検索結果
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-ごくフツーのOL・三つ葉が、道端で落としたコンタクトを一緒に探してあげたことがきっかけで知り合った、猫ッ毛・ド天然のペット系美形男子。彼は、実はカリスママジシャン“リュウ”だった!いつしか恋に落ちた二人。でも、三つ葉はリュウという名前以外、彼のことを何も知らないままで…。売れっ子になっていくリュウと会えない毎日。それでも、消えそうで消えない恋心!忘れたくないマジカル☆ラブ!
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3.0消防士のブラッドが花屋を営むトーニにひと目ぼれしたのは三カ月前。その場で食事に誘い、あっさり断られたがあきらめきれない。毎週花屋に通い、クリスマスを前についに食事の約束をとりつけた。トーニは一度きりのつもりだった。彼の魅力にあらがえなくなるまでは。
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-クリスティーナは署内で唯一の女性消防士。バービー人形のような容姿とずば抜けた能力で同僚の男性たちを魅了している。セクシーな救急救命士ダスティンもその一人だ。彼に惹かれながら心を開こうとしない彼女にダスティンが求めたものは……。
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3.9探偵好きの大学生、相川守が妹の珠子とその家庭教師殿村京子と連れだってレストランで食事をしていたところ、緊張した面持ちで一点を見つめていた殿村夫人が硬直してしまう。ようやく緊張を解いた夫人に訊ねると、彼女は得意の読唇術を操って隅にいた二人の会話を盗み見ていたのだが、明日の晩、谷中の空家の中で、何者かを短刀で一寸だめし五分だめしにする、という世にも恐ろしい相談をしていた、というのだ。日頃の探偵好きが頭をもたげた相川青年は、とんでもない怪事件に巻き込まれることになった。次々と美女を狙う「赤いサソリ」の狙いは何か? 戦慄すべき乱歩の長編推理!
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5.0
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4.3ある年の春、どこからともなく金製の仮面をつけた怪人物の風評が起こり、東京市民の間で大評判になってしまった。金色燦爛たる怪人は上野公園で開かれていた大博覧会の会場から大真珠を、はたまた日光の鷲尾侯爵邸から国宝級の如来像をまんまと盗み出してしまう。その怪盗にあろうことか娘の不二子が恋情を寄せてしまい、困りはてた富豪大鳥氏は明智小五郎に出馬を要請する。貴重な美術品ばかりを狙う謎の怪盗黄金仮面、その美しくも不気味な仮面に隠された素顔を、名探偵は暴くことができるだろうか? 真に驚嘆すべき傑作に、発表時の雰囲気を伝える吉邨二郎の挿絵を再録した。
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4.0
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3.9
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3.7ある日ホームズのもとへうら若き女性の依頼人が現れた。 インドから帰国した父親が、女性が17歳のときに失踪してしまった。ところがそれから後毎年のように、ひと粒の美しい真珠が送り届けられるようになった。 だれが送ってくれるのか、その正体はまったくの謎。 ところが今年は、妙な招待状が届いたというのだ。 「・・・あなたは不当に虐待されている女性ですから、正当なつぐないを受けさせてあげます。・・・」 無限の冨を持つとみられる軍人の怪死からはじめて明るみに出た“四人の署名”の秘密。 インド王族の秘宝をめぐり、ロンドンの水路を舞台に繰り広げられる争奪戦。 シャーロック・ホームズものの長編第2弾、ここに登場。
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4.5
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5.0
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4.7会社ではすっぴんに眼鏡の地味OL・ほのか。眼鏡を外し、化粧をして出かけた休日、憧れの上司・矢崎課長に街中でバッタリ。お母様とお買い物中で完全オフ姿の矢崎課長は、普段のクールで厳しい上司姿に負けず劣らずカッコイイ…。でも課長のお母様と私が接触してしまったものだから、さあ大変!!その上、あれ?…課長、私に気付いてないの!?思わぬ誤解と思わぬウソから始まる、歳の差ドキドキ☆ピュアラブ!
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-「シャルルだけだ。キスだけで、俺を幸せにしてしまうのは。」学生兼研究者、ハルキ・カゲヤマは某国の美貌スパイ・シャルルにメロメロ。そのシャルルからのお願いとなったらハルキは何でも言うことを聞いてしまうのだ!シャルルに依頼された特殊任務に暗躍するハルキ。今回の厳命は、パリはオペラ座で公演を予定しているロシアのバレエ団の星・サハロフのDNAを入手すること!通訳のふりをして近づくハルキだが、サハロフのガードはなかなかに厳しくて…!?このままじゃ、キスより先の、シャルルの甘いご褒美はもらえない!愛するシャルルのために尽くし上げる、ドキドキ☆ピュアLOVE!
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-「私がその復讐、受けて立ちます!!」浮気され、婚約を破棄したばかりの麻美は、今、裏切り者の男という男が許せない!そんなタイミングで仲良しの従妹・香奈を泣かせた男は一体誰!?懲らしめようとその男に接近した麻美。でも、ソイツは、超絶イイ男だった…!!憎さ余って可愛さ100倍!?とにかく気になって…。止められない、この恋心!
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4.5
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4.0憧れのタレント・カズくんの追っかけのために仕事を休んだ翌日、勤務先のデパートに出社した絵里は、休み前の仕事のミスでお局の先輩方を怒らせていた。その罰ゲームとして、絵里は、婚約者もいるとウワサの春日フロアマネージャーに告白することに。撃沈当然で、好きでもない春日マネージャーに絵里が告白すると、なんと結果は…OK!?デートを重ねるうち、春日マネージャーにどんどん惹かれていく絵里。一方で、婚約者の影を感じ、戸惑いも隠せない。…嘘から始まるリアルラブ!この恋の行方は…!?
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-タレントのカズくん命!!な知花は、お嬢様大学に通う庶民派女子大生。おっかけ費用に困っていたある日、セレブな同級生・鞠乃から、縁談の替え玉役と引き換えにカズくんの地方公演の遠征費用を支払う、と言われたから、さあ大変!なんとか鞠乃に成りすまし、大企業の御曹司・田所さんとのお見合いにのぞんだ知花。でも、なぜか田所さんに気に入られちゃったみたいで…!?カズくんのことが大好きだったはずの心が揺れる、淡い想い。でも鞠乃との約束を破るわけにはいかなくて…。破局前提!!だけどこれこそ、真実の恋!!崖っぷちシンデレラ★ストーリー!
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-あんなに可愛い息子がいて、しかも送り迎えはいつもパパ。もしかしたらバツイチ?保育士の美和は、預かっている男の子・正輝君の“イケメンパパ”とひょんなことからプライベートで会う仲に。…もちろん正輝君も一緒の、家族ぐるみのお付き合い!?正輝君には「ママになって!」と言われるくらい仲良くなったのに、パパはなぜか美和に心を開いてくれなくて…。いきなり子持ち!?でもOK!!なハッピー☆ラブ!!
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-葉月は、二十歳にして初めてできた彼氏・涼介と付き合ってはいるが、カラダの関係はなぜだかまだ許せない。そんなある日、小さい頃に「結婚しようね!」と約束するほど仲の良かったイトコの蓮くんが、その誓いを守ってイギリスから突然の帰国!葉月のことが大好きなまま、カッコイイ高校生に成長した蓮くんにあの頃のように優しくされて、葉月は蓮くんがどうしても気になってしまい…。
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4.0
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-ずっとフリーターだった22歳の愛菜。その愛菜がやっと見つけた仕事は、憧れのアイドル・コウくんのマネージャー!大ファンだったことは隠して働き始めたけど、現実のコウくんは、見た目とは裏腹になんとオレ様系だった!ある日、四つも年下のコウくんに無理矢理キスされて、それから…!? マネージャー失格!!でも、彼女としては合格!?誰にも言えない二人の関係…!S系オレ様☆ラブ!
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4.7岸田奈々美、25歳OL、カレシなし、えっち経験も、未だナシ。高校時代の苦い経験から、男の人が少し怖くて…。そんなある日、やむにやまれぬ事情で、29歳・イケメン! 憧れの杉浦課長と一夜を共にすることになっちゃった!!課長から受けるえっちな手ほどきに、奈々美の冷たくなった心も、ついでにカラダも!熱くなってしまう。でも、課長のことだから、本当は、きれいなカノジョがいるのかも…? もうこれ以上傷つきたくない!──揺れるけど止められない、乙女心とえっちなカラダの行方は!?
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2.8梓と譲、そして佑司の3人は、いつも一緒だった幼なじみ。でも、高校生になって再会した譲の態度は冷たくて、梓は混乱してしまう。いつも側で見守っててくれた佑司は、「譲が変わっちまっただけだ。」と優しく慰めてくれるけど…。混乱スクランブル・ラブ!
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-フツーのOL・香澄の恋のお相手は、企業の御曹司・篤史さん。優しくてお金持ちで、安心できる篤史さんとのお付き合いは超順調!ついにご家族と顔合わせをすることに。でも、初めて会うはずの篤史さんの弟・忠信さんもなぜか香澄のことを気に入ってしまう。篤史さんとは違い、明るく無邪気な忠信さんからのアタックに戸惑いながら、二人の間で心が揺れる香澄。しかし、忠信さんが香澄に思いを寄せるのには、ある理由があって…!?忘れらない三角関係…!センチメンタル★ラブ!
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5.0一海は、地味で目立たない高校ニ年生。でも、大学二年生のかっこいい家庭教師・征矢先生に来てもらうようになってからは、なんか変!?征矢先生を想うと、体が勝手に熱くなっちゃう…。一度触ってもらったその手が忘れられなくて、「テストの点数が良かったら、エッチなご褒美をください」って思い切ってメールしてみたけど…先生は私のことどう想ってるの?揺れる乙女の初体験!
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-高校三年生の裕香は、ひょんなことから、伯父さんの仕事の関係で出会った超かっこいい建築家・藤野木と付き合うことに!恋愛経験ゼロの裕香は、キスもエッチも初めて!何もかもが新鮮で、毎日ドキドキ☆楽しい日々。でもライバルはたくさんいるし、自分よりもずっと大人の彼氏に追いつけない不安もいっぱいで…。年の差7歳の、オトナのお付き合い、始めちゃいました…!
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-子どもの頃からの憧れだった、年上の駿哉と、ひょんなアクシデントで久々に再会した、高校生の紗奈。2年前、紗奈が通っている高校に教育実習生としてやってきた駿哉は、紗奈に気付きもしなかった…はずなのに!なんと、駿哉から愛の告白を受け、付き合うことになり、喜びいっぱいの紗奈。だけど実は、駿哉は紗奈を、アメリカに留学中の姉・莉奈と勘違いしていて…!?トキメキ☆年の差ラブ!
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-若手起業家達に貸し出された小学校の廃校舎。そこでドッグホテルの経営を始めた雪枝は、開店前から何かと注意をしてくる、ぶっきらぼうで口うるさいパティシエの大海がちょっぴり苦手。でも、夜遅くまで働いている雪枝をさりげなく気遣ってくれたり、この人、ほんとは優しい…?そんな一面が見えてからは、雪枝は大海が気になってしまう。甘くとろけるスイート・ラブストーリー!
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-零戦を始めとする数々の戦闘機を開発し、航空王国と言われた日本。その伝統は、敗戦によって途絶えた。GHQによる航空機の生産・研究・実験の禁止は7年間続き、技術の伝承は最早不可能と誰もが思っていた。 戦後、神戸の職業安定所に並ぶ失業者の中に、英字新聞を片手に順番を待つ男がいた。土井武夫、47歳。戦闘機「飛燕」など、日本で最も多くの航空機の設計に関わった技術者だった。日雇いまがいの仕事をしながらも、土井はもう一度空を飛ぶ夢を捨てきれなかった。 それから10年。通産省は、昭和32年に日本人の手による旅客機開発をぶちあげ、プロジェクトチーム「輸送機設計研究協会(輸研)」を結成した。集まったのは、土井を始めとする50歳を過ぎた「戦闘機」組と、飛行機に乗ったこともない20代の若き技術者だった。両者は、はったりまじりの完成模型(モックアップ)を作り上げ、頭から信用しなかった政府から予算を獲得していった。 完成模型(モックアップ)の完成後、本格的な設計に入ったYS-11。「戦闘機組」と若者の間に立って、実質的に設計を主導した男がいた。東條英機の次男で、新三菱重工の技術部次長だった東條輝雄だった。 欧米とのギャップを熟知していた東條は、「輸研」の設計の誤りを正し、YS-11の試作機を完成させる。昭和37年、戦争から17年の空白の後、日本の翼が初めて空を飛んだ。しかし、試作機は横安定性などの問題を抱えていた。それを克服したのは、あえて東條の部下になり設計に協力し続けた土井武夫と、東條のもとで鍛えられていった若手技術者だった。 昭和40年、ついにYS-11は就航。誰もが不可能と思っていた航空技術の伝承は果たされた。しかし、その伝統はそれ以降、途絶えたままになっている…。
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-1990年8月20日の夕方、旧ソ連のサハリンで、3歳の男の子が大やけどを負った。誤って熱湯が入ったバケツを倒したためだった。コンスタンチンくんの親は、医療技術が進んだ日本で手術が受けられないかと知り合いに相談。北海道庁に連絡を取った。その一本の電話がきっかけで、前例のない超法規的措置が、外務省、法務省、海上保安庁の間で検討されていく。「ビザはどうするのか」「飛行経験のないソ連領空を安全に飛べるのか」「手術に失敗したら日本の恥にならないか」…しかし、関係者は様々な思惑を超えて、見知らぬ幼児の命を救うことを最優先に掲げる。最初の電話からわずか17時間後、海上保安庁の輸送機がサハリンへ飛び、コンスタンチンくんは札幌医科大で手術を受けた。両親は涙ながらに日本人への感謝を述べ、ゴルバチョフ大統領も謝意を表明した。 小さな命を救おうと、東西冷戦末期、日本とソ連との間で交わされた、「善意」のバトンタッチを描く。
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4.5のべ1千万人が働き、巨大プロジェクトの代名詞といわれた「黒四ダム」。その難工事の最大の焦点は、断崖絶壁がそそり立つ秘境・黒部に、60万トンにおよぶ資材をいかに運び上げるかだった。 資材輸送の大動脈としては、長野県から山をくり抜き黒部に達する「大町トンネル(現・関電トンネル)」が計画された。しかし、最低1年かかるトンネルの完成を待っていては、7年の工期に間に合わない恐れがあった。ダムの本体工事を受注した間組は、壮大な輸送作戦を計画する。400人に及ぶ強力で人力輸送を始める一方、標高2700メートルの立山の尾根をブルドーザーで越える前代未聞の挑戦に乗り出した。更に、トンネルをダムの建設地点から迎え堀りをするために、零下20度の黒部に5ヶ月間留まる越冬隊を組織した。 指揮に当たったのは、「大まむし」の異名をとった筋金入りのダム屋・中村精(くわし)。若者たちは、中村の号令の元に、全身全霊を込めて秘境・黒部に立ち向かっていった。 電力が経済復興の鍵だった昭和30年代、黒四ダムの建設に挑んだ男たちのドラマを追う。
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-去年春の選抜、甲子園は沖縄尚学の初優勝に沸いた。今や全国屈指の野球王国となった沖縄。その礎を築いたのは、昭和30年代初め、設備も用具も乏しい中で野球に情熱を注いだ若い教師たちだった。 本土が戦後の混乱から立ち直ろうとしていた当時、アメリカ統治下の沖縄は本土から隔絶された「忘れられた島」になろうとしていた。高校野球のレベルにも雲泥の差があった。海の彼方の甲子園は手の届かない夢に過ぎなかった。そんななか、野球を通 じて沖縄の若者たちに勇気を与えようという当時の日本高野連副会長佐伯達夫の呼びかけで、沖縄高野連が結成される。目標は甲子園出場、そして一勝だった。 その中心となって働いたのはまだ新米教師だった首里高監督、福原朝悦。彼は沖縄代表が初めて甲子園に出場できるようになった昭和33年の第40回記念大会、首里を率いて沖縄県のチームとして初めて甲子園の土を踏む。そして5年後、転勤した福原の後を引き継いで首里高監督となったOB徳田安太郎が、那覇高福原と因縁の対決の末、甲子園に出場し沖縄初の全国大会一勝をあげる。沖縄には一大高校野球ブームが盛り上がり、野球王国への道が拓かれていく。戦争の傷跡を胸に高校野球に情熱を注いだ男たちの軌跡を追う。
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-1972年9月、日中国交正常化を記念して、中国政府から2頭のパンダ、カンカンとランランが日本に贈られることが決まった。驚いたのは受け入れの決まった上野動物園。当時パンダは「幻の動物」と言われ、日本国内の動物園関係者で飼育方法を知るものはいなかったのである。 急遽、当時の飼育課長・中川志郎をリーダーに「パンダ飼育プロジェクトチーム」が結成された。全員が日本に到着したパンダを見た瞬間、「こんなに大きいのか!」と驚き、未知の珍獣との悪戦苦闘が始まった。 パンダはきわめてデリケートな動物で、ロンドン動物園では過剰人気のストレスからパンダが倒れる事件も起きていた。カンカンとランランが飼育係を受け入れてくれるかどうか、勝負はそこにかかっていた。 飼育係の本間勝男は、信頼関係を築こうとパンダに声を掛け続けた。また獣医の田邉興記はパンダの行動を観察し続けた。試行錯誤が続くなか、来日10日目、オスのカンカンが風邪を引いてしまう。悪化させれば生命の危険があった。そうなれば外交問題になりかねない。しかし、野生の動物に薬を飲ませる事は副作用が心配された。プロジェクトチームは議論の末、ある賭けに出た。 「国賓の動物を死なせるわけにはいかない」という重圧のもとで、パンダプロジェクトチームに参加した飼育のプロたちの懸命な姿を描いていく。
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3.0昭和51年に誕生した宅急便。「電話一本で翌日配達」を売り物にドア・トゥ・ドアで荷物を届ける画期的なシステムである。戦後最大のサービス革命と言われ、日本人の暮らしを一変させた。 宅急便を始めたのは、深刻な経営危機に直面していたヤマト運輸。二代目社長・小倉昌男(50)が社運を賭けて決断した。成功の鍵は全国津々浦々に拠点を作るネットワークだった。 コストがかかる個人相手の輸送はリスクが高く不可能というのが業界の常識だった。しかし、長年の取引先から撤退して宅急便に賭ける小倉の気迫にドライバー達は奮い立つ。 最も営業が難しいと見られた北海道を任されたのは、トラック運転手・加藤房男(27)。広大な北海道で、どうしたら不特定多数の家庭から効率よく荷物を集められるのか。行き詰まる加藤を支えたのは、自分の町にも来て欲しいという住民達の声だった。「待っている人達がいる限り絶対に諦めない」。加藤は全道に営業所の「のぼり」を立てることを夢見て奔走する。 更に、国が立ちはだかった。運輸省は、それまでの常識を次々と覆すヤマト運輸に対し、免許を認めなかった。 ヤマトは運輸省を相手にどう闘いぬくのか? 戦後から続いた規制行政にいかに風穴を開けるのか? 北海道全域にのぼりを立てるという加藤の夢は叶うのか・・・? 物流を劇的に変える新サービス・宅急便を全国に普及させた男達の15年のドラマを描く。
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2.5日本人の自動車に対する意識を根底から覆した革命的な車がある。スバル360。 昭和30年代、一軒家と同じほど高価だった「自動車」をサラリーマンでも買えるほど安価にし、「マイカー」という言葉を誕生させた画期的な車である。わずか360ccながら4人乗り。高級外車にも負けない驚異的な走りとサスペンションを誇り、その風貌から「てんとう虫」と呼ばれた。 スバル360を生み出したのは、戦後、細々とバスを作っていた富士重工業の技術者たち。戦時中は、戦闘機を手掛けるほどの腕を持ちながら、戦後、くすぶっていた男達である。 安くても高性能の車を作るために要求されたのは、極限の軽量 化と、軽くて柔らかいサスペンションの開発である。次々と立ちはだかる壁を前に、技術者たちを奮い立たせたのは、家族への想いだった。 自動車を金持ちの道具から、自分達の家族でも乗れる「庶民の足」にしたい。技術者たちの執念が、不可能といわれた4人乗り軽自動車を世に送り出す。 革新的な車作りに打ち込んだ男達と家族の物語を描いていく。
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5.0日本が誇る純国産ロケット、H-II。 それは、日本の先端技術の粋を尽くした、技術者たちの意地の結晶だった。 昭和30年代の開発黎明期から、平成6年のH-IIロケット打ち上げ成功まで、40年にわたる男たちの熱き戦いを、2週に渡って、放送する。 「ロケット開発の父」と言われる東大教授糸川英夫が、日本初のロケット発射実験を 行ったは、昭和30年。使われたロケット「ペンシルロケット」は、大きさ23センチの小さなものだったが、その影響は計り知れなかった。この実験を知り、多くの若者がロケット開発を志していく。 しかし、その後のロケット開発は苦難の連続だった。計画は難航し、ついにアメリ カの技術を導入することを余儀なくされる。技術の一部は、日本の技術者は全く見ることのできない「ブラックボックス」になっていた。 国産ロケット計画実現に向けての技術者たちの執念の戦いを描く。
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3.0広島カープ。県や市が出資する日本で唯一の“市民球団”として、昭和25年に誕生した。原爆で深い傷を受けた広島にとっては、復興への大きな希望の星だった。 初代監督を引き受けたのは、石本秀一(52)。広島商業を3度の全国制覇に導き、その後タイガースの監督も務めた、野球の鬼だった。両親と兄弟を原爆で失った石本は、故郷復興へに役立ちたいと、広島に駆けつけた。 しかし大企業の後ろ盾がない球団は深刻な資金不足だった。有名選手を集められなかった。石本は、高卒の新人や、喫茶店のマスターをしていた元プロ野球選手までかき集めた。合宿所の窓は閉まらず、雨が吹き込んだ。遠征の時は3等列車の床で寝た。シーズンが終了してみれば圧倒的な最下位 だった。 そして、結成翌年の3月、資金難から、カープの解散が発表された。石本と選手たちは唖然とした。 その時、立ち上がったのが広島の市民たちだった。路面電車の運転手、坂田政利(23)は私設応援団を結成。球場の前で一人一人に募金を呼びかけた。 「復興への希望の灯を消すな!」。それを合い言葉に、全市民を巻き込んだ募金作戦が展開されていく。それは想像を超えた壮絶なものとなっていった・・・。 “市民球団”広島カープが、存続の危機を乗り越えていく感動のドラマを描く。
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5.0地上36階、高さ147メートル。昭和43年に完成した「霞が関ビル」は、日本初の超高層ビルである。 それまでは、関東大震災後に作られた建築基準法により、ビルの高さは31メートルに制限されていた。地震と台風の国・日本では、高いビルの建設は不可能とされていた。 建設のリーダーは、鹿島建設の二階盛(50)。自ら関東大震災を経験し、多くの友人を亡くした二階は、日本初の難工事に果 敢に挑んだ。二階は、「初めての試みには、新たな発想が必要」と、35歳以下の技術者しか加えなかった。後に“二階学校”と呼ばれる150名のプロジェクトの誕生だった。 地震に強い柔構造ビルのヒントは、関東大震災でもビクともしなかった寛永寺の五重塔にあった。一本の柱で支えられている五重塔は揺れに強い。147メートルに達する柱をいかにまっすぐに立てるか。これが霞が関ビル建設の鍵だった。 しかし、肝心の鉄骨は、建設中に、すぐに微妙に曲がってしまった。計り直して修正しても、翌日にはまた曲がった。 一体なぜなのか?その原因が全く分からず、担当の角田勝馬(19)は、焦りを募らす。早く解決しなければ、台風シーズンを迎え、工期に間に合わなない。二階と若手技術者は、この危機をどう乗り越え、完成に導いていったのか・・・。 二階学校での技術者の奮闘を軸に、日本初の摩天楼が完成するまでの1000日の熱いドラマを描く。
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-日本と中国、かつて戦火を交えた両国が、国境を超えて協力しあった壮大なプロジェクトがある。戦争の悲劇の象徴と言われた『中国残留孤児』の身元捜しのプロジェクトである。史上例のない、日中協力の一大プロジェクトのドラマ。 昭和48年3月。壮大なプロジェクトの発端となる会が生まれた。『日中友好手をつなぐ会』。それは、一人の男の執念が生み出したものだった。長野県阿智村で寺を営む住職、山本慈昭、73歳。昭和20年5月、最後の満蒙開拓団の教員として、満州に赴いた男である。敗戦の混乱の中、山本はシベリアに抑留、妻と二人の娘は、極寒の満州で亡くなった。330人の開拓団のうち、生きて日本に帰ったのは、わずか42人だった。昭和44年夏、山本は驚くべき事実を知る。中国で死んだと聞かされていた娘の啓江は、中国人に預けてきた、生きているかもしれないというのである。山本は、一人、中国に残された娘を捜し始めた。 孤軍奮闘する山本の周りには、同じ思いの32人が集まった。『日中友好手をつなぐ会』の誕生だった。しかし、時の中国は文化大革命の真っ只中。孤児たちと自由に連絡を取り合うことも出来なかった。しかし、会のメンバーたちは、執念で孤児捜しへの闘いを続けていく。そして、その執念は、最後、感動の奇跡を呼び込むことになった。
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-現在、世界一低い新生児死亡率を誇る日本。世界で最も安全に出産できる国である。 しかし僅か40年ほど前まで、出産は、赤ん坊にとって人生最大の危機だった。 産婦人科医は母胎に関する知識しかなかった。小児科医は生後一ヶ月以降の赤ん坊しか診られなかった。生まれた直後の新生児専門の医者はいなかった。そのため、30人に1人が出産時に死亡した。生まれ出ても、難産の影響で、脳性麻痺などの身体障害になる者も多かった。 「子供の危機を救いたい」。立ち上がったのが、京都府立医科大学教授の小児科医・三宅廉だった。 三宅はまず、出産に立ち会わせてほしいと訴えたが、産婦人科の領域と断られた。縦割り医療の限界を感じた三宅は、47歳で大学を辞職。昭和31年、ひとりの若い産婦人科医、椿四方介を引き連れて、神戸市内に小さな診療所、パルモア病院を設立した。 しかし日本初の新生児医療は困難の連続だった。どれくらいの量の薬を与えて良いのか。どんな注射をすればいいのか。刺激の少ない人工呼吸の方法は・・・。分からないことだらけだった。更に、苦悩するパルモア病院を経営危機が襲う。名もない小さな病院で出産する患者は少なかった。3週間全く出産がないこともあった。 三宅たちは、次々と襲いかかる困難な壁を、どのように乗り越えていくのか・・・。 これは、小さな命を守ろうと奮闘し、日本の医療界に革命を起こした医師たちの感動のドラマである。
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-携帯電話、モバイルコンピューター。急速に進行するIT革命になくてはならない装置がある。省エネルギーで、軽量 。夢のディスプレイ装置「液晶」である。 世界で初めて、「液晶」の実用化に成功したのは、シャープの研究所で、日の当たらない場所にいた技術者たち。 リーダーの和田富夫はかつて、壁掛けテレビの開発にたずさわり、挫折。管理部門に回されていた。偶然、テレビで実験段階の液晶を見た和田は上司に開発を進言。しかし、プロジェクトに集まったのは、同じように開発に失敗した技術者と何も知らない新入社員たちだった。 和田は、メンバーを鼓舞し、アメリカの大手企業も実用化をあきらめた「液晶表示装置」の開発に打ち込む。そして、1万回を超える執念の実験の末に、電卓の表示装置として、世界で初めて「液晶ディスプレイ」の実用化に成功する。 番組は、サラリーマン人生をかけて開発に打ち込んだ技術者たちの執念のドラマを描く。
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-樹齢数千年の屋久杉が並び立つ屋久島。 世界遺産にも登録されている屋久島は、日本を代表する自然の宝庫である。 高度経済成長に沸く昭和40年代、屋久杉は盛んに伐採されていた。森林面積は激減し、瀕死の状態にあった。この屋久杉を守ったのは、屋久島から東京に出てきていた二人の若者だった。柴鉄生と兵頭昌明。屋久島出身者の野球大会で知り合った二人は、屋久杉の危機を知り、東京での生活を捨て故郷に戻る。 しかし、屋久島に戻った二人が目にしたのは,屋久杉の伐採する林業に頼って生きている島の暮らしの現状だった。人々の生活を守るのか。それとも環境を守るのか。この難題を前に、二人は悪戦苦闘を繰り返す。問題解決のためには、林業や環境の政策から変える必要がある・・・。そう悟った二人は町議に立候補。やがて県や国をも動かしていった。故郷を愛し、自然を愛した男たちが、屋久杉を守るために闘った挑戦のドラマを描く。
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4.0世界中にその品質の高さを知られる日本の工業製品。しかし、かつて、「メイドインジャパン」といえば、「悪かろう、安かろう」の代名詞だった。その偏見を打ち破った革命商品がある。昭和30年、ソニーが開発した「トランジスタ・ラジオ」。世界各国で、爆発的に売れた陰には、命がけで海を渡った営業マンたちの壮絶な格闘のドラマがあった。異国の地では、想像を絶する『偏見』との闘いが待っていた。ドイツでは1年間1台のラジオも売れず、担当者は過労で倒れ、強制送還。アメリカでは、故障で返品が相次ぎ、撤退の危機に瀕した。 苦境を乗り越えるバネとなったのは、「輸出で外貨を稼ぎ、日本を再建したい」という思いだった。営業マンの多くが「敗戦」を背負っていた。広島で被爆した者、空襲で家を焼かれた者。営業マンたちの奮闘は、次第に「メイドインジャパン」を欧米に認めさせていく。番組は、トランジスタラジオを売るために、世界各地で奮闘した営業マンたちの熱い闘いを描く。
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-就職、昇進、定年など職場における男女の平等を謳った日本初の法律「男女雇用機会均等法」。法律を作り上げたのは、自らも仕事と家庭の両立に苦しんでいた労働省の女性官僚たちだった。リーダー、婦人少年局長・赤松良子の情熱の原点は、専業主婦として一生を終えた母の姿だった。「自分も仕事をしたかった」とつぶやく母の言葉が心に深く刻まれていた。法案作りは、経営者団体と労働団体の意見が真っ向から対立し、「審議会」の段階で膠着した。女性の社会進出に対し保守的な経営者側は「法律を作るなら、深夜労働などもすべて男子同様にすべきだ」と強く主張。女性を中心とする労働側は「絶対に譲らない」と反発した。プロジェクトメンバーは、後に「鬼の根回し」と異名をとる懸命の調整を続けた。企画官の松原亘子は徹夜仕事の後も自宅に帰り、子どもの弁当を作って、また霞ヶ関に戻って働いた。昭和59年4月、国会に間に合わすための期限ぎりぎりで開かれた最後の審議会。労働側代表は、直前になって、異論を唱え、審議会への出席を拒否。別室に立てこもった。赤松は、辞表を手に最後の説得に向かった。さまざまな困難な壁を乗り越えて「男女雇用機会均等法」を作った女性たちの知られざる格闘のドラマを描いていく。
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-平成8年12月3日、日本で初めての画期的な外科手術が行われた。動いている心臓をメスで切りとる「バチスタ手術」である。死を宣告された心臓病の患者に生の希望を与える劇的な手術だった。あまりに高度な技術を要するため、それまで日本では取り組む医師がいなかった。手術が行われたのは、神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院。執刀医は、須磨久善、46才。日本有数の外科医といわれながら、理想の医療を求めて、都内の大病院を去り、この地方病院にやってきた医師だった。須磨のもとに若い医師、看護婦たちが集まり、初めての手術に挑むプロジェクトが生まれた。患者は、53歳の銀行員。しかし、最初の手術は、病気の進行が早く、失敗に終わった。「手術は時期尚早」と医学界から批判の声がまき上がったとき、「この手術を続けてほしい」と声を上げたのは、亡くなった銀行員の妻だった。1ヶ月後、二人目の手術希望者が現れる。医学界が揺れる中、須磨と病院は「患者の意思がもっとも重要」と手術に踏み切る。手術は見事、成功。新しい治療法は広く認められていく。 番組は、新しい手術への挑戦を続ける医師たちと、自らの生命を医師たちに預け、再び人生を取り戻した患者たちの姿を通 じて、命の尊さを描く。
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-ゴジラ。日本が生んだ世界のヒーローである。このゴジラが誕生したのは昭和29年。円谷英二が率いる若者集団が生み出した。特殊撮影を専門としていた円谷は、文芸作品が主流だった当時は、日の当たらない裏方の存在だった。大人だけではなく、子供たちも喜ぶ新しい映画を作りたい。そう思った円谷は素人スタッフたちをかき集め、製作期間が短い中、一致団結して新しい映画作りに情熱を注いだ。製作陣と共に、ゴジラの成否の鍵を握ったのが、ゴジラ役の中島春雄(25)だった。大部屋で切られ役専門だった中島は、初めての主役に役者人生の全てを懸ける。「縫いぐるみの中にいて何が主役か」。役者仲間に笑われながらも、中島は努力を重ねる。上野動物園に通いつめては、象やゴリラの動きを徹底的に研究した。重さ50キロ以上の縫いぐるみを着ては黙々と練習を重ねた。逆境からの一発逆転を懸け、ゴジラに挑んだ若者たち。日本のみならず世界の映画界に革命を起こした映画「ゴジラ」誕生の物語を描く。
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5.0標高8848M、世界最高峰エベレスト。昭和50年5月16日、女性だけの登山隊がエベレスト登頂に成功した。世界初の快挙を成し遂げたのは、主婦やOL、教師など15人の日本人女性チームだった。 登山隊のメンバーたちがエベレストに夢を抱き始めたのは昭和45年。植村直己がエベレスト登頂に成功した年だった。 しかし女性だけの海外遠征に社会の目は厳しかった。「女性だけでは絶対に無理」「主婦は家庭を守るべき」と言われ続けた。組織作りから資金集めに至るまで、3年に及ぶ準備期間は苦難の連続だった。 更にエベレストでは過酷な自然が待っていた。厳しい寒さ。高山病。突然の雪崩。命の危険に脅かされながらも、女性たちは夢を諦めず登山続行を決断する。メンバーの情熱を支えていたのは、故郷で成功を祈る家族や仲間達の存在だった。 家庭や仕事を抱え、母として女性として様々な問題に直面しながらも、自分たちの夢を叶えようとしたエベレスト隊の1400日のドラマを描く。
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-70年代、スーパー業界17位のじり貧にあえいでいたイトーヨーカ堂。窓際の部署にいた30代の社員がアメリカで新しいビジネスを見つけた。小さな店舗に豊富な日用雑貨を取りそろえた長時間営業の店、コンビニエンスストアだった。 ビジネスノウハウを入手するため、最大手サウスランド社(セブンイレブン)に莫大な契約金を払い、屈辱的ともいえる契約を結ぶが、苦労の末に入手したマニュアルは日本では全く役に立たない代物だった。 しかも、未知のビジネスに賛同者は少なく、プロジェクトに集まったのは素人ばかり。元商社マンや自衛隊員、労働組合の元闘士・・・、15人の素人集団はゼロから独自の小売り戦略を練り始める。「全品買い取り、返品なし」「在庫は極力減らせ」「1個ずつの小分け配 送」江東区豊洲の酒屋を改造した一号店を舞台に作り上げられた手作りの戦略は、次第に日本独自の流通 機構に風穴を空けていく。15年後、セブンイレブンジャパンの売り上げは、アメリカの本家を抜いた。 日本の流通を変えたコンビニエンス・ストアの草創期に焦点をあて、社員たちの悪戦苦闘の物語を描いていく。
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1.0日本を代表する名刹・薬師寺。その中心にそびえる金堂は、400年前に消失したものを復元した、昭和最大の木造建築物である。実に5年の歳月をかけ、昭和51年に完成した。 僅かな資料をもとに、400年前の姿を復元するというこの難工事。その総指揮を執ったのが、「鬼」と恐れられた日本一の宮大工、西岡常一である。 この西岡のもとで工事に当たったのが、青森から九州まで、全国から集まった37人の大工たち。しかし、その多くが民家の仕事しか経験がなかった若い大工たちだった。 西岡には宮大工の仕事を通じて培ったある哲学があった。 「木には強い木と弱い木がある。しかし、強い木だけではいい建物は建たない。大工も同じだ。腕のいい大工も出来ない大工も必要なのだ。それをまとめていくのが棟梁の仕事だ。」 西岡は経験のない若手たちに、一つ一つ役割を与え、黄金の堂をよみがえらせていく。そして、最後の難関、大屋根の建造では、もっとも重要な「隅木」の製作を、若手の中でもっとも不器用だった一人の若手に任せた。若手は、見事な仕事で西岡に答えた。 日本古来の伝統技術の復活を目指し、金堂再建に挑んだ男たちのドラマを描く。
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-ロータリーエンジン。 従来のピストン式のものと違い、小型で高出力、しかも静かなエンジンである。200年前から研究が進められ、夢のエンジンといわれてきた。このエンジンの開発に世界で初めて成功したのは、広島のマツダである。マツダは原爆の被害を奇跡的に免れた、三輪自動車メーカーだった。開発の中心となったのが、設計部次長の山本健一だった。山本は広島生まれ。妹を原爆で失った。その悲しみを乗り越え、広島の復興に尽くそうと、ロータリーエンジンの開発に全てをかけた。その山本の下で、47人の部下が困難な開発に携わった。「ロータリー47士」と名付けられた彼らは、いずれも山本と同じ思いを抱いた若者たちだった。彼らは、摩擦によってできる「悪魔の傷跡」を始め、克服が不可能とされた技術的課題を、意地と執念で次々と解決していった。 原爆で家族を失った男たちが、故郷の復興を願い成し遂げた、ロータリーエンジン開発のドラマを描く。
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5.0全国で「校内暴力」の嵐が吹き荒れていた昭和49年春。京都一「荒れた」高校、伏見工業に一人の新任教師が着任した。山口良治、31歳。かつてラクビーの日本代表キッカーとして活躍した山口は、ラグビー部の指導に情熱を燃やしていた。しかし、伏見工業の荒廃ぶりは想像を超えていた。校舎の中をバイクが走り回り、授業中はみなトランプや麻雀をしていた。教師たちも見て見ぬふりをしていた。 最初の職員会議で山口はなきながら訴えた。「それでも、あなた達は教師ですか」 会議の後、校長と二人の若手教師が山口を追ってきて言った。「山口君。一緒に学校をたて直してくれ」。こうして熱血教師たちの取り組みが始まった。 子供たちを立ち直させるためには、母校に「誇り」を持たせることが必要だった。そのためには不良の巣窟、ラグビー部を鍛え直し、全国大会に出ることを目標とする。 初の公式戦は、強豪・花園高校を相手に「112対0」で歴史的大敗。その屈辱をバネに、プロジェクトの闘いは始まった。泣きながら、身体ごと不良たちにぶつかっていく山口は「泣き虫先生」と呼ばれるようになっていった。そして、子供たちも次第に心を開き、全国優勝への夢に向かって突き進んでいく・・・。 今も教育界に語り継がれる、伝説の物語を描く。
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-平成9年1月、突然、日本海沿岸を襲った真っ黒な重油。ロシア船籍タンカー、ナホトカ号から流れ出した重油はドラム缶 三万1千本分。被害は日本海側の9府県にも上る未曾有の事故だった。各地の浜は、どす黒く汚れ、向こう5年、海はよみがえらないと言われた。地元の漁師たちにとってはまさに死活問題だった。浜と漁師を救ったのは、バケツとひしゃくで重油を掬いつづけた30万人に及ぶボランティア。「善意が奇跡を起こした」と世界中で報道されたこの快挙の陰には、ボランティアをまとめるために奔走した地元の青年たちの姿があった。 最大の被害を出した福井県三国町で立ち上がったのは、建設会社を営む35歳の長谷川啓治。 食料の調達、宿泊場所の確保、作業の指示・・。長谷川は会社を休み、地元の商店主や青年たちとともに膨大な作業に取り組んでいく。連日の荒天のため、作業は中止が続き、ボランティアと地元の間に確執も生じた。それを乗り越え、人々の善意がわずか3ヶ月で、浜をよみがえらせていく。「善意の奇跡」の裏側で繰り広げられた人間ドラマを描いていく。
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-昭和57年以来、販売シェアの全国一をキープし続けるコシヒカリ。日本一うまいと言われる米である。その作付け面積は、今や日本の全水田の3分の1を占める。戦後まもなく、福井の農業試験場で開発されたコシヒカリは、「越南17号」と名付けられた試験品種だった。味はうまいものの、肥料の管理などが面 倒で、「増産」が至上命題だった当時は、全く相手にされない米だった。その「越南17号」に目を留めたのが、新潟県長岡農業試験場の職員、杉谷文之40歳。杉谷は土地のやせた新潟の農業を救う「うまい米」を探していた。しかし、期待の越南17号は、刈り入れの直前、生育のしすぎでバタバタと倒れていった。杉谷たちは、過剰な生育を押さえるために、肥料の与え方で対処しようと試行錯誤を重ねる。この米に、一人の若い農家が着目する。やせた土地に苦しんでいた魚沼地区の小林正利だった。小林は、村を救うのはこの米しかないとプロジェクトに加わる。このうえなく痩せていた魚沼の土地は、偶然にも「越南17号」には最適の土地で、以後、魚沼は、この米の開発に地域の存亡を賭けるまでになった。 貧村を救おうと研究に打ち込んだ研究者と、地元農民の心の交流を軸に、日本一の米、コシヒカリ誕生のドラマを描く。
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-辞書「広辞苑」。収録語20万。2320ページ。 国語辞典のみならず、地名・人名・流行語などの百科事典の機能も兼ね備えた、日本初の本格的な「日本語の総合辞典」である。昭和30年、発売と同時に大ベストセラーになり、いまもその地位 は揺るぎない。 辞書作りの中心となったのが、新村出と新村猛。言語研究に生涯を捧げた親子だった。「一流国になるには、日本語の総合辞典が不可欠だ」。その信念で、二人は戦前から10年の歳月をかけ、15万語の辞書の原稿を完成させた。しかし、昭和20年、原稿を印刷所に持ち込み、印刷開始の直前に空襲にあった。原稿、活字、印刷用紙、全てが一瞬で灰と化した。 戦後、二人は辞書作りを再開する。しかし終戦直後の日本は、時代が急速に動いていた。新しい言葉が次々と生まれた。意味も変化した。戦前の蓄積では対応できず、一から言葉を選び、意味を考えるという、気の遠くなる作業が必要だった。 それを支えたのが、7人の若い編集スタッフだった。新聞を読みあさり、喫茶店や、公園で遊ぶ子供たちの会話にまで耳をそばだて、言葉選びに奔走した。彼らは、新村親子を中心に、膨大な言葉の海と格闘を続けていく・・・。 日本語の豊かさに誇りを持とうと、前代未聞の辞書作りに情熱を燃やした親子と若者たちのドラマを描く。
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4.0日本ラグビー史上、前人未到の7連覇を達成した伝説のチーム、新日鐵釜石ラグビー部。彼らは大卒中心の社会人ラグビー界にあって、地元出身の高卒選手を中心とした「雑草集団」だった。 チームが生まれたのは昭和35年。部員は、ずぶの素人の鉄鋼マンばかりだった。しかし、仕事をこなしながらトレーニングを続け、やがて、全国大会に出るまでになった。 そんな鉄の男たちを、突然の不況が襲う。部員がリストラされ、部は存続の危機を迎えた。その時、一人の男が立ち上がった。市口順亮(よしあき)。本社から赴任したエリート技術者だった。 市口は、釜石の町の暗い雰囲気に驚いていた。沈みきった繁華街、士気の下がった社員。熱血漢、市口は監督に就任、ラグビーで町を盛り上げようと動き出す。 市口はイギリスの本を自ら翻訳し、部員に最先端のラグビー理論を教え始めた。しかし、市口の指導に高卒の部員達は反発した。過酷な現場での仕事を終えた後の厳しい練習、退部するものも相次いだ。「所詮監督はエリート。俺たちの気持ちはわからない。」市口はそんな部員達をグランドで殴り合いをしながら議論、家に呼んで「釜石から日本一のチームを作ろう」と語りあう。 そんな折り、「釜石の製鉄所が合併される」という衝撃的なニュースが飛び込んでくる。市口は会社の上層部から告げられた。「ラグビー部は同じ会社に2つもいらない」ラグビー部は、勝たなければ廃部という瀬戸際に追い込まれる。 背水の陣で臨んだ社会人選手権。釜石ラグビーは快進撃を続けた。そして、日本一をかけ、名門・早稲田大学ラグビー部との試合を迎える。会場に駆けつけた大勢の市民。「廃部か存続か」。運命の試合は、劇的な結末を迎える。 故郷を愛し、共に生きた鉄鋼マンたちの不屈のドラマを描く。
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-昭和42年、大阪の北千里駅に、一台の機械が設置された。 「自動改札機」──いまや日本全国に行き渡った夢の機械の第1号機である。 膨大な情報を磁気で記録し、それを一瞬で読みとる。その技術は、ラッシュの混雑を劇的に緩和しただけでなく、銀行の自動支払機CDやATMの元となる画期的なものだった。 高度経済成長下の昭和30年代、人口集中に伴い、鉄道の混雑が大きな社会問題になっていた。ダイヤの乱れ、ホームからの転落事故などが多発。鉄道会社は、各メーカーに自動改札機の開発を打診した。 「不可能だ」と各社が後込みする中、手を挙げたのが立石電機(現オムロン)だった。社長の立石一真(67)は、極貧の中で妻を亡くし、7人の子供を育て上げた苦労人。以来「人の役に立つ機械の開発」をモットーにしてきた立石は、採算度外視の開発を決意。「立石電機7人の侍」と呼ばれた若手技術者を集め、開発に当たらせた。 人の流れを止めないためには、1分間に80人の切符を処理しなければならない。更に、大人と子供の区別 、男女の区別、不正な券の発見、荷物と人との判別など、膨大な磁気処理が必要だった。若手技術者の一人、田中寿雄(27)は、試作機を作っては、近所の主婦や子供たちを集め、試行錯誤を重ねた。 それらの課題を解決した矢先、さらなる難題が襲いかかる。それは、濡れたり折れたりして、磁気が乱れた切符の判別 だった。若手技術者たちは、一からの開発を迫られることになった……。 完成までに6年を費やし、磁気の技術に革命を起こした自動改札機の壮絶な開発物語を描く。
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-今や世界中の漁船になくてはならない装備となった「魚群探知機」。超音波を使い、海の中の魚群を見つけだすこの装置は、勘と運に頼っていた漁業を革命的に変えた。 昭和24年、魚群探知機を世界で初めて実用化したのは、長崎の港町、口之津に暮らす二人の青年だった。古野清孝、清賢兄弟。二人には8人の妹、弟がおり、失職中 の父に代わって、漁船の電気関係の工事作業で家族の暮らしを支えていた。漁師たちの運任せの仕事を見ていた二人は、魚を見つけだす機械を作れば必ずあたると動き出す。 しかし、作り上げた試作器はエンジンの振動や海中の泡まで感知してしまい、使い物にならなかった。最初は協力してくれた漁師たちも怒り出す始末。そのなかに、協力を惜しまない船があった。五島列島で、もっとも漁獲高が低く「どんびり船」と呼ばれていた枡富丸。古野兄弟と枡富丸は魚群探知機を必死に改良。一発逆転の秘策を考え出す。 家族のために困難な開発に挑んだ二人の若者と「どんびり船」の船員たちの挑戦のドラマを描く。
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-20世紀、世界の工業発展を支えた魔法の液体、石油。敗戦後、奇跡の復興を遂げた日本を支えたのも、この石油だった。 資源のない日本が、石油の安定確保を果たした陰には、壮絶なドラマがあった。日本の真の独立と誇りをかけて闘った技術者たちの挑戦の物語を描く。 敗戦で、海外での油田開発を一切禁止された日本は、僅かに新潟で石油を掘っていたものの、その99%を輸入に頼るしかなかった。日本の石油は、完全に欧米のメジャーに牛耳られていた。 転機となったのは、昭和27年。サンフランシスコ条約で独立を果たした日本は、自主開発原油(日の丸原油)の確保に乗り出した。その時立ち上がったのが、実業家、山下太郎。山下は「アラビア石油」を設立し、サウジアラビアに乗り込んだ。 度重なる交渉の末、日本に開発が認められたのは、沖合の洋上油田という難所。しかも「一発目で石油を当てること」が絶対的指命として課せられた。 この困難を成し遂げるため呼び集められたのが、新潟で細々と石油を掘っていた技術者たちだった。リーダーは山内肇。戦前、アジアの占領地での油田開発を手がけた、世界でもトップレベルの伝説の技術者だった。 想像を超える猛暑。欧米企業の妨害。そして不測の火災事故……。次々と襲いかかる難題を技術者たちはどう乗り越えていくのか……。 日本の命運をかけ、日の丸原油の確保に命懸けで取り組んだ技術者の意地と執念を描く。 昭和48年、日本を悪夢が襲った。オイルショックである。アラブ諸国が一方的な供給削減を発表し、日本中がパニックに陥った。それまでに確保した日の丸原油では、到底足りなかった。 不測の事態に対応できる大量の石油を、安定的に確保できるか。それが日本の今後を左右する鍵だった。 日本は、アブダビにある、世界最大級の大油田に目をつける。そこは、石油と水が混ざって存在する特異な油田。多くのメジャーたちが開発不可能と手を引いた難所中の難所だった。 送り込まれたリーダーは石油技術者、細井弘。山内肇の弟子だった。細井たちは、実に10年に及ぶ試行錯誤を繰り返し、水と油を見事に分けて取り出す技術を開発していく……。 日本の血脈、石油の安定確保をかけ、世界最難関の油田に挑んだ男たちの壮絶なドラマを描く。
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-昭和30年、日本の台所を劇的に変えた、一つの電化製品が発売された。自動炊飯器、いわゆる電気釜である。 主婦の家事労働を大幅に減らし、「睡眠時間を1時間延ばした」とも言われたほどの衝撃を与えた。 「電気釜」を開発したのは、東京の大田区で町工場を営んでいた三並義忠(みなみよしただ)、風美子(ふみこ)夫婦だった。三並の工場は戦後まもなく進駐軍からの電気温水器の受注を受け、大々的に業績を伸ばしていた。しかし昭和27年に進駐軍が撤退。注文が途絶え、一挙に倒産の危機に追い込まれていた。6人の子供を抱え、三並は途方に暮れた。 そんな三並に思わぬ話が持ち込まれた。「電気釜を開発しないか」というものだった。話を持ちかけたのは東芝の営業マン、山田正吾。全国を回り、主婦の声を生の声を数多く聞いてきた山田は、飯炊きの苦労を身にしみて感じていた。山田の提案に、三並は工場と家族の未来を電気釜開発に託すことを決めた。 しかし、単純に思えた「お米炊き」の自動化は、予想を超えて難しかった。三並夫婦は、試作器を作っては実験を繰り返した。実験に使う大量のコメを買うために、工場や自宅を抵当にして銀行から資金を借りた。度重なる実験で妻が倒れた。6人の子供たちが立ち上がった・・・。実験開始から3年、壮絶な実験の末に開発した電気釜は東芝から発売されることになった。営業マンの山田は、三並一家の命運が託された電気釜販売に、ある奇策を思い付く。 「主婦に睡眠時間を」を合い言葉に、1台の電気釜で台所革命を起こした人々を描く。
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-20世紀最後となったスポーツの祭典・シドニーオリンピック。柔道の田村、マラソンの高橋と共に、日本中を沸かせた女性たちがいた。女子ソフトボール全日本代表である。小柄な身体で、海外の強豪を次々と打ち負かした15人のチームは、「東洋の魔女の再来」と称された。チームを率いたのは監督の宇津木妙子(46)。もともとユニチカのソフトボール選手だった。どんなに活躍してもバレーボールほど脚光を浴びなかった。設備もお粗末で河川敷で練習した。紡績不振で会社が傾くと、真っ先に廃部の危機にさらされた。その屈辱が世界を目指すバネになった。その宇津木監督のもと、日本チームの主砲として活躍したのが宇津木麗華(35)だった。彼女の元の名前は、任彦麗。中国で活躍していたソフトボールの選手だった。選手時代の宇津木のプレーに魅せられた任は、父親の反対を押し切って5年前に日本に帰化した。4年前のアトランタでは、任は出場選手に選ばれながら、中国側の反対で出場できなかった。その悔しさを乗り越えてシドニーに挑んだ。監督と選手が共に手を組み、悪戦苦闘を繰り返しながら銀メダルを勝ち取ったドラマを描く。
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-死んだ大地に、ゼロから木を植え、森を作る。 半世紀にわたって繰り広げられた、世界でも例のない壮大なプロジェクトがある。 北海道襟裳岬の200ヘクタールに及ぶ砂漠緑化プロジェクトである。それは、襟裳の人々にとって、かけがえのない故郷を蘇らせる闘いでもあった。 昭和28年、えりも岬の人々は困窮を極めていた。町に広がる広大な砂漠の砂が海に流れ出し、生活の糧、昆布を死滅させようとしていたのである。 砂漠は、かつて、うっそうとした森だった。しかし、開拓した人々は、暖をとるために森の木々を切り尽くした。森はあっというまに、砂漠と化し、人々に襲い掛かった。 立ち上がったのは、若い漁師たち。砂を止めるために、砂漠を森に変える壮大な試みを始めた。その中に、24歳の飯田常雄がいた。嫁いだばかりの妻に「必ず森を完成させる」と約束していた。 気の遠くなるような、厳しい自然との闘いが続いた。牧草の種は、強風に吹き飛ばされ、3年間、全く根付かなかった。ようやく牧草を植え終わったのが、21年目。そこから、さらに一本一本苗木を植えた。 漁師たちの老齢化。若者たちの反発。さまざまな困難とぶつかりながらも、漁師たちとその家族は、少しずつ少しずつ砂漠を森に変えていく。そして、森が広がるにつれ、育まれた腐葉土から栄養分が地下水に流れ出し、いつしか、海は豊かさを取り戻していった。 番組では、半世紀にわたる、漁師家族の物語を軸に、壮大な自然の再生のドラマを描いていく。
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-戦後ただ一度だけ、日本中の企業と学者、そして、国民がその力を結集させてのぞんだ壮大なプロジェクトがある。 昭和31年に始まった第一次南極観測である。輸送船「宗谷」の建造から、世界をあっと驚かせた昭和基地での越冬観測までの知られざる人間ドラマ。昭和30年、東大理学部教授・永田武の元に、世界各国共同で、未知の大陸・南極の観測を行わなうという途方もない構想への参加要請が来た。しかし、日本に与えられた観測場所は、欧米が7度挑戦しても行き着くことのできなかった南極屈指の難所、プリンスハラルド海岸だった。予算も、時間もないなか、未曾有のプロジェクトが動き出す。輸送船に選ばれたのは、灯台への物資補給に使われていた老朽船「宗谷」。元海軍の設計技術者と、横浜の小さなドックの職人達が改造に立ち上がった。観測隊員は、屈強の山男から、元銀行員、学生など77人。南極用の住居や電池、無線、食料の開発には、千を越す日本企業が力を貸した。「南極観測を成功させて、自信を失っている日本人に勇気を与えよう」 昭和31年11月8日、屈強な船に改造された「宗谷」は南極に向けて晴海埠頭を出航する。
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-昭和63年、18年の歳月を経て完成した「瀬戸大橋」。1000メートルを超える橋の上を列車が行き来するという世界でも例のない巨大橋である。未曾有の巨大橋建設のきっかけとなったのは、昭和30年に起きた悲劇の事故だった。修学旅行中の子供達100人が瀬戸内海に消えた紫雲丸の沈没事故。「瀬戸内海に橋をかけてほしい」四国各地から切実な声が巻き起こった。 瀬戸大橋建設に挑んだのが、「不可能を可能にする男」と呼ばれた、天才技術者・杉田秀夫だった。猛烈な速さで潮の流れる瀬戸内海に、どうすれば巨大な橋台を建設できるのか。杉田は、前代未聞のこの難問に、果 敢に立ち向かった。 一人の男が協力を申し出た。瀬戸内海のことなら何でも知り尽くしている男、ダイバーの飯島靖郎だった。飯島は、昭和30年、紫雲丸事故の遺体引き上げ作業に携わっていた。相次ぐ実験失敗、石油ショックによる着工凍結。様々な困難を乗り越え、技術者たちは、瀬戸大橋の建設工事を成し遂げていく。番組では、技術者たちの心の交流を織り交ぜながら、瀬戸大橋架橋の最大の難関であった海中基礎工事にかけた男達の物語を描いていく。
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5.0昭和30年代、日本は登山ブームを迎え、山での遭難事故が増え始めた。昭和38年、後にサンパチ豪雪と呼ばれるドカ雪で、北アルプス薬師岳を登山中の愛知大学山岳部13人が全員死亡。前代未聞の大量遭難となった。この事故で、救助チームの隊長を務めたのは富山県警上市署の鑑識係、伊藤忠夫40歳。伊藤はかつて最愛の弟を山で亡くしていた。昭和40年、伊藤を指揮官とする山岳警備隊が発足。しかし県内の警察署から集められた隊員達は、山歩きの経験が無い素人集団。伊藤は助っ人を頼もうと、北アルプス麓の集落、あしくらじ芦峅寺を訪ねた。黒部ダム建設の際、資材を運搬。第一次南極観測隊にも選ばれた山のエキスパート達が住んでいた。隊員は、あしくらじ芦峅寺の男達に山登りの技術を学んだ。昭和44年正月、剣岳を記録的なドカ雪が襲った。15パーティー81人、史上空前の大量遭難が発生。山岳警備隊はあしくらじ芦峅寺の男達に応援を頼み、山頂付近にいた金沢大学山岳部17人の救助に向かった。しかし猛吹雪の中、先頭を切っていたベテランガイドが谷に転落。あしくらじ芦峅寺の男達は仲間を救出、山を降りた。後には、3人の若き警備隊員が残された。「今こそ厳しい訓練の成果を見せる」遭難者が待つ山頂に、足を踏み出した。生死をかけ、山岳救助に挑んだ若者達の熱きドラマを描く。
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4.0強大なアメリカ経済。強さを支えてきたのが特許である。巨大企業は巧みな特許戦略でライバルを抑え、世界市場を制覇した。32年前、その特許戦略に真正面から挑み、突破した男たちがいた。キヤノンの技術者たちである。男たちに立ちはだかったのは、世界で初めて普通紙複写機(コピー機)を発売し、シェア100%を誇っていたゼロックスの特許網。「この特許を使わずしてコピー機を作ることは不可能」と世界中の技術者が諦めるなか、男たちが作り上げたのが、新方式の国産普通紙複写機・NP-1100だった。開発は困難の連続だった。独自方式開発のためには、ゼロックスの特許を全て把握しなくてはならない。数百件・数千ページに及ぶ英文特許の山が特許マンに立ちはだかった。またコピー機は、物理・化学・電子・機械の最先端技術の結晶。複写プロセスは多岐にわたり、全ての過程において技術者たちは一から独自技術を創造しなくてはならなかった。苦境を乗り越えるバネとなったのは、日本のオリジナリティーを世界に示したいという思い。それまで日本は、莫大な特許使用料を払って欧米から技術をもらうばかりで、製品は「優秀な模造品」と皮肉られていた。レッテル返上に燃える技術者と特許マンの執念が不可能と言われた開発を成功に導いていく。鉄壁の特許網に挑み、見事に独自のコピー機を作り上げた伝説の技術者と特許マンの逆転の物語を描く。
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-昭和41年、横浜で世界最大の船の建造が始まった。船体の長さは東京タワーを凌ぐ342メートル。積み荷は原油、日本の一日の消費量を一気に運ぶ夢のタンカーである。当時、世界中のタンカーは欧米の石油メジャーに握られていた。日本は割高な油に苦しんでいた。「自前のタンカーを持ち、直接中東から買い付ける」立ち上がったのは、石油会社、出光興産。船の建造を請け負ったのは、石川島播磨重工業だった。その下に電気、機械、鉄鋼、全国から1千社。36万人が結集した。世界最大の船体工事、現場の指揮を託されたのは石川島播磨重工業の技術者、南崎邦夫38歳。入社3年目に事故で右足を切断。それでも現場を歩き続けた不屈の男だった。その南崎たちの前に次々と難問が立ちはだかる。船体を覆う、最強の鉄板「ハイテンション鋼」。溶接できず真っ二つに折れた。直径7.8メートルのスクリューを支える巨大シャフト。船体に原因不明の歪みが生じ、取り付けられない。そして、運命の処女航海。東シナ海で巨大台風に襲われた。造船大国の誇りを賭けた人々の壮絶なドラマを描く。
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3.0平成8年12月17日、世界を震撼させる大事件が南米・ペルーで起きた。日本大使公邸人質事件である。襲撃したのは、MRTA・ツパクアマル革命運動と名乗る武装グループ。天皇誕生日の祝賀パーティーに招かれていた招待客600人余りを人質に取り、刑務所に収監されている仲間の釈放をペルー政府に要求した。最後まで人質に残されていたのは72名、その中に「13人の日本人サラリーマン」がいた。平均年齢は53歳。南米各地で働いてきた企業戦士たちだった。人質たちは、およそ十畳一間の空間に閉じ込められ、建物の各所に爆弾が仕掛けられた。トイレは、人質達が身元を隠そうと捨てた身分証で詰まり、悪臭を放った。皆、蒸し風呂と化した部屋の中で、靴を枕に眠った。ペルー政府と武装グループの交渉は難航し、監禁生活は長期化。人質たちは、身体に変調をきたし、危機が迫った。その時、人質たちの健康を守るため、立ち上がった特命チームがあった。日本赤十字の医師と看護士たち、総勢6名、中立の立場を掲げ、防弾チョッキも付けずに銃口にらみ合う公邸へと向かった。医師の鈴木隆雄(当時46歳)は、懸命に人質達を治療し、励まし続けた。そして事件発生から127日目、ペルー政府が強行突入した。激しい銃撃戦が繰り広げられ、人質達がいた部屋は、紅い炎で包まれた。絶体絶命の人質達、その運命は・・・。
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-世界各国の要人が来日の度、絶賛する建物がある。「金閣」。「究極の頂き」と呼ばれる三階の天井には、3千枚の金箔が歪みなく敷き詰められている。二階には、極楽浄土の世界を描いた天井画。その真下に広がる総漆塗りの床に反射し、極限の美を見せる。しかし、この金閣は、52年前に一度、放火で全焼している。そこから再建を成し遂げたのは、全国の職人たちの30年に及ぶ意地と執念だった。昭和30年、京都では、消失した金閣の再建が進んでいた。全国から選りすぐられた、漆職人、金箔職人などが腕を振るった。しかし、資金不足や手がかりの少なさから、二階天井画は、再現できなかった。戦前から金閣を守り続けた住職、村上は、いつの日か完全な再建を目指したが、十年、二十年と経つうちに、風雨にさらされた金閣から金箔は剥がれ落ち、漆も破壊されていった。建物自体が腐る可能性もでてきた。そして、三十年が経った昭和60年、村上も癌に侵され、床に伏せた。「金閣を甦らせたい」病と闘う村上の願いに応えたのは、当時、文化財修復の世界で名をあげていた矢口一夫(やぐち・かずお)を中心とする職人たちだった。矢口は調査と研究を重ね、京都の厳しい自然から金閣を守る材料をそろえた。通常の5倍の厚さの金箔「5倍箔」。金箔の下で建物を守る、粘り強い純国産の漆、1.4トン。昭和61年2月、準備も整い、1年8ヶ月に及ぶ工事がスタートした。しかし、再建は、困難を極めた。謎の歪みが出る金箔。さらに天井画の修復を手がける画家を襲う死の病。そして、完成間近を迎えたその時、最大の壁が立ちはだかった。果たして、黄金の寺は輝きを取り戻すのか。金閣再建に挑んだ職人たち、執念の30年戦争を描く。
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-車が溢れる渋滞列島、日本。朝夕の通勤ラッシュ、帰省ラッシュ、長い行列に耐えるのがドライバーの宿命である。12年前、日本で画期的な製品が開発された。アメリカの軍事衛星GPSを利用したカーナビゲーション。初めての道でも裏道でも迷わない夢の機械である。開発に挑んだのは音響メーカーのパイオニア。当時、看板商品のカーステレオの売れ行きが伸び悩み、会社は新製品開発にもがいていた。その時、カーナビ開発を提案したのが畑野一良31歳。カーステレオ部署のエース企画マンだった。畑野は方向音痴。家族でドライブに行くと抜け道で迷った。車内は険悪なムードになった。「家族で楽しくドライブをしたい」。カーナビ開発は、ささやかな思いから始まった。川越工場の本橋実がカーナビ本体の開発を担当。技術研究所の清水敏彦が地図作りを担当。しかし、困難な壁が次々と立ちはだかった。GPS受信機は200万円。車本体よりも高かった。地図を映し出すコンピューターは、真夏の車内気温50度で壊れた。プロジェクトは完全に行き詰まった。そのとき、雪降る、北海道、旭川から、思わぬ援軍が駆けつけた。負け続けの男たちの、奇跡の逆転の物語をお伝えする。
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-1989年、出雲市にある島根医科大学に、瀕死の状態の1歳の男の子が運び込まれた。肝臓移植をしなければ助からない、胆道閉鎖症を患った杉本裕弥ちゃんだった。 永末直文医師を中心とする医療チームは、難しい選択を迫られる。当時、脳死による臓器移植は認められておらず、助けるには健康な人の肝臓を切り取り移植するしかなかった。手術に成功しても、失敗しても倫理上の非難が集中することは必至だった。しかし、医師たちは肝臓提供を申し出た父親や家族の思いを聞くうちに、日本初の生体肝移植への決意を固めた。 15時間に及んだ難手術、285日目に訪れた別れ。母親は、「自分をあーたん(母さん)と呼んでくれた瞬間を持てただけで、手術をお願いした甲斐がありました」と語った。 その後、生体肝移植の技術は固まり、1000人を超える子供たちが助かっている。小さき命を救うために手術に初めて挑戦した、医師と家族のプロジェクトを描く。
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-昭和62年4月、歌手・美空ひばりが倒れた。重症の肝硬変と大腿骨骨頭壊死で、マスコミは再起不能とまで報じた。 「もう一度、ステージに立って歌いたい」。入院先の病院で夏を迎えても、ひばりは「喉を痛める」と冷房もつけず、治療に耐えていた。その姿に、医師や制作スタッフは「ひばりを復帰させ、舞台に立たせる」ことを誓う。そして壮大な計画は持ちあがった。それが、ドーム球場に生まれ変わる「東京ドーム」でのこけら落としコンサートだった。総勢300名にのぼる、ひばり復活公演プロジェクトが動き始めたのだ。 しかし、東京ドームには巨大空間ゆえの問題があった。大きな音を出せば出すほど、こだまのように音が残ってしまう”残響”の問題だった。通常のホールで2秒の残響が、東京ドームでは5,6秒にもなる。そのままでは歌えない可能性もあった。さらに、歩くと苦痛にさいなまれる状態のひばりを、必要以上に動かさない工夫が必要とされた。それらの条件のなか、スタッフは復活の舞台を演出しなければならない。 そして病に倒れて1年後の昭和63年4月11日。美空ひばりは、5万人の観客が見守るなか、東京ドームの舞台に立った。”不死鳥”美空ひばりと、その翼となってステージを支えたスタッフたちの「復活への情熱」を描く。
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