて肺炎になり、三月七日に喀血、四〇度近い高熱も発し、パリ一五区、フォーブール・サン・ジャック街のコシャン病院に二週間ほど入院した。そのときの経験を彼は一九四六年に発表するエッセイ「貧乏人はどう死ぬか」で綴っている。これはさながら強制収容所に入れられて責め苛まれるような日々の記録である。治療法は野蛮で、医者も看護師も患者への扱いがひどい。ある朝、病棟の大部屋で同室だった男性患者(「五七号」と数字で呼ばれる)がベッドで身をくねらせて死んでいる。看護師が来ても、その死に驚いた様子は見せず、遺体をシーツに包んで、しばらくそのまま放置する。「私」は横向きになってじっくりと「五七号」を眺める。「奇妙なことに、ヨーロッパ人の死人を見たのはこれが最初だった。死人はその前にも見たことがあるが、いつもアジア人で、たいていが横死を遂げたものだった」。まだ目が閉じられていない、苦悶の表情を浮かべた「五七号」の亡骸を見て、だれにも看取られずにひっそりと死ぬ「自然」死を痛ましいとブレアは思う。最初に彼が病棟に入ったとき、そこの悪臭(「糞便の匂いがただようが、それでいて何か甘ったるい匂いがこもっている」)にある種の懐かしさを覚えたのだったが、あとから考えるとそれはヴィクトリア朝の詩人テニスン(一八〇九―九二)の詩「小児病棟」(一八八〇)で描かれた旧時代の病院の恐怖や苦痛を呼び覚ますものだったからだとこのエッセイは結んでいる。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「 「物書き」としてのエリック・ブレアの初めてのエッセイはパリ滞在中の一九二八年一〇月に発表された。共産主義者で『地獄』や『砲火』で知られる作家、アンリ・バルビュス(一八七三―一九三五)が主宰する新聞『ル・モンド』(よく知られる同名の夕刊紙は一九四四年創刊で別のもの)に「英国の検閲制度」を寄稿した。当然ながらフランス語の記事である。バルビュスはエスペランティストでもあったので、アダンの紹介があってブレアはこれに書いたのだろう。またイギリス本国でのジャーナリズムの初仕事もこの年の暮れにあった。作家 G・ K・チェスタトン(一八七四―一九三六)が主宰する週刊新聞『 GK週報』に「三文新聞」を発表している。他に週刊紙『ル・プログレ・シヴィーク』にイギリスの失業問題や労働者階級の窮状を扱った記事などを発表、パリ滞在中に総計六本のフランス語の記事が出ている。最初の発表記事が検閲をテーマとしていることは、その後の作家オーウェルの展開を思い合わせると意味深長である。一九二九年五月四日に『ル・プログレ・シヴィーク』紙に寄稿した「人民はどのように搾取されるか──ビルマでのイギリス帝国」は彼のキャリアのなかで帝国主義批判を展開した最初期のエッセイであった。『ビルマの日々』の先駆形は「ジョン・フローリーの物語」というタイトルで進めた。それとは別に夏までに小説を書き上げたようだが(一本か、あるいは二本書いたのかもしれない)、出版の見込みが立たず、これを破棄してしまった。後年、自身そのことを後悔している。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「ジャーナリズムの仕事がいくつか新聞・雑誌に掲載されたとはいえ、本を出したいと思ってもスムーズにはいかない。パリ滞在中の一九二九年六月には二六歳になった。同世代の何人かはすでに文壇で注目を浴びる作家となっている。イーヴリン・ウォーは D・ G・ロセッティ伝と最初の小説『大転落』を一九二八年に立て続けに刊行していた。シリル・コナリーも文芸批評家として頭角をあらわしていた。パブリック・スクールからオクスフォードやケンブリッジへという進路を辿った者たちと、英領ビルマで埋もれていた自分とのハンディキャップを痛感していたのではあるまいか。『葉蘭をそよがせよ』(一九三六)で主人公のゴードン・コムストックが店員を務める貸本屋兼古書店で、「イートンからケンブリッジへ、ケンブリッジから文芸誌へと、かくも優雅に滑り込んでいった、金のある若い畜生どもがものした無難な画家や無難な詩人についてのお高くとまったお上品な本」が書棚の好位置に並んでいるのをいまいましい思いで眺めている様子(第一章)は、ハンディを負ってなかなか芽が出ないブレア自身の鬱積した感情をよくあらわしているといえるだろう。じっさい、彼が本を出すまでにはさらに四年の期間を要するのである。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「 『パリ・ロンドン放浪記』ではパリ暮らしを始めて一年半ほどしたころ、ホテルで同宿のイタリア人の男が空き巣に入り、持ち金のほとんどを盗んでしまい、そのために高級ホテルで皿洗いの仕事をやむなくすることになったと書いている。盗難にあったことは事実であったと思われるが、じっさいには犯人はフランス人の売春婦であったのかもしれない。いずれにせよ、皿洗いの仕事に従事することとなり、その経験は、ホテルの高級レストランの上流階級の客たちの食する高価な料理を作っている厨房でいかに不快かつ不衛生な労働がなされているかを活写した忘れがたい数章に結実する。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「先ほど引いたムーア宛の手紙で『パリ・ロンドン放浪記』の「匿名での刊行」を希望する旨が記されていた。じっさい、一九三三年一月にこれがゴランツ社から刊行された際に初めて「ジョージ・オーウェル」の名前を用いることになった。ただし評論や書評についてはしばらく本名のエリック・ブレアを使いつづけている。一九三五年三月に『アデルフィ』に寄稿した書評(ジャック・ヒルトン著『キャリバンは叫ぶ』)以後、定期刊行物への寄稿でもジョージ・オーウェル名を使いだす。おそらく一九三二年一一月一九日に書いたムーア宛の手紙のなかで、ペンネームの候補をいくつか挙げている。浮浪生活をしていたときには P・ S・バートンを使っていた。だがこれがふさわしい名前でないなら、ケネス・マイルズ、ジョージ・オーウェル、 H・ルイス・オールウェイズのいずれかでどうかと問い、「このなかではどれかといえばジョージ・オーウェルが気に入っています」と言い添えている。結局これでジョージ・オーウェル名が決まったのだった。 本名を捨てることについてリチャード・リースはオーウェル本人からこんな話を聞いたことを伝えている。すなわち、自分の出版物に本名が印刷されているのを見ると不安な気持ちになる。なぜなら「だれかがその名前を切り取ってそれにある種の黒魔術をかけないともかぎらないではないか」と言ったそうである。そういう迷信的なところがあったので(なにしろこのころ幽霊を見たと信じていた)、リースの回想する「呪術的」理由も部分的にはあったのだろう。リースはまた、ブレアという苗字がもつ「スコットランド的な響き」を嫌っていて、イプスウィッチを流れるオーウェル川が「イースト・アングリア的な連想」をもつことからこれを選択したと推測している(リース『オーウェル』第三章)。ファーストネームのジョージはイングランドの守護聖人セント・ジョージ(聖ゲオルギウス)に由来するというのが定説である。ジョージ・オーウェルの名前じたい、フランシス・フィアツがブレアとサフォークの海岸を散歩中に提案したのだとフィアツの息子エイドリアンが述べているが(ウォダムズ編『オーウェルを思い出す』)、本当のところはわからない。」
「オーウェルは『ビルマの日々』を一九三一年秋に書きだし、ホーソーンズ校で教えていた一九三二年九月にまだ最初の草稿にかかっていた。かなり苦労していたようで、ブレンダ・ソルケルドに宛てて「自分の小説の草稿を読みとおしてみたら、ひどく気が滅入りました」と告白している。一〇月にエレナー・ジェイクスに宛てた手紙では「小説はほんの少し進んでいます。草稿を仕上げたらどう直すか、いまは多少はわかります。ですが長くて複雑で恐ろしいほどです」と書いている。悪戦苦闘の末、小説が仕上がった旨をムーアに知らせることができたのは一九三三年一一月のことだった。なお、オーウェルは三三年九月からロンドン西の郊外にあるアクスブリッジのフレイズ・コレッジの講師となっていた。生徒数は二〇〇人、教員が一六人で、前任校よりも規模が大きな学校で、フランス語を教えた。学務にかなりの時間を取られたが、時間をみつけて執筆にあたった。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「ムーアは原稿を読み、ゴランツのところに持ち込んだ。だがゴランツは一読して断ってきた。小説の出来というよりは名誉毀損を怖れたためだった。出版社を立ち上げて五年目にあたる一九三一年に出したロザリンド・ウェイドの小説『子どもたち、しあわせに』がロンドンのある女学校を場面に設定していて、教員や生徒の名前が実在のそれと重複することから名誉毀損で告訴され、販売中止と回収を余儀なくされた。その損害額は大きく、破産の危機に瀕したのだった。ゴランツはこれに懲りて、名誉毀損の怖れが生じないように極力注意を払ったうえでしか本を出さなくなった。ゴランツ自身社会主義者で帝国主義への批判意識をオーウェルと共有してはいても、ビルマ人やインド人のみならず在ビルマのイギリス人の悪しき言動を多くふくむ小説は、そのまますぐに出せるものではなかった。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「書店勤めのオーウェルに話をもどす。「愛書家コーナー」ではどの作家の作品がもっともよく借り出されたのだったか、「書店の思い出」でオーウェルは問う。それは J・ B・プリーストリー(一八九四―一九八四)でも、アーネスト・ヘミングウェイ(一八九九―一九六一)でもヒュー・ウォルポール(一八八四―一九四一)でも P・ G・ウッドハウス(一八八一―一九七五)でもなく、エセル・ M・デル(一八八一―一九三九)が筆頭で、それと僅差で二位に入るのがウォリック・ディーピング(一八七七―一九五〇)であったという。このふたりとも、いま名前を知っている人はあまりいないのではあるまいか。だがいずれも作品が映画化されるなどして、当時はよく売れた小説家だった。これについてのオーウェルの回想はかなりネガティヴなものである。来店者には本好きな人がまれであったこと、初版本をあさるスノッブ、題名も著者名も知らずに「赤い表紙」だという記憶だけで在庫を訊ねる客、予約金を払わずに大量の注文をしながら消えてしまう者など、厄介な客を列挙して、いかに本屋は変人を引きつけるかを例示している。雇い主は親切で店で楽しい経験もあったと断りつつも、本屋にいるあいだに、「本について噓をつかなければならない」ために、本に対して「嫌悪感」をいだくようになってしまった。だから本屋の商いはもうご免だ、と書いている。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「ハムステッドに住んでいた時期に、オーウェルの人生にとってひとつの重大な出来事があった。それは妻となる女性との出会いである。本屋勤めをしていた当初は書店の上階に間借りしていたのだったが、しばらくして別のフラットに転居した。それは書店からハムステッド・ヒース方面にパーラメント通りを一〇分ほど上がっていったところ、パーラメント・ヒル七七番地、窓から眼前にハムステッド・ヒースが見晴らせる家であった。一九三五年の春、オーウェルは家主のロザリンド・オーバーマイヤーにある提案をした。彼女は当時ロンドン大学ユニヴァーシティ・コレッジで心理学の講座を受講していた。その学友たちと、オーウェル自身の友人たちとを招待して、パーティーを催そうという提案である。ロザリンドは同意した。おそらく双方の友人あわせて十数人が集った。そのなかにアイリーン・モード・オショーネシーがふくまれていた。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「まさしくこの瞬間に、こうしてライフルを両手にして立っていたときに、私は東洋での白人支配のむなしさ、不毛さを初めて理解したのだった。私という白人が銃を手に、武器をもたぬ原住民の群衆の前に立っている。一見、劇の主役のようだ。だがじっさいには、背後にいる黄色い顔の意のままにあちらへ、こちらへと動かされている愚かなあやつり人形にすぎないのだった。この瞬間に私は悟った。白人が暴君と化すとき、白人が台無しにしてしまうのは自分自身の自由にほかならないのだということを。〔中略〕支配することの条件として、白人は「原住民」を感心させるために一生を費やさねばならず、重大な局面が生じたらいつでも「原住民」の期待どおりのことをしなければならないのだ。彼は仮面をかぶっているのだが、顔のほうがその仮面に合ってくる。私はその象を撃たないわけにはいかなかった。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「ヴィクター・ゴランツはこの年の五月に「レフト・ブック・クラブ(左翼読書クラブ)」を発足させている。ファシズムに対抗すべく人民戦線の結集に寄与するための知の提供を目的とし、機関紙『レフト・ブック・ニューズ』を発刊、また毎月選書として単行本(レフト・ブック叢書)を刊行し、会員に頒布した。ゴランツは左翼知識人のジョン・ストレイチー(一九〇一―六三)、ハロルド・ラスキ(一八九三―一九五〇)を迎え入れ、ゴランツ自身をふくめて三人が選書委員の任についた。「世界平和のため、よりよき社会と経済の秩序のため、そしてファシズムに対抗するための闘いにおいて知的な役割を果たしたいと欲する人びとに奉仕する」(『ニュー・ステイツマン・アンド・ネイション』一九三六年二月二九日号にゴランツが出した広告より)ことを目的として結成されたレフト・ブック・クラブは、最初の二冊の推薦書(モーリス・トレーズ著『今日のフランスと人民戦線』と H・ J・マラー著『夜を出でて──一生物学者の未来観』)が五月一八日に刊行された時点で会員数は九〇〇〇人だった。それが二週間後には一万二〇〇〇人となり、一〇月までに二万八〇〇〇人に急増した(シーラ・ホッジズ『ゴランツ書店』第六章)。本の長さを問わず毎月の選書(オレンジ色の紙表紙の本)が一冊二シリング六ペンスの低価格で会員に頒布されるというのが売りだった。ゴランツの予想を超えてこの読書クラブは大成功を収めたのである。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「 「既存左翼への批判」は『ウィガン』の第二部、とくに第一一、一二章で展開されている。そこでオーウェルは自身を社会主義者であると明言している。だが知識層の大半が信奉する観念的な正統左翼を激しく批判する。「社会主義者、とくに正統マルクス主義者たちが、人を見下すような微笑みを浮かべて、社会主義は「歴史的必然」と呼ばれる謎めいた成り行きによって自ずと到来することになる、と私に語っていたのは、ほんの少し前のことであったように思える」(第一一章)。だが中流階級の左翼知識人が「歴史的必然」という名で説く社会主義理論は労働者階級には不人気で、浸透していない。明らかに階級間の溝がある。そこで「逆説的ではあるが、社会主義を弁護するために、まず社会主義を攻撃することから出発することが必要である」として、問題点を挙げてゆく。 その主張によると、裕福な中流階級の生活習慣が身について離れない社会主義者は、労働者階級との連帯の必要と意義を頭では理解していても、日常的な所作のレベルで別世界にいるので、本当は連帯などできない。階級的な溝はたやすくは埋まらない。第八章でオーウェルは「イギリス共産党員で『幼児のためのマルクス主義』の著者である同志 X」というイートン校出身の架空の人物を戯画化して設定してみせる。「とにかく理屈のうえでは彼はバリケードで死ぬ覚悟でいるが、チョッキのいちばん下のボタンをいまもはずしたままでいる」(チョッキの下のボタンをはずすというのが上層階級の作法)。彼はプロレタリアートを理想化しているのだが、両者の生活習慣は驚くほどかけ離れている。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「私は多くのブルジョワ社会主義者と知り合い、彼ら自身の階級を攻撃する長広舌を何時間も聴いたが、それでもけっして、一度たりとも、プロレタリアのテーブルマナーを身につけた人に出会ったことがない。(」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「労働者階級を称えつつ、労働者階級の「マナー」を蔑むことの偽善を語っているくだりである。紅茶を受皿で飲むという、中・上流階級からすると「下品」とされていた(だが労働者階級には「伝統」であった)行為をオーウェル自身は人前でおこなったことが記録されている(これについては小野二郎のエッセイ「紅茶を受皿で」での考察を参照されたい)。プロレタリアにあらゆる徳あり、と考えている人間が、いったいどうしてスープを飲むのに音を立てないように努めようとするのだろう、と彼は問い、すぐにつづけてこう答える。「その理由はただひとつ、本心では、プロレタリアのマナーに嫌悪感をいだいているからでしかない。だから彼は子ども時代に植え付けられた、労働者階級を嫌いなさい、怖れなさい、蔑みなさい、という教えをいまなお守りつづけているのである」。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「この「同志 X」は、オーウェルのもうひとりの自己と解することもできるだろう。すなわち、このイートン校出身者は、もしオーウェルがそれまでにあのような経歴を積んでこなかったら、なりえた人格と見ることができる。だがビルマでの五年のあと、ロンドンとパリでの最下層の人びととの暮らしを経験し、さらに北イングランドでの実地調査も加わり、「正統」左翼知識人の建前と本音の欺瞞をはっきり批判できる立脚点を見出した。そういう立場から、「下層階級は臭い」という刷り込みの(この本でもいちばんの悪評がたった)トピックは語られている。それがわれわれの教わったことだ──下層階級は臭い。そして明らかにここに越えがたい障壁がある。好悪の感情のなかで身体に関わる感情にもまして根源的なものは他にないからである。人種上の憎悪、宗教上の憎悪、教育や気質や知性の相違、あるいは道徳律の相違でさえも、克服しうる。だが身体にしみこんだ嫌悪感はそうはいかない。〔中略〕平均的な中流階級の人間が、労働者階級は無知で、怠惰で、飲んだくれで、粗野で、信用ならない、と信じ込まされて育てられたとしても、たいして問題にはならないだろう。だが、労働者階級は汚らしいと信じるように育てられたとしたら、それはきわめて由々しき事態なのだ。そして私の子ども時代には、われわれは労働者階級が汚らしいと信じるように育てられたのであった。ごく小さい時分に、労働者階級の身体はどこか微妙にいやなものだ、という観念に取り憑かれた。そうすると極力彼らに近づかないようにしたのである。(第八章。強調は原文)」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「「正統」左翼知識人が聴いていやがるだろうと思える発言をまったく遠慮せずに述べている。階級的偏見の超克を強調していながら、菜食主義者や産児制限論者、また平和主義者、フェミニストらを十把一絡げにして、それと結びついた左翼知識人を「変人」として誹るところは、そちらのほうの偏見はそのままでよいのですかと、突っ込みを入れたくなるところではある。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
川端康雄著『ジョージ・オーウェル』(岩波新書)。土曜の夜明けに読みふける。上流中産階級の生まれに反抗し、ビルマでの警官生活、ロンドン・パリでの貧乏暮らし、スペイン内戦への従軍などの経験を経て作家として徐々に名を成していく。
「 『カタロニア讃歌』は、このようにバルセロナの空気の変化にふれてから、その数日後に市内で生じる共和国側の内部抗争──五月三日にアナキスト系の CNT(全国労働連盟)の一拠点であった電話局をアサルトス(突撃警備隊)が襲撃したことに端を発する市街戦──について語ってゆく。 オーウェルのこのときのバルセロナ再訪の目的は、マドリードなど内戦の主要な戦闘地に赴くことを望んで、 POUMから(共産党系の)国際旅団への移籍の可能性を探るためだった。四カ月を過ぎても、オーウェルは共和国政府側での対立に無頓着だったということになるが、この滞在中に POUMが「トロツキスト」の「第五列」として国際旅団らの共産党主流派から排斥されつつあることをようやく思い知る。ファシスト軍を相手にしている以上、そうしたセクト争いなど無意味で不毛でしかないと感じていたオーウェルにとって、自分の所属する民兵部隊が前線からはるか遠くの都市部で断罪されているという事実は、たいへんな衝撃だった。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「スターリンの独裁体制下のソ連共産党が、敵対するファシズム勢力と、装いは異なるが同質性を有する全体主義体制であることを、オーウェルは、共産党による非スターリン主義系組織の弾圧、粛清の現場に立ち会うことで察知した。そこで客観的な事実が隠蔽、歪曲、あるいは改竄されるありさまをまざまざと見た。のちに彼が「ソヴィエト神話」と称するソヴィエト体制への期待というか思い込みが、スペインの地でいち早く崩れ去ったのである。一〇年後に述べているように、この経験はすべて「貴重な実地教育」だった。「全体主義のプロパガンダが、民主主義の国々の進歩的な人びとの考え方をいかにやすやすと支配してしまえるか、それを私は思い知った」(「『動物農場』ウクライナ語版への序文」)。その抑圧的な雰囲気をオーウェルはこう伝える。「当時バルセロナにいた人なら、あるいは数カ月後にバルセロナにいた人でも、だれであれ、恐怖、猜疑心、憎悪、検閲された新聞、囚人であふれる監獄、食料を求めての長い行列、徘徊する武装兵の一団──こういったものから生み出されたあのひどい雰囲気を忘れないだろう」(第九章)。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「三月一五日に英国南東部、ケント州エイルズフォード近郊にあるプレストン・ホール・サナトリウムに入れられた。プレストン・ホールは一九世紀半ばに富豪が建てたジャコビアン様式のお屋敷で、第一次世界大戦時に兵士の結核療養所として使われていた。一九三八年当時も軍隊関係者のための施設であったが、義兄のロレンスが軍の顧問医師であったことから特別に入院が許された。ストレプトマイシンの開発以前で、結核には転地療養と食餌療法しかない時代だった。オーウェルは長時間の執筆を医者に禁じられたので、手紙と短い書評を書くぐらいしかできなかった。 入院して一カ月後の四月下旬に『カタロニア讃歌』がセッカー・アンド・ウォーバーグ社から刊行された。スペインで日記類が没収され、記録やメモをほとんど欠き、ほぼ記憶を頼りにして、体調の悪化するなかで執筆した成果であった。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「「隠れ共産党員・同調者リスト」の問題 『一九八四年』が未だ校正段階にあった一九四九年三月二九日に、クラナムのサナトリウムで療養中だったオーウェルをシーリア・カーワン(一九一六―二〇〇二)が訪ねた。カーワンは、アーサー・ケストラーの最初の妻マメーヌと双子の姉妹という間柄で、一九四五年のクリスマスにオーウェルが息子リチャードを連れてロンドンから北ウェールズのケストラー宅に赴いた際に同行して以来交際があった。このときイギリス外務省の情報調査局に勤務していた。 情報調査局は前年にアトリー労働党内閣の肝煎りで設置された。「首相と閣僚たちへの直接の個人攻撃や政府の政策への分断狙いの批判をふくむ、ソヴィエトの意を受けた執拗なキャンペーン」に反撃することが喫緊の課題とされた(「外務省情報調査局の起源と設立」オーウェル全集第二〇巻に収録)。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著
「そのリストの作成はおそらく前年の一九四八年の夏、退院してジュラ島にもどってからで、滞在中のリチャード・リースがこれに協力している。ジュラ島に置いてあったノートブック(一三〇名がリストアップされている)をリースに送ってもらい、それをもとに三八名の名前を選び、職業等の注記をし、カーワン宛の五月二日付の手紙に同封した。「これはさほどセンセーショナルなものではなくて、お仲間たちがご存知でない人の名前はないのではないかと思います。同時に、信頼できないと思える連中のリストを作るのは悪い考えではありません。もっと早くこれをしておけば、重要なプロパガンダの仕事にピーター・スモレットのような連中を忍び込ませるのを阻止できたことでしょう。現状のものであってもこのリストは名誉毀損、あるいは誹謗、あるいはどう呼ぼうが、訴えられる恐れが高いと思います。ですから必ずご返却願います」。」
—『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書)』川端 康雄著