「ベニスに死す」というタイトルの映画としても知られている作品。(原作)
初老の主人公・アッシェンバッハは、若いうちから才能を発揮した威厳ある作家であり、長年仕事一筋だった。
そんな彼は、旅先のヴェネツィアで美しい少年・タッジオに出会い、少しずつ変わっていく。
アッシェンバッハはタッジオを宿泊先の
...続きを読むホテルで見かけるたびに、その美しさを褒めたたえていた。
それはだんだんエスカレートし、神を想うような言葉でタッジオを礼讃していく。
ただ目が合うだけの存在。
互いのことは知っているのに、わざとそうしているかのようにそっけなくし、言葉を交わさない。
そんな微妙な関係が続く中で、タッジオはアッシェンバッハに微笑んだ。
タッジオと話がしてみたい、でもできない、とヤキモキしていた中で放たれた微笑み。
それは、アッシェンバッハの心を焼くには充分すぎるほどの衝撃だった。
「タッジオを愛している」と自覚したアッシェンバッハは、立ち止まることができなかった。
常に自制を保ってきたアッシェンバッハにとって、少年に惹かれることは後ろめたいことであり、罪悪感のようなものを感じているようだった。
しかし抵抗してみても、彼はタッジオを愛することを止められず、しまいには後をつけ回すようになってしまう。
自分を見つめ、後を追ってくるアッシェンバッハに対して、タッジオは嫌がるそぶりを見せず、たまに思わせぶりに振り返ったり、視線を寄越したりする。
そんなタッジオの態度は、どのような意味を持っていたのだろうか。
世間から「正しい人間」だと思われているアッシェンバッハの内面が、荒れ狂い、酔いしれ溺れていく様は、とても苦しく切なかった。
自身の老いを悔やみ、肉体を若返らせたいとすら思い、着飾り化粧をするアッシェンバッハ。
そんな彼を、私は笑うことができない。
街に病気が蔓延し、命の危険すらある中で、アッシェンバッハはヴェネツィアを去ることができなかった。
タッジオのそばにいることを選び、彼を必死に追いかけ、それがきっかけでラストの場面に繋がっていくのは、あまりにも報われないと思った。
今思えば、彼らは言葉を交わしてすらいなかった。
たったの、ひと言も。
始めから最後まで、二人の距離は変わらなかった。
それがまた良いと思った。
膨らんでいく気持ちに体が追いつかず、想い人の前では臆病になってしまう。
そんなアッシェンバッハを表しているようだと思った。
アッシェンバッハの気持ちは、最初は花を綺麗だと愛でるような気持ちに似ていたように思う。
美しい花を、ずっと眺めていたいと思うような。
しかし「花」は「神」になり、美しく尊いものを崇めたてるような気持ちが生まれ、終いには「欲」が生まれたのだ。
たった一人の少年の美が、老いた作家の人生を変えてしまった。
これまで感じたことのないような興奮、ときめき、戸惑い、切なさが混ざり合っていたアッシェンバッハの心。
その心の動きを追っていくのは興味深く、とても好きな作品だった。