Title: Die Betrogene, 1953. Die Vertauschten Köpfe, 1940.
緊迫感のあるプロット、微細な情景・心理描写、トーマス・マンの小説家としての技巧の高さをうかがわせる中編二本が収められている。
「だまされた女」はドイツを舞台に閉経後の年齢の女性が、
...続きを読む「すげかえられた首」はインドの想像上の街を舞台に若い女性がそれぞれ中心人物。どちらも、主調は女性の愛欲である。
「だまされた女」で、中年のロザーリエが息子の若い家庭教師に惹かれて行く心情と、対比されているのは、合理的な性格の娘アンナの存在のように見える。だが、加えてロザーリエの信奉する「自然」との関係のおかげで、作品はひとひねり加わった味わいに仕上がっていると思う。
「すげかえられた首」、こちらは三角関係の物語といえばそれまでだが、これまた二〇世紀の文学にふさわしい形に仕上がっている。恋敵であるシュリダーマンとナンダは、互いに強い友愛で結ばれている。ヒロインのシーターは、シュリーダマンによって婚姻のよろこびを、ナンダによって愛欲の目覚めを知る。ここでは特に、愛欲に翻弄されるシーターの心理描写の巧みさが目を引いた。
加えて「すげかえられた首」には、少々哲学的に興味深い点がある。それは、シーターの手違いで、シュリーダマンとナンダの首と身体が入れ替わった時の、三人の反応である。
シーターの夫は誰か。このときは「頭」に優先権があることで一致する。誰であるかはどの「頭」をもつかが一番重要であると。つまりナンダの身体をもっていても、頭がシュリーダマンである以上、彼はシュリーダマンでありシーターの夫である。
では、シーターの身ごもっている胎児の父親は誰か。こうなると事情が少し変わり、(シュリダーマンの身体をもった)ナンダが自分こそその子の父親であると主張する。なぜなら「子供は体によってつくられるんだ、頭によってではないよ」(246)というのが彼のいい分だ。そして概ねこの事にシーターもシュリーダマンも同意しているように思える。
これが哲学的に興味深いのは、人間の同一性の問題にかかわるからだ。その人がその人であり続ける最も重要な身体の部分はどこか、それは多くの人が頭部(脳)だと考えているだろう。
しかし、親子関係は?社会制度の上ではこの場合、夫であるシュリダーマンが父親であることになるが、彼らの主調に従うなら、生物学上の父は、首のすげかえによってシュリーダマンからナンダに推移しているのだ。もしもこのような想像が許されるなら、親子関係とは一意に決まったものではなく、父親や母親がめまぐるしく変化するケースということも考えられる。
しかしナンダの言い分は間違っているかもしれない。「子供は頭によってつくられる」とも考えられるのではないだろうか。なぜなら、強制による場合を除けば、性交は同意があってなされるものだからであり、それは本人の意志による判断だといえるからだ。子供は、意志の結果であるといっても構わないかもしれない。だが、やはり子供は特定の精子と卵子によって生まれると考えるとき、ナンダの主張はやはりもっともらしい。親子関係を取り入れた同一性問題はというのは、哲学的に興味深い問題をもたらしてくれるかもしれない。