トルーマン・カポーティのレビュー一覧
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表題作『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘプバーンの映画を思い浮かべる人も多いと思うが、そちらは未視聴で読んだ。作中のホリー・ゴライトリーは溌剌としたヘルシーな印象で、自由な猫のようにプリズムが弾け飛んだようなギラギラした瞳をした女性だったので、上品なイメージのヘプバーンが演じたことが意外だった。実際、著者も映画化の時にオードリー・ヘプバーンがホリーを演じると聞いて、多少不快感を露わにしたとのことだった。
この作品の中にはティファニー以外にも短編が3作収録されている。どれも純真の象徴としての存在が登場し、それが暗いテーマの中で対象物として良い働きをする。以前カポーティの『誕生日の子どもたち』を読んだが、彼はそういう純真さがもたらす悲哀のようなものを描くのが上手いと思う。何より、村上春樹の訳が読みやすくて良かった。 -
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カポーティが紡いだ文章はそれがこの世に顕現したこと自体に畏怖を感じるレベルであり間違いなく唯一無二の作家なのだが、雰囲気先行すぎて内容が今ひとつ頭に残らないことも多い。
その点この「草の竪琴」はプロットが非常にわかりやすく、それでいて文章の魔術的な魅力は他に劣らないため、これが個人的にカポーティの一番好きな作品である。
文章を読んでいてその恐ろしい完成度の高さに打ちのめされた体験は思い出す限りでは夏目漱石の「門」の二人が恋に落ちる場面が真っ先に思い浮かぶが、この草の竪琴いちばんの見せ場である雨の降る森のシーンは、久々にこの打ちのめされる感覚を味わった。あまりに文章が上手すぎる。この美しさをぜひ原著で読めるようになりたいと思えるほど素晴らしい。
過去のエッセイやあとがきを読む限り村上春樹はフィッツジェラルド、カポーティをそれぞれ別の方向性で特別視しており、さらにチャンドラーやドストエフスキーなども重要な作家だと捉えていると、個人的に認識しているが、彼自身の文章を読むとやはりフィッツジェラルドやチャンドラーよりはカポーティの方が親和性を感じる。あとがきに書かれている「カポーティショック」はおそらくクリエイターとして成功できるだけの審美眼を備えたあらゆる創作家が一度は経験しているであろう類の苦悩であり、あの村上春樹がそれを感じるほどの作家であるというだけでカポーティの凄さは十分に伝わる。
「夜の文体」の短編3本は、同い年である安部公房の著作に近いものを感じる。不気味で美しい、繊細なガラス細工のような作品。安部公房はもっと重厚でガラス細工というより彫刻のイメージではあるが。 -
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13歳の主人公ジョエルが、生き別れた父に会いに南部のヌーン・シティーに行き、父の屋敷で、父の後妻のエイミーやそのいとこのランドルフ、女中のズーと暮らす中で、病気で寝たきりの父に本を読んであげたり、不可解な大人たちに振り回されながら日々を送る。
蠱惑的な場面の描写はいかにもカポーティらしい。
仲良くなったアイダベルと釣りに行く場面は、自然の美しさと思春期の二人の世界に引き込まれるように読んだ。
ジョエルが、破滅的な人生を送る大人たちを顧みつつも、少年時代からの一歩を踏み出そうとするラストが良い。
アメリカ南部の暮らしのどこか気だるげな感じ、マッカラーズの小説に通じる所があって、私は好きです。 -
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春樹さん、これは 好きすぎました!
カポーティ+春樹さん+山本容子さん= 私たちの大好物 ノスタルジックでイノセントな世界・・
母を失って、父が病んでしまってたぶん、育児放棄…されたコリンは
11歳の時に父の従姉妹、
ヴェリーナとドリーのタルボ姉妹のところに預けられた。
妹のヴェリーナは言わば南部の田舎町の実業家
姉のドリーはあまりにも純粋無垢がゆえに、町の人たちからは知恵遅れのように思われている。
コリンはドリーにまるで恋してるかのように惹かれている。(彼女は多分60歳くらい)ドリーの唯一分かり合える友だちのキャサリンは、両親の時代に雇われた黒人の子どもで、ずっとドリーたちと暮らしてきた。
ドリーとキャサリンと薬草とツリーハウス。そこに巻き込まれてゆく南部の田舎町の人たちとコリン。
ドリーが素敵すぎて、まったくお伽噺のようでした。。
春樹さんにとって、カポーティという作家はきわめて大きな意味を持つ存在で
この『草の竪琴』は「特別な輝きを放っている。」と、あとがきにあります。
春樹さんの訳で読めて良かった……
ほかに
『最後のドアを閉めろ』
『ミリアム』
『夜の樹』
と、3つの短編も入っています。
帯にあるように、『最後のドアを閉めろ』は『風の歌を聴け』のタイトルにインスパイアされた作品。
MONKEY vol.30に寄稿しています。
その時のあとがきにもあります。
柴田先生が聞き手のインタビュー
「カポーティは
僕にとってもとても大事な作家」でも
『草の竪琴』に触れていて
カポーティをまたすべて読み返したくなります。
読み終えて数日たちますが
いつでもあのツリーハウスに戻れそう……
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ネタバレタイトルはもちろん知っていたけど、映画も小説もあらすじもなにも知らないままここまできた。
お金持ちの品のある人たちがティファニーで朝食を食べる話なのかと思ってたら全然違った。
ホリー・ゴライトリーは、美しいけど破天荒で謎が多く、でも彼女自身の芯をしっかりともっている女性だった。
小悪魔なようでいて純真なところもある。
男の人達が大量に近寄ってきて、常に誰かが近くにいた状態なのに、いざという時になると頼れる友達というのがいないというところは胸がキュッとした。
ラストのあたりの猫のシーンはグッときたし、終わり方は私好みだった。
ホリーがあのあとどうなったのかはわからないままだけど、最後まで読んだあととりあえず冒頭シーンを読み返した。
どんな場所であっても、猫のように安心できる場所でホリーらしく生きていたらいいな。
読み終わったあと、なるほどこのタイトルはそういう意味だったのかと。良いタイトルだなぁとしみじみと思った。
映画のあらすじも読んでみたけど、小説とは全然別物っぽい。逆に映画は実際どんな感じなのかも気になってきたので、機会があれば観てみたい。
他にも3編収録されているけど、どれも別れがある話だった。
どの話も私好みでよかったけど、一番好きだったのは「クリスマスの思い出」。
客観的にみたら、幸せな境遇とは言えないバディーと親友。
それでも犬のクイーニーもいて、そんな境遇の中でも幸せを掴めていた。
子ども時代の清らかで美しい思い出と、生きていく中でそういったものはどんどん周りから消えていってしまう様がとても苦しかった。
生きていく中で別れはつきものとはわかっているけど。
残された者は、旅立っていった者たちがただ安らかに天国で楽しくやっていることを祈るしかないんだよなぁ。
「ダイアモンドのギター」の、友だと思っていた人から裏切られて楽しかった思い出も色あせて、それでもきっぱりと忘れることができない様もよかった。 -
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原文と照らし合わせながら、村上春樹訳の文章を時間をかけてじっくり読んだ。表題作だけ読んだ。
読み終えた後、泣き出したい気持ちになった。ホリーはbelongできる場所(ホリーはそれを「ティファニーのような場所」と語る)を見つけられたのだろうか。それは天の上にしかないのではないか、そんな考えに駆られた。実際この物語の中には「天」や「神」を彷彿とさせる言葉がたくさん出てくる(冒頭でジョーベルが作ったカクテルの名前は「White Angel」だし、サリー・トマトの弁護士と連絡を取っていた場所、そしてドク・ゴライトリーと話したのも「ハンバーグ・ヘブン」というお店だった。他にも天や神を思わせる単語はたくさん出てくる。「僕」はホリーが「アフリカに足を踏み入れていない」と確信している。
ホリーは自由奔放(性的にも開放的)な、この物語の時代の女性のジェンダー規範とは異なる女性像として描かれる。ホリーは「ティファニーのような場所」(資本主義の象徴)を求め、さすらいながら(Traveling)生きている。そこは「いやったらしい赤」(共産主義の象徴)(ホリーはこれを怖がっている)の気持ちを落ち着けてくれる場所である。この「赤」は過去の自分の象徴でもある。物語の最後でホリーは自分が共に生活していた猫を手放した後で、自分と赤毛の猫がお互いに「belonged」な存在であったことを悟る。捨てたはずの過去の自分も自分の一部だったのだ。
ホリーは自分の居場所(belongできるhome)を探しながらさすらう(Traveling)。ホリーは何にも縛られず、自由気ままに生きているように見えるが、そこには不安が常にあること、ホリーが今いる場所(traveling)は「ものごとが消え失せていく場所」であることが語られる。
私にはホリーにとってのティファニーみたいな場所はあるだろうか。今家族と同居している実家は、表面上は温かいけれど、その「表面」を私が少しでも壊してしまうと、途端に安心できない場所になる。東京に行きたい。でも東京にも「ティファニーみたいな場所」は見つからなかった。一生見つからないかもしれないと思う。東京に住んでいた時も、家にいるのに家に帰りたい(それは実家ではない場所)と思っていたから。
「belonged」な関係ってなんだろう。大切な人と私は一つになれる、あるいは一つのようになれるんだろうか。アロマンティックでクワロマンティックな私が、大切な人とそんな関係になれるだろうか。
O.Jがホリーのことを「本物のまやかし(real phony)と表現していた。phonyという言葉は『The Catcher in the Rye』で何度も出てきた言葉であり、主人公のホールデンが嫌っていたものだった(村上春樹訳では「インチキ」と訳されていた)。ホリーの愛情は「自然」なものではなく、「訓練」された(trained)ものであったし、それはホリーのキャラクターにも言える。確かにphonyだった。でもそんなホリーを昔の自分と重ねているところがあった。実際、今の自分だって、「本当の自分」ではないのかもしれない。「本当の自分」って何?
『BUTTER』で、梶井は自分の生活を「『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーのような生活を送っていた、私は旅行中(traveling)だった」と語った。里佳はそれを、映画のホリーのことだと考えるが(小説のホリーはフェミニズム的な部分があって、映画はそれと内容が違う)と考えるが、梶井は原作(小説)の方を読んでいたんじゃないかと思う。実際、梶井の実家の部屋の本棚には様々な本が保管されており、読書が好きだったと語られている。梶井がどこまでフェミニズム的でクィア的な文脈を理解したかは分からないけど。
大学の授業で精読して以来(その授業が私は大好きだった)、ずっと読み返せてなかったから、読めて良かった。 -
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2010年に新潮文庫出読んで以来の再読(村上春樹訳)。最近村上春樹訳の小説がアタリが多く、折角なので読んでみることに。また、昔読むきっかけになったアニメ映画『秒速5センチメートル』(以下、単に『秒速』という。)の実写映画を観たことも、『草の竪琴』を思い出すきっかけになった。
【表題作】
初読の頃は主人公たちを脅かす存在に非難の気持ちを抱きながら読んだものだけど、今回はなんというか、もっとフラットな気持ちで、まさにおとぎ話を読むように味わった。
「あるいは我々の誰にも、居場所なんてものはないのかもしれない。ただし我々は、それがどこかにあることを知っている。それがもし見つかったとしたら、そしてほんのひとときでもいいからそこに暮らせたとしたら、そのことを至福と見なしていいんじゃないかな。」 (p.63)
読み方が変わったのは単純に歳を重ねたからであって、こうした変化は自分に限ったことではないのだろう。成長なのか経年劣化なのか、それは分からない。
いい小説だよな。読んで良かった。
なお、先述のとおり、そもそもこの小説に出会ったのは、『秒速』のヒロインがエンディングの途中に一瞬この小説を読んでいる描写があったからだ。(新海誠の他の映画では、主人公がサリンジャーの『ライ麦』(村上春樹訳)を読んでたりもする)
この小説を『秒速』のヒロインが読んでいた意味…
彼女の大切な恋が、人知れず奏でられる風が草を揺らす音のように、毎日の生活の中で意識せずとも、静かに響いていることを示しているのかな。とか、ちょっと気持ち悪いことを考えた。
また、訳者である村上春樹について。彼は様々なところで自身にカポーティが与えた影響について言及しているところ、私はその辺の感受性がないのか読解力がないのか、カポーティが自分の中で特別な作家という訳ではない。ただ、この小説からは、村上春樹のハードボイルドではない側面の源流をみた気がする。
丁寧な優しさ?小説的な優しさ?とでも呼んだら良いだろうか。優しさという言葉には、例えば親切であるとか相手を良くしてあげるだとか、そういった行為も含まれるのだが、この小説で描かれる優しさは、なんというか位相が異なる感じが伝わってくる。『海辺のカフカ』とか『IQ84』とか、それこそ『風の歌を聴け』とか、あの辺りの小説を読んだ時、もっといえば村上春樹を読んだ時に感じるもののエッセンスが含まれている気がした。
【最後のドアを閉めろ、ミリアム、夜の樹】
表題作とは打って変わって、とんでもなく不気味な小説群。正直にいえば「夜の樹」は自分にはイマイチぴんと来なかったが、前二者は最早ホラーといった感じで空恐ろしい。特に、その恐怖の原因が自分の中にある可能性が留保されており、澱のように自分の中に残ってしまう。
あまりにも表題作と違って驚いたけど、これはこれで面白い。 -
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映画から入り小説→映画と何度もループしてしまう大好きな作品。
ホリー・ゴライトリーの奔放な美しさと、その裏側にある苦悩、自由を求めるあまりその自由に苦しむ、ホリーの言う"いやったらしいアカ"は、現代人、とくに都市で生きる僕らに通ずるものがある。
オードリー・ヘプバーンのキュートさがこの作品を有名にした一助であることは間違いないが、物語としては小説の方が好みである。映画版の結末はややご都合主義というか、映画を見終わった人たちが肩透かしを喰らわないように配慮したのでは、と感じる。小説の結末の方が、ホリーというどうしようもなくは魅力的な人間の内面を表していると思う。 -
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ネタバレ何回読むねん、というくらい何回も読んでる本。
下記文章を読みたいがために何度も何度も読み返す。
「要するに『あなたが善きことをしているときにだけ、あなたに善きことが起こる』ってことなのよ。
いや善きことというより、むしろ正直なことって言うべきかな。規律をしっかり守りましょう、みたいな正直さのことじゃないのよ。
もしそれでとりあえず楽しい気持ちになれると思えば、私は墓だって暴くし、死者の目から二十五セント玉をむしったりもするわよ。
そうじゃなくて、私の言ってるのは、自らの則に従うみたいな正直さなわけ。卑怯者や、猫っかぶりや、精神的なペテン師や、商売女じゃなきゃ、それこそなんだってかまわないの。不正直な心を持つくらいなら、癌を抱え込んだ方がまだましよ。だから信心深いかとか、そういうことじゃないんだ。もっと実際的なもの。
癌はあなたを殺すかもしれないけど、もう一方のやつは間違いなくあなたを殺すのよ。」
自分が自分であるために、自分を生きるために、定期的に読み返すのかもしれない。 -
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ネタバレ有名すぎてずっと敬遠していた本。僕は見栄っ張りな性格なので、手垢のついた名作をいまさら読むのが気恥ずかしい。そもそもティファニーは宝石屋だ。食事をする場所ではない。それならなぜ『ティファニーで朝食を』なのか。しかしその意味を教えてもらってから、どうしようもなく読みたくなってしまった。
ホリーはとびきりチャーミングな女の子だ。みんな彼女に魅せられてしまう。だから自然と男たちが集まってくる。しかし誰も彼女を理解できない。ある男は彼女をこう評した。「あんたは脳みそをぎゅうぎゅうにしぼり、彼女のためを思ってさんざん尽くしてやる。ところがその見返りに受け取るのは、皿に山盛りの馬糞だ」。その男は彼女をハリウッド女優として成功させるお膳立てをしてやった。なのにホリーはオーディションをすっぽかしてしまう。悪気など微塵も見せずに。
普通の人間ならそんなチャンスをふいにしたくはないだろう。でも彼女は自分が女優になれるとは思ってないのだ。彼女が罪悪感を感じるとしたら、その男にそうさせてしまったことに対してである。彼はこうも言う。彼女はまやかし(phony)だ。ただし、本物のまやかし(real phony)だ。つまりホリーは、自分が本物のダイヤよりも偽物のほうが美しいと思えば、迷うことなく偽物を選ぶ人間なのだ。
彼女は世間が自分に求めるものと、自分が本当になりたいものとの溝を埋められない。ホリーは主人公と同じアパートメントの住人だが、そこは彼女の居場所ではない。バート・バカラックの曲に“A House is not a Home”というナンバーがあるが、ホリーにHouseはあってもHomeはない。
そんな彼女にとって唯一の心の拠り所がティファニーなのだ。もちろん高級ジュエリーを買えるほど裕福ではない。ただティファニーは、自分がそこにいてもいいと感じられる場所なのである。彼女の表現を借りれば、「自分といろんなものごとがひとつになれる場所」だ。Homeは朝食を食べる場所である。彼女はティファニーのような場所で朝を迎える暮らしを夢見て、流浪の旅を続けている。
最初に書いた通りカポーティを読むのはこれが初めてだが、とても気の利いた文章を書くと思った。言葉選びが卓越していて、これ以上の言い回しは考えられない。それは村上春樹の翻訳だからそう感じるのではなく、村上春樹がカポーティから強く影響を受けていると見るべきだろう。
気が利いているのは文体だけではない。たとえば主人公がはじめてホリーの部屋に入ったとき、まるでいま引っ越してきたばかりといった有様だった。また別の日に寝室へ通されたときは、キャンプ生活でもしているみたいに、いつでもすぐに出ていけるような状態だった。そういう描写がある。これをホリーが見かけに反してズボラでだらしない性格だと解釈することもできようが、旅の途中のような彼女の人生の二重写しでもあるに違いない。名刺の住所が「旅行中」になっているのは、もっとわかりやすい表現である。要するに、文章がそう書かれているのにはちゃんと理由があって、作者は読者がそれに気づいてくれることを確信して書いている。そういう書き方なのだ。
したがって、作中にくり返し登場する印象的な言葉「いやったらしいアカ」(the mean reds)も、自然と多義的に解釈したくなる。最初にホリーがこの言葉を口にしたとき、主人公は「それはブルー(憂鬱)みたいなものなのかな?」と問いかけるが、ホリーはそれを否定する。結局主人公は「そういうのをアングスト(不安感)と呼ぶ人もいる」と説明した。けれどもホリーは、この言葉を自分が捨ててきた過去や、同時に自分の中にどうしようもなく残り続ける本質に対しても使っている。だから、この「いやったらしいアカ」は彼女が嫌悪する不正直、卑怯者、猫っかぶりといったものをも含んでいると思う。というか、meanは「卑劣な」という意味なので、the mean redsはmeanの方が主意で、赤という色を冠しているのは別な理由があるのだろう。作品が書かれた時代から、そこに共産主義を連想する人もいるようだ(マッカーシー旋風、赤狩り)。たしかにティファニーは共産主義の対極にあるとも言えるが、どうだろう。さすがに深読みのような気もする。だが、カポーティの文章が深読みを誘うことも確かである。
何を隠そう、僕が原文に何と書いてあるか知っているのは、実際に原典にあたって確かめたからにほかならないし、僕にそうさせてしまう何かがこの作品にはあったのだ。そしてこの本にはまだまだ気づいていない楽しみがたくさんあることは疑いなく、『ティファニー』をめぐる僕の旅はきっとこれからも終わることがないだろう。 -
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オードリー・ヘップバーンがホリー役を演じる映画の方は観たことがなかったが、確かに彼女は小説版のホリーのような汚さやふしだらさ、危うさが感じられる人ではない。もしいつか映画をリメイクする際はホリー役をマーゴット・ロビーに演じて欲しいと思うのは私だけでしょうか(マーゴット・ロビー好きの一意見)。
この話は映画版『ティファニーで朝食を』でイメージされるような綺麗なストーリーではない。が、確かに名作であったと思う。イギリス文学とはなんとなく異なり、主人公やホリー、ジョー・ベルなど、様々な登場人物のその時々の感情が読み取りやすいものだったように感じる。
ホリー・ゴライトリーというこんなにも危うく愛らしい女性が身の回りにいたとしたら、誰しも叶わぬ恋をしてしまうだろうと思う。女の私でさえレズに目覚めてしまいそうなので。 -
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表題作と3つの短編 表題作は映画化もされている
秋の景色や自然描写がとにかく抜群に美しい
秋風となびく草が旋律を奏で、
まるで物語を語り、記憶しているかのような
『草の竪琴』というタイトルも素晴らしい
姉妹が幾星霜を経てたどり着いた結末
その過程でとても重要な場所となったのが、
アウトサイダーたちが集うツリーハウス
そこで語り明かした日々や記憶は
主人公の成長を支え、
その物語は読み手にまで優しく届いて、
自分の人生を肯定して歩む
背中を押してくれるようにすら感じられた
最後に村上春樹によるあとがきも載っていて
カポーティへの憧れや、この作品への思いも
語られてて、それも楽しめた
秋に読みたい特別な一冊となった
【装丁について】
舞台となるツリーハウスと、
深く色づく秋の情景が描かれ、
カポーティの美しい自然描写に合うような
紅葉の優しい色彩がとても美しい装丁
佇むビロードの帽子が、
物語の記憶を呼び覚ます
英語タイトルのゴールドの箔押しや、
「村上春樹訳」のさりげない表記も、
この本を優美に彩っている -
Posted by ブクログ
ネタバレ表題作を含む4作を収録していた。以下、感想を書く。
良くも悪くも田舎育ちの人間が都会的な生き方を目指す時、自身の思考にへばりつく『いやったらしいアカ』に気づく。
しかし『アカ』は自分には無くてはならないものである。ホリーの場合は兄のフレッドだろうか。彼が戦死した知らせを聞いた時の取り乱しようは、心の柱を取り去られた強い不安の表れである。
都会の常識を超越し、トマトやラザフォードなどの人の存在を優しく認めるホリーは会う人全てにとって魅力的であった。しかし、主人公は、そして他の誰も、フレッドにはなれなかった。
アメリカを離れた彼女の幻影をもとめる男たちの哀しみがいい味を出していた。