あらすじ
乳癌で逝った妻、そのすべてを見届けた夫――2010年8月、乳癌のため64歳で亡くなった歌人の河野裕子さん。没後、歌集が異例の増刷を重ね、新聞でもたびたび特集が組まれるなどの反響が続いている。河野さんは夫の永田和宏さんと、出会いの頃から何百首もの相聞歌を作ってきた。大学での出会いから、結婚、子育て、発病、再発、そして死まで、先立つ妻と交わした愛の歌。「一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため」(河野裕子)遺された夫、和宏さんの巻末エッセイに涙が止まらない。
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本当に涙が止まらず、読んでいてしんどくなるほどだった。
河野さんと永田さんの出会いから別れまでが短い小説の中に凝縮されていた。
河野さんの発病から亡くなるまでの描写が丁寧すぎて、当事者になったかのような気持ちになり、とても辛かった。本を読んでいて、早く終わってほしいと思ったのは初めてだった。今も思い出すと涙が出てくる。
最期まで詩人であった河野さんとそれを見守るご家族の温かさが非常に心に染みた。
最後、永田さん目線の河野さんの話もあり、多面的に事柄をみることができたことで、物語の厚みを感じられた。
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ここ数年で最も心に残った本でした。
もし本書が短歌集であったならば、恥ずかしながら表題の代表作しか知らないような私は本書に出会えなかったと思います。
このような形式で二人の道のりと素晴らしい短歌の数々を残してくださったことにありがたい気持ちでいっぱいです。
短歌はもちろんのこと、他にも胸に響く一節がたくさんありした。
以下にその一部を引用します。
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・蒸留水と井戸水が一緒に暮らして来たのね。私たち。
・それまで自意識が裸になって歩いていたけれど、永田和宏という存在が私に薄膜を張ってくれて、生きやすくなりました。
・人のこころも体の痛みも、自分自身の、それさえ分かっていないというのが人間という存在なのだと思い知るようになった。
・死者は、生者の記憶のなかにしか生きられない。だからもっとも河野裕子を知っているものとして、長く生きていたいと思う。それが彼女を生かしておく唯一の方法なのだと思う。
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他人と夫婦になり家族を営むことの素晴らしさと試練、それでも最後まで一人で抱くしかない孤独を思いました。
本書に出会えてとても嬉しいです。短歌集もぜひ読んでみたいと思いました。
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じっくりと時間をかけて読ませて頂いた。永田さんと河野さんが出会ったころから、河野さんが亡くなるまでの時間を短歌とエッセイで追体験をさせて頂いた。その間に刺激を受けて僕もいくつか歌を詠んだ。だから読み終えるまで時間がかかったのだ。最後は涙が止まらなかった。
「手をのべてあなたとあなたに触れたときに息が足りないこの世の息が」
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言葉の力はすごいなと思う。
「あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」
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「たとえば君」という書名は、河野裕子の歌からとられている。歌の全体は下記の通りだ。
たとえば君 ガサッと落ち葉すくふように私をさらって行つてはくれないか
河野裕子と永田和宏は夫婦であり、2人ともが歌人である。2人は、学生時代に知り合い、付き合い始めたのであうが、河野にはその時に既に恋人がおり、その恋人と、新たに付き合うようになった永田の間で気持ちが揺らいでいた。そういった背景が、上記の歌にはある。
2人の出会いは1967年である。結婚は、1972年。以降、河野が乳がんの再発で亡くなる2010年まで添い遂げる。出会いから43年目のことである。
河野に乳がんが見つかり手術をしたのが2000年のことである。以降、8年間何もなく、河野も永田も緩解かと安心し始めた2008年に再発し、2010年に亡くなる。
再発が分かった後の歌が悲しい。
【河野の歌】
まぎれなく転移箇所は三つありいよいよ来ましたかと主治医に言へり
大泣きをしてゐるところへ帰りきてあなたは黙って背を撫でくるる
【永田の歌】
あなたにもわれにも時間は等分に残ってゐると疑はざりき
あつという間に過ぎた時間と人は言ふそれより短いこれからの時間
私自身も妻を乳がんで亡くしている。手術後の安定期を過ぎた後の再発という経緯もこのご夫婦と同じである。
そういう経験から、主に夫である永田の歌に感情移入しながら本書を読んでいたが、私の妻が河野のような気持ちで再発をこわがり、再発後の恐怖と闘っていたのかと思うと、あらためてたまらない気持ちになった。
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齋藤孝先生の「読書の全技術」でおすすめされていたので読みました。
短歌とは、五七五七七の、百人一首の...といった程度の学校で習っただけの知識しかありませんでした。
まず、字数は五七五七七に縛られなくてよいこと、花や景色を歌ったものばかりではないことが新鮮でした。現代の日常生活のことが、時に生々しく歌われています。旦那さんの名前をまるごと詠んだ歌もあったり。
夫婦となり、子供がいて仕事があり、そんな中でもお互いへの思いや不満や悩みを歌を通して開示しあう。もしも夫婦で小説家であったなら、ここまで直ではない。短歌だから、率直な気持ちを表現できるのだろう。
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
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著名な歌人夫妻であった河野裕子・永田和宏両氏の相聞歌とエッセイをまとめたアンソロジー。お二人の作品ともに幾つか読んできたので、既知のものも多かったけれど、それでもこうして1冊にまとめられることで、出会いから別れまでの軌跡が、これまで以上に胸に迫った。編集の妙といえるだろうか。
乗り継ぎの電車待つ間の時間ほどのこの世の時間にゆき会ひし君(河野裕子)
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愛情のこもった言葉のやりとり。言葉で表現できるところよりさらに奥深い部分まで分かり合えた人間関係を見せていただいたような気がする。ある意味赤裸々であるがゆえに「偉大」で「尊敬」でき、「憧れ」る関係が築かれたのだろうと思う。
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短歌というものは知らないけど、京大京女の組合せとは素晴らしい。私小説というものが下火になってる中、全部家族にもそれ以外にも筒抜けというのはすごい… 夫婦愛とか死とかそういった、よく言われるテーマよりそこが印象的。
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本を読んで、歌を読んで、こんなに涙を流したのは初めてだと思う。同じ病で亡くなった妻を想いながら読みました。
永田和宏
ポケットに手を引き入れて歩みいつ嫌なのだ君が先に死ぬなど
昔から手のつけようのないわがままは君がいちばん寂しかったとき
薯蕷(とろろ)蕎麦啜りつつ言うことならねどもあなたと遭っておもしろかった
助手席にいるのはいつも気味だった黄金丘陵(コート・ドール)の陽炎を行く
最後まで決してきみをはなれない早くおねむり 薬の効くうちに
心配でしようがないと心配の素がわからぬ電話がかかる
一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ
あなたにもわれにも時間は等分に残つてゐると疑はざりき
この桜あの日の桜どれもどれもきみと見しなり京都の桜
悔しいときみが言ふとき悔しさはまたわれのもの霜月の雨
歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る
亡き妻などとどうして言へようてのひらが覚えてゐるよきみのてのひら
女々しいか それでもいいが石の下にきみを閉ぢこめるなんてできない
河野裕子
こはいのはあなたが死ぬこと 死んでゆくわたしの傍に居るも気の毒
一寸ごとに夕闇濃くなる九月末、寂しさは今始まつたことぢやない
私には保護者のやうな夫と子が赤い椿の真昼は居らず
このひとを伴侶に選びて三十年粟粒ほどの文句もあらず
兄のやうな父親のやうな夫がゐて時どき頭を撫でてくれるよ
栓抜きがうまく使へずあなたあなたと一人しか居ない家族を呼べり
ごはんを炊く 誰かのために死ぬ日までごはんを炊けるわたしでゐたい
この家に君との時間はどれくらゐ残つてゐるか梁よ答へよ
死に際に居てくるるとは限らざり庭に出て落ち葉焚きゐる君は
長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ
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がんで亡くなった歌人、河野裕子と、夫で同じく歌人の永田和宏がお互いのことを詠んだ相聞歌が収められている。
タイトルは河野さんの代表歌のひとつから。短歌には全く詳しくない私にも聞き覚えがあったので、教科書にでも載っていたのかも。
河野さんの歌は潔いものが多い。むしろ夫の永田さんの方が女々しい(←失礼)歌を詠んでいる気がする。
本には河野さんのエッセイも収められていて、二人の人生を追うように、出会いから結婚、出産、発病、そして河野さんの死に至るまでが記されている。言葉の数としては、エッセイ部分の方がずっと多い。でも、伝わってくるものは、歌の方がずっと多い。
夫婦ともに歌人であるということは、お互いに対する愛情だけではなく、どろどろした感情もそのままさらけ出される。闘病中の河野さんの歌には、夫に対する不満や憎しみとさえ言える思いも詠まれている。逆に、永田さんの歌にも、精神的に不安定になっている河野さんをもてあましているような様子が窺える。
それでも、歌を見ると二人がどうしようもなく夫婦であり、順風満帆でなくとも互いを大切に思っていたことが伝わってくる。特に、河野さんの死が近づいていた頃の歌はすごい。これ以上のラブレターがあるだろうかと思わせる。
初期の頃の若々しい恋歌も好きだけれど、40年の時を共に過ごし、遠からぬ別れを覚悟した二人の歌は、成熟されているのに驚くほど純粋で、胸を打たれる。
亡くなる前日、夫の手による口述筆記で遺されたという河野さんの最後の歌が、とても衝撃的だった。意識が朦朧とする中でも最後まで歌を詠もうとするその姿に、歌人としての生き様を感じた。
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歌人である河野裕子氏と永田和宏の出会いから、結婚・子育て・闘病、そして別れまでを、お互いの短歌とそれぞれが発表してきた文章を交えて、綴っていく。
河野氏は主婦として母親としての役割を果たしながら、歌人としても大いに成功を収めてきた。永田氏は京大の教授としても活躍されている。
2人とも歌人としてばかり時間を使えないのは同じであるのに、その歌はずいぶん様相が異なる。永田氏は仕事や歌の世界の区切りがはっきりしてるのに、河野氏はその境界が混じりあっていて、互いに有機的につながっているように感じる。これは、性別によるものなのか、彼女の個性なのか、とても興味深い。
さらに、河野氏の文章(新聞や本などに当時掲載されたもの)は、軽妙でありながらしみじみとかみしめたくなる味わいがある。
ものを書く人として生まれてきて、それを全うした人なのだなあと今改めて思う。
お二人はなんでもよく話し、時に喧嘩をすることがあっても、互いを思いあうおしどり夫婦であったことは間違いない。その上、共通言語である短歌を通して、また別の見方で(短歌を詠まない私には感じることはできないが)、お互いを深く理解し、また、これ以上分かち合うことはできないこともあるのだということを知っていた。魂のレベルで共感するとでもいえばいいのだろうか?
短歌という制約された文字数の中で、より輝きを放つ部分だけを切り取られた情景。余分なものをそぎ落としてこそ、強い思いや哀しみ、辛さを浮かび上がらせることができる。
短歌に詳しくない私が読んでも、後半、特に病を得てからの河野氏の歌には、多くの人にストレートに届く強さが際立つ。喜びも哀しみも、うれしさも不安も、いろいろなことが混ざり合って本質が見えにくくなっていることがある。けれど、因数分解をするように、それを形成しているいくつものことがらを解きほぐし、その性質や成り立ちのもっとも肝心なところを取り出して見せてくれる。
ああ、もっともっと裕子さんが何を見て、何を感じるのか、知りたかった。
新たな歌をこれ以上読むことができないのは、残念でなりません。
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相聞歌、というひとつの歌のカテゴリーがある。もともとは互いの安否を気遣う私的なやりとりを指し、それが『万葉集』では男女の恋歌を意味するものになり…と、起源を語れば色々あるのだろうが、なんというか、お互いに、相手を想い、相手に伝える、その双方間のやりとりそのものが「相聞」という言葉には含まれているのだと思う。そして、そういう意味では、この本はまさに「相聞」だ。
京都大学内の歌会で初めて出会ってから、惹かれ合い、人生を共にしてきた2人の歌人、河野裕子と永田和宏。その2人の、出会った当時から、河野が60代という若さで乳癌で亡くなるまでの40年の間の「相聞歌」が、時間の流れや時代の背景と共に、力強いみずみずしさをもって収められている。
現代でもよく、「この歌を◯◯さんに贈ります!」といった光景に出くわすことがあるけれど、昔も今も、「誰かのために歌を贈る」というのは、やはり特別なことだったのだと思う。それが、本当に相手のことを考えてその人が詠んだ歌なら尚更。
そして、三十一文字だからこそ、そこには誰かのための歌だけではなく万人が楽しめる文学性が生じる。抽象も具象も、論理も感情も、全てを盛り込んだ劇的な光景が、言葉を通して目の前に現れる。惚れ惚れする。
短歌に親しみなく生きてきた人でも、これは、ぐっとくるものが多く、良い意味で分かりやすい(背景の説明などもあるので)素敵な作品になっているのではないだろうか。エッセイと、記録と、歌のコラボレーション。お気に入りの歌に付箋を貼りながら、ぐいぐいと引き込まれて読み込んでしまった。そして、下手くそだけど、私も、少しずつ歌を詠みたいな、と、思う、そんな気にさせてくれた一冊。
中でも気に入った作品をいくつか。
河野裕子さんの歌。
・陽にすかし葉脈くらきを見つめをり二人のひとを愛してしまへり
・夕映を常に明るく受くるゆゑ登り詰めたき坂道があり
・息あらく寄り来しときの瞳の中の火矢のごときを見てしまひたり
・妻子なく職なき若き日のごとく未だしなしなと傷みやすく居る
・ほしいまま雨に打たせし髪匂ふ誰のものにもあらざり今も
・白桃の生皮剥きゐて二人きりやがてこんな時間ばかり来る
・あの時の壊れた私を抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて
・病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ
・この家に君との時間はどれくらゐ残つてゐるか梁よ答へよ
・この身はもどこかへ行ける身にあらずあなたに残しゆくこの身のことば
・手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
永田和宏さんの歌
・水のごとく髪そよがせて ある夜の海にもっとも近き屋上
・乳房まで濡れとおり雨に待ちいたる 捨つるべき明日あまつさえ今
・吾と猫に声音自在に使いわけ今宵いくばく猫にやさしき
・奪衣婆のごとく寝間着を剥ぎゆきて妻元気なり日曜の朝
・二人乗りの赤い自転車かの夏の万平ホテルの朝の珈琲
・馬鹿ばなし向うの角まで続けようか君が笑っていたいと言うなら
・一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ
・たつたひとり君だけが抜けし秋の日のコスモスに射すこの世の光
・呑まうかと言へば応ふる人がゐて二人だけとふ時間があつた
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相聞歌の極致を垣間みた。
病気で自分、あるいは伴侶を失うこと、常に新鮮な目で伴侶と添い遂げることを短歌というフィルターで本当に鮮明に描いていると思う。
エッセイを交えつつ配置された歌たち、両者の目線が混じる瞬間の感情のすれ違いや隙間を的確に描いた鬼気迫るノンフィクションであるとも感じました。
可能なら、帯のある状態で買ってほしい。
引用は、あえて自分の好みではなく象徴的な一首を。
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「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか」
河野裕子さんを知ったきっかけは谷川史子さんの『積極-愛のうた-』(集英社/2006年刊)の表題作で河野裕子さんの短歌が短編のモチーフとして使われていたことだった。
谷川史子さんの漫画にも通ずる、純粋で真っ直ぐなんだけれども、芯が太く、汚れのない感情が31文字の短歌によって歌われていてとても感銘を受けた。
河野さんの第一歌集『森のやうに獣のやうに』は絶版となっており手に入らなかった。
この本が文庫化されていることもつい先日知り、急ぎ購入した。
歌に生き、歌に死んだ歌人であることは間違い無いが、負けん気が強く人間味に溢れる(若輩の自分が言うのも失礼な言葉だが)可愛らしい人であったことが歌の中からありありと伝わってくる。
またそれを一番深く近くで寄り添った伴侶の永田和宏の心情とともに読むことができる。
理想的な夫婦像である。
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夫婦ともに歌人であるふたりの相聞歌。20代の出会いの頃から、河野さんが乳癌に罹り64歳で亡くなるまでの、互いに向けられた歌を中心に、その他彼女のエッセイなどが時系列で編集されていて、その時々の思いが伝わってくる。
以前、NHKのなにかの番組で、永田さんのドキュメンタリーが放映していて、そのとき河野さんが亡くなるときの歌を紹介していた。それを涙ながらに永田さんが詠んでいた。その歌は本書にも掲載されている。
さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ 河野裕子(P257)
その番組の内容はもう覚えていないのだけれど、歌で過去を振り返る様子をみながら、短歌というのは、その時そのときの気持ちを、そのままに残してくれる素晴らしいものだと思った。そこから私は短歌に興味をもちはじめ、歌集など手を出すようになった。本書のなかでも、それを感じさせた、印象に残った歌を抜き出してみた。
貧しさのいま霽(は)ればれと炎天の積乱雲下をゆく乳母車 永田和宏(P63)
昔から手のつけようのないわがままは君がいちばん寂しかったとき 永田和宏(P178)
平然と振る舞うほかはあらざるをその平然をひとは悲しむ 永田和宏(P195)
河野さんの歌も多く載っているのだけど(表題である「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」など)、いまのわたしにはエッセイのほうが印象に残った。たとえば、
うちの夫婦は私が何でも喋るんです。永田が帰ってくるとトイレまで付いていって外から喋る。あったことも思ったことも全部。これだけ話してきて、いつもいつもくっつ いてきた夫婦で淋しさなんて一番わかっているはずなのに、「お前はこんなにさびしかったのか」って言われて、短歌というのは生ま身の関係で喋っているレベルとまた違うレベルで、お互いの人に言わない言えない感じというのを読みあってゆく詩型だなあと改めて思いました。/家族の仲がいい、といいますが、それはそのレベルでの話であって、表現をした時の心の底の深みが、ほんのちょっとした助詞や助動詞の違いなんですけど、歌をやっている者同士はわかるんです。(P158)
仲の良い夫婦だけでない、歌人同士であることの、関係のとくべつなあり方が示されている。また、
作歌は、お天気のよい日、雑音の聞える所では出来ない。雨の日、曇った日がよく、一日の時間帯でいえば、逢魔が時といわれる夕ぐれのうす暗い時が一番いい。/逢魔が時は、情緒不安定を起しやすい時間帯であるので、気分が妙な風に昂って、ことばがうまくスパークしてくれる。しかし、夕ぐれ時というのは、家事のかき入れ時でもあり、庭を掃いて走りまわったり、風呂そうじをしたりしていることが多く、身体をハキハキと動かすと、なぜか歌は飛んでいってしまう。(P141)
などは、夕暮れの逢魔が時が、詩作のインスピレーションを生む創作の時間と同時に、家事というまいにちの生活の時間でもあるという面白さを感じた。彼女は、「歌は、台所のテーブルで作る。これは結婚して以来ずっと変わらない」(同)というところからも、詩作と生活がともにあった(それは当たり前なのかもしれないけれど)ことを思わせてくれる。どれも文章が上手い。
その彼女の一番大事にしていたのが、夫である永田さんだった。
私がしなくてはならないことは永田和宏という人を一日でも長生きさせること。私の仕事は全部放って置いても、永田が帰って来たとき、お皿をあたためて少しでもおいしくと思って待っているんです。歌は二の次。子供はメシだけ食わせて、あとは放っておいたらいい……(中略)……結局、子供よりも永田和宏を大事にしてやってきたというのが本当ですね。(P188)
この率直な愛の在りかたに、すこし共感するものがあった。蛇足にはなるけれども、今回本書を手に取ったのは、新潮社の広報誌「波」で、永田さんが河野さんとの恋仲だった頃のエピソードを連載(「あなたと出会って、それから……」)しているのを読んだのがきっかけだった。そのなかでは、河野さんが、永田さんと同時に、青年Nへの恋慕があったことを、日記や歌などを引用しながら綴っている(連載第8回)。
陽にすかし葉脈くらきを見つめをり二人のひとを愛してしまへり
永田さん あなたも Nさんも 同じ位 同じだけ好きな 阿呆な私を、 どうぞ つき放さないでおいて。(日記からの引用)
本書で纏められた美しい関係も、或るたまたまのなかで決まったものと思うと、不思議な感慨を覚える。
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初めて歌集を読みました。歌はド素人ですがタイトルの歌が好きでなんとなく。
河野裕子さん夫妻の、出会いのときめきから、子育てのあれこれ、病気発症後の衝突と、
河野さんの生涯がぎゅっとつまった本でした。
晩年は特に、かっこつけてない夫婦の現実が伝わってきて泣けました。
「たったこれだけの家族」という言葉が自分にもしっくりきて、
私の「たったこれだけの家族」と過ごす時間を大切にしたいと思える本でした。
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出会い、恋人になり、夫婦になり、別れる。
二人の歌人の、その全てが詰まった本。
そもそも、数があまりないのかもしれませんが、幸せな歌、楽しい歌があまり印象に残っていない。
それぞれのフェーズでの、悩み苦しんでいる歌が印象的だった。
この本の内容と直接関係はないのですが、思ったことが2点。
・病気で亡くなるというのは、失うと分かってから実際に失うまでの期間が長く、
無力感、理不尽さや、失った後の時間など辛そう。
だからこそ、色々印象的な歌が読まれるのかもしれない。
・心に響く歌というのは、自分の体験と似ていたり、リアルに想像できることが書かれているもの。そういった感情は、言葉にするのは難しいし、無理やり言葉にしても作り物感が出てしまう。歌だとすっと心に響くものになりえる。
歌の本は、サラダ記念日ぐらいしか読んだことのない私ですが、とても楽しみました。
Posted by ブクログ
我が儘を言えば妻よりは先に死にたい。遺された者の悲しみと遺していかざるを得ない者の辛さ。足らない想像力ではやはり前者には耐えられない気がする。
様々な夫婦がいる中で、歌で通じあう夫婦というのも珍しい。歌中の一文字で相手の心模様が分かってしまうのは羨ましいようで恐いなと感じた。
妻を始めとして家族を大事に、自分に正直に生きないといけないなと思わせてくれた一冊です。
#読書 #読書倶楽部 #読書記録
#たとへば君
#河野裕子
#永田和宏
#2016年76冊目
Posted by ブクログ
夫婦が出会ってから、妻の死までの日々を、二人の文章と、折々の短歌で綴ったアンソロジー。
遺された夫、永田和宏さんの、河野裕子さんへの愛情が今も尽きないことがよくわかる。
病に倒れてからのことが書かれた章は、重い病を得た人の惑乱も、それを近くで見つめる家族のつらさも、どちらも胸が詰まる思いで読んだ。
とりわけ、同じように家族を乳がんで亡くしたことのある身には、残された側の、あの時なぜこうしなかったのか、という後悔は身につまされる。
いつか、今度は病を得て、病の苦しみと、それを受け入れなければならない不条理にのたうち回る立場になる日が来るのだろうけれど...自分や家族はどうなっていくだろう。
「たとへば君」の歌くらいしか知らなかった私には、河野さんの人柄や生い立ちのある程度が知れて、新鮮な思いもした。
Posted by ブクログ
20歳から64歳で亡くなるまで、ずっと愛し愛されてきた2人の生活と愛情が短歌と共に添えられたエッセイで伝わってくる。全く違う生活をしてきたのにピタッと合う2人。羨ましい。
亡き妻などとどうして言へようてのひらが覚えてゐるよきみのてのひら
泣けるわ…
そして結構短歌って生々しい表現もあるのがビックリだった。
「口づけ」「唇欲し」「人を抱く」「嗅ぎし体臭」「抱き寄せて」「いだきあうわれら」「ブラウスの中まで…わが乳房あり」とかかなりエロティック。