河野裕子のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
相聞歌、というひとつの歌のカテゴリーがある。もともとは互いの安否を気遣う私的なやりとりを指し、それが『万葉集』では男女の恋歌を意味するものになり…と、起源を語れば色々あるのだろうが、なんというか、お互いに、相手を想い、相手に伝える、その双方間のやりとりそのものが「相聞」という言葉には含まれているのだと思う。そして、そういう意味では、この本はまさに「相聞」だ。
京都大学内の歌会で初めて出会ってから、惹かれ合い、人生を共にしてきた2人の歌人、河野裕子と永田和宏。その2人の、出会った当時から、河野が60代という若さで乳癌で亡くなるまでの40年の間の「相聞歌」が、時間の流れや時代の背景と共に、力強いみずみずしさをもって収められている。
現代でもよく、「この歌を◯◯さんに贈ります!」といった光景に出くわすことがあるけれど、昔も今も、「誰かのために歌を贈る」というのは、やはり特別なことだったのだと思う。それが、本当に相手のことを考えてその人が詠んだ歌なら尚更。
そして、三十一文字だからこそ、そこには誰かのための歌だけではなく万人が楽しめる文学性が生じる。抽象も具象も、論理も感情も、全てを盛り込んだ劇的な光景が、言葉を通して目の前に現れる。惚れ惚れする。
短歌に親しみなく生きてきた人でも、これは、ぐっとくるものが多く、良い意味で分かりやすい(背景の説明などもあるので)素敵な作品になっているのではないだろうか。エッセイと、記録と、歌のコラボレーション。お気に入りの歌に付箋を貼りながら、ぐいぐいと引き込まれて読み込んでしまった。そして、下手くそだけど、私も、少しずつ歌を詠みたいな、と、思う、そんな気にさせてくれた一冊。
中でも気に入った作品をいくつか。
河野裕子さんの歌。
・陽にすかし葉脈くらきを見つめをり二人のひとを愛してしまへり
・夕映を常に明るく受くるゆゑ登り詰めたき坂道があり
・息あらく寄り来しときの瞳の中の火矢のごときを見てしまひたり
・妻子なく職なき若き日のごとく未だしなしなと傷みやすく居る
・ほしいまま雨に打たせし髪匂ふ誰のものにもあらざり今も
・白桃の生皮剥きゐて二人きりやがてこんな時間ばかり来る
・あの時の壊れた私を抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて
・病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ
・この家に君との時間はどれくらゐ残つてゐるか梁よ答へよ
・この身はもどこかへ行ける身にあらずあなたに残しゆくこの身のことば
・手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
永田和宏さんの歌
・水のごとく髪そよがせて ある夜の海にもっとも近き屋上
・乳房まで濡れとおり雨に待ちいたる 捨つるべき明日あまつさえ今
・吾と猫に声音自在に使いわけ今宵いくばく猫にやさしき
・奪衣婆のごとく寝間着を剥ぎゆきて妻元気なり日曜の朝
・二人乗りの赤い自転車かの夏の万平ホテルの朝の珈琲
・馬鹿ばなし向うの角まで続けようか君が笑っていたいと言うなら
・一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ
・たつたひとり君だけが抜けし秋の日のコスモスに射すこの世の光
・呑まうかと言へば応ふる人がゐて二人だけとふ時間があつた -
Posted by ブクログ
「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか」
河野裕子さんを知ったきっかけは谷川史子さんの『積極-愛のうた-』(集英社/2006年刊)の表題作で河野裕子さんの短歌が短編のモチーフとして使われていたことだった。
谷川史子さんの漫画にも通ずる、純粋で真っ直ぐなんだけれども、芯が太く、汚れのない感情が31文字の短歌によって歌われていてとても感銘を受けた。
河野さんの第一歌集『森のやうに獣のやうに』は絶版となっており手に入らなかった。
この本が文庫化されていることもつい先日知り、急ぎ購入した。
歌に生き、歌に死んだ歌人であることは間違い無いが、負けん気が強く人間味に溢れる(若輩の自分が言うのも失礼な言葉だが)可愛らしい人であったことが歌の中からありありと伝わってくる。
またそれを一番深く近くで寄り添った伴侶の永田和宏の心情とともに読むことができる。
理想的な夫婦像である。 -
Posted by ブクログ
友人の影響で少々万葉集にはまっている。その流れで永田河野夫妻のこの本も京都人としては一読しておこうと、巣ごもり中に読んでみた。
「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」
まるで与謝野晶子のようなズバリとした表現に男性ならお手上げだろう。
「とげとげともの言う妻よ疲れやすくわれは向日葵の畑に来たり」
とこれはまた、立派な先生ご夫妻でも夫婦の日常は一般人と似たようなところもあると安堵する。奥様の早すぎる死を前に収録されたご夫妻の歌集である。同じ日常でも歌を通して見るとこのような豊かな人生絵巻に仕上がるのだと言霊の力
を改めて感じた。京都大好きなご夫妻のまさに人生うた紀行である。 -
Posted by ブクログ
夫婦ともに歌人であるふたりの相聞歌。20代の出会いの頃から、河野さんが乳癌に罹り64歳で亡くなるまでの、互いに向けられた歌を中心に、その他彼女のエッセイなどが時系列で編集されていて、その時々の思いが伝わってくる。
以前、NHKのなにかの番組で、永田さんのドキュメンタリーが放映していて、そのとき河野さんが亡くなるときの歌を紹介していた。それを涙ながらに永田さんが詠んでいた。その歌は本書にも掲載されている。
さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ 河野裕子(P257)
その番組の内容はもう覚えていないのだけれど、歌で過去を振り返る様子をみながら、短歌というのは、その時そのときの気持ちを、そのままに残してくれる素晴らしいものだと思った。そこから私は短歌に興味をもちはじめ、歌集など手を出すようになった。本書のなかでも、それを感じさせた、印象に残った歌を抜き出してみた。
貧しさのいま霽(は)ればれと炎天の積乱雲下をゆく乳母車 永田和宏(P63)
昔から手のつけようのないわがままは君がいちばん寂しかったとき 永田和宏(P178)
平然と振る舞うほかはあらざるをその平然をひとは悲しむ 永田和宏(P195)
河野さんの歌も多く載っているのだけど(表題である「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」など)、いまのわたしにはエッセイのほうが印象に残った。たとえば、
うちの夫婦は私が何でも喋るんです。永田が帰ってくるとトイレまで付いていって外から喋る。あったことも思ったことも全部。これだけ話してきて、いつもいつもくっつ いてきた夫婦で淋しさなんて一番わかっているはずなのに、「お前はこんなにさびしかったのか」って言われて、短歌というのは生ま身の関係で喋っているレベルとまた違うレベルで、お互いの人に言わない言えない感じというのを読みあってゆく詩型だなあと改めて思いました。/家族の仲がいい、といいますが、それはそのレベルでの話であって、表現をした時の心の底の深みが、ほんのちょっとした助詞や助動詞の違いなんですけど、歌をやっている者同士はわかるんです。(P158)
仲の良い夫婦だけでない、歌人同士であることの、関係のとくべつなあり方が示されている。また、
作歌は、お天気のよい日、雑音の聞える所では出来ない。雨の日、曇った日がよく、一日の時間帯でいえば、逢魔が時といわれる夕ぐれのうす暗い時が一番いい。/逢魔が時は、情緒不安定を起しやすい時間帯であるので、気分が妙な風に昂って、ことばがうまくスパークしてくれる。しかし、夕ぐれ時というのは、家事のかき入れ時でもあり、庭を掃いて走りまわったり、風呂そうじをしたりしていることが多く、身体をハキハキと動かすと、なぜか歌は飛んでいってしまう。(P141)
などは、夕暮れの逢魔が時が、詩作のインスピレーションを生む創作の時間と同時に、家事というまいにちの生活の時間でもあるという面白さを感じた。彼女は、「歌は、台所のテーブルで作る。これは結婚して以来ずっと変わらない」(同)というところからも、詩作と生活がともにあった(それは当たり前なのかもしれないけれど)ことを思わせてくれる。どれも文章が上手い。
その彼女の一番大事にしていたのが、夫である永田さんだった。
私がしなくてはならないことは永田和宏という人を一日でも長生きさせること。私の仕事は全部放って置いても、永田が帰って来たとき、お皿をあたためて少しでもおいしくと思って待っているんです。歌は二の次。子供はメシだけ食わせて、あとは放っておいたらいい……(中略)……結局、子供よりも永田和宏を大事にしてやってきたというのが本当ですね。(P188)
この率直な愛の在りかたに、すこし共感するものがあった。蛇足にはなるけれども、今回本書を手に取ったのは、新潮社の広報誌「波」で、永田さんが河野さんとの恋仲だった頃のエピソードを連載(「あなたと出会って、それから……」)しているのを読んだのがきっかけだった。そのなかでは、河野さんが、永田さんと同時に、青年Nへの恋慕があったことを、日記や歌などを引用しながら綴っている(連載第8回)。
陽にすかし葉脈くらきを見つめをり二人のひとを愛してしまへり
永田さん あなたも Nさんも 同じ位 同じだけ好きな 阿呆な私を、 どうぞ つき放さないでおいて。(日記からの引用)
本書で纏められた美しい関係も、或るたまたまのなかで決まったものと思うと、不思議な感慨を覚える。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ出会い、恋人になり、夫婦になり、別れる。
二人の歌人の、その全てが詰まった本。
そもそも、数があまりないのかもしれませんが、幸せな歌、楽しい歌があまり印象に残っていない。
それぞれのフェーズでの、悩み苦しんでいる歌が印象的だった。
この本の内容と直接関係はないのですが、思ったことが2点。
・病気で亡くなるというのは、失うと分かってから実際に失うまでの期間が長く、
無力感、理不尽さや、失った後の時間など辛そう。
だからこそ、色々印象的な歌が読まれるのかもしれない。
・心に響く歌というのは、自分の体験と似ていたり、リアルに想像できることが書かれているもの。そういった感情は、言葉にするのは難しいし、無理やり言葉にしても作り物感が出てしまう。歌だとすっと心に響くものになりえる。
歌の本は、サラダ記念日ぐらいしか読んだことのない私ですが、とても楽しみました。 -
Posted by ブクログ
夫婦が出会ってから、妻の死までの日々を、二人の文章と、折々の短歌で綴ったアンソロジー。
遺された夫、永田和宏さんの、河野裕子さんへの愛情が今も尽きないことがよくわかる。
病に倒れてからのことが書かれた章は、重い病を得た人の惑乱も、それを近くで見つめる家族のつらさも、どちらも胸が詰まる思いで読んだ。
とりわけ、同じように家族を乳がんで亡くしたことのある身には、残された側の、あの時なぜこうしなかったのか、という後悔は身につまされる。
いつか、今度は病を得て、病の苦しみと、それを受け入れなければならない不条理にのたうち回る立場になる日が来るのだろうけれど...自分や家族はどうなっていくだろう。
「たとへば君」の歌くらいしか知らなかった私には、河野さんの人柄や生い立ちのある程度が知れて、新鮮な思いもした。 -
Posted by ブクログ
うたを詠み続けてきた人だから当然なのかもしれないが、この人もまた、すぐれた見者(Voyan)なのだなぁと思った。散文では、力の抜けた素直な筆はこびが好ましい。
同じ木の同じ枝にとまりつづけるふくろうを何度も見に行く話や、昭和三十年代頃の子どものころの生活の思い出などが面白い。いちばん好きなのは、はさみを使うようになった下の子が、部屋いっぱいの切りくずにうもれて、時間も周りも忘れ、長いこと一心に紙を切っている様子を観察するところから始まる「ひとり遊び」。子どもならみんな知っている、対象に身体ごと没頭するよろこびを、大人になっても、時に思い出したい。