吉田秀和のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
初のクラシック音楽の本を読んだ。
吉田秀和が初めて訳した本だけど、読みやすいのが先ず第一印象。
シューマンのロマンチックで優雅、公演のように熱狂的に論ずる姿勢に大変好感を持てた。
クラシック音楽は最古の歴史と云われるので、この本を読んだだけでは歴史的なものも音楽自体の良さも分からないのは必至。
導いてくれるので本書に出てくる曲を聴きながら読むのがベストだと思った。
音楽を奏でるのと同じ位の熱量のある内容なので、コンサートとかの雰囲気もふわりと掴めるのではないだろうか。
事実、それを意識して書いて吉田秀和が「音楽新報」という当時シューマンと仲間たちが発刊していたのを要所々々抜萃したものだけど、クラシック音楽の優雅さ、高尚さなどの雰囲気を掴むのには抜群の一冊だった。
これを機にクラシック関連の本をもっと読みたくなった。 -
Posted by ブクログ
明晰にして温雅。吉田秀和の文章を読んで受ける印象である。日本における音楽批評というジャンルを確立した吉田であるが、文学、美術にもその造詣は深い。その吉田の批評の核となる「自分」を創り上げてきた幼児期の記憶から、中原中也、吉田一穂という二人の先輩詩人との出会い等、すでに発表された単行本の中から音楽はもとより文学や美術を語った、これはという文章を選んで編まれた随想集である。
「批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシに使って自己を語る事である」というのは、小林秀雄の有名な文句であるが、その小林に近い位置にいて強い影響を受けながら、吉田秀和の批評は小林のそれとは対極に位置するように思える。小林の手にかかると、モオツァルトもゴッホもランボオも、すべて小林秀雄色に染まって見えてくる。それに比べ、吉田が読み解くセザンヌやマティス、クレーはそれぞれ異なった相貌を持った芸術として見る者に迫ってくる。ただ、そこに響いている声音は紛れもない吉田秀和のものなのだが。
それは二人の詩人、中原中也と吉田一穂の思い出を語った文章からもはっきりと分かる。どちらも詩人の中の詩人である。円のように完璧な詩を書きながら、純粋であるために夭折してしまう中原。一方、日本語による詩を突きつめることで、真っ白い原稿用紙を前に一字も書く事のできない一穂。若き吉田は真っ白な紙になって天才詩人の色を吸いとってしまう。遠い日の記憶を探り、そこに染みついた色を、親しげにしかし、近くにいた者だけが知る事のできる真正な詩人の姿を語るのは批評家である吉田だ。
あまり近くにいると、とかく身贔屓や甘え、あるいは逆に近親憎悪的な感情が生まれたりすることが多いものだが、吉田に限ってそれはない。この気持ちのよい透明性のようなものは、どこから来るのかと考えて、それが、彼が学んだ西洋の芸術・文化からであることに気がついた。ギリシア以来の西洋の知をわれわれ日本人は明治以来必死になって模倣し採り入れようとしてきた。しかし、それがどれほど成功したかは疑問である。
近頃の日本人の野卑な口吻からは、われわれが西洋から何も学んでこなかったことが嫌でも分かる。相撲の寄せ太鼓の記憶に始まる自分の生い立ちから西洋音楽受容についての考察に移る表題作「ソロモンの歌」。西洋をよく理解したことがかえって日本及び日本人に対する絶望を呼んでしまった荷風に託して、日本人というものを考えた「荷風を読んで」。この二篇を読めば、吉田秀和という批評家の中にある開かれた明るさのようなものがなぜ可能であったかが分かるだろう。
「私は、荷風が西洋体験でつかんだものは、個人主義であり、その個人主義を原理とする社会と芸術の相互関係だといった。近代の芸術は(中略)すべての面で、個人の自由ということと切り離せない」(「荷風を読んで」)。確立した個人の自由があればこそ、個性や独創というものが尊ばれる。知っての通り日本人は模倣によって国を創り上げてきた。そうせねばならぬ理由があってのことでそのことについて今是非は問うまい。要は模倣の是非ではなく仕方にある。
「日本人の最大の特徴は、外国の浅薄な模倣をよろこぶ気持ちと、深いところに潜在する排外思想との間の緊張ではあるまいか。その間に調和を求めるものは、どこかに逃避しなければならない」(「荷風を読んで」)。昭和45年に上梓された『ソロモンの歌』所収の文章が、いっこうに古びていないどころか、ますますその重みを増して感じられるように思うのは、ひとり吾人だけではあるまい。 -
Posted by ブクログ
吉田秀和による、カラヤンの関する評をあつめたもの。
なんで、コンサート評やレコード(時代ですねww)評や、他の大きいカテゴリーの中でカラヤンについて論じたものとか多岐にわたる。
面白かった。
評って、書き出した時に多分方向性が決まっている。方向性というか、着地点が決まっているのだと思う。
が、どこに、どういう目的で書いたかによって、着地点は様々だ。
その多々の点でばらばらのようなものの中から、カラヤンが確実に浮かび上がってくる。
って、カラヤンがどれだけすごかったか、というところなんだけど。
なんで、改めてカラヤンを聞く。
中高の頃、ものすごく好きでポスター張っていたし、ほぼ毎日聞いていた。
やっぱりカラヤンはいい。
理性と感情のバランスがものすごくいいと思う。
ああ、そうか。
現代人らしいバランス感覚が、カラヤンをカラヤンたらしめ、彼を帝王とさせていたのだな、としみじみ思った。
余談
ブラームスのシンフォニーがものすごくいいと感じるようになったのは、私が年食った証拠なんだろうな。
やれやれ。 -
Posted by ブクログ
吉田秀和 「 ソロモンの歌 一本の木 」
音楽以外の批評。中原中也、吉田一穂 に対する文章は 交流による人物批評から 詩論に展開。小林秀雄、永井荷風、パウルクレー に関する文章は 作品から アプローチして それぞれの作品特性から批評している。
対象の特性を拾うのが うまい。対象が 「何を捨てて、何を選んだか」を明確にして、特性から 対象の 根本や本質を抽出しようとしている。随筆感がなくて 起承転結がはっきりした文章なので 読みやすい
吉田一穂 詩「海の聖母」や 著者の音楽批評や モーツァルト批評を読んでみたい
中原中也
*生きるとは 赤ん坊であるか、無限を相手どって腕を振るか どちらかしかない
*中原の詩は 自分で自分を悼んでいる挽歌〜中原の子供の死が 中原の詩の核心→中原の生の意味
*中原について 小林秀雄のような天才だけが思い出せ、大岡昇平のような無類の散文家だけが記録できる
小林秀雄=批評論
*批評=対象を自分のうちにひきずりこみ〜自分の思考の糧とする→批評は個人性の表現
*「モーツァルト」は 著者にとって啓示〜自分のできること全てを投げ入れる方法、全てを書きつくさないで たくさんのものを与える方法→模倣に近いところまで近寄って消化した
*いろいろなものを男性的意志的に切り捨てて生き、考えてきた
吉田一穂=詩論、芸術論
*詩とは、自分の内外にある虚無に向かって 火を放つもの。詩は もう一つの宇宙を創る天を低めて自らを神とする術である
*上手と現代は 矛盾しあい、同居しえない〜音楽で 現在 大切な仕事をしているのは、その上手な人たちではない
ソロモンの歌
「かって起こったこと、それはこれから起こることと同じ」
*芸術家は 理論を習うより前に〜根本的な体験をしている
*そのあとに ある芸術作品に触発され〜手本とし 理論を学びながら、最初の試みにとりかかる
パウルクレー=絵画論
*文学的モティーフ〜イラストレートしたのではない〜絵画的に形成し、詩的思想と合致した
*絵は だんだん生まれてくるもの〜時間の働きを含む〜画面のはじめは 対象を持っていない
*始まりは無対象、非抽象→有機的に成長する
*絵が まずどこから始まったかを決めるのは 中心的課題
*芸術は 見えるものを再現するのでなく、見えるようにする行為
永井荷風=文明批評
*荷風は 感覚、感情のところで 西欧を愛した→日本の近代化に絶望→日本を江戸に求めた
*芸術と環境、社会と伝統の調和を見た〜芸術は社会から隔絶したものではない、社会は芸術なしには完全でない
*荷風が西洋体験でつかんだのは、個人主義であり、個人主義を原理とする社会と芸術の相互関係
-
Posted by ブクログ
◼️ ロベルト・アレクサンダー・シューマン
「音楽と音楽家」
「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」と称賛されたショパン。ほか数々の音楽家の価値を知らしめた、偉人の名批評。
シューマンのピアノの曲といえば、まず名ピアニストであった夫人のクララ・シューマンのために作ったドラマティックなピアノ協奏曲、それから「子供の情景」ついで「クライスレリアーナ」が思い浮かぶ。これらピアノ関連の曲は詩的要素も強いように思える。ドイツ・ロマン派の重鎮で、メディアや音楽家から批判もあり、評価が曖昧だった作曲家を、音楽誌での数々の批評を展開することにより、価値づけた。とりわけ今のビッグネーム、ショパンでありメンデルスゾーン、ベルリオーズといった当時の若手として登場した作曲家、演奏家たちがシュー大きな助けとなったようだ。
面白いのは、フロレスタン、オイゼビウス、ラロー先生といった、それぞれ性格の違う自分の分身を登場させて批評文を展開している点だ。最初はちょっと混乱した笑。
この批評は音楽誌に載った記事を抜粋して、全般的な批評を展開したもの。ベートーヴェン、シューベルト、モーツァルト、バッハ等の曲を好意的に書いている。ベートーヴェンの交響曲第5番、いわゆる「運命」には
「これについては何もいうまい!」
「この交響曲もまた、世界と音楽があるかぎり、幾百年たってもくりかえしくりかえし演奏されるだろう」と最大級の尊重、畏敬の念を表している。はい、創られて200年以上経った現在も大の人気曲ですよ、と微笑。
加えて先に述べた通り、ベルリオーズの幻想交響曲を分析しつつ誠実に好ましい感想を述べたり、メンデルスゾーンのピアノ協奏曲などを称賛したりしている。
かつてアイドル的人気を誇り、ピアノを聴いた婦人たちが失神したという逸話もある超絶技巧のピアニスト「ピアノの魔術師」フランツ・リストのリサイタルに行っていわく
「リストは、きくだけでなく、見なければならない」
ビジュアル的、外見ばかりでなく、その演奏に迫力があったように書いてある。見たいなあ、クララも号泣したというし。
とりわけ、ショパンへの批評は興味深い。褒めちぎっているといっても過言ではないだろう。
ラ・チ・ダレム変奏曲について、分身のオイゼビウスに
「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」
と言わせている。これはクラシック界では大変有名な言葉となっていると思う。
さらにピアノコンチェルト2曲については
「こんなのは僕らがみんなで、束になってかかっても、かなわない(2番について)」
とフロレスタンが完全降伏。バラード3番には
「この曲の詩的な香りは、これ以上の分析を許さない」
高評価ですねえ。確かにクラシック友の中にはショパンはあまり聴かない、という人もいる。詩的、ロマンティックで音楽的、民族舞踊を取り入れるなどこれまでとは異質な曲への反応を踏まえて、妥当な評価を下そうとしている。
ただし、「葬送」のタイトルで有名なソナタ2番については、第2楽章までは褒めているものの、「葬送」の部分には「耳ざわりなものがたくさんある」と手厳しい。後には「音楽ではない」とまでの書き方も見られる。私は大好きなのですが・・苦笑
さて、上に挙げた音楽家はパリを拠点にしていた者が多く、シューマンは彼らをドイツ音楽界に紹介し興味を喚起したとか。
私にも年代が分かりにくかったため整理を。
シューマン1810年-1856年。
これらの批評は主に1830年代〜40年代になされたものである。
ベートーヴェン1770-1827
シューベルト1797-1828
ショパン1810-1849
リスト1811-1886
ベルリオーズ1803-1869
メンデルスゾーン1809-1847
シューマンは若い頃から批評活動をしており、紹介されたのはより若い音楽家ではなく同年代もしくは年上だった。しかし批評には熱意があふれ、かつメディアや同業者の批評に辛辣で、表現が詩的、さらに分身。なるほど20代の文章だと思わないこともない。しかしこの人たち天才だなホンマに。
シューマンは晩年、精神錯乱に陥る。その直前にシューマン家を訪れたのが若きヨハネス・ブラームス(1833-1897)で、シューマンは本書でその出会いを述べている。ブラームスはシューマンの死後、多くの子供を抱えたピアニスト、クララを支え続け、生涯独身を貫いた。
専門的な音楽論はさすがに知識もなく、分かる曲以外は読み流すしかなかった。最初はやや停たけれども、読むうちにヨーロッパ、ロマン派の近代音楽史に浸っている、シューマンがその歴史の一部を作った、という雰囲気が伝わってきて、充実感と少しの寂しさを覚えて読み終えた。
良い読書でした。何曲か聴こうかな。 -
Posted by ブクログ
河出文庫から出ている吉田秀和の文庫本は「バッハ」、「ブラームス 」を読んでおり、本書が初めてではない。
それでも初めに思ったのは、かつては吉田秀和全集や単行本でしか読めなかった吉田秀和の文章が、近頃、河出文庫から出るようになってきて、文庫本で気軽に手に取り、読むことが出来るようになったのは、良い傾向であり、嬉しいということだ。
これからもどんどん文庫化していって欲しいものである。ついでに言えば、同じく現行で買える、ちくま文庫の「吉田秀和コレクション」より、文字のサイズが若干大きく、太字になっているので、視認性が上がり、読みやすくなっていのはありがたい。
さて、内容についてだが、私はマーラーを頻繁に聴くようなマーラー愛好家ではないので(マーラーのCDは、この本でも取り上げられている、バーンスタインの全集、ショルティの全集をはじめとし、バルビローリ、カラヤン、テンシュテット、アバドなど100枚近くは持っているが、他の作曲家に比べると遥かに少ない)、他の作曲家に比べて理解が足りないところがあり、むずかしいと思える部分も少なくなかった。特に、本書の中でもっともボリュームのある批評文「マーラー」は、むずかしかった。
全体としては、「世界の指揮者」や「之を楽しむ者に如かず」にも同じ文章が載っているので、何本かの批評はすでに読んだことがあり、全集などでも、内容が似通った文章を読んだことがあるので(それに吉田秀和一流のレトリックにも見慣れているのも手伝ってのことだろうが)、既視感がかなりあった。
吉田秀和は文庫あとがきに「これはマーラーがまだ新しかった頃についての一音楽執筆業者のささやかな体験の記録でしかない。だが、不完全ながらもマーラー入門のような役にたったらとしたらうれしい」と書いているが、マーラー入門者には、少しむずかしいと思う。だが、アナリーゼやむずかしい部分を飛ばしたとしても、勉強にはなるので、読む価値は十分にある。
そして、体験の記録=マーラーの受容史としては貴重な価値がある。その面を重視して、文庫化の際に、批評文の書かれた年代順に並べてくれていたら、吉田秀和のマーラー受容、ひいては多くの日本人にとってのマーラー受容史がもっともわかりやすい形で見えたのではないかと思う。 -
Posted by ブクログ
2020/04/17 読み終わった。
唯一無二のピアニスト、グレン・グールドのことを、吉田秀和さんがいかに好きかを大体同じ切り口で何回も伝えてくれる本。エッセイ集みたいな感じ。収録されている一番古い文章は1967年に、一番新しい文章は1995年に書かれた。
グールドが死んだのは1982年なので、生きている間と死んでからの文章に分けられるんだけど、死んでからの文章の方が面白い。死後にもこんなにファンがいて、著作が増えて、論じられているという事実だけでも、グールドの魅力が分かる。
ちなみに、グールドが生きている間に書かれたものはだいたい「生で聴いたことがない悔しい」なので、4回目くらいで「分かったよ!」て突っ込んじゃう。 -
Posted by ブクログ
吉田秀和せんせいの視点から、クラシックの名曲(・名盤)を300曲集めようという趣向です。
もとは、その曲の名演レコードを集めるという趣向だったようですが、文庫化にあたってその部分は削除したとのこと。
クラシックの名曲・・・と言えば、何と言ってもヴィヴァルディやバッハ辺りから始まるのかな、と考えるわけですが、そこは吉田せんせい。第1曲目はいわゆる「宇宙の音楽」、歴史に残るの残らないのどころではない、遙か原初の音たちに捧げる、というのですからスケールが違う。
続くグレゴリウス聖歌は納得なのですが、その後は宗教から世俗へ、宮廷から民衆へ、モノフォニーからポリフォニーへ、ルネサンスを経てバロックへ、というような悠久の変遷をたんねんに追い、バッハが出てくるのはようやく144ページ目(340ページの本の)だったりして、ご本人は「音楽史じゃない」とは言うものの、すぐれた音楽通史の本として読むことができます。
バッハは「今さら言うまでも・・・」という筆致ですが、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン(に至っては一人に一章を割いている)については綿密に描き出し、さらにロマン派に入ってヴァーグナーが一つの頂点をなしているところがこの本のポイントかとも思えます。
一方、その後の周辺諸国、すなわちフランス・イタリア・ロシアや北欧の中後期ロマン派の作曲家については、ほとんどスルーに近い書き飛ばしっぷり。マーラー辺りまではまだ軸足が乗っているかなとも見えますが、チャイコフスキーやシベリウスなどは一応触れたからもういいでしょ、という感じです。
ドビュッシーに至って最後の感嘆の声が挙がりますが、そのあとは二十世紀の音楽としてほとんど十把一からげ。
この辺は、魅力的な楽曲を書いたか否かではなく、音楽にいかなる革新的価値をもたらしたか、という視点が冷徹に貫かれているからかも知れません。
また、日本人はいつ出てくるかな(どきどき)と読んでいると、終わりから三行目、加筆の部分にようやく武満徹が「今、この本を書いたなら当然挙げただろう」ということで登場。本が最初に書かれたのが1960年代ですから、無理もないというところか。
このように時代背景(本が書かれた時分の評価や流行など)や著者のスタンスを若干割り引く必要はありつつ、前述の通りクラシック音楽の壮大な通史として非常に勉強になる本でした。