出町譲のレビュー一覧
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吉田忠浩「YKKの流儀」PHP
YKKの創業2代目の会長(執筆時)による語り下ろし
創業者である吉田忠雄によるファスナー事業の創業、さらに晩年にアルミ建材事業に進出したいきさつ、さらに富山県黒部市に国内事業を集中立地した理由が記載されている。世界中でファスナーや建材の事業を展開するグローバル企業だからといって東京に本社を置く必要はないと。実際は東京と黒部の2本社制で、黒部に管理部門の一部ももっていけているのも北陸新幹線のおかげともいえるが、それにしても黒部市の街づくりへの参画も含め黒部愛はなかなかすごいものがある。ファッション業界との付き合いの難しさ、「善の巡環」という近江商人的な思想、非上場 -
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「一瞬一瞬に全てを賭ける、という生き方の迫力。それが八十年積り積ると、極上の特別天然記念物でも見る思いがする」
城山三郎(小説家。『官僚たちの夏』『落日燃ゆ』など著書多数)は土光敏夫をこう評した。
本書は土光敏夫の生き様を綴っており、この内容は多読の価値がある。
質素に暮らし、仁徳を重んじ、勤勉で剛健。
後年荒法師などと揶揄されるが、まさに風貌は法師そのものだった。
優秀なリーダー、というより、重鎮が轟々燃えたぎり動き回る。このような印象を受けた。
経歴は、
石川島造船所にはじまり、戦後の不況に喘ぐ東芝の社長を経て、経団連会長、臨調会会長、その他多くの役職を歴任。
91歳で亡くなるまで、ま -
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ネタバレつまり、この時代に最も求められる人ということか。
この時代に限ったことではないが。
「無私の人」「メザシの土光さん」と呼ばれた傑物。
その面構えはなんとも言えず、格好いい。
決して孫さんや柳井さんが(ホリエモンや三木谷氏は置いといて)ダメなんということはないのだが、やはり比べてしまうと何枚か落ちる感じ。
数多ある土光敏夫関連の書物から、その語録を100に厳選して抜き出し、時代背景などを交えてまとめた良書。
未曾有の不況と東日本大震災及び原発禍の今、原発を引っ張ってきた立役者として、泉下でさぞかしお怒りのことと思われる。
信頼出来る人に指示を出し、常に「全責任は俺がとる」と言ってき -
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出町譲・著。
初版・2011年8月、253ページ。
土光敏夫の100の言葉から、氏の生き方・信念をまとめてある本。
土光敏夫の略歴は、
1896年生まれ
1920年、東京高等工業高校(現・東工大)卒業
同年、石川島造船所(現・IHI)入社。
1950年、石川島重工業社長。
1960年、石川島播磨重工業社長。
1965年、東京芝浦電気(現・東芝)社長。
1974年、経団連会長。
1981年、臨時行政調査会(臨調)会長。
1988年、逝去。享年91歳。
つまり、戦前戦後の経済界を引っ張ってきた、すごい人。
にも関わらず、一生涯質素倹約を貫き通し、
社長をしながらも、私財のほとんどを寄付をし、 -
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オーディオブックにて視聴
石川島(後に石川島播磨)重工業、東芝のトップとして辣腕を振るい、経団連会長、臨時行政調査会会長など日本経済及び日本政府の財政の立て直しに東奔西走したメザシの土光さんの名言集。
ひと言で言えば、無私無欲の人であり、最低限生活が出来るお金だけを手元に残しては、残りを全て母親が設立し、自身が引き継いだ橘学苑に全て寄付していたという。常に現場で働く人を最も尊重するという姿勢を取り続け、社長時代も現場からは「親父親父」と慕われたという。その上、政治との癒着を嫌い、経団連会長時代も政治家からは常に距離を置いていた。
正直、土光敏夫という人物が、経団連会長でありながら、実に質