高見浩のレビュー一覧
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長い不漁が続く老漁師サンチアゴが、少年マノーリンに見送られ、ひとり海へ出る。そこで大魚と出会い、何日にもわたる死闘を繰り広げる。ようやく仕留めるものの、帰る途中でサメに襲われ、少しずつ獲物を奪われていく――という物語。
特に印象に残ったのは、サンチアゴがどれだけ苦しい状況になっても、弱音を吐いて諦めるのではなく、目の前の困難に向き合い続ける姿だった。
何度も少年の存在を思い浮かべては「あの子がいてくれりゃ」というセリフからは、老人の孤独だけでなく、マノーリンが心の支えになっていることも感じた。
そして、大魚との戦いには単純な「勝ち負け」ではないものがあった。老人はカジキを敵として戦いながらも、その巨大さや強さに敬意を抱いている。だからこそ、ようやく仕留めた大魚がサメに襲われ、どんどん食べられていく場面は、とても悲しく、胸が苦しくなった。
あんなに頑張ったのに、最後には何も残らないのかという切なさがある一方で、老人自身はそこで完全に打ちのめされるわけではない。
その姿から感じたのは、
困難に直面しても、心を折らずに立ち向かうこと
起きてしまった出来事を、そのまま受け入れる冷静さ
状況に合わせて対応する柔軟さ
自然や相手への敬意
人間の孤独と、それでも誰かを思う愛情 だった。
特に、「老人と海」というタイトルだけれど、実際には「人間がどう生きるか」を描いた物語なのではないかと感じた。
また、老人とヘミングウェイ自身を重ねてしまい、少しセンチメンタルな気持ちにもなった。海や生命への愛情、老い、孤独、戦い、そして最後に残るもの――そういったものが重なって見えた。
文章は内面を細かく説明するというより、行動や会話を通して人物を見せていく。そのため、読者側が老人の気持ちを想像する余白が大きい。その余白があるからこそ、老人の孤独やカジキへの愛情、サメに奪われていく悲しさが、自分の中にじわじわ入ってくるように感じた。
勝ったか、負けたか」だけでは測れない物語。たとえ結果として多くを失っても、最後まで自分のやるべきことに向き合った姿そのものに意味がある。そんな作品だった。
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作家ヘミングウェイが若き頃、1920年代に過ごしたパリの様子を後年書き記したもの。
戦間期の当時のパリでは多方面の才能が集い、『ユリシーズ』のジョイスやピカソとも交流があったとか。
この本のストーリーはそれほど強い印象を受けず、
フィッツジェラルドとの旅の様子などは心地良く読んだが、
色々と思うところが生じたのは、読後にヘミングウェイの生涯について知ったことだった。
(以下、本著とは直接関係ない内容)
ヘミングウェイはパリ生活中から評価を受け、後年ノーベル平和賞を得た、名実ともなう大作家だ。
しかしながら、その生涯は猟銃自殺という非業の形で終えられている。
ネットで簡単に検索した限りの情報ではあるが、そこには同様に拳銃自殺した父親、さらにはその背後にある当時のアメリカ社会の変化が影響しているようだ。
20世紀前半のアメリカは、宗教や伝統に根ざしたコミュニティ的な価値観から、大規模な商業と工業の国へと変化を遂げていった。
近代化への違和感、と言うのは作家や思想家が常に当たるテーマだが、ヘミングウェイ親子もその変化の只中に生きていた。
そういえば、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』も、無垢な若者のギャッツビーが都市の闇へ巻き込まれる話だ。
本著によると、フィッツジェラルドの方が年長のようだが、気が合うところがあったのだろう。
また少し毛色は違うが、デトロイトの労働者の窮状を目の当たりにし、社会の不正義を議論した神学者のラインホールド・ニーバーも、同時代のアメリカの空気を捉えていたように思う。
アメリカと言うと、今も昔もつい両海岸の都市部の議論を思い浮かべてしまい、楽観的で、近代化に苦しむイメージはなかった。
しかし本著からヘミングウェイの生涯を覗き見る機会を得たところからふと、
アメリカも他国に漏れず、どの国とも互いに似た、それでいて固有の近代の葛藤を経て今にたどり着いているのではないか、と言うことが思われた。
ヘミングウェイは、晩年まで自然を愛し、釣りなどを楽しんだと言う。
今のアメリカの、大都市ではない地方の市民生活がどのようなものか、知ってみたいと興味が湧いた。
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【2026年12冊目】
彼は怪物になったのか、それとも最初から怪物だったのだろうか。医学生になったハンニバルは妹のため、そして自分自身のために、復讐を開始する――ハンニバル・レクターの過去後編。
映画を予め観てあったので、下巻の描写はある程度頭の中に浮かんで上巻よりはまだ読みやすかったです。が、日本の要素を取り入れる確固たる理由あったんかな…なんかこうずっと違和感というか、日本である必要あったかなというのが最後までつきまといました。映画観た時も「なんか微妙やな〜」と思いましたが、原作も微妙だとは思ってませんでした、悲しい。
翻訳者代わったのかな?と思ったんですが、「羊たちの沈黙」から変化がないので、多分原著がこう、あれなんでしょうね、残念すぎる。
「レッドドラゴン」読もうか迷うところです。一応シリーズ四部作だから読んでおきたい気もしますが、うむむ。 -
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新潮の帯には「幻の長編」と書かれているがなんのことはない。出版当時、残念ながら好評を得られなかった作品で、このタイミングまで邦訳がなされていなかっただけである。
第二次大戦直後の敗戦国イタリア(ヴェネチア)を舞台に、戦勝国側でありながらもヴェネチアをこよなく愛する50すぎのアメリカ陸軍大佐キャントウェルと、彼の地の若く美しい伯爵令嬢レナータの恋物語を軸にして、大佐の戦争の傷跡ひいてはこの戦争の悲惨さそのものを語ろうとする。
大佐は心臓を患っており先がもう長くない中、ヴェネチアを訪れる。レナータも大佐の状態を承知しており、今回の逢瀬が最後になるという暗黙の了解のもとで愛を確かめ合う二人。
彼を忘れたくないがため、彼の印象を強く残すために戦時中の話をせがむレナータ。一方自身の部隊をほぼ壊滅に追いやってしまった辛い体験を含むその話を拒む大佐。
結局レナータの強い願いに応える形で、少しずつ戦争での自身の傷跡について語りだす。
人生の大半を兵士として過ごした大佐は、同様に複数回の戦争に参加した筆者ヘミングウェイの姿が色濃く投影されている。
大佐の語る戦争そしてすべてを軍人としての目でみる世界は、あたかも筆者自身が自身の悲惨な体験を整理しているようにも思え、とても重い。
腰を据えて考えたくなる。
考えたくなるのだが、この物語、とにかく合間合間にレナータとの甘いやり取りが差し挟まれる。
お、いよいよ語るか大佐、というタイミングでレナータが「ねえ、愛してるって言って」と流れを寸断する。
え、語ってって言ったの君では・・・・と思いつつ、しばし二人の睦言を眺める。
この愛のパートも切ないっちゃ切ないんだけど、どうにもリズムが悪く、結局どちらにもいまいち入り込めない。
先程も述べた通り、大佐にはヘミングウェイが強く投影されているのと同時に、実はレナータには彼が当時熱烈に恋をしていたうらわかき乙女の姿が投影されている。
そして物語全体に、ヘミングウェイの、あの子とこうだったらいいな、がそこはなとなくというか非常に明確に投影されている。
これが冒頭に書いた出版当時好評を得られなかった大きな理由の一つである。
そういう事情をなにも知らなくても、いい話なのになんとなくテンポ悪いなと感じるし、事情を知っていると、うわ、と若干引く。
さすがヘミングウェイだし、構成も見事なんだ。特に冒頭とラストの接続とか、この戦争がいかに辛いものか、心を強く揺さぶるんだ。
ただでさえ美しい街ヴェネチアの描写も本当に見事なんだ。
そして知らない人はいない「老人と海」はこの小説のすぐ後に書かれているんだよね。そう考えると、この小説があの名作へのステップアップに必要だったというてんで非常に重要な作品であるとも感じる。
まあほら、ヘミングウェイだし、読んで損はないよ。うん。
でもなー。うん。でもなー。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ脚注25 "十九世紀の世界地図では、諸大国の領土を赤(イギリス)、青(フランス)、オレンジ(ポルトガル)、緑(イタリア)、紫(ドイツ)、黄色(ベルギー)の各色で色分けしていた。" p.204
"油のようにねっとりとした波が大儀そうに艦をもち上げては下ろし、細いマストを揺らしている。" p.35
これぞ目の当たりにしたものの描写と思える。想像では、こうはいかない。
" この黒人たちが緩慢な死をとげつつあるのは、ひと目でわかった。彼らは敵でもなければ犯罪者でもなく、もはやこの世の者でもない――病いと飢えにからみとられ、緑がかった薄暗闇のなかにもつれ合って横たわる黒い影にすぎない。" p.42
"顔を照らす松明の明かりが不吉な翳を生んでいた。" p.64
脚注から超訳の気配がうかがえたのだが、これは翻訳の妙であろうか。原文の味だろうか。
序盤から、映画『地獄の黙示録』にすごく似てると感じた。調べてみたら本書を翻案して制作されたとのこと。そもそもそれで気になって読もうリストに積んだのだった。積んだまま忘れていた。ことによると2022年より前から。
良い読み心地ではない。序盤は特に。うだうだぐだぐだ自分語り。天使憑きを思い出させる。天使憑きは若年の頃からのトラウマ。減点。
自分語りでないところには感じ入るものがあり、時にマジックリアリズム的な心地よさも覚える。加点。
コンゴの状況を憂いたとされる作家が南アメリカの金鉱に投資している。どう解釈したらいいのか。それはそれ、というやつか。
訳者は解説において<自然対人間>というテーマがあると記している。この記述は、本書に覚えた違和感を追求するのに役に立った。
本書においてアフリカ人は、二通りに描かれている。船員として働くアフリカ人と、そうでないアフリカ人。そうでないアフリカ人は、人間としてではなく、アフリカの事物として記されているように読めた。船員として働くアフリカ人は、特徴的な風習を特筆している点はあったとしても人として描写しているので、単純に<こちら側対あちら側>という構図にすぎないと感じられる。
少しでも理解が及ぶもの、こちら側にいるのは人間、そうでないものは自然という対照。欧米主観対その他。
そのような印象が本書に冠された「植民地主義の闇を凝視した」という評に違和感を覚えさせる。
著者がレイシストであるという批判は古くからあるようで、実際、イギリスの植民地は絶賛し、他をくさすというようなこともあったようだ。本書の舞台となるコンゴはこのときベルギー王の私有。南アの金鉱に投資できた理由もわかる。レイシストかどうかはわからないが、ダブスタではある。
訳者が巻末解説に記した著者の影響について。
『密偵』はグレアム・グリーンに。
『ナーシサス号の黒人』はヘミングウェイに。
コッポラ『地獄の黙示録』に。
ヴェルトナー・ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』に。
キャロル・リード『第三の男』に。