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Posted by ブクログ
茶の湯やそれを思想的に支える道教と禅の関係についても軽く読むには最適なのだが、芸術とは何かという彼の思想は時代を先取る素晴らしいものだった。その点においても、今の時代の殆どの人が彼に追いついていない。何にでも芸術という言葉が使われる時代だからこそ、芸術のことを根本的に問い直すことが必要で、この本はそれについて考えるいい機会を提供してくれる。
傑作はわたしたち自身であり、わたしたち自身は傑作である ― これはこの書籍のなかの言葉だが、この考えは裏返せば人間の能力の限界を見つめつつ、その限界を超えることをわたしたち鑑賞者に要求する。それによってこそ作品は芸術作品となり最終的には傑作となるのだが、また逆に傑作こそが私たちの限界を大きく広げてくれる。この両者の高め合いこそが芸術の素晴らしい機能の一つだ。
今日のエンターテイメント作品は芸術作品とは程遠いものにもかかわらず自らを芸術と呼ぶ。エンターテイメントは私たち自身を拡張してくれず、現在の私たちの理解可能な部分に、強烈に、或いは甘い声で働きかけてくるに過ぎない。同時に私たちはこれらのエンターテイメント作品をティッシュペーパーのように使い捨てるだけなのだ。
作品や芸術作品との関係の結び方を今一度再考し新しく真摯な関係へと変えていくことが必要なのだろう。
この本は、今なおその意味や役割が棚上げされたまま細分化されて議論が続けられている芸術というものについて、もう一度素朴に問い直すために非常に有用だ。
なお、付録の彼の生涯についての詳細な文章も面白い。
能力の低い奴が天心を妬んで政治的に天心を引きずり下ろすなどということは、今の日本でもありそうな話。日本の芸術がクソみたいなものになったのは、そういうことの積み重ねなんだろうなと感じた。
Posted by ブクログ
・茶を飲むという日常の行為を、芸術の域にまで高めた茶道。
ほとんど何も置かれていないままの茶室。室町時代末期~安土桃山時代、千利休によって完成されました。
明治の思想家、岡倉天心は、茶室と人との関わり、宗教、そして茶室の一輪の花にも注目しています。
「花を摘むのも手当たり次第ではなくて、心に思い描く芸術的造形にしたがって、注意深く一枝一茎(いっしいっけい)を選ぶものであり、
もし、必要以上に切ってしまうようなことがあれば、恥じ入るほかはない。
西洋では、花の展示が、富の見せびらかしの一部であり、つかの間の遊びであるように思われる。
これら多くの花は、騒ぎが終わった後、どこにいく運命なのか
色あせた花が、ごみの山の上に、無情にも散り出されている眺めほど、痛ましいものはない……」
「茶人は、花を選びさえすれば、責任は果たしたとして、あとは花が、花自身の物語を語るのにまかせる。
暑い、夏の日。
昼の茶会に呼ばれていってみると、ほの暗く、涼しげにととのえられた床の間に、一輪の百合の花が、釣り花瓶に生けられているのに、出会うかもしれない。
露に濡れたその花の様子に、人生のおろかしさに微笑んでいるかのようだ」
(岡倉天心)
茶や、花に通じる人々は、無闇に花を摘み取ることはありません。 花を人と同等に扱い、花に対する尊敬の念をもって、接しています。 しかし、西洋などからくる近代化の波によって、花の扱いが大きく異なっていると、天心は述べています。
自然をできるだけそのままに、『やはり野に置け』というのが、花に対するもっとも叡智な人の態度なのだと述べているわけです。
これまでの近代の西洋の建築は、かちっとしていて、人間の作った直線的で、シンメトリーな構図を最優先させてきました。しかし、当時の数奇屋(茶室)などは、わざと柱の角に皮を残したり、曲げたりして、周囲の自然との調和を目指しています。
自然災害の多い日本では、感覚的に、自然には勝てないということを、分かっていて、逆にそれをうまく、取り込んで先取りしなければ生きていけませんでした。そして、そういったことが、日本の文化を作っていったのだと思いました。
現代では、エコロジーの考え方によって、より自然に寄り添っていくようなあり方が、見直されつつあります。
明治維新の直前に生まれた天心は、近代化が始まる中に生きてきた人なのですが、いずれこの近代化の動きは、行き詰まりに達することを見通していました。
そしてその時にこそ、東洋の伝統文明、また日本の伝統文化の考え方というのが、再び意味を持つことになるのだと予見しています。
天心が伝えようとしていたのは、茶道の芸術性と、茶人の自然と共に生きていく、という源流そのものにもあるのだと思いました。
Posted by ブクログ
偶然につけたNHKのEテレで梅原猛さんのインタビュー放送をやっていた。震災にまつわる話が中心だったが、話の中で度々出ていた言葉が「草木国土悉皆成仏」(涅槃経の言葉から最澄が云い始めた言葉と伝えられるが、真偽のほどは不明)。草木や国土のように心をもたないものでもことごとく仏性があり、仏となりうるのだという意味。この言葉は仏教からの言葉ではあるものの、梅原さん曰く、要するに草木や風物も命があり、自然のなかで生きることにおいて人間と等しく、人間は自然の上に立つものではなく、人間は自然と共生すべきことに帰結するのだと。そこには仏教の思想を越えた自然観、宇宙観があるのだとも。
このような話を聞いていると、先般読んだ岡倉天心の「茶の本」(大久保喬樹訳)もまさに同じ論旨であることに思いが至る。この本の主題は、茶道に限らず日本人の美意識はどこにあるのかという日本文化論の基本。西欧文化は人間中心であり、自然よりも人間が上に立つという思想。対して日本では人間と自然との共生が基本にあるというのだ。西欧文化がいかに誤っているかを指摘しながら、未来の自然破壊への懸念にまで及んでいるところなどは実に先見性があると云っていいだろう。岡倉天心が明治維新前に生まれた人物であり、この本は日本における文明の黎明期に書かれたものだから凄い。
後になって原子力のような自然を超越するエネルギーが開発されるとは岡倉天心とて夢にも想像しなかったろうが、もし生きていたらさぞかし驚愕したに違いない。自然は人間が征服すべきものとするのか、自然との共存の中で人間は生きるとするのか、今この時代はまさにそれが問われているわけで、原発に対する賛否の問題もまさにその点にあるのだと思える。
最初にヨーロッパ・アメリカが、そして日本が続いた西欧文化の波。今またBrics諸国、とりわけ第二位の経済大国になった中国、さらには続く国々が人間の我欲に従って自然に立ち向かおうとしている。せめて日本は日本人が培ってきた精神文化の基本に立ち返るべきだと思うのだが、地球規模から見るとこれも焼け石に水ということなるのかも知れない。後々の世代のことを思うと恐ろしいことなのだが・・・。
Posted by ブクログ
先日伊勢神宮に行ってから、日本的な美意識に興味が沸々と。岡倉天心の茶の本が新訳で出ていて、なかなか評判がよろしいらしい。
茶道の本質は不完全ということの崇拝ーー物事には完全などということはないということを畏敬の念を持って受け入れ、処することにある。不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでも何かしら可能なものを成し遂げようとするこころ優しい試みが茶道なのである。
この一文に、西洋と東洋の美意識の違いがエッセンスとして凝縮されている。これは美意識のみならず、一神教を軸とする西洋の精神文化の持つ論理、構造性、に対応する東洋からの回答ともいえる。不完全性を受け入れた諦めの先にこそ、軽やかで自由なこころの境地があるということだ。
またこういうのもあった。チャールズ・ラムの言葉として本文中に引用されている。
「善きことをなすにあたってはひそかにこれをおこない、たまたま表にあらわれるにまかせることをこそ無情の喜びとする。」茶道とは美を見出してもそれを包み隠しておくたしなみであり、あからさまな表現を避けて暗示するにとどめておく術だからである。それは自分というものを、つつましやかに、しかし徹底的に笑いのめす気高い奥義であり、その結果として、ユーモアそのものであり、悟りの微笑なのである。
またそこに岡倉天心は汎神論的な神秘の輝きを見いだす。茶とは神の飲み物、天の甘露であると。そして中国で勃興した茶の文化がモンゴルの襲来に酔って中国では衰退してしまったものが、日本という国で生き残り継承発展されて行ったと。
私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きる術を授ける宗教なのである。茶という飲み物が昇華されて、純粋と洗練に対する崇拝の念を具体化する、目に見える形式となったものであり、その機会の応じて主人と客が集い、この世の究極の至福を共に作り出すという神聖な役割を果たすことになる。(中略)茶の湯は、茶、花、絵などをモチーフとして織りなされる即興劇である。部屋の色調を乱すような色、動作のリズムを損なうような音、調和を乱すような仕草、あたりの統一を破る酔うな言葉と行ったものは一切泣く、全ての動きは単純かつ自然になされる。茶の湯が目指したのはこのようなものである。そして、この企ては不思議にも成就されたのである。その全ての背景には微妙に哲学が働いている。茶道は姿を変えた道教なのである。
引用が多くなって申し訳ないが、この新訳での現代的な言葉遣いの効果も相まって、岡倉天心の言葉が現代の西洋と東洋という大きなパラダイムを橋渡しするための高度に現代的な批評となり得ているところに驚きを禁じ得ない。そしてその本質、茶道とは霊的な儀式、儀礼であり、さまざまな象徴言語を用いて神人一如な世界への参入と捉えている所など、西洋・東洋が最も深い歴史的レベルで繋がる、霊的な源流へと茶道が通じていることを物語っているのだ。
Posted by ブクログ
もうかれこれ20年以上前から読みたかったのだがようやくご縁により読むことができた
元々は「茶の心」は岡倉天心が西洋人に「茶」の精神を理解させるために英文で書いたものだ
(天心は幼いころから家業の関係で英語に携わることが多く、また語学センスが素晴らしかったようだ)
そして勘違いしていたが、決してお茶の指南書、概説書ではなく、日本の精神や文化を広めるための書といえよう
そして天心は詩人であった!
ユーモアもあり、皮肉も批判もするが、良いものは良いとし、平和と精神文化を追求する
非常に読ませる文章のセンスに驚いた
シンプルな言葉で読みやすいものの、真意をくみ取り自分の中で咀嚼するには難解な本かもしれない
しかしそれが醍醐味であり、浅ましい考えを嫌うであろう天心の意図かもしれない
深すぎてレビューが書きづらい
もう抜粋形式で雑に行きます
◇天心曰く、「茶」とは…
~茶の哲学は、唯美主義にとどまるものではない
人間や自然に対するもろもろの見方をあらわしている点で倫理や宗教と結びついている
清潔さを強調する…衛生学、単純質素なものに安らぎを見出す…経済学、宇宙とのバラン感覚を養う…精神の幾何学~
(発想力が深いのです)
◇天心の西洋批判
~西洋から「野蛮国」とされる日本及び東洋
戦争に勝ったときだけ文明国という
お互い批判するのではなく足りないところを補い合おう~
…といいつつも天心は明らかに西洋より東洋の方がすぐれているとしている(笑)
~日本は武士道(戦いと死)よりももっと深い文化(平和と生に導く文化)として茶がある~
◇茶の魅力
~ワインのような傲慢さも、コーヒーのような自意識も、ココアのような抜けた幼稚さもない
茶はなんとも微妙に人をひきつけ、その魅力には抵抗できない
茶道は美を見出してもそれを包み隠しておくたしなみであり、あからさまな表現を避けて暗示するにとどめておく術だ~(この表現力の素晴らしさ)
◇茶の歴史
茶の三段階
発展の順番から…「団茶」、「抹茶」、「煎茶」
・団茶…固形の茶を煮立てる
・抹茶…粉末の茶を泡立てる
・煎茶…葉のまま茶を浸す
それぞれ中国の時代を表す
唐(団茶・古典派)、宋(抹茶・ロマン派)、明(煎茶・自然派)
しかしこれらを経て、13世紀モンゴルの侵略により宋文化は破壊される
さらに17世紀には満洲族が侵入し異民族支配(清朝)となり抹茶は忘れさられた
唐や宋の茶の精神がすたれ、茶は日常的な飲み物になってしまう
日本へはおそらく遣唐使が持ち込んだのが始まりか
中国ではすたれてしまった宋の文化を日本が継承ができたのだ
◇禅と道教
茶の湯は禅の礼法から発展
そして道教を根底とする
道教「この世に生きる術」として論じるのが常
私たち自身を問題とする
この世をありのままに受け入れるのであり、儒教や仏教とは違って、嘆かわしいこの世の暮らしにも美を見出そうとする
酢の味見をする3人のものと言う宋の例え話が面白い
釈迦、孔子、老子
酢の壺を人生の象徴とし
孔子…すっぱい(実際家)
仏陀…苦い
老子…甘い
つまりこの世の一切は相対的な存在であって、絶対的に固定されるものなどない
すべては絶えず移り変わっている
だからこそ目の前の現実をかけがえのないものとして受け入れ、茶を味わえという
暮らしの細々とした事柄のうちに偉大さを見出す
(現代人に必要な教訓だ)
◇茶室について
茶室は「すきや」であるのだが、
数寄屋であり、単なる小家屋であり、好き屋であり空き家という(面白い)
余計な装飾を排し、何らかの要素をわざと未完成のまま残しておくことによって想像力は仕上げの働きを果たすことができる
というある意味異端の建築だ
しかしながら深い芸術的配慮に基づいたものでありどんな豪勢な宮殿や寺院建築にも負けない入念さで細部が仕上げられている
さらに外部の自然環境と合わせて一体化に見るべきと強調する
現代のエコロジー的思想にも通ずるものがある
芸術鑑賞や花、東洋の思想まで…幅広い熱い哲学も紹介されており、
はっと気付かされる大切なメッセージがたくさんある(書ききれません)
最後に天心の最後の恋について書かれている
50歳くらいの頃9歳年下のインド在住の女性に恋するのだが
まぁとにかく今までの力強い行動力、指導力、確固たる考え…
そのような偉大な人物とは思えないほど、愛に嘆き、喜び、赤裸々に弱さをさらけ出す
解説者も「異様ともいえるほどだ」と言うが
世間にさらされた天心はなんと思うのだろうと心配してしまった(ここ必要かなぁ…)
「茶」が世の中に与えた影響は数知れず、建築から住居、芸術、日常生活…あらゆることにあてはまるという
そして「茶」の精神というのは謙虚さや質素、自然との共存…など
日本人だけでなく、自然界に生きる人にとって大切なことであり、物質的に豊かな社会になればなるほど
決して忘れてはならない日常に組み込まれる精神なのだと感じた
そしてこの精神は中国やインドをはじめとする偉大かつ精神世界を大切にする東洋文化から引き継ぎ、
日本で育まれた大切なものとして、私たちは守っていかなくてはならないのだろう
背筋が思わず伸びてしまう
襟を正し、正座をしたくなる
そして日本人であることを誇りに思う
素晴らしい1冊だ
Posted by ブクログ
岡倉天心(1863(文久2年)~1913年(大正2年)/本名は覚三)は、福井藩士の次男として横浜に生まれ、東大文学部を卒業後、文部省に入り、美術行政を担当する。1886~87年、東京美術学校設立のためにアーネスト・フェノロサと共に欧米を視察し、1890年に東京美術学校(現・東京藝大美術学部)の初代校長に就任。1898年に東京美術学校を排斥され辞職してからは、インド訪遊を経て、1904年以降ボストン美術館の仕事で頻繁に米国に滞在したが、晩年には茨城県五浦に隠遁し、1913年に日本にて永眠。
子どものときから学んだ英語と、優れた国際感覚をもって、日本・東洋の文化を内外に訴え、本書収録の『茶の本』は1906年にフォックス・ダフィールド社(ニューヨーク)から出版された『The Book of Tea』、『東洋の理想』は1903年にジョン・マレー書店(ロンドン)から出版された『The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan』の、それぞれ邦訳である。中でも『茶の本』は、新渡戸稲造の『武士道』、内村鑑三の『代表的日本人』と並び、明治時代に日本人が英語で日本の文化・思想を発信した作品として夙に有名。
本書では、『茶の本』と『東洋の理想』(序章・終章のみ)の新訳に、訳者による、各章の「解説ノート」と90頁に亘る「エピソードと証言でたどる天心の生涯」が加えられており、作品についての理解を大いに助けてくれている。(角川ソフィア文庫は、岩波文庫や講談社学術文庫に既に収められている作品を新訳で出すものが少なくないが、充実した解説や参考資料が付されていることが多く、とても有用である)
『茶の本』は、1章:茶碗に満ちる人の心、2章:茶の流儀、3章:道教と禅、4章:茶室、5章:芸術鑑賞、6章:花、7章:茶人たち、という章立てとなっており、茶道を、道教、仏教(禅)、建築、華道などの関わりから捉えて、日本の文化・美意識・価値観を幅広く解説しようとしている。
出版後百余年を経て、日本人の我々が読んでも気付かされることが多いが、私が最も心に残ったのは、6章で、「死を栄光とする花」である桜は、「さようなら、春よ、私たちは永遠に向かって旅立つのです」と語りかけながら消えてゆくと語ったあとで、最終章の7章で、「美しく生きてきた者だけが美しく死ぬことができる」のだとして、千利休の最後の茶をとりあげて、「顔に笑みをたたえて利休は未知の世界へと旅立っていった」と締めくくられているところである。茶の達人の生死は、花の生死と等しく、人間と自然は究極的に合一する。。。これこそ、茶(と禅)の心ということであろう。また、死は生の完成であり、至高の芸術であると言え、利休の最期はまさにそうした典型であり、いわば、希代の茶人の最大の「茶事」であるとも言えるのだ。
茶~禅・老荘思想を柱に日本文化の本質を語った、現在でも読む価値の大きい古典である。
(2020年12月了)
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