大久保喬樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
茶の湯やそれを思想的に支える道教と禅の関係についても軽く読むには最適なのだが、芸術とは何かという彼の思想は時代を先取る素晴らしいものだった。その点においても、今の時代の殆どの人が彼に追いついていない。何にでも芸術という言葉が使われる時代だからこそ、芸術のことを根本的に問い直すことが必要で、この本はそれについて考えるいい機会を提供してくれる。
傑作はわたしたち自身であり、わたしたち自身は傑作である ― これはこの書籍のなかの言葉だが、この考えは裏返せば人間の能力の限界を見つめつつ、その限界を超えることをわたしたち鑑賞者に要求する。それによってこそ作品は芸術作品となり最終的には傑作となるのだが、また逆に傑作こそが私たちの限界を大きく広げてくれる。この両者の高め合いこそが芸術の素晴らしい機能の一つだ。
今日のエンターテイメント作品は芸術作品とは程遠いものにもかかわらず自らを芸術と呼ぶ。エンターテイメントは私たち自身を拡張してくれず、現在の私たちの理解可能な部分に、強烈に、或いは甘い声で働きかけてくるに過ぎない。同時に私たちはこれらのエンターテイメント作品をティッシュペーパーのように使い捨てるだけなのだ。
作品や芸術作品との関係の結び方を今一度再考し新しく真摯な関係へと変えていくことが必要なのだろう。
この本は、今なおその意味や役割が棚上げされたまま細分化されて議論が続けられている芸術というものについて、もう一度素朴に問い直すために非常に有用だ。
なお、付録の彼の生涯についての詳細な文章も面白い。
能力の低い奴が天心を妬んで政治的に天心を引きずり下ろすなどということは、今の日本でもありそうな話。日本の芸術がクソみたいなものになったのは、そういうことの積み重ねなんだろうなと感じた。
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匿名
ネタバレ 購入済みとてもわかりやすい
まだ途中までしか読んでませんが、文章を彩る日本語の多様さに驚かされています。当時の日本の実情をよく理解できるのみならず、言葉遣いや創作などでも本作は非常に役に立つでしょう。
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Posted by ブクログ
武士道の定義。武者がその任務において、または日々の暮らしにおいても従うべき規範。
無形のものであるから一層強く武士の行動を拘束し、心に刻み込まれた。
戦いにフェアプレイ。やトム・ブラウンの決して小さな子をいじめもしなければ、大きな子に背を向けて逃げ出すこともしなかった。
武士道が過去の日本の一階級の文化でありながら、現代人にも理解、共感できるような精神的内容のものであること。また西洋社会においても騎士道という共通する性格の文化があったこと。つまり武士道の本質は決して歴史的、民族的に限定された特殊なものではなく、どんな時代、どんな民族にも通用するような普遍的なものであると言う新渡戸の基本的な考え方がある。
武士道の思想的根拠は儒学であることを述べているが、さかのぼって仏教や神道の影響がある。
義とは武士がことにあたってどう行動すべきか、その判断の根拠となる考え方を言う。
一方、義から派生した義理には義本来の倫理性が形式化されることにより、歪められ、むしろ正義を損なう詭弁や偽善に堕落する危険があることが強調されている。
武士にとって勇気は真っ先に要求される資質であるが、その前提には義があること。義がなければどんなに勇猛な行動も乱暴狼藉と変わらない。
慈悲は武士道を支える最高の精神的、人格的徳。純粋に自発的な心の動きに従ってのものである。新渡戸はこの慈悲の心こそ、勇や義以上に根本的なものであるとした。このことは武力からスタートした武士道を人格による感化を基本とする徳治の文化に昇華した。
礼は他者の思いやり。
忠誠は武家社会を支える根幹ともいうべき倫理。主君に対する絶対的服従、献身を意味する。事例として挙げられた菅原道真公の寺子屋の話は主従関係を知らないとなかなか理解出来ないと感じた。
自制。心を平静に保つこと。
日本人の曖昧な微笑みはこの自制の表れとして新渡戸は説明しようとしている。
自死と仇討ちの章は今回きちんと読み進められなかった。私にとってはつらいものであった。
刀。抜かざる刀こそ究極の伝家の宝刀。
女性。武士道に女性に関する章があるとは知らなかった。女性も武士同様の心得を求められていること。ただ当時は性差を感じる記述があり、役割分担とされている。これは区別ではない。ことを力説している。
武士道の影響。男性ばかりでなく女性にも。そして平民階級にも受け入れられ、影響を及ぼした国民文化であることを説いている。
著者新渡戸自身は国際結婚をし、女性の教育にも力を入れておられたことを知ると、武士道に女性のことが書かれていることもよく分かる。
以前から読みたかった著作。解説文が章ごとに書かれており、読み進めやすい。今後も時々読みたい。 -
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ネタバレ「和の心」というテーマで展示を作成するにあたり、その核となる書籍として選んでみました。
「粋だねえ」などと言われ、ある種の誉め言葉として使われる「いき」という概念は、はたしてどのようなモノであるのか、読み終えて、ひとつの定義を知ることができたように思います。
原著を現代語で読みやすく書き改めてあるので、本論もストレスなく読むことができましたし、著者の主張もわかりやすかったです。
実体験として、また実生活の中で自分が「いき」に生きることはなかなかハードルが高いのですが、だからこそ(そして「いき」がどのようなものであるかわかったからこそ)「いき」である人やその仕草にあこがれ、尊いものだと認識できるのだとあらためて思います。
「いき」の核となる「媚態」は出せずとも、「意気地」くらいはしっかりともって生きてゆきたいものです。
p.31
「いき」な意識を構成する三要素として、媚態、意気地、諦めをあげ、……「いき」の本質とは、つまるところ、媚態すなわち男女がたがいに相手をひきつけようとする駆け引きに発する美意識にほかならないと九鬼は意味づけます。
p.34~
媚態とは、恋愛において、自分と異性の間に、どう転ぶかわからないような不安定な関係を持ち込むことである。「いき」のうちにみられる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべて、この自他の不安定な関係から生まれる緊張のあらわれにほかならない。……この不安定な関係こそは媚態の根本的要素であり、異性同士が完全に相思相愛の仲となって、不安定な緊張感がなくなってしまえば、媚態はおのずと消滅してしまうことになる。……それ故に、自他の緊張した関係を持続させること、すなわち、どうなるかわかならいという不安定さを維持することが媚態の本領であり、恋の醍醐味なのである。
p.38
「いき」の第二の要素は「意気」すなわち「意気地」である。……「いき」は相手の気をひこうとする媚態でありながらも、なお異性に対し突き放してみせる強さをも兼ね備えた意識なのである。
p.41
「いき」の三番めの要素は、「諦め」である。運命というものを心得て執着心を捨て、無関心に徹するありかたである。「いき」であるためには垢抜けていなければならない。あっさり、すっきり、スマートでなければならない。……「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、その「諦め」に基づく淡々とした境地とが含まれている……。
p.45
以上をまとめれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」の三要素から成り立っているのである。……「媚態」の本質は、自分と相手の間柄がどうなるかわからないという不安定性にあるが、第二の要素である「意気地」は、相手の言いなりにならず、自己の独立を誇り高く堅持しようとする理想主義に支えられることによって、こうした「媚態」の不安定性に一層の緊張と持久力をもたらすのである。……第三の要素である「諦め」も、また、決して媚態と相容れないものではない。媚態は、その目的である恋愛がぎりぎりのところで成就しないところに真骨頂があるのであり、そうであるなら、「諦め」こそは、媚態と相容れないどころか、逆に、媚態の本質を示しているといえるのである。 -
Posted by ブクログ
・茶を飲むという日常の行為を、芸術の域にまで高めた茶道。
ほとんど何も置かれていないままの茶室。室町時代末期~安土桃山時代、千利休によって完成されました。
明治の思想家、岡倉天心は、茶室と人との関わり、宗教、そして茶室の一輪の花にも注目しています。
「花を摘むのも手当たり次第ではなくて、心に思い描く芸術的造形にしたがって、注意深く一枝一茎(いっしいっけい)を選ぶものであり、
もし、必要以上に切ってしまうようなことがあれば、恥じ入るほかはない。
西洋では、花の展示が、富の見せびらかしの一部であり、つかの間の遊びであるように思われる。
これら多くの花は、騒ぎが終わった後、どこにいく運命なのか
色あせた花が、ごみの山の上に、無情にも散り出されている眺めほど、痛ましいものはない……」
「茶人は、花を選びさえすれば、責任は果たしたとして、あとは花が、花自身の物語を語るのにまかせる。
暑い、夏の日。
昼の茶会に呼ばれていってみると、ほの暗く、涼しげにととのえられた床の間に、一輪の百合の花が、釣り花瓶に生けられているのに、出会うかもしれない。
露に濡れたその花の様子に、人生のおろかしさに微笑んでいるかのようだ」
(岡倉天心)
茶や、花に通じる人々は、無闇に花を摘み取ることはありません。 花を人と同等に扱い、花に対する尊敬の念をもって、接しています。 しかし、西洋などからくる近代化の波によって、花の扱いが大きく異なっていると、天心は述べています。
自然をできるだけそのままに、『やはり野に置け』というのが、花に対するもっとも叡智な人の態度なのだと述べているわけです。
これまでの近代の西洋の建築は、かちっとしていて、人間の作った直線的で、シンメトリーな構図を最優先させてきました。しかし、当時の数奇屋(茶室)などは、わざと柱の角に皮を残したり、曲げたりして、周囲の自然との調和を目指しています。
自然災害の多い日本では、感覚的に、自然には勝てないということを、分かっていて、逆にそれをうまく、取り込んで先取りしなければ生きていけませんでした。そして、そういったことが、日本の文化を作っていったのだと思いました。
現代では、エコロジーの考え方によって、より自然に寄り添っていくようなあり方が、見直されつつあります。
明治維新の直前に生まれた天心は、近代化が始まる中に生きてきた人なのですが、いずれこの近代化の動きは、行き詰まりに達することを見通していました。
そしてその時にこそ、東洋の伝統文明、また日本の伝統文化の考え方というのが、再び意味を持つことになるのだと予見しています。
天心が伝えようとしていたのは、茶道の芸術性と、茶人の自然と共に生きていく、という源流そのものにもあるのだと思いました。
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「いき」は日本の独自文化で、男女のつかず離れずの媚態における「逢瀬の美学」である
人生の50冊 エンジョイライフ ベスト3位
九鬼周造は2013年における大発見でした。
なにしろ日本の遊里における男女の媚態を分析して、
これをフランスで哲学書として成立させるのが、九鬼魔術(マジック)。
白眉は、欧米の類似の恋愛観と比較しながらも、吉原における男女の機微に日本独特の文化的背景を展開するロジックにある。
「いき」は武士道の理想主義である「意気地」と
仏教の脱俗世である「諦観」と密接な内的関係がある。
さらに、関連諸概念として、上品と下品、派手と地味、意気と野暮、渋味と甘味を挙げ、それらでロジカルに概念正方形を形成し、
その中に「いき」を位置づける。
くぅう、これは格好いい!江戸の遊び人、ここに極まり!
人生の目標のひとつが、この大人の遊び感覚、余裕なのです。
いざ、遊びをせんとや生まれけん -
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偶然につけたNHKのEテレで梅原猛さんのインタビュー放送をやっていた。震災にまつわる話が中心だったが、話の中で度々出ていた言葉が「草木国土悉皆成仏」(涅槃経の言葉から最澄が云い始めた言葉と伝えられるが、真偽のほどは不明)。草木や国土のように心をもたないものでもことごとく仏性があり、仏となりうるのだという意味。この言葉は仏教からの言葉ではあるものの、梅原さん曰く、要するに草木や風物も命があり、自然のなかで生きることにおいて人間と等しく、人間は自然の上に立つものではなく、人間は自然と共生すべきことに帰結するのだと。そこには仏教の思想を越えた自然観、宇宙観があるのだとも。
このような話を聞いていると、先般読んだ岡倉天心の「茶の本」(大久保喬樹訳)もまさに同じ論旨であることに思いが至る。この本の主題は、茶道に限らず日本人の美意識はどこにあるのかという日本文化論の基本。西欧文化は人間中心であり、自然よりも人間が上に立つという思想。対して日本では人間と自然との共生が基本にあるというのだ。西欧文化がいかに誤っているかを指摘しながら、未来の自然破壊への懸念にまで及んでいるところなどは実に先見性があると云っていいだろう。岡倉天心が明治維新前に生まれた人物であり、この本は日本における文明の黎明期に書かれたものだから凄い。
後になって原子力のような自然を超越するエネルギーが開発されるとは岡倉天心とて夢にも想像しなかったろうが、もし生きていたらさぞかし驚愕したに違いない。自然は人間が征服すべきものとするのか、自然との共存の中で人間は生きるとするのか、今この時代はまさにそれが問われているわけで、原発に対する賛否の問題もまさにその点にあるのだと思える。
最初にヨーロッパ・アメリカが、そして日本が続いた西欧文化の波。今またBrics諸国、とりわけ第二位の経済大国になった中国、さらには続く国々が人間の我欲に従って自然に立ち向かおうとしている。せめて日本は日本人が培ってきた精神文化の基本に立ち返るべきだと思うのだが、地球規模から見るとこれも焼け石に水ということなるのかも知れない。後々の世代のことを思うと恐ろしいことなのだが・・・。 -
Posted by ブクログ
先日伊勢神宮に行ってから、日本的な美意識に興味が沸々と。岡倉天心の茶の本が新訳で出ていて、なかなか評判がよろしいらしい。
茶道の本質は不完全ということの崇拝ーー物事には完全などということはないということを畏敬の念を持って受け入れ、処することにある。不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでも何かしら可能なものを成し遂げようとするこころ優しい試みが茶道なのである。
この一文に、西洋と東洋の美意識の違いがエッセンスとして凝縮されている。これは美意識のみならず、一神教を軸とする西洋の精神文化の持つ論理、構造性、に対応する東洋からの回答ともいえる。不完全性を受け入れた諦めの先にこそ、軽やかで自由なこころの境地があるということだ。
またこういうのもあった。チャールズ・ラムの言葉として本文中に引用されている。
「善きことをなすにあたってはひそかにこれをおこない、たまたま表にあらわれるにまかせることをこそ無情の喜びとする。」茶道とは美を見出してもそれを包み隠しておくたしなみであり、あからさまな表現を避けて暗示するにとどめておく術だからである。それは自分というものを、つつましやかに、しかし徹底的に笑いのめす気高い奥義であり、その結果として、ユーモアそのものであり、悟りの微笑なのである。
またそこに岡倉天心は汎神論的な神秘の輝きを見いだす。茶とは神の飲み物、天の甘露であると。そして中国で勃興した茶の文化がモンゴルの襲来に酔って中国では衰退してしまったものが、日本という国で生き残り継承発展されて行ったと。
私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きる術を授ける宗教なのである。茶という飲み物が昇華されて、純粋と洗練に対する崇拝の念を具体化する、目に見える形式となったものであり、その機会の応じて主人と客が集い、この世の究極の至福を共に作り出すという神聖な役割を果たすことになる。(中略)茶の湯は、茶、花、絵などをモチーフとして織りなされる即興劇である。部屋の色調を乱すような色、動作のリズムを損なうような音、調和を乱すような仕草、あたりの統一を破る酔うな言葉と行ったものは一切泣く、全ての動きは単純かつ自然になされる。茶の湯が目指したのはこのようなものである。そして、この企ては不思議にも成就されたのである。その全ての背景には微妙に哲学が働いている。茶道は姿を変えた道教なのである。
引用が多くなって申し訳ないが、この新訳での現代的な言葉遣いの効果も相まって、岡倉天心の言葉が現代の西洋と東洋という大きなパラダイムを橋渡しするための高度に現代的な批評となり得ているところに驚きを禁じ得ない。そしてその本質、茶道とは霊的な儀式、儀礼であり、さまざまな象徴言語を用いて神人一如な世界への参入と捉えている所など、西洋・東洋が最も深い歴史的レベルで繋がる、霊的な源流へと茶道が通じていることを物語っているのだ。
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Posted by ブクログ
ネタバレ茶道を始めたため、何かヒントになることが書かれているのではと思い手に取った一冊。
難しい哲学的な本かなと思っていたが、比較的分かりやすい表現が多く、スムーズに読み進められた。
特に印象的だったのは、第六章と第七章。
また、後半の天心の生涯について書かれた部分も非常に興味深かった。当時珍しかったバイリンガルであり、何度も海外を周遊していたことを知らなかったため、驚きだった。
また、パネルジー夫人との手紙のやり取りは、非常に人間味というか天心の弱い一面が出ており、1人の人として彼が人生を悩み生き抜いたのだと実感した。
茶道を極めるなかで、また数年後にまた手に取りたい。