・茶を飲むという日常の行為を、芸術の域にまで高めた茶道。
ほとんど何も置かれていないままの茶室。室町時代末期~安土桃山時代、千利休によって完成されました。
明治の思想家、岡倉天心は、茶室と人との関わり、宗教、そして茶室の一輪の花にも注目しています。
「花を摘むのも手当たり次第ではなくて、
...続きを読む心に思い描く芸術的造形にしたがって、注意深く一枝一茎(いっしいっけい)を選ぶものであり、
もし、必要以上に切ってしまうようなことがあれば、恥じ入るほかはない。
西洋では、花の展示が、富の見せびらかしの一部であり、つかの間の遊びであるように思われる。
これら多くの花は、騒ぎが終わった後、どこにいく運命なのか
色あせた花が、ごみの山の上に、無情にも散り出されている眺めほど、痛ましいものはない……」
「茶人は、花を選びさえすれば、責任は果たしたとして、あとは花が、花自身の物語を語るのにまかせる。
暑い、夏の日。
昼の茶会に呼ばれていってみると、ほの暗く、涼しげにととのえられた床の間に、一輪の百合の花が、釣り花瓶に生けられているのに、出会うかもしれない。
露に濡れたその花の様子に、人生のおろかしさに微笑んでいるかのようだ」
(岡倉天心)
茶や、花に通じる人々は、無闇に花を摘み取ることはありません。 花を人と同等に扱い、花に対する尊敬の念をもって、接しています。 しかし、西洋などからくる近代化の波によって、花の扱いが大きく異なっていると、天心は述べています。
自然をできるだけそのままに、『やはり野に置け』というのが、花に対するもっとも叡智な人の態度なのだと述べているわけです。
これまでの近代の西洋の建築は、かちっとしていて、人間の作った直線的で、シンメトリーな構図を最優先させてきました。しかし、当時の数奇屋(茶室)などは、わざと柱の角に皮を残したり、曲げたりして、周囲の自然との調和を目指しています。
自然災害の多い日本では、感覚的に、自然には勝てないということを、分かっていて、逆にそれをうまく、取り込んで先取りしなければ生きていけませんでした。そして、そういったことが、日本の文化を作っていったのだと思いました。
現代では、エコロジーの考え方によって、より自然に寄り添っていくようなあり方が、見直されつつあります。
明治維新の直前に生まれた天心は、近代化が始まる中に生きてきた人なのですが、いずれこの近代化の動きは、行き詰まりに達することを見通していました。
そしてその時にこそ、東洋の伝統文明、また日本の伝統文化の考え方というのが、再び意味を持つことになるのだと予見しています。
天心が伝えようとしていたのは、茶道の芸術性と、茶人の自然と共に生きていく、という源流そのものにもあるのだと思いました。