マンのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ映画をいつか観たいと思っていたら原作を先に読んでしまいました。
豊かな教養と、寓意に満ちた表現が、ヴェネツィアの瑞々しい情景と……タッジオの「美」を彩ってくれます。
そして、滑稽なまでの倒錯ぶりも。
倒錯する前も、偏屈な心情が可笑しみを生んで、飽きなかったです。
(後悔するところだった勢い任せの出立が、荷物の間違いで戻ることになって、内心小躍りするような喜び方してるところとか)
本筋と直接は関係ないのですが、芸術に関する視座の深さ(作者自身が投影されているのかもしれませんが)に、アッシェンバッハの作家としての矜持のようなものがみられて、人物像の説得力が卓越していると感じました。
『人々はなぜ自分たちがある芸術作品に名誉を送るのか、その理由を知らない。……しかし彼らが喝采する本当の理由は、量ることができないものである。つまり共感である。』
アッシェンバッハがタッジオに魅せられて作品を残したところからも、単純なルッキズムではなく、根源的な「美」というものへの憧憬を、みごとに切り取った作品だと思いました。
……美少年尊ぇ面白おじさんとしても、もちろん読み解けますが。 -
Posted by ブクログ
20世紀初頭のミュンヘン。著名な作家グスタフ・フォン・アッシェンバッハは、執筆に疲れてあることがきっかけで旅への憧憬をかきたてられる。いったんアドリア海沿岸の保養地に出かけたが、嫌気がさしてヴェネツィアに足を向ける。ホテルには長期滞在している上流階級のポーランド人家族がおり、その10代はじめと思われる息子タジオの美しさにアッシェンバッハは魅せられてしまう。
映画でストーリーを知る者が多いので、粗筋はいまさら蛇足かもしれない。
原作を読んでみると、タジオに逢うまでに若干溜めがある。まず彼はミュンヘンで、異様な風采の男を見かけて後を着けている。ちなみに美少年の類ではない。容貌の描写が続くが、むしろ逆である。目が合ってしまいその場を去るが、その時アッシェンバッハに起こったのは
「ある種のあてどなくさまよう不安、若々しく飢えた異郷への渇望、それは実に活発で、実に新鮮なのに、とっくの昔に捨て去って忘れ果てた感情」
これだけでは何のことかわからないのでもう少し続けると
「それは旅への欲求だった。それ以上ではなかったが、実に発作的に現れ、情熱となり、幻覚にまで高まった。」
とある。要は、“そうだ、京都、いこう”の類―旅への郷愁である。
著名な作家なので旅行費用はある。問題は彼の心情にあった。
「人生がゆっくりと傾き始め、完成できないという芸術家としての恐れ―自分の仕事を果たし、完全に自分を出し尽くす前に時計が止まってしまうのではないかという心配が、単なる気まぐれとして、もはや払いのけることができなくなっ」
たから、故郷の街を一歩たりとも離れる事は考えていなかった。そんなに苦しい思いから逃れればいいのではないか、と第三者は思うが
「自分のしぶとく誇り高い、繰り返し実証されてきた意思の力と、次第に募ってくるこの疲労感との間の、神経を磨り減らす日々新たな戦いも嫌ではなかった。この疲労感は人に知られてはならなかったし、作品に淀みや弛みが現れて人に悟られてもならなかった。」
生みの苦しみもまた人生に必要であった。
その均衡を破ったのが、特に美しくもない男性との出会いだったが、その旅先に―後に危険になる―留まることになったのは、間違いなく美少年との出会いであった。
文中にもはっきりタジオへの愛が述べられているが、直接告げることはない。また、いずれ彼の美が失われることも、アッシェンバッハはわかっているし、彼自身の美が完璧でないこともわかっている。映画では、タジオに一目ぼれし、何もかもわからなくなっている状態で、ただただ逃げ遅れて亡くなる、という印象だったが、原作ではもう少し理性的であった。なぜなら彼についての散文を書いているからだ。作家であることに満足し、時に苦しみながらも、最後はやはり書くことに戻ってきた、というのは作家の生涯としては幸福だったように思われる。 -
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太宰の『人間失格』を読んで、この主人公は自分だ、と思ったなんて感想をよく聞く。
僕にとっては、この『トニオ・クレーガー』がそういう本だったようだ。
「ねえ、ハンス、『ドン・カルロス』は読んだかい?君の家の庭の門で約束してくれたね。でも、どうか読まないでくれ!」
「瞬間撮影写真の載った馬の本を読むほうがずっといいなんていう人たちを、詩のほうへ誘い込んだりしちゃだめなんだ!」
「君のようになれたら!もう一度最初からやり直して、君と同じように成長することができたら。」
トニオの愛の言葉は痛烈だ。憧れの裏返しや、少年時代の気の迷い、そんな言葉で片付けられるような生易しいものじゃない。
周りの世界からどうしようもなく隔絶してしまった(少なくとも、そう思っている)自分自身。それに対して、美しく自信に溢れ、周りにも認められて何不自由ない「普通」の幸せを生きる「金髪で青い目の人たち」としての親友ハンスや少女インゲボルク。
僕にもそういう人たちが沢山いる。
彼らのようになりたい、彼らに少しでも近づきたいと願っている。
それでいて、彼らには決して自分と同じようになってほしくない。自分にしたって、彼らのような「普通」が欲しいわけじゃない。自分は自分のまま、彼らは彼らのままで、彼らに近づきたい。
そういう葛藤から、今までの僕が形作られてきた。この点で、僕はまさにトニオ・クレーガーだ。
一方で、矛盾するようだが、僕はやっぱりトニオ・クレーガーじゃない、とも思わされた。
トニオは言う、「僕は眠りたい、けれど君は踊らずにいられない」。
「眠る」とはただただ感情の赴くままに行動すること、すなわち「普通」の幸せに生きること。「踊る」とは運命に従い生きること、トニオにとっては芸術の道がそれだ。
僕には自分が「踊らずにはいられない」側の人間だとはとても思えないし、踊りたいともきっと上手に踊れるだろうとも思わない。
芸術家に限ったことでなく、そもそも自分に何かの天賦の才能や人生を賭けるに値する夢やら野望があると思ったこともない。
それならそれで、世の中のほとんどの人と同じように「眠る」道を選べばいいわけだが、あいにく僕はみんなのようには眠れない。
僕はトニオ・クレーガーではなくて、トニオが最も軽蔑する「不器用な身体に繊細な魂を持った人たち」なのかもしれない。
あるいは、もっと悪いことに、僕自身のこんな考え自体が傍目から見たら「眠る」ことに他ならないのかもしれない。それをすっかり受け入れてしまった将来の自分を想像すると、ぞっとする。少なくとも今は。 -
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初ドイツ文学、ずっと読みたかったトーマス・マン完読。
言葉にならないこの衝撃。
「だまされた女」は、初老の未亡人が若い男性に激しく恋焦がれる話。未亡人がその娘に自身の恋心を告白する場面が圧巻。そして衝撃のラスト。「だまされた女」ってそういうこと!?と想像を絶する展開に一気読み。
「すげかえられた首」は、優れた頭脳を持つ青年と見事な肉体を持つ青年、美しい女性の3人が織りなす物語。2人の青年の首と体が入れ替わるというあり得ないストーリーなのだけど、生々しい愛欲の表現が見事すぎてこれまた一気読み。こちらも、そうなる!?という衝撃のラスト。
意味がわからず退屈な場面がちょこちょこあって時々停滞するのだけど、ゾーンに入ると一気に進む。初めての読書体験。「ブッデンブローク家の人々」も必ず読みたい。 -
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詩を愛する内向的な少年が小説家の青年となり、旅先でかつて愛した少年少女の幻を見る…この短い物語の骨子はそのように単純なものだが、その最もドラマティックな箇所は意図的に曖昧に描写され、主人公トニオが出会ったのは本当にかつての恋人たちなのか、あるいは他人の空似というやつなのか、判然としないまま幕を閉じる。
30歳前後の、芸術至上主義的でどこか青臭い文学青年が、ふと思春期のありふれた恋の記憶に再会し、画家の友人から突きつけられたある言葉の意味に目覚めるビルドゥングスロマンとして、鮮烈な作品である。
長年、この作品はそのように読まれ続け、支持されてきたようだ。現代ではジェンダー的視点からの解釈もあり興味深いが、それは解説に譲ろう。 -
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ネタバレ「ベニスに死す」というタイトルの映画としても知られている作品。(原作)
初老の主人公・アッシェンバッハは、若いうちから才能を発揮した威厳ある作家であり、長年仕事一筋だった。
そんな彼は、旅先のヴェネツィアで美しい少年・タッジオに出会い、少しずつ変わっていく。
アッシェンバッハはタッジオを宿泊先のホテルで見かけるたびに、その美しさを褒めたたえていた。
それはだんだんエスカレートし、神を想うような言葉でタッジオを礼讃していく。
ただ目が合うだけの存在。
互いのことは知っているのに、わざとそうしているかのようにそっけなくし、言葉を交わさない。
そんな微妙な関係が続く中で、タッジオはアッシェンバッハに微笑んだ。
タッジオと話がしてみたい、でもできない、とヤキモキしていた中で放たれた微笑み。
それは、アッシェンバッハの心を焼くには充分すぎるほどの衝撃だった。
「タッジオを愛している」と自覚したアッシェンバッハは、立ち止まることができなかった。
常に自制を保ってきたアッシェンバッハにとって、少年に惹かれることは後ろめたいことであり、罪悪感のようなものを感じているようだった。
しかし抵抗してみても、彼はタッジオを愛することを止められず、しまいには後をつけ回すようになってしまう。
自分を見つめ、後を追ってくるアッシェンバッハに対して、タッジオは嫌がるそぶりを見せず、たまに思わせぶりに振り返ったり、視線を寄越したりする。
そんなタッジオの態度は、どのような意味を持っていたのだろうか。
世間から「正しい人間」だと思われているアッシェンバッハの内面が、荒れ狂い、酔いしれ溺れていく様は、とても苦しく切なかった。
自身の老いを悔やみ、肉体を若返らせたいとすら思い、着飾り化粧をするアッシェンバッハ。
そんな彼を、私は笑うことができない。
街に病気が蔓延し、命の危険すらある中で、アッシェンバッハはヴェネツィアを去ることができなかった。
タッジオのそばにいることを選び、彼を必死に追いかけ、それがきっかけでラストの場面に繋がっていくのは、あまりにも報われないと思った。
今思えば、彼らは言葉を交わしてすらいなかった。
たったの、ひと言も。
始めから最後まで、二人の距離は変わらなかった。
それがまた良いと思った。
膨らんでいく気持ちに体が追いつかず、想い人の前では臆病になってしまう。
そんなアッシェンバッハを表しているようだと思った。
アッシェンバッハの気持ちは、最初は花を綺麗だと愛でるような気持ちに似ていたように思う。
美しい花を、ずっと眺めていたいと思うような。
しかし「花」は「神」になり、美しく尊いものを崇めたてるような気持ちが生まれ、終いには「欲」が生まれたのだ。
たった一人の少年の美が、老いた作家の人生を変えてしまった。
これまで感じたことのないような興奮、ときめき、戸惑い、切なさが混ざり合っていたアッシェンバッハの心。
その心の動きを追っていくのは興味深く、とても好きな作品だった。 -
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だまされた女、という題名と、裏表紙の説明から
初老の女性が、若い男性に骨抜きにされて社会的に、そして金銭面でだまされるのだと思っていたら違っていた。彼女が愛していた自然に裏切られたんだと分かった時には思わず声をもらしました。なるほど、そういう事だったんだ・・・。
すげかえられた首、二人の男と女が出てくるという事で、今度こそ女が騙されて首をはねられ、首と身体を男二人がわけて愛でるのかなと思っていたら違っていました。
この話は・・・なんていうか、シーターの我儘さが際立っていたような気がします。二人の男の友情の熱さに緩和されそうになっているけれど、なんて酷い女なんだ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ理性の象徴のように尊敬されてきた人物が、実は俗物としての本性を抱えていたことが見える。彼は少年に対する自分の感情を一般的な好意と思い込み、老いらくの恋であることを自覚していない。このような孤独な人間ほど現実逃避に走りやすく、進展しない関係性に勝手に舞い上がってしまうものだ。コレラにかかり死ぬ間際でさえ、美しい少年に思いを馳せていた。最後に情熱を注げる相手に出会えたことは本人にとっては幸運だったのかもしれない。交流を避けたことで幻滅することなく、理想像にしたてあげ、勝手に死んだので、結末としては十分だ。恋は叶わないからこそ永遠であり、少年と関わらないことで美しく終える。
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Posted by ブクログ
昔、岩波文庫で読んだ。新しい訳の本が出ていたので読んでみた。
ハンス・ハンゼン、インゲボルク・ホルム、君たちのことはちゃんと覚えていましたよ!君たちに対するトニオの報われない気持ちも。
しかし後半のことは全く覚えていなかった。おそらく私も若かったので、好きな相手に自分が思うほどは大切にされないという気持ちは身につまされて共感したのだろう。後半の大人になったトニオが作家として成功し、故郷に帰ったりデンマークに行ったりするのはどうでも良かったんだろうな。若さ故の読み込みの浅さ。
実際には後半もなかなか良かったし、『ブッデンブローク家の人々』や『ベニスに死す』にも通じるものがあって、トーマス・マンという作家を俯瞰して見るのにちょうどいい作品だと思った。 -
Posted by ブクログ
トーマス・マンの傑作。
20代の頃は、若者に恋する年寄りって、身の程知らずだし醜いよなぁと思っていたけど、30代になって、少し気持ちがわかる。
若い身体、美しさってそれだけですごく輝いていて(まじで光輝いてる)、眩しくて、憧れてしまうし、自分の若い時代を振り返り、みすみす無駄にしたと悔やんでしまうものだ。
きっともっとしわくちゃになれば、更に思うのだろう。
最近、老いを受け入れる等の考えが急に増えているし、30代でも若いと言われ、公共交通機関を見渡すと、確かに40代以上ばかりで、さすが高齢化社会だと思うことも多いが、反面トルコに行って、若い人の多さに驚いた。
若い、というだけでエネルギーが溢れ出し、醜いものはそれなりに、それなりなものは美しく、美しいものはカリスマのように輝いてみえる。
何が言いたいか分からなくなってきたけど、恋焦がれて、最後にスペイン風邪かなんかで死んでしまう小説家は、幸せだったのかだけを判断したい。
最後に強烈な生を愛することができ、幸せだったと思いたい。