中澤務のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
プラトン『国家』よりもこちらをおすすめしたい。ちょっと目線が高くなる最高の作品です。
ショートサマリ
弁論術の是非の議論を通して、「より善い生とは何か」を問うた作品。
ソクラテスの対話相手は、快楽を基準に生きること、そして権力を行使して人々を支配し、災厄から免れることが理想的な生だと主張した。
これに対してソクラテスは、快楽や力を追い求める人生は、魂を不秩序に陥らせるという観点で、醜い上に悪く、際限がないと否定した。
特に、不正に手を染めることは、魂を貶める最大の悪であるとした。
代わりに、人は、節制や勇気などの徳を発揮して、より善く生きることを目指すべきだと説く。たとえその結果として、他人から言われのない非難や攻撃を受けたとしても、善く生きることは魂をよりすぐれた、立派なものにすると結論づける。
概要
ソクラテスは、当時アテネを席巻していた弁論術へ疑問を呈し、弁論家として名高いゴルギアスと対話を始める。ゴルギアスは、弁論は説得を作り出す技術であると定義し、最善のものであると主張した。これに対してソクラテスは、弁論術は正不正に関わらず、人々を説得させる点を批判した。弁論術は、人々が真理を見極めることには寄与せず、ただ快楽を作り出すことが優先していると批判した。
(のちに、弁論術のような快楽重視の行為を「追従」と呼んだ。他にも、料理術や美容、ソフィストがこれにあたる。対になるのは、体育術や医術、立法術、司法術だ。)
このように、弁論術の倫理や真理探究の機能が欠如していることを理由に、醜く害悪なものであるとゴルギアスに認めさせた。
次にポロスは、弁論術は真理探究に関わらなくとも、人々を支配する力があり、それ自体に価値があると、ソクラテスに反論した。ソクラテスは、人間は目的達成を望むのであって、力を持つことは目標を達成するための手段に過ぎないと主張する。そのため、手段である力の価値は、取得したときに自動的に発生するのではなく、目的達成への寄与という観点で、発生の有無を見極められるべきだとした。
反論されたポロスは負けじと、力を持つことの有用性を説いた。それは、世の不正から免れることができるという点だ。しかしこれに対しても、ソクラテスは、不正をする方が不正をされるよりも哀れだと主張した。それは、不正をするほうが、醜く、悪いからである。また、不正に手を染め、罰せられなかった人は、魂をよりすぐれたものにする機会を逸しているのでさらに哀れであると主張した。ソクラテスは、何人も不正から身を守ることはできないが、だからといって不正に手を染めて魂を貶めるよりは、不正をしないで清く生きることを強く推奨した。ついには、ポロスも反論ができなくなる。
最後に、カリクレスがソクラテスの前に現れ、国を統治できる能力のある優れた人が、弱いものを支配し、自分の快楽の縦にすることは、自然の摂理に則っているので正しいと主張した。このようなことを不正として卑俗と見做すのは、弱者が作り出した慣習であり、従う必要はないという。優れた人々は、正義や節制といった古い慣習から常に自由であり、快楽を基準に生きるという。
ソクラテスは、快楽重視の生に疑問を投げかける。まず、快楽は際限がないことを指摘する。快楽を求める人生は、それはまるで穴の空いた樽に水をいれるようなものだ。しかし、カリクレスは、反対の人生は、そもそも快楽が少なく、虚しいものだと承知しない。次にソクラテスは、快楽を基準に人を測ると、思慮のある人とない人の分別がつかなくなると主張した。それは、両者とも喜び、苦しむという点では共通しており、快楽という観点では両者とも同じ水準であるという結論が導出されるからだ。カリクレスはこれに対して、快楽の中にも、善い快楽と悪い快楽があることを認めた。カリクレスは当初快楽こそ至高の目的としていたが、この議論によって善は快楽に勝ることを暗に認めてしまったのだ。
以上のようにソクラテスは、弁論術の是非の議論を発展させて、権力や安全、快楽を重視する生に疑問を投げかけた。そして、人の生きる目的は善にあると説いた。善く生きるには、節度を守って、友愛や勇気を持つ必要があると説いた。
感想
襟元を正されるような作品だと思った。これからも自分の生き方に迷ったときは、読み返すであろうバイブルだ。
本書の最大のよさは、極めて純度が高い普遍的でいて卑近な哲学を真正面に説いている所だと思う。
穿った視点もなければ、小難しい議論もない。まどろっこしい弁解や注もない。
ただただ真っ直ぐに、真摯に、道徳や倫理を説いている。全く逃げていないのだ。
何と比較しているかというと、近現代の哲学である。近現代の哲学は過去の蓄積をふまえて、批判に批判を重ね、議論を細分化した結果、小難しく、専門化された、穿った思想へと変質してしまっているきらいがある。
勿論、人間は知識を伝承して、それを元に発展させることで、歴史を動かしてきたのだから、その営為と生み出された成果物に対するリスペクトはある。しかし、肥大化した思想は日常生活とは乖離してしまっていると感じることもある。
一方で、プラトンは哲学誕生期(と言っていいのかわからないが)の哲学者である。そのため、取り扱われる主題も、過去の哲学への批判から発生した実生活から乖離したものではなく、私たちが人生を通じたら一回は考えるであろうようなことに収まっている。
手のひらサイズの卑近さと長い長い歴史をも貫く普遍性、とでも言うのかな。
そして、内容も語り口も、これがとにかくストレートなんだ。
ギリシャ哲学は理性を重視していただろうから、論理性はあるんだけれども、それでも今ほど厳密な議論は多くない。厳密じゃないからこそ、思想には熱を感じられるし、純度が高い感じがする。
平気で高尚で青臭くて理想めいたことを真正面からぶつけてくる。(のちにニーチェに独断論と言われて批判されているが笑)
理想主義で現実離れしていると批判されるかもしれないけど、最適解は現実と理想の往復によって苦しみながらも漸次的に作り出すものだと、私は考える。理想を、夢をみないんだったら、それはただの現実への適応であり、不正と不幸の甘受にしかつながらない。
『東大教師が新入生にすすめる本 2009-2015』にかかれていた『資本論』の現代的意義について語った引用。(私は東大ではないのでご安心を笑)
理想を経ることの重要性が語られていて、プラトンを読む際にも役立つ視点だと思う。
もっとも、一九八八年以降のアンケートで『資本論』が上位に挙がるとは何と時代錯誤な、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、現在のような資本主義経済に翻弄されながら、「確かに問題は多いが、これがありうる経済組織の中では最善なのだ」と言じ続けるというのは、どこかカンディードのようではないだろうか。つまり、かつてヴォルテールが残酷に風刺した、この世は「ありうる世界の中では最善」だと言じさせられて一切の不幸と不正を甘受しようとした人物である(『カンディード』一七五九年)。「人間の経済行動の集積が、制御不能の自然現象のようになって人間自身を翻弄するのはおかしい。人々の公共的な決定によって経済も合理的かつ人道的に制御されるべきだ」という(少なくとも一見筋の通った)考えが浮かぶのは自然であろう。この世に資本主義がある限り、その最強の批判者マルクスもまた不滅なのである。
『東大教師が新入生にすすめる本 2009-2015』 東京大学出版会『UP』編集部編 東京大学出版会 2016.3
青臭い若者(馬鹿者!)心が刺激されるような作品でした。
今はマルクスの資本論を読んでますが、本当に難し過ぎて棄権しようか迷っています笑
次は、ノーベル文学賞で名高い川端康成の『伊豆の踊り子』と『雪国』の書評です! -
Posted by ブクログ
『人生の短さについて』
「われわれは、短い人生を授かったのではない。われわれが、人生を短くしているのだ。われわれは、人生に不足などしていない。われわれが、人生を浪費しているのだ。」
面白すぎた。辛口ストレートが流石ストア派。現代の自己啓発本が肩に腕をまわして慰めてくれるとしたら、セネカは正面から往復ビンタしてくる、そんな書きようだった。
人生の浪費から救ってくれた(少なくとも浪費を減らしてくれた)1冊。マイバイブルに追加。
『母ヘルウィアへのなぐさめ』
「そういうわけで、わたしは、運命から逃れようとするすべての人が逃げ込むべき場所に、あなたをご案内しましょう。すなわち学問です。」
全体的に母親への物言いにしては随分生意気だと感じたが(時代背景?)やはり独特の言い回しと表現力が良かった。
平たくまとめると精神を鍛えれば追放されようがどこにいようが自分を保つことができるという趣旨で、セネカのストイックさが顕著に現れていた。 -
Posted by ブクログ
文学・哲学の両面において、門外漢でもこの本一冊で充分に楽しめた。ここまでリーダブルな古典作品も珍しい。
有名なアリストファネスのアンドロギュノスの話、ソクラテスとアガトンの対話あたりは特に面白く、解説書ではなく原典で読めてよかったと思える満足度。
プラトン対話篇の中でも特に複雑な枠構造が取られているのも興味深かった。
「ソクラテスが以前にディオティマから聞いた話を饗宴で語り、参加者のアリストデモスから十数年後にその様子を聞いたアポロドロスが、改めて友人(=読者)に向けてその内容を語る」といった具合だが、わざわざこんな回りくどい形式で物語を「創作」する理由がきちんとあるのが凄い。
前半の4人の配役とキャラ付けも見事で、読んでいて飽きないばかりか同時代のありがちな議論をいっぺんに追体験できる。
それと解説を読んでなるほどと思ったのは、最後のアルキビアデスの描き方。
単純にアルキビアデスを悪役として描くのではなく、彼自身がソクラテスの強すぎるカリスマ性にやられて自分自身でもどうしたらいいか分からなくなっている、今で言うクソデカ感情みたいなものを描写することで、それとなくソクラテスが彼を堕落させたという醜聞を否定している。
太宰治の『駆け込み訴え』におけるユダみたいで、人間像として説得力があり、しかも美しい。
総じて創作物として現代の作品に匹敵する面白さがあり、また哲学書としても、解説書に頼らずとも議論を追える明快さがある。
前に岩波文庫版の『ソクラテスの弁明・クリトン』を読んだ時にここまでの分かりやすさは感じなかったので、光文社版の新訳が良いのかもしれない。他のプラトン対話篇も、光文社でもう何冊か読んでみる気になった。 -
Posted by ブクログ
プラトン著『ゴルギアス』。舞台は古代ギリシャ。哲人ソクラテスと雄弁家たちとの対話。賢人の論理が、弁士たちの誤った説得至上主義を打ち砕く。
ソクラテスによれば、最高の人生とは、純粋さと誠実さを備えた人生だ。雄弁な人間は一見偉そうに見えるが、実際のところその言説は悪人を改心させたりすることはない。説教とは人々の社会に変革をもたらし、民衆の命を救って初めて私たちに大きく資するものだ。
すべての人間は死ぬ運命にある。彼自身自らの人生を以て、理想の人生とは何かを示した。21世紀に生きる私たちは一度きりの人生をどのように生きていくのか。彼は、読者の心にそう問いかけている。 -
Posted by ブクログ
名著。
古典で哲学書というと,複雑で難解なイメージばかりが先行しがちだが,プラトンの対話篇は物語のように読めるので非常に読みやすいのだなということを知れた。
また本書は新訳ということで,21世紀の現代に生きる私たち読者のために,なるべく平易で分かりやすい文章になるよう努められていることが感じられた。
脚注や解説などで,この書を書くに至った背景や当時の歴史的な事情などに対する理解を補助してくれているので,内容を掴み取るのに苦労することは殆ど無かったと言って良いと思う。
もちろん,一般教養としてある程度の世界史(古代ギリシア史)に対する理解や,哲学に対する予備知識はあった方が,理解が容易くなるのだろうとは思うが。
(※私自身,大学で哲学について学んでいたことと,最近世界史の勉強をやりなおしたりしていたので,この点はある程度楽にクリアできたのだと思う。)
さて,本作『ゴルギアス』は,弁論術(修辞学)に対する批判を主として展開したものと解されることが多いらしいが,訳者の中澤氏が解説で指摘している通りに,実のところ本質的な主題はまた別にあるのではないかと思う。
それは最も紙幅を割いている第三幕「カリクレス」において明らかだが,中澤氏が指摘するところの「政治的な生 対 哲学的な生」,もっと分かりやすく言えば,現実主義 対 理想主義であり,より言葉の正確性を期すならば,現実 対 真理,事実 対 真実という構図なのではないだろうか。
この世界の"現実""事実"として現れていることは,誤解を恐れずに言ってしまえば,いいかげんであり,時代や場所など前提となる条件が形成している価値観によって,いかようにでもその意義(意味や価値)は揺らいだものになってしまう。
しかし真実,真理というものは,時代や場所などの条件によって,意味が変化したり価値が損なわれたりすることがない,絶対的,永遠不変的なものだ。
そして政治とは,現実の諸問題について対処する現象や行為のことであり,一方,哲学は,万物の究極的な根本原理(=真実,真理)を追求する営みのことだ。
作中でソクラテスはこのこと(現実の相対性と真理の絶対性)を,自分が恋をしているふたりという喩えを用いて,こう述べている。
「クレイニアスの息子(のアルキビアデス)のほうは、その時々で言うことがころころ変わるのだが、哲学のほうは、つねに同じことを言うのだよ。」
さて,本作は解説でも述べられている通りに,単に古代ギリシアの歴史的な背景における,当時の社会的・政治的な問題を取り上げて批判したり,抽象的に事実と真理を対立させているだけにはとどまっていない。
何故ならば,作中でポロスやカリクレスが示すような信念・価値観は,21世紀の現代を生きる我々にとっては,まるで「当然」とでも言わんばかりに,通底してしまっているものだからだ。
たとえばだが,仮に,不正をする側とされる側のどちらか一方にしかなれないとして,どちら側になりたいかと問われたとするならば,現代を生きる我々の大多数は,不正をする側を選ぶのではないだろうか。
さらに言うならば,カリクレスが主張するように,その不正を様々な権力(腕力・賢さ・金銭力など)を用いることによって,罪に問われることがない,あるいは罰を受けることがないと規定されていたとするならば,より一層,天秤の傾きは不正をする側へと傾くのではないだろうか。
だが我々のこのような浅ましい思惑を,ソクラテス(と著者プラトン)は,清々しいほどの一刀両断の内に断ち切ってみせるのである。
それは本書の内容の大部分に該当するため,分量の関係上,ここでは詳しく述べることは不可能なのだが,簡易にまとめてしまえば,「正しい」とか「誤り」という信念や価値観は可変的なもので,揺らぎを含んでいるが,「善」とか「悪」という真理の方は,永遠不変のものであるということに尽きるのではないかと思う。
そしてこのような,カリクレスらも含めた我々が「正しい」と,「"絶対"だと思い込んでいた」物事が,実は「絶対では無かったのだ」ということに気づかされる,ソクラテスの対話・問答を通した論駁こそが,無知の知(不知の自覚)への喚起であるのだと,思い知らされるのである。
現代に通ずる問題は,不正をめぐる件だけにはとどまらない。
作中でカリクレスが露わにする,弱肉強食の自然原理,際限無く肥大化し続ける欲望を叶えることを信奉する快楽主義は,資本主義を掲げて自由経済による競争社会をひた走ってきた,現代の我々の魂を奥深くまで蝕み,巣食ってしまった巨大な病魔と全く同じだからだ。
そしてこのことは,インターネットで繋がる新たな形式の社会においても,なお一層苛烈さを極めて進行していっているように思われる。
たとえば,SNSにおける人々の承認欲求の発露などは,非常に分かりやすくこのことを示しているのではないだろうか。
ソクラテスは果てのない欲望について,作中で穴の空いた大甕に液体を充たそうとするくらいに,困難をともなう(無意味な)行ないだという喩えを用いて批判している。
(心を満たそうとするだけの欲望や喜びが)たくさん流れ込むとするならば,同じだけたくさん流れ出ていく(一旦は満たされたはずのところから失われるので,失うことによる苦しみが押し寄せてくる)はずだと。
以上のようなことからソクラテスは,人がしあわせに生きるためには,永久に満ちることがない欲望を充足させようとし続ける,快楽主義の生き方ではなく,節度をもった生き方,つまり「徳」を習得し,実践していくことを目指した生き方をしなければならないと提言している。
徳をもつことができれば,必然的に正しく善い振る舞いができるし,節度をもって自らの欲望を抑えることで,人に対しても適切な関係を築くことができるので,その間には友愛が生まれると。
反対に,承認欲求などの欲望を満たそうとする快楽主義な生き方は,他者を自分の欲望を充足させるための道具としてしか見ていないので,その間には競争と対立による支配関係しか生まれないのである。
さて,とは言うものの,徳をもつための根拠となる思想については,現代の日本で生きる私としても,なかなか馴染めないというか,100%理解しきれるかというと,難しいところはあるのが実情だ。
何故かというと,その根拠が神による魂の救済と粛清にあるため,宗教から縁遠くなってしまっている身としては,実感を得にくいからであろう。
だが,一方でこう考えることはできると思う。
科学技術がどれだけ発達しても,宇宙について理解できていることは,ほんの僅かにしかすぎないように,究極的に言ってしまえば,我々は何故宇宙や地球が存在し,何故生命としてのヒトが生まれて,今なお現存しているのかを,100%完璧には知ることも理解することもできない。
そうであるならば,逆説的に言って,(言葉としては悪魔の証明になってしまうのだが,笑)当然,「神が存在"しない"」とも言い切れない。
そしてそのことこそが,やはり無知の知(不知の自覚)を促し,真理へとつながっていくのである,と。
だからこそ,「神の存在を信じ切ることはできないが,信じていた方が"よりよい"」なと感じるし,私は徳を目指して,よりよく生きていきたいのだ。
おそらくだが私は,(ただのビビりの勇気無し,根性無しということもあるだろうが,それ以上に人の"善性"を信じたいという意志が強いからこそ),たとえ仮に「絶対に誰にも見つからないし,もちろん罪に問われることも,罰せられることも起こり得ない」という特殊状況下に置かれたとしても,悪いことをするのは,躊躇ってしまうのではないかなと思う。
そしてそのような人間だからこそ,ありとあらゆる欲望が渦巻き,露悪さが支配権を握っている世界の現実(事実)には,心が傷付き,絶望に伏して倒れそうになることが多いけれども,常に理想(真実,真理)を目指して歩んでいく,ソクラテスやプラトンのような人々の姿に励まされて,何度でも立ち上がって,前を見据えて向かっていくことができる,勇気や希望をもらいながら,生きているのだと思う。 -
Posted by ブクログ
著者・プラトンの師匠である哲学者ソクラテスが活躍を綴った、対話型の哲学書です。タイトルになっているゴルギアスは人名で、当時著名だった弁論家です。著作も残っているほどで、弁論術の大家として広く知られ、弟子も多かったようです。また、余談ですが、100歳を超えて天寿を全うしたという説もあるそうです。BC400年前後の古代ギリシャ世界時代って、どんなふうだったのかあまり想像できないのですが、ソクラテスが刑死したのが70歳ですし、プラトンが病死したのが80歳です。なかなか豊かな時代だったのでしょうか?
さて、本書は弁論術を批判する本です。それも、ソクラテスが屁理屈に近いような論駁を激しく繰り返されながら、しつこくそれに相対していく姿が描かれています。その様は、本書の帯に「怒りの対話篇」とあるほどです。では、引用を中心にしながら内容にふれていきます。
ソクラテスは、弁論家とは何か、との議論で「知らない者が、知っている者より、知らないひとたちのまえで、大きな説得力を持つ(p62)」とまとめています。対して弁論家ゴルギアスは言います、「ほかの技術などなにも学ばずとも、ただこの技術だけを学んでおけば、専門家にまったくひけをとらない(p62)」
この箇所はわかりやすいですが、もっと微妙なところを細心の注意で仕分けするように分析する議論が前後にあります。二千年以上前に考えられ書き残された考察が、まだまだ現代の問題を取り扱っていると、ここの箇所だけでも思いませんか。このあとさらに思考の範囲を広げながら、弁論術とはどういうものかをあぶり出していきます。
弁論術は、他人を支配するもの、言いくるめるもの、聴く者におもねり道筋をつけ誘導していくもの、とされます。ソクラテスが好むのはそういった「弁論術」ではなく、「議論」のほう。「お互いに学んだり教えたりしながら、うまく議論を終わらせるのは、容易にできることではありません(p56)」「このひとは議論に勝ちたいだけで、議論で問題になっていることを探求する気などないのだと思ってしまうのです。(p56)」としながら、そういった議論というものの理想形を目指しているふうなのが読み取れます。
最終の第三幕。ソクラテスがカリクレスにさんざん言われているシーンがあります(第三幕「カリクレス編」は序盤から丁々発止な応酬で、読んでると「うひひひ」というような笑みがこぼれてくるほど刺さってきてすごいです)。哲学なんて若者のすることでいい歳してまだ哲学しているなんて大人を見たら、あまりに大人げなくて殴りつけたくなる、と。
哲学にいい歳してまでふけっていると、自分で自分のことも守れない人間になっているし、社交場でのふるまいも知らなくて恥ずかしい。財産や名声を持つように励め、実生活を生きる技能を磨け、たくさんのよきものを持つものを見習うのだ、と、カリクレスはソクラテスに迫っていました。
カリクレスは、強い者が奪って何が悪いのだ、という考え方。また、不正をするほうよりも不正をされるほうが悪い、とする立場。この本の舞台、古代ギリシャでは不正はされるほうが悪い、というのが一般的ぽいし、今日でも、盗まれるのは本人が悪い、と特に外国ではそうなるなんて言いますね。日本でもそういう傾向はあるのではないでしょうか。
ソクラテスはカリクレスに、きみには知識、好意、率直さがある、と返します。たいていの人は、そうやって真実を話してなんかくれない、ぼくのことを心配してくれないからだ、と。つまり、ここではとてもシンプルに、「心配」は、「知識と好意と率直さ」由来の行いだと考えられるようにでてくる。
ちょっと横道にそれてしまいますが、「心配」ってなんだろうか、と考えていると、ソクラテスの返答って的を射ているなあと思いました。心配していることが興味や好奇心に見えるときは、その心配はおそらくこじれているし、憐みにまで感じられるときは、もっとこじれた心配なのではないでしょうか。興味や好奇心、憐みの情で見られたいとはなかなか思いませんからね。たぶん心配って、好意の段階でストップするべきなんです。
閑話休題。
引用していきます。
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カリクレス:(前略)ソクラテスさん。あなたは真実を追求するという。ですがね、これが真実なのですよ。つまり、贅沢をして、放埓に(欲望のままに)ふるまい、そして何ものにも束縛されないこと。[それを実現するための]しっかりとした後ろ盾を持つなら、それこそが徳であり、しあわせなのです。それ以外のあの飾りもの、つまり人間たちが自然に反して取りきめたことなんて、無意味で、なんの価値もないのです。(p188)
ソクラテス:(前略)さて、そんな愚か者たちにあっては、欲望で満ちた魂の部分は、放埓でしまりがない。それを見てとった彼(機知にとんだとあるイタリア人)は、その部分を穴のあいた大甕になぞらえた。いついなっても満たされることがないからね。(中略)そのような<秘儀を受けぬ者(=愚か者)>たちが、最もあわれなのだとね。だって、彼らは、穴のあいた大甕に、せっせと水を運び続けているのだから。しかも、同じように穴だらけの容器、すなわち、ざるを使ってね。(p190-191)
__________
→ソクラテスは、人間は節度を持ち、自分で自分に打ち勝って、自分のなかの快楽や欲望を支配することが大切だと説きます。それに対してカリクレスが上記引用のように、欲望のまま、思うままにふるまい、生きることこそがしあわせなのだ、とその考え方をストレートに表現したのですが、これは現代の経済偏重な考え方に鋭く通じていると思います(「神の見えざる手」を仮定して、人は自由にふるまえ、欲望のままに行動するんだ、と現代資本主義社会は経済学によってそう肯定されました。これによって、カリクレスのような考え方が再浮上した、みたいな現代だったりするかもしれません)。そしてソクラテスは、そんな考え方は、穴のあいた大甕と同じで、いくら注ぎ続けても満たされることはないのだと、たとえ話で論駁しています。
次にいきます。
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どうしようもなくろくでなしの人間は、権力者たちのなかから生まれてくるものなのだよ。もちろん、そのような権力者たちのなかに、すぐれた人物があらわれたとしても、なんらおかしくはないし、もしあらわれたら賞賛に値する。だって、とても難しいことではないか、カリクレスくん。だから賞賛に値するのだよ。なにしろ、不正をおこなえるだけの強大な力を持ちながら、生涯を通じて正しく生きるというのだから。(p316)
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→政治家は、その政治家的生において、だれかかから不正をされることや、自分が不正をしたときに罰せられてしまうことを最大の悪と考え、弁論術の力で、そうした悪から逃れようとするのです。自分の身を守ることが第一とするのが政治家的生なのでした(p390-391「解説」より抽出)。だから、上記の引用のように、政治家的生≒権力者からどうしようもないろくでなしの人間が生まれてくる、と言っているのです。
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それでは、政治家は何をなすべきなのでしょうか。ソクラテスの考えでは、政治家の使命とは、国と市民たちの世話をして、できるだけよいものにすることです。ですが、政治家はこの理念を実現できているのでしょうか。(p392-393「解説」より)
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→政治家が、自信の欲望を満たし、国を肥え太らせる、そのように奉仕するような政治家をソクラテスは非難します。また、見るべきところとしては、「国と市民たちの世話をして」だけではなく、そのあとに続く「できるだけよいものにする」が大切なのでした。前者だけならば、それも追従的な奉仕です。後者の、国も市民もよいものにしていく、というところが、それが良い政治なのかそうじゃないのかを見極めるポイントになります。
最後は、気になった部分をいくつか箇条書き的に記します。
p255前後。
「不正をする側が悪いのか、不正をされる側が悪いのか」と「哲学にいい歳してまでふけっていると、自分で自分のことも守れない人になっている」の別々の話題がひとつになる。自分で自分を守れないっていうのは、不正をされてしまうということにあたるのだ、となります。そして「自分のことも守れない」のところでは不正をされる側のほうが悪いのだという論調になっている。これは、僕のような人からすると、あまりにあんまりだなあという感想を持つ箇所です。
ソクラテスの言う「本当に悪いこと」は、不正をして、さらに罰せられないほうでした。つまりは、差別をしたり馬鹿にしたり殴りつけたりするほうがまず不正にあたるのだし、それが罰せられないでいる人こそがもっとも悪い。悪い、というのはもっとも不幸せな状態である、という意味でした。
あと、意外だったのが、ソクラテスは、音楽や創作を程度の低いものとみなしている感じですね。これは古代ギリシャ時代の価値観として強かったのかなあとも思いました。音楽なんかは「快」に関わるものだから価値が低いとされてしまいます(そう考えると、現代でもそういうところはありますね)。彼は節度の人ですから。自分自身の秩序が保たれていると節度が生まれ、節度があると他人にも適切にふるまうことができ、それゆえに、正しく、敬虔で、勇気があることになる、とソクラテスは考えます。そして、そういった人は、あらゆることをよくなすことができるので、しあわせな人間だとなるのでした。
というところです。
二千年以上前の古代アテネの状況を踏まえたプラトンが、本書『ゴルギアス』という布石を打ってくれたわけで、現在でもこういった弁論の問題ってあるなかで、二千年以上前のアテネの状況との違いはその布石があるかないかだと思うんです。だったら、大いに『ゴルギアス』は活かされるとよい本ではないでしょうか。
光文社古典新訳文庫版は文章が読みやすいし、注釈をその都度参照できて、わざわざ巻末まで辿らないといけないタイプではなく、親切なつくりなので、気軽な感覚で古典に親しみやすいです。おすすめです。 -
Posted by ブクログ
ネタバレアンドロギュノスの話の原典が気になって購入してみた。
小難しい哲学書なのかもしれない…と少し身構えていたのだが、平易な文章で非常に読みやすく、登場人物それぞれの語り口も個性的で、文学作品として楽しむことができた。巻末の丁寧な解説のおかげで時代背景や文化の理解もしやすい。
「子孫を残すこと(体に宿す子を産む)・知恵や思想を遺すこと(心に宿す子を生む)、これらは不死性への欲求であり、エロスとは美しいものを永遠のものにしようとする欲求である。」という主張は、クリエイターである自分にとってかなり腑に落ちる考え方だ。
私は美のイデアに触れることができるのだろうか。私は美しいものを永遠に残すことができるのだろうか。
紀元前に書かれた本なのに、現代の私の心に深く問いかけてくる。読み終わったあとに、なんだか壮大な物思いに耽ってしまった。 -
Posted by ブクログ
説得を真髄とする古代ギリシャの技術である弁論術について、それを実践し広めるゴルギアス一派とソクラテスによる論駁の一冊。
ある分野において専門家よりも大衆を信用させることのできる弁論術が何事にも優って善であるとされる点から、彼らの熾烈な討論が始まります。
相手を信じ込ませるその技術に対して、それが持つ善の力を信じているゴルギアス一派と使用する人間によって異なると疑っているソクラテスは最初から対立しています。
今まさに目の前で言い合っているような彼らの息遣いが感じられる訳と筆致によって、夢中になって読み進めることができました。
弁論術の心得があると私生活でも仕事でも間違いなく役に立ちますが、他者への扇動や洗脳に悪用できることも理解しました。
使い方を誤ると戦争も起こすことができる凄まじい力を持つ技術、ペンは剣よりも強しです。 -
Posted by ブクログ
人と人とをつなげる方法として、文書や資本などの技法が発展していない時代、
顔の見える範囲で言葉をかわすことは、今とは比べ物にならないほど大きな役割を果たしていた。
その言葉をうまく使って人々を説得し、自分が望むように人々を動かす力である弁論術が、
劇中のソクラテスたちの会話の素材として取り上げられる。
弁論術は説得によって何を目的として求めるのか。
その目的を選ばせる価値観はどのようなものか。
その価値観をいだくような人の生き方はどのようなものか。
弁論術から始まり政治や人の生き方にまで話が及ぶ本書は、プラトンの中編著作の中では手頃なものだと思う。
(ただし、劇中のソクラテスの議論や主張には同意しにくい方に入ると思うが)
訳文は、対話相手だけでなくソクラテスもどこか感情的になっている節を感じ、
先行する岩波や中公の翻訳に比べて、対話が少しいきいきとしているような印象を受けた。
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Posted by ブクログ
一言でいうと
【人生が短いのではなく、自分の行いが人生を短くしてると分かる本】
本書は2000年前、皇帝ネロを育て上げる役として仕事に就いたセネカが晩年に書いた本であり、内容は仕事に埋もれる若い一人の男性に当てて書かれた手紙だ。
古代のアリストテレスから、現在その辺にいる見知らぬオジちゃんまで誰もが「人生はあっという間で短い」と嘆く。
しかし、セネカによれば「人生は本当は長いもので、短くしてるのは自分のしょうもない行いに費やしてるからでしよ?」と迫ってくる。
私が本書からセネカのいう、しょうもない時間を現在にあてると下記リストが浮かぶ。
・自分以外でも出来る仕事時間
・惰眠時間
・性欲にふける時間
・物欲にふける時間
・酒にふける時間
・相手に話しかけられる時間
正直、他の誰かができる帳簿をつけながらそれに必死になるばかり時間をとられ、疲れ果てた故に休日は惰眠に時間をとられ、性欲や物欲にふけってスマホを片手に時間をとられ、あげくの果てに馴れ合いの飲み会やに時間をとられ、ラインでくる通知や電話の返答に時間をとられる。
一日の何時間を、それらに費やしているのか。仮に寝る時間を除いた半分の時間を費やしてると考えれば、80歳までの人生の人は、40年しかないのだ。あなたは、私は今何歳??ほとんどないのではないかと私は焦った。
自分にとっての内省や、成したいことに時間を注ぐべきだと感じる。ユダヤ人である哲学者ハンナ・アレントのいう「鑑照生活」の時間をいち早く獲得する必要がある。 -
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2011年5月23日(月)に阪大生協書籍部豊中店にて科研費で購入。同日読み始め、25日(水)に読み終える。
訳文も読みやすいし解説もすばらしい。これは訳者というよりも光文社翻訳編集部に対する意見だが、たしかに訳者もあとがきで書いているようにプラトンの『プロタゴラス』は藤沢令夫訳が出てからすでに50年以上経っており、「光文社古典新訳文庫」が謳う「いま、息をしている言葉」ではなくなってきているのかもしれない。だとしても、誰でも手軽に読める文庫で新訳を出すのなら、『ニコマコス倫理学』とかもっと優先度が高いものがほかにもあるような気がする。
今度から藤沢訳と交互に読みたい。 -
Posted by ブクログ
[高橋一生が演じているかのような生き生きとした鼻持ちならないアリストテレス]
ソクラテスの対話編を読むのははじめて。それ以上に古代ギリシャ哲学について書かれた本を読むのもはじめて。
しかし神業のような翻訳によって、まるで脚本 宮藤官九郎、ソクラテス 高橋一生というようなイメージで一気に読んだ。
いきなり冒頭から、最近自分が入れあげている美少年についてのろけるソクラテス(35歳)に大笑いする。
とにかくうざい高橋一生版ソクラテス。
・揚げ足とり
・はい、論破ー
新進気鋭のネット番長、ソクラテス35歳が著名作家プロタゴラス(60歳)に粘着リプライを繰り返す話。
物語のコアは、人間の徳(プラトー)は教育によって教える事が出来るのか?という点。
これって、今の学校教育でも言える。
多くの大衆は思う。「学校で教わる事など人生で役に立たない。知識、知恵を活かすよりも、人は小隊不明の非論理的衝動にかられて行動してしまう」
衝動とはなにか?
衝動と徳(アレトー)は異なるものなのか?
徳(アレトー)は教えられるものなのか?
これは哲学問答なので、答えは提示されない。
でも、これこそが今の学校教育に不足している事なのかもしれない。
教えるのではなくて、問う事。
そして、いい加減、高橋一生が「夕べの美少年良かったわぁ」としたり顔をする幻覚から肺胞されたい。