あらすじ
同級生の男子ハンスや、金髪の少女インゲボルクに思い焦がれながらも、愛の炎には身を捧げられず、精神と言葉の世界に歩みだしたトニオ。だが大人になり小説家として成功してなお、彼の苦悩は燻っているのだった。若者の青春と新たな旅立ちを描いた、ノーベル賞作家の自伝的小説。
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Posted by ブクログ
太宰の『人間失格』を読んで、この主人公は自分だ、と思ったなんて感想をよく聞く。
僕にとっては、この『トニオ・クレーガー』がそういう本だったようだ。
「ねえ、ハンス、『ドン・カルロス』は読んだかい?君の家の庭の門で約束してくれたね。でも、どうか読まないでくれ!」
「瞬間撮影写真の載った馬の本を読むほうがずっといいなんていう人たちを、詩のほうへ誘い込んだりしちゃだめなんだ!」
「君のようになれたら!もう一度最初からやり直して、君と同じように成長することができたら。」
トニオの愛の言葉は痛烈だ。憧れの裏返しや、少年時代の気の迷い、そんな言葉で片付けられるような生易しいものじゃない。
周りの世界からどうしようもなく隔絶してしまった(少なくとも、そう思っている)自分自身。それに対して、美しく自信に溢れ、周りにも認められて何不自由ない「普通」の幸せを生きる「金髪で青い目の人たち」-親友ハンスや少女インゲボルク。
僕にもそういう人たちが沢山いる。
彼らのようになりたい、彼らに少しでも近づきたいと願っている。
それでいて、彼らには決して自分と同じようになってほしくない。自分にしたって、彼らのような「普通」が欲しいわけじゃない。自分は自分のまま、彼らは彼らのままで、彼らに近づきたい。
そういう葛藤から、今までの僕が形作られてきた。この点で、僕はまさにトニオ・クレーガーだ。
一方で、矛盾するようだが、僕はやっぱりトニオ・クレーガーじゃない、とも思わされた。
トニオは言う、「僕は眠りたい、けれど君は踊らずにいられない」。
「眠る」とはただただ感情の赴くままに行動すること、すなわち「普通」の幸せに生きること。「踊る」とは運命に従い生きること、トニオにとっては芸術の道がそれだ。
僕には自分が「踊らずにはいられない」側の人間だとはとても思えないし、踊りたいともきっと上手に踊れるだろうとも思わない。
芸術家に限ったことでなく、そもそも自分に何かの天賦の才能や人生を賭けるに値する夢やら野望があると思ったこともない。
それならそれで、世の中のほとんどの人と同じように「眠る」道を選べばいいわけだが、あいにく僕はみんなのようには眠れない。
僕はトニオ・クレーガーではなくて、トニオが最も軽蔑する「不器用な身体に繊細な魂を持った人たち」なのかもしれない。
あるいは、もっと悪いことに、僕自身のこんな考え自体が傍目から見たら「眠る」ことに他ならないのかもしれない。それをすっかり受け入れてしまった将来の自分を想像すると、ぞっとする。少なくとも今は。
Posted by ブクログ
詩を愛する内向的な少年が小説家の青年となり、旅先でかつて愛した少年少女の幻を見る…この短い物語の骨子はそのように単純なものだが、その最もドラマティックな箇所は意図的に曖昧に描写され、主人公トニオが出会ったのは本当にかつての恋人たちなのか、あるいは他人の空似というやつなのか、判然としないまま幕を閉じる。
30歳前後の、芸術至上主義的でどこか青臭い文学青年が、ふと思春期のありふれた恋の記憶に再会し、画家の友人から突きつけられたある言葉の意味に目覚めるビルドゥングスロマンとして、鮮烈な作品である。
長年、この作品はそのように読まれ続け、支持されてきたようだ。現代ではジェンダー的視点からの解釈もあり興味深いが、それは解説に譲ろう。
Posted by ブクログ
昔、岩波文庫で読んだ。新しい訳の本が出ていたので読んでみた。
ハンス・ハンゼン、インゲボルク・ホルム、君たちのことはちゃんと覚えていましたよ!君たちに対するトニオの報われない気持ちも。
しかし後半のことは全く覚えていなかった。おそらく私も若かったので、好きな相手に自分が思うほどは大切にされないという気持ちは身につまされて共感したのだろう。後半の大人になったトニオが作家として成功し、故郷に帰ったりデンマークに行ったりするのはどうでも良かったんだろうな。若さ故の読み込みの浅さ。
実際には後半もなかなか良かったし、『ブッデンブローク家の人々』や『ベニスに死す』にも通じるものがあって、トーマス・マンという作家を俯瞰して見るのにちょうどいい作品だと思った。
Posted by ブクログ
トーマス・マンの自伝的小説。若い頃の作品のせいか、自分の小説家という境遇と一般的な人々の乖離という悩み自体が若書きという感じ。文章の端々にベニスに死すや魔の山の萌芽が感じられてその後の作家的な成長を予感させる作品。