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Posted by ブクログ
1287円
★再読
2026/09/30
ピカソとフリーダ・カーロは意気投合したし、シュルレアリスム集団にも気に入られてたのは知らなかった。
パリに来て全ての時代の美術を観た結果、やっぱり近代以降が実感として面白いと思ってしまうな。それはこの時代に生まれた近代の申し子である宿命みたいなもんかもな。古い時代の美術の凄さを理解することと、自分の感覚に直接響いてくることは別なんだよね。
フリーダ・カーロはイサム・ノグチと恋愛関係にあった
* 1939年:フリーダ・カーロが《ドロシー・ヘイルの自殺》を制作。
* 1946年1月20日:デヴィッド・リンチ誕生。
うん、そのイサム・ノグチです。フリーダとは1930年代半ばに恋愛関係にありました。 ノグチがメキシコで壁画の仕事をしていた時期のことです。
二人は一緒に過ごすためのアパートを買うことまで考えていましたが、ディエゴが銃を持ち出して関係を終わらせるよう迫った、とPBSの伝記資料でも紹介されています。引用のエピソードは、そのことですね。
恋愛関係が終わった後も、交流は続きました。 ノグチは1938年のフリーダのニューヨークでの個展を応援し、その後も入院中の彼女を訪ねています。
直接のモデル・元ネタという関係は確認できませんが、ドロシー・ヘイルの人生は『マルホランド・ドライブ』のダイアンを連想させます。 ※以下、映画の結末に触れます。
ヘイルは女優として成功を目指したものの、仕事や恋愛、経済面で行き詰まり、1938年にニューヨークの住居から飛び降りて亡くなりました。その死をフリーダ・カーロが描いたのが《ドロシー・ヘイルの自殺》です。
映画のダイアンにも、女優としての夢、華やかな世界から取り残される感覚、失恋、そして自死が重なっています。ただし、ダイアンには嫉妬から恋人の殺害を依頼した罪悪感があり、ヘイルの人生とそのまま一致するわけではありません。
私の解釈では、両者に共通するのは、華やかな夢を追った女性が、その夢と現実の落差に押しつぶされる悲劇。ヘイルについて読んでダイアンを思い浮かべたなら、その連想にはかなり筋が通っています。ただ、リンチがヘイルやフリーダの絵から着想したと断定できる資料は見つかりませんでした。
「もうひとつは、フリーダの絵が芸術のための作品というより、彼女自身が生き延びるために選んだ表現だった点にあります。個人的な作品は、ひとりよがりの罠に陥って普遍性を失う危険性がなきにしもあらずですが、その危険性を救っているのが、フリーダの激しく、情熱的な自我です。 時代とともに変わりゆく文化や常識を超えて古びることのないものは、芸術の域にまで昇華された「わたし」という経験の表現です。そう、フリーダは「普遍の美とはなにか」という近代的な芸術観から自由だったからこそ、創作の方向性について生涯迷うことなく、描き続けることができたのかもしれません。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
「この家がそれから二十年経つか経たないかのうちに、その家主と訪問客たちの名によってメキシコ中にその名を知られる場となり、さらに半世紀後、建物は多少姿を変えたものの、青い壁の〈美術館〉にまでなろうとは、この時はまだ誰にも想像さえできないことでした。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
「みんなはわたしの誕生日をどうにも特定できなかったのよ。一九〇七年七月六日、それとも一九一〇年七月七日? みんなが右往左往するのをみて大いに楽しんだわ。 そもそもこの国では、住民の半分以上が自分の出生日を知らない。本当に知らない場合もあれば、行政上のご利益に応じて出生日を手玉にとっているからでもあるのだけど……。加えてわたしは、このうわべだけの無政府主義者の国、謎めいた、魔法使いとペテン師の国の生まれなの。 わたしは一九一〇年、メキシコ革命とともに生まれた。そう語られますように。わたしが生まれたのは革命の炎の中。太陽は燃えさかり、わたしの生を育んだ。子ども時代のわたしはぱちぱちと音をたて、大人になるとすっかり炎と化した。わたしはまさしく革命の娘である。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
「フリーダが志願した国立予科高等学校は、大学で学ぶための準備機関であり、過去数世代にわたって国を代表する知識人、科学者、政治家などを輩出してきた名門校でした。女子にはまだ学問は必要ないと考えられていた時代、一学年三百人のうち五人の女子のひとりとしてフリーダは合格したのです。 思春期のフリーダが国立予科高校に入学しようとした一九二〇年代のメキシコ市には、メキシコの伝統的な芸術を尊重しようという「起源への回帰」ブームが吹き荒れ、土着の根源にまつわるものすべての価値が見直された時代でした。国は活気にあふれ、芸術は科学と同じく進歩の重要な推進力と考えられていました。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
「「カチュチャス」は、先にふれた祖国の起源への回帰を通じて自らの証しを立てようとする社会主義を標榜しました。彼らは自分を磨くために、あらゆる本を読みました。哲学、思想、歴史、文学、詩……に加え、同時代の新聞、政治史における各国の宣言書までも読みふけったといいます。彼らは哲学者ヘーゲルや経済学者エンゲルスについてまるで赤ん坊の頃からの知り合いのように話し、小説家デュマやユゴー、ドストエフスキーを古くからの友達であるような口ぶりで語り合いました。 フリーダはそんな仲間のなかで、自分の言うべきことを表現するのに必要な「フリーダ流」のことばを拾いあげ、精巧に織りあげていったのです。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
「じつはフリーダにはその頃、恋する人がいました。アレハンドロ・ゴメス・アリアス、ブルジョアで知的なハンサム、「カチュチャス」の優秀な仲間のひとりでした。 付け加えておけば、冒頭でご紹介したように、彼女が誕生日をごまかし始めたのもこの頃からです。アレハンドロは同学年ながら自分より勉強ができたため、フリーダは自分を年若くみせることで「負けている」悔しさと劣等感とを振り払おうとしたようです。まったく彼女の負けずぎらいときたら!」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
「 自分が描くだけでなく、絵に関する情報をできるだけ集め、さらに読書に没入し、自分の感性と知性を磨くためにあらゆるものに関心を示すようになります。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
一九三〇年秋、ディエゴは念願だったアメリカ進出を果たします。サンフランシスコ美術学校と証券取引所の壁画制作の仕事を受けたのです。フリーダも夫とともに、一一月一〇日にサンフランシスコに向けて旅発ちました。高校時代からあれほど夢見た、最初の大旅行がとうとう実現したのです。 到着後すぐにディエゴが仕事にとりかかると、ひとりで街を観て回りました。またたく間に魅了されてしまったのです。坂を上り下りしながら魅力的な家々にうっとりし、英語を習いました。 街の人々は彼女が通ると立ち止まってその姿を眺めました。メキシコにいた時と同様、彼女はこれ見よがしにペチコートや裾飾りのあるドレス、刺繡を施した上着、それらとよく釣り合ったレボーソ、ひすいやトルコ石、さんごをはめ込んだ金銀のアクセサリーを身につけていたからです。
「 夫婦で招かれたパーティではいつも、あっという間に注目の的になりました。彼女の陽気さ、へたくそな英語で話すエピソードの数々、ユーモアのセンス、知性と感受性の豊かさが言葉の壁を超えて人々の胸に響くのです。その様子に安心したのか、浮気もののディエゴは、すぐさまアメリカ人モデルのひとりとどこかへ姿を消すことができました。するとフリーダはこの時とばかりに、お気に入りのチャイナタウンかいわいを朝から晩までぶらつくのです。ショーウィンドーには突飛な品々がいっぱい。いつも新しいアクセサリーやシルクの切れ端などを見つけては自分のスカートに縫い付けていました。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
「「わたしはアメリカ人どもが嫌いです。とても退屈で、焼きそこないのお菓子みたいな顔をしています(とくに、おばあさん連中は)。女友だちがいません。友だちと呼べるほどでもない知り合いが、ひとり、ふたり、という程度です。だから、絵を描いて過ごしています。九月には、ニューヨークではじめての個展をするつもりです。ここでは時間がないので、ほんの数枚売れただけです。でも、いずれにしても、こちらに来たことは、おおいにわたしのためになりました。目が開かれる思いがしましたし、新しくて気分がよいものもたくさん見ましたから」」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
「 夫婦で招かれたパーティではいつも、あっという間に注目の的になりました。彼女の陽気さ、へたくそな英語で話すエピソードの数々、ユーモアのセンス、知性と感受性の豊かさが言葉の壁を超えて人々の胸に響くのです。その様子に安心したのか、浮気もののディエゴは、すぐさまアメリカ人モデルのひとりとどこかへ姿を消すことができました。するとフリーダはこの時とばかりに、お気に入りのチャイナタウンかいわいを朝から晩までぶらつくのです。ショーウィンドーには突飛な品々がいっぱい。いつも新しいアクセサリーやシルクの切れ端などを見つけては自分のスカートに縫い付けていました。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
六月、再びメキシコ政府の仕事で祖国に呼び戻された夫とともにフリーダは青壁の家に戻り、つかの間の充実した日々を過ごします。毎日のように訪ねてくる数多くの友人たちのなかに、ロシア人の映画製作者セルゲイ・エイゼンシュテインがいました。ちょうど「メキシコ万歳!」という映画を撮っていた彼はクリスティナやアドリアーナの肖像画などに他のだれよりも真剣に目を留めました。フリーダは気恥ずかしさを覚え「そんなに真剣にご覧にならないで。たいしたものではありません」と声をかけます。 「あなたにはそんなつもりはないかもしれませんが、すばらしい画家です。いつかソ連にいらしてください。わが国のイコン画(宗教画)に関心を持たれるでしょう。あなたの絵にはイコンの持つ親しみやすさが見受けられます。同じ瞑想の傾向があります」
が、数か月後に世界的財閥、ロックフェラー家の美術顧問の依頼で、ふたりは再びアメリカに戻ることになりました。ディエゴが、フランスの画家マティスにつぐ二番目の画家として、ニューヨーク近代美術館で自身の回顧展を開くように要請されたからです。 一一月にアメリカの東海岸にむけて出発。ディエゴお得意のとてつもない話やいたずら、ピストルの芸、ありとあらゆる演説のせいで、旅はにぎやかなものでした。フリーダは自分をエジプトの海に出たクレオパトラのようだと感じていました。身を飾り、称賛をあび、歌をうたい、優しさと知性のきらめきすべてを発揮し、男性だけでなく女性にもまんべくなく微笑みました。自分に注目を集めるのが、ディエゴに近づく女性たちをけちらす一番確実な方法だと心得ていたかのように。
「船がマンハッタンに入港した時、フリーダの心は未知への期待と好奇心ではちきれんばかりでした。半世紀以上前に、ドイツのハンブルクの港をたった一人で出発し、メキシコのベラクルス港に到着した父に思いをめぐらせ、いっそうの感慨を覚えたのでしょう。資本主義の新世界は彼女の前にそびえたち、光輝く世界が水面に映し出されていました。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
フリーダのおなかには、あらたな命が宿っていました。今後こそ、なんとしても妊娠期間を持ちこたえて、この子を産みたい! フリーダの決意と覚悟にはなみなみならぬものがありました。 「子どもが、自分の子がほしい! その気持ちは、子どもがいなくてもいいと考える理由をはるかに上回るわ。そのことで自分の体がどうなろうともかまわない」 それから一か月半後、運命はまたしてもあっさりとフリーダの希望を打ちくだきました。 一九三二年七月四日には、もう赤ん坊はいませんでした。流産で、一晩のうちに天国に召されてしまったのです。フリーダは数時間のたうちまわって苦しむと、胎児を渡してほしい、見たい、抱きたい、どうしても会いたい、とわめき続けました。 救急車が到着し、運び込まれたのは、街でいちばん医療設備が充実したヘンリー・フォード病院でした。すでに体じゅうの血液を失ったかのように、彼女の全身は蒼白でした。 それから続く何日かの間、彼女は正気を失ってしまったかのように死んだ胎児を要求し続けました。その次に、自分の状態を絵にしたいから医学書だけでもいいから貸してほしい、と医師たちに頼みこみました。拒否されましたが、ディエゴがどんな交渉をしたのか、調達して届けてくれました。
ディエゴは不安げでしたが、絵画だけが妻を救い、元気づけられると確信してもいました。 七月一七日、フリーダは退院すると、かなり衰弱していたにもかかわらず、直後から本格的な制作活動にとりかかりました。流産を題材にしたこの一連のデッサンは、やがて金属板に油彩した「ヘンリー・フォード病院」という名の作品に集大成されます。 この作品で、フリーダは柵のベッドに横たわっています。ベッドに記されたのは病院名と絵の制作日。彼女は裸で、おなかは丸みを帯び、髪は乱れたまま。たえず涙を流し、シーツは血に染まっています。手にした紐は、空中に飛び散った六つの物体とつながっていますが、その物体とはかたつむり、男の胎児、おなかの高さにある彼女の横向きの胴体、奇妙な金属製の機械、ランの花、彼女の骨盤の骨組み。地平線には、工業都市……。 「絶望していればいるほど、仕事に打ち込んでしまうの。でも、そう簡単に自滅しないためには、こうするしか仕方がないの」と友人にもらしています。
久しぶりの祖国は夏の雨にぬれ、山の景色は数えきれない緑色のバリエーションで彩られていました。鮮やかな光のなかで、フリーダは魔法にでもかけられたように、その光景を飽くことなく見つめ続けていました。見たものすべてを脳裏に焼き付けようとでもするように。この自然の形状や強烈な緑をひとつとして忘れないように。そのすべてを自分の絵のなかに再現していくために。 「疲れて吐き気がするし、たぶんひどい状態よ。でも、ああ! 私の祖国はなんて美しいのでしょう」 家にたどりつくと、フリーダは待ち受けた妹の腕に倒れ込んでしまいました。数日後、母が亡くなるとしばらくは夜も朝も泣き続けました。それから一か月以上滞在し、どうにか父を元気づけ、自分もまた姉妹たちに元気づけられながら暮らしました。
一九三四年、フリーダとディエゴの暮らしは、メキシコ市のサン・アンヘル地区に建てた連棟の家で始まりました。この家はフランスの建築家ル・コルビュジェの弟子で画家のファン・オゴルマンが設計したもので、簡素な資材を使った機能的なふたつの四角い建物からなっており、近隣のお上品ぶった伝統的なスタイルの家々とはまったく異なる外見をしていました。 外壁の色はメキシコふうで、フリーダの家は生まれた家と同じ青、ディエゴの家は赤に塗られていました。オルガンのパイプのように細長いサボテンを垣根にし、ふたつの家は上部に設けられた連絡橋(渡り廊下)でつながっています。この連絡橋は、相互依存と自由という、フリーダとディエゴの関係そのものを表しているようでした。 この家はまもなくさまざまな国の知識人たちが集う場になっていきます。クモザル、オウム、犬、子鹿、クジャクなどのペットが中庭を行き交うなか、作家、画家、写真家、思想家、音楽家、俳優、活動家たちが自由奔放な雰囲気を楽しみ、その時々の恋人たちが出入りしていました。 この年、フリーダは一枚の絵も描かず、三度入院し、この上なく深い心の傷を負うことになります。一回目の入院は虫垂炎、二度目は妊娠三か月でまたも母体が危機に陥って中絶手術を受けるため、三度目は右足の手術のためでした。ひどい炎症のために足指骨とよばれる五本の指の切断を余儀なくされたのです。エラーサー博士にこんな手紙を書き送っています。
約一年間続いた二人のロマンチックな関係は、ある朝、ディエゴがピストルを手に、フリーダの家に乗り込んできたことで終わりを告げます。 イサムと恋愛関係にあった間、フリーダはほとんど仕事をしませんでした。「ちょっとした刺し傷」と名づけられた、周囲の人からさんざん「キモチが悪い」といわれ、評判のよくなかった一枚の作品をのぞいては。 その絵の着想は新聞の三面記事からでした。あるDV男が、つきあっていた女性をナイフで数回刺して殺したという事件です。ところが男は判事の前で「ちょっと刺しただけさ……」と言い放ったというのです。おそらく自分が悪事を働いたという意識さえないまま。フリーダの絵では、殺人者は服を着ており、手にナイフを持って立っています。白いベッドには裸で血まみれの犠牲者……。血はいたるところに飛び散り、額縁にまでほとばしっています。
「革命家トロツキーとの恋愛によって自信を得たフリーダは、自らの美しさと魅力に目覚めていきます。作品の方向性もより明確になり、洗練されていきました。 一九三七年と三八年に、フリーダは結婚以来もっとも多くの作品を制作しました。三八年の春には友人エラ・ウルフにこう書き送っています。「ご存知のとおり、わたしは絵を描いています。これまでは毎日ディエゴを愛するだけで、仕事はほったらかしにしていたことを考えると、これだけでもたいしたものです。いまは、ディエゴのことは愛し続けながらも、サルの絵を真剣に描き始めました」」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
一九三八年四月、フランスの詩人アンドレ・ブルトンがフランス外務省によって講演のためにメキシコに派遣されてきました。ブルトンは、当時、文学と絵画の双方で起きた新しいムーブメント、シュルレアリスム運動の中心人物で、世界的に注目される人物の一人でした。シュルレアリスムとは、夢の世界のように、あきらかになんのつながりもないものを組み合わせた表現方法をさします。夢にはホイップクリームいっぱいのプールなどという、実際には存在しえないものが登場しますが、シュルレアリストたちもまた、ものごとの道理などというものから心を解き放って、人間の無意識や非現実的な世界を表現するのです。その彼がフリーダの作品を一目見るなり魅了されたのです。
ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉フリーダ・カーロ 悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (シリーズ・全集)
「メキシコ市にやってきたとき、彼女の作品が最新の油絵によってシュルレアリスムのただなかに開花しているのを発見し、わたしはどれほど驚き、喜んだことだろう」 一方、ニューヨークの画廊経営者ジュリアン・レヴィはフリーダの作品を知り、自分の画廊でその年の秋に個展をひらかないか、と提案しました。ブルトンはその個展のカタログの文章を書き、ニューヨークのあとでパリでも展覧会を行えるよう手はずを整えたい、とフリーダを誘いました。 「ねえ、フリーダ、ぼくは本当にあなたの絵が好きだ。パリでの個展を検討してみるべきだよ」 「パリの展覧会にはもっとほかにふさわしい方が大勢いらっしゃるじゃありませんか。わたしにたいした価値はありませんよ。独学ですし、枚数もありません。功名心とか野心も全然持ち合わせていません。自分の楽しみのためだけに描いているんです」 「自分を楽しませるだけの才能ですか」 「覚えておいていただきたいの。わたしは自分の夢想ではなく、現実そのものを描いているの」 結局、フリーダはパリで個展をひらく決心をしました。その展覧会用カタログに「フリーダ・カーロの芸術は、爆弾のまわりに巻かれたリボンである」という有名なコピーを書いたのは、もちろんブルトンでした。
「フリーダが創作活動に集中し始めたことをディエゴは歓迎していました。彼の望みは、「フリーダ自身の世界が、ディエゴを必要としないほど強大になる」ことでしたから。フリーダが心身ともに安定して生き延びるには、全霊で絵画に打ち込み、画家として独り立ちすることだと考えていたのです。精神的にも経済的にも妻が自立してくれれば、自分も自由になれる、とも考えていたでしょう。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
血なまぐさい夢想といえば、個展と前後して受けた注文のなかに、有名雑誌「バニティ・フェア」編集長クレア・ブース・リュースからの、友人であり女優だったドロシー・ヘイルの肖像画がありました。ドロシーは個展が開かれていた時期、アメリカ中の話題をさらった人でもありました。というのも、ある日の朝六時に、彼女はいちばんきれいなドレスに身を包み、窓をのりこえ、ハンプシャー・ハウスというニューヨークの高層ビルから飛び降りたからです。 フリーダはこの出来事に強い衝撃をうけ「ドロシーの思い出をテーマに描きたい」とクレアに申し出、クレアは、完成したら作品は故人の母親に贈るつもりであることを伝えました。 数か月後、作品が買い手のもとに届けられると、ちょっとしたスキャンダルの嵐が巻き起こりました。ドロシーの肖像画は、ドロシーの自殺そのものを再現する絵だったからです。フリーダらしいといえばいえなくもないでしょう。彼女は女優の生涯の悲劇を描き、画布に自殺にいたるまでの苦悩を昇華させ、自殺の行為そのものの経過を再現したのですから。が、クレアの心は当然ながら複雑です。まして娘の自殺で悲しみと苦悩のまっただなかにいる母親に贈ることなどできないのは当然でした。
「パリに到着したフリーダは、シュルレアリストとトロツキスト(トロツキーの思想のもとに集まった人々)の根城であるブルトンの家に滞在しました。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
「しかし、フリーダがフランスの芸術家たちから認められるという意味では大成功を収めました。彼女は詩人のポール・エリュアールや画家のマックス・エルンストと出会い、画家のジョアン・ミロからは熱狂的な賛辞を受け、パブロ・ピカソは友情のしるしにと小さな手の形をしたイヤリングを贈ってきました。 ピカソはのちにディエゴにこんなメッセージを送っています。「君でも、ドラン(フランスの画家)でも、わたしでも、フリーダ・カーロが描くような顔は描けまい」」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
「アンドレ・ブルトンらが主催し、アルベルト・ジャコメッティ、マン・レイ、パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリなど世界中の名だたる画家や写真家の作品を集めたこの展覧会で、人々の称賛をもっとも集めたアーティストのひとりがフリーダでした。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著
戦争が続き、痛みは増し、思うようには動けませんでしたが、フリーダはこれまでになく人生を楽しんでいました。朝食を食べながら、視力が弱まったディエゴを疲れさせないために、新聞を読んで聞かせました。朝食後、ディエゴはサン・アンヘルの家に仕事をしに行き、フリーダは具合のいい時は明るくてあたたかな二階の新しいアトリエで絵を描くことを日課としました。 座っていられるのはほんの三十分ほど。しかし、相変わらずていねいな仕事ぶりです。色ひとつ置くにも軽々しくはしないし、サルの毛並みひとつさえとても念入りに描くのです。一枚の絵が何か月も画架に放置されたままにならざるをえない状況になっても、彼女の絵は時間との競争ではなく、あるがままの自分として精一杯、絵に向き合おう、と覚悟をしていたのです。
「動物、子ども、花、これらがフリーダのもっとも関心をよせたものでした」と助手のひとりが応えています。 一九四二年、メキシコ市の中心地に、少々風変わりな学校が設立されました。「民衆と労働者の教育のため」に誕生した、学生に必要なものはすべて国が負担するという美術学校です。 教授陣のなかに、ディエゴとフリーダも名を連ねていました。かれらの役割は教師としてというより芸術家として若い世代に影響をもたらすことです。教室という固定的な場に縛られず、美があるところはどこでも教室、というのが教育方針です。 フリーダは体調のこともあり、早々と自宅に学生たちを招くようになりました。月に数日は、ちいさな一団が「青壁の家」に招き入れられ、お祭りのようににぎやかでした。朝からフリーダは食べ物や冷たい飲み物の用意をし、忙しく立ち働き、生徒たちに〝楽しく学ぶ〟ことを教えようとしました。 生徒たちには、何時間も自由に家のなかを歩き回り、目にしたものを、技巧に走らず、心に感じたまま描くようにと励ましました。彼女は決して安易な批評はしません。多少の技術的基礎を別にすれば、絵を描くことに学ぶべき規則はないし、大切なのは自分が感じたままを最大限に表現することだから、と。 フリーダは、自分は教師ではなく画家であり、その経験こそが教え子の役に立つ、と信じていました。
「毎晩父の夢を見続けたために、フリーダは夢分析で名高い精神科医ジグムント・フロイトの本を読みます。」
—『フリーダ・カーロ ──悲劇と情熱に生きた芸術家の生涯 (ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)』筑摩書房編集部著