「自分自身の私生活についてはそれほど饒舌ではないオーウェルであったが、自身の経歴をつづった文章を多少は残している。そのひとつが『動物農場』のウクライナ語版のために求められて一九四七年の春に書いた序文にふくまれる略歴である。私は一九〇三年にインドで生まれた。父親は現地で英国政府の役人をしていた。私の家は、軍人、牧師、官吏、教師、弁護士、医者などからなる、ありきたりの中流階級家庭のひとつだった。教育はイートン校で受けた。これは英国のパブリック・スクールのなかでいちばん金がかかる、お高くとまった学校である。だが、私がそこに入れたのはひとえに奨学金のおかげで、それがなければ、父にはそんな学校に私をやる余裕はなかった。 ジョージ・オーウェル( George Orwell)という名は二〇歳代の終わりに採用したペンネームであり、本名はエリック・アーサー・ブレア( Eric Arthur Blair)という。父親のリチャード・ウォームズリー・ブレア(一八五七―一九三九)はインド植民地の役人を一八七五年から一九一二年まで勤めた。英国南部ドーセット州の出身で、先祖は貴族階級とも血縁関係がある裕福な家柄だったが、一九世紀にしだいに資産が減り、リチャードは一八歳で植民地の下級役人として就職。少なくとも上層中流階級の体面(リスペクタビリティ)を保ち、そこそこの収入を確保できる職種ではあった。」
「T・ S・エリオット(一八八八―一九六五)が編纂した『キプリング詩選集』(一九四一)の長文の書評として書かれた一九四二年のエッセイ「ラドヤード・キプリング」では、オーウェルはキプリングを「すぐれた通俗詩人」( good bad poet)という独特な表現で評価している。「マンダレー」はエドワード・サイードのいうオリエンタリズム、すなわち「東洋に後進性・官能性・受動性・神秘性といった非ヨーロッパ-イメージを押しつける、西洋の自己中心的な思考様式」(広辞苑)に満ちた詩であるといえるが、一九歳のこの時点で、ブレアは帝国主義への批判意識はまだ持ちえていなかったように思われる。それには経験が必要だった。希望する赴任先の筆頭に他の合格者たちが避けたビルマを挙げた動機として、「親族がいるため」というのはたしかにあったのかもしれないが、こうしたオリエンタルな異国情緒を多分にもつキプリングの「マンダレー」の詩が少なからず作用していたのではないか。」