マンのレビュー一覧
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ユングやアーレントなど、ドイツ語圏の本を読んでいるうちに、なんとなくトーマス・マンにたどりつく。
マンは、北杜夫経由で読み出して、高校時代にハマっていたのだが、だんだん重厚長大な感じに疲れて、長らく遠ざかっていた。
光文社ででているエロス3部作?(「ベニスに死す」「だまされた女/すげかえられた首」)が面白くて、その勢いで「詐欺師フェリークス・クルルの告白」に進む。
こちらも、なんだかエロスな話しで、面白いです。マンの重厚長大、質実剛健なイメージがかなり書き替えられたな。
この小説は、1910年に構想され、書き始めるのだけど、別の作品のアイディアがでてくると、執筆がとまり、落ちついたらまた書き足す、みたいな感じで延々と書きつがれ、最終的にはマンの最後の長編になったもの(1954年に出版)。というもののお話としては、まだまだ始まったばかりの感じで、最初の構想からみれば、きっと3分の1くらいか、4分の1くらいかな。
本人の健康状態を考えれば、これが最後の作品になるだろうことは十分認識していたはずで、当初の構想の全部を書き上げることはできないことは意識しつつ、最後に書く長編にこれを選んだってのは、なんだかスゴいですね。
そこまでして書かれたこの作品に、人生の最後を飾るみたいな感じはなくて、結構軽くて、エロスがあって、ピカレスクで、楽しいんだよね。
なんだか、マンに親近感を感じた。う〜ん、しばらくハマるかも。 -
Posted by ブクログ
幼少時から生来の美貌と感受性で人に取り入り、とある貴族の子息に成りすまして世界中を漫遊した詐欺師クルルの半生…のはずなのだが、しかし、小説はクルルが出発地であるリスボンをようやく出発しようかというところで未完に終わる。もっとも、マンがこの小説を書き始めたのが35歳、その後、中断と再開を繰り返しながら、この第一部を完成させたのが79歳だと言うのだから、物語が完結する見込みは全くなかった。マン自身も、第2部以降を書くつもりはなかったようだ。
しかし、未完であることはこの小説の魅力を増しこそすれ、損なうことは全くない。むしろこの濃密さで世界中を旅されたら、とんでもない長編小説になってしまって、大変だ。第一部だけでもボリュームは十分だし、今後のクルルの人生を想像力豊かに楽しめるというものだ。
マンといえば、いかにもドイツ語の本領発揮と言わんばかりのうざい複文で、これを光文社古典新訳のウリである「いま、息をしている言葉」に訳すのはさぞ大変だったかと思われるが、訳は自然で読みやすい。 -
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ネタバレ【本の内容】
高名な老作家グスタフ・アッシェンバッハは、ミュンヘンからヴェネツィアへと旅立つ。
美しくも豪壮なリド島のホテルに滞在するうち、ポーランド人の家族に出会ったアッシェンバッハは、一家の美しい少年タッジオにつよく惹かれていく。
おりしも当地にはコレラの嵐が吹き荒れて…。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
ネタバレTitle: Die Betrogene, 1953. Die Vertauschten Köpfe, 1940.
緊迫感のあるプロット、微細な情景・心理描写、トーマス・マンの小説家としての技巧の高さをうかがわせる中編二本が収められている。
「だまされた女」はドイツを舞台に閉経後の年齢の女性が、「すげかえられた首」はインドの想像上の街を舞台に若い女性がそれぞれ中心人物。どちらも、主調は女性の愛欲である。
「だまされた女」で、中年のロザーリエが息子の若い家庭教師に惹かれて行く心情と、対比されているのは、合理的な性格の娘アンナの存在のように見える。だが、加えてロザーリエの信奉する「自然」との関係のおかげで、作品はひとひねり加わった味わいに仕上がっていると思う。
「すげかえられた首」、こちらは三角関係の物語といえばそれまでだが、これまた二〇世紀の文学にふさわしい形に仕上がっている。恋敵であるシュリダーマンとナンダは、互いに強い友愛で結ばれている。ヒロインのシーターは、シュリーダマンによって婚姻のよろこびを、ナンダによって愛欲の目覚めを知る。ここでは特に、愛欲に翻弄されるシーターの心理描写の巧みさが目を引いた。
加えて「すげかえられた首」には、少々哲学的に興味深い点がある。それは、シーターの手違いで、シュリーダマンとナンダの首と身体が入れ替わった時の、三人の反応である。
シーターの夫は誰か。このときは「頭」に優先権があることで一致する。誰であるかはどの「頭」をもつかが一番重要であると。つまりナンダの身体をもっていても、頭がシュリーダマンである以上、彼はシュリーダマンでありシーターの夫である。
では、シーターの身ごもっている胎児の父親は誰か。こうなると事情が少し変わり、(シュリダーマンの身体をもった)ナンダが自分こそその子の父親であると主張する。なぜなら「子供は体によってつくられるんだ、頭によってではないよ」(246)というのが彼のいい分だ。そして概ねこの事にシーターもシュリーダマンも同意しているように思える。
これが哲学的に興味深いのは、人間の同一性の問題にかかわるからだ。その人がその人であり続ける最も重要な身体の部分はどこか、それは多くの人が頭部(脳)だと考えているだろう。
しかし、親子関係は?社会制度の上ではこの場合、夫であるシュリダーマンが父親であることになるが、彼らの主調に従うなら、生物学上の父は、首のすげかえによってシュリーダマンからナンダに推移しているのだ。もしもこのような想像が許されるなら、親子関係とは一意に決まったものではなく、父親や母親がめまぐるしく変化するケースということも考えられる。
しかしナンダの言い分は間違っているかもしれない。「子供は頭によってつくられる」とも考えられるのではないだろうか。なぜなら、強制による場合を除けば、性交は同意があってなされるものだからであり、それは本人の意志による判断だといえるからだ。子供は、意志の結果であるといっても構わないかもしれない。だが、やはり子供は特定の精子と卵子によって生まれると考えるとき、ナンダの主張はやはりもっともらしい。親子関係を取り入れた同一性問題はというのは、哲学的に興味深い問題をもたらしてくれるかもしれない。 -
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表題作2篇、いずれの作品も高橋義孝訳で新潮文庫から出ているはずですが、手に入れにくいのでこの新訳で読みました。帯には、「エロスの魔力これぞ物語を読む醍醐味!」とあります。これはまた「ヴェニスに死す」(光文社古典新訳文庫では『ヴェネツィアに死す』)に関しても同じことでしょう。2作品の饒舌さ、は、この訳でじゅうぶんに味わうことができました。マン後期の作品については、これもいいのかも、と感じました。とても面白く読みました。でも、敢えて言います。少なくとも私は、新訳の『ヴェネツィアに死す』を必要とはしていない、と。解説や訳者あとがきにあるように、訳者自身による「いま、息をしている言葉で」という試みは成功していると思います。そのうえで、再び敢えて言うことが許されるならば、それが「20年後には息をしていない言葉」にならぬことを祈る、と。ひとつだけはっきり言うことができるのは、訳者が書いているように、これらの作品にはヴァーグナーの音楽が響いているはずなのに、私の耳には、これを読みながらヴァーグナーが聴こえてこなかった、ということです(ごめんなさい)。……、あれこれ考えます。あれこれ考える機を得たという一事をもってしても、この文庫シリーズの意味は大きい、と思います。感謝します。そこから先は、各々の問題です。
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原著1954年刊。
トーマス・マン(1875-1955)が35歳で書き始め、永らく中断して書き終えたのは何と79歳。
このインテリジェントな(大)作家については、北杜夫さんを通して畏敬の念を持ちつつも、近年は全く関心を寄せることなく、『ブッデンブローク』あたりも結局読んでないのだが、最近になって「トリックスター」への興味から、山口昌男さんの著作に本作がたまに言及されているので気になり、中古で入手した。
少年時代から誰にでも化けてしまう(演技する)天才的な特技を持つ主人公クルルの遍歴を描く。やたら女性にもてる外観と洗練されまくった身ぶり(演技)を持っているのがミソ。
が、本作は完全に「未完作」である。35で書き出して79歳までいったい何をやっていたのか。どうしてそんなに気にくわない物語だったのに、晩年になってこれの「第1部?」を書き継いだのは何故だったか。
読んでいくと「これについてはもっと後で・・・」というような様々な伏線がそのままで中絶してしまうし、更に物語は膨らんでいくだろうと期待させられるのに、非常に中途半端なところで終わってしまうのがこの上なく残念である。
もっとも読者がこの先「こんなふうに展開していくだろう」と予測できてしまうあたりに、老トーマス・マンはうんざりしてしまったのか。
なるほど、逸脱しつつ他者、主に女性を翻弄してゆくクルルはトリックスター的な傾向を示している。ただ、トリックスターという役柄は、本来、本人のモノローグのかたちでは発動されないはずだろうという気もするし、際限の無いトリックスター的「いたずら」を延々と書けばもの凄く長大な小説になってしまうだろうと思われ、到底書き切れないことに気づいてうつむく老マンの表情が想像されて、同情を抱かされる。
途中で妙な人物「クックック」氏によって開示される即物主義的・進化論的で壮大な宇宙観が本作にはまとまりのわるい長いエピソードとして挟まれるなど、気になる点をあれこれ残して、小説家が去ってしまったことが、いち読者としては悔やまれるところだ。 -
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マンは(新井素子が好きだった関係で)昔から興味があった作家ではあるのだが、実はほとんど読んだことがなく、岩波で「トニオ・クレーガー」を読んだのと、これと同じ光文社古典新訳で「フェーリクス・クルル」を読んだくらい。
『だまされた女』(原題は "Die Betrogene" で、ドイツ語にはよくあることだが、「だまされた女」が一語で驚く)は序盤はタルいものの、主人公が想いを寄せる家庭教師キートンが登場してからは徐々に盛り上がり、衝撃の結末まで一気に読ませる。『すげかえられた首』もインド神話の雰囲気を湛えて楽しい。
いつの日か「ブッデンブローク」も読まねば。 -
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高名な小説家が運命に引き寄せられて旅した先のヴェネツィアでの滞在で出会う美少年への恋と破滅。
主人公が織りなす内なる感情は持てる知識を以て飛躍し、混乱の域に達するが如し。同性への愛情がこの時代にあって相当にインパクトがあったと思われるが現代のマイノリティを肯定する風潮ではその驚きは失いつつも、あまりに美しい少年への思いを共感できるか否かで評価は変わるような気もする。
幾重にも重ねられた言葉で綴る文体はセンスを感じるが矢張り読みにくい。けれど何か惹かれるものがあるのも確かです。
途中までは旅の紀行と出会いが描かれタイトルの予感を全く感じないが、伝染病の噂からまさかこれで?と思わせつつ、最後のページで潔く完結するところがなんとも印象的。いちごにあたったのかな?