武田知弘のレビュー一覧
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最近話題となった23の紛争を取り上げ、その対立の原因や内容について詳細に紹介しています。
普段ニュースなどで何となくしか理解していない紛争もどのような理由で紛争が勃発し、またどのような経緯で戦いが進んでいったのか、かなり分かりやすく書かれています。
様々な利権や思惑が複雑に絡み合った紛争。その裏側にはニュースでは報じていない深いわけが隠されています。
世界の紛争の一つ一つには、民族、経済、宗教、資源などの問題が絡んでいます。そして紛争の当事者はだれもが、それなりに正当な理由を持っています。国際法上から見てどんなに悪そうに見えるものでも、彼らには彼らなりの正義を持っています。
自分たちの信条や生存権を守るために紛争を起こしているのです。
ただ、あまりに気になったのはこれら紛争の大半にイギリスが根幹というか火種として絡んでいることです。植民地として支配するために紛争の火種をおこしたり、煽ったり、その結果収拾がつかなくなってしまい長らく紛争が続く。そんな例があまりに多すぎて驚きました。
イラク、イスラエル、パレスチナ、スリランカ、ミャンマー、インド、パキスタン、ソマリア、北アイルランド… -
Posted by ブクログ
歴史というものは勝者が作るもので、敗者が行ったことは小さく扱われるか無視される、というのが歴史に触れていると分かります。一旦「悪者」と烙印を押されてしまうと、当分の間覆ることがないということも、半世紀も過ごしていると実体験を通して理解できるようになりました。
日本史においても極悪人は何人もいましたが、これは世界史においてもです。この本の著者である武田氏が書かれた、ヒトラーを題材にした本で、彼は当時のドイツ国民に正統な手続きで選ばれたこと、ドイツ経済(失業対策・ハイパーインフレ)を立て直した素晴らしい実績があることを初めて知りました。当然、ユダヤ人のみを虐殺したことは悪であると、していますが、その本では、なぜユダヤ人が標的になったのか、ユダヤ人は欧州でどのような扱いを受けていたのかを知ったのは、その時に初めて知りました。
この本は同じ武田氏による本ですが、第二次世界大戦の究極の原因は「やはりお金=経済」であったことを解説したものです。歴史の授業においては、イデオロギーの対立とか、民族意識の自立等という、難しいことを習った記憶がかすかにありますが、この本を読んで、すっとお腹に落ちた気がしました。やはり、歴史を作るのは、事件を起こすのは人間であり、いつの時代もあまり変わらないのだなと思いました。歴史は繰り返すですね。
以下は気になったポイントです。
・太平洋戦争前の日米交渉というと、石油の禁輸ばかりがクローズアップされるが、むしろ「在米資産凍結」のほうが日本にはダメージが大きかった(p3)
・1919年上半期だけで、ドイツは10億金マルク以上を食料品の輸入に充てたが、連合国側は粗悪な食料しか提供しなかった、そして講和条約としてベルサイユ条約が締結された。これこそがドイツを絶望に叩き落し、ナチスが生じた要因である(p15)
・ドイツは植民地をすべて取り上げられ、人口の10%失い、領土の13.5%、農耕地15%、鉄鉱石の鉱床75%を失った、この結果、鉄鋼生産量は戦前の37.5%となった(p15)
・ドイツとしては賠償額を、戦争被害の損害賠償にとどめたかったが、英仏の反対にあい、結局、戦費の補償にまで拡大された。1918.11に連合国とドイツの間で交わされた正式な休戦条約でもドイツが負担するのは、米国ウィルソン大統領の提示である損害の賠償になっていた。(p19、20)
・1930年代は、ドイツ歳入の半分が賠償金に充てられた、実際に第一次世界大戦の賠償金の利子を21世紀になるまで払い続けた、(これは米国向けであり、他国への債務は2020年まで残っている)(p21)
・ウィルソン米大統領は、敗戦国から略奪してはならない、と語ったが、だからといって英仏の負担を減らしてくれなかった、その為に英仏は返済金をどこかから調達しなければならなかった、それがドイツである(p23)
・賠償金の支払いは、毎年の定期払い以外に、ドイルの輸出製品に26%の輸出税をかけて、連合国が受け取るものであった。これはドイツ製品の国際競争力を大きく損なった(p24)
・帝国銀行が所有していた、128億マルクの金はフランス軍によって略奪、保管されていた60億マルクの未完成紙幣もフランス警察により奪われ、これを完成紙幣にして流通させた。このことが直後にドイツを襲うハイパーインフレの要因の一つとなった、フランス軍によるルール炭田占領は、サボタージュによる採掘ストップ、フランス軍の占領費がかさんで得るものがなかった(p29)
・ハイパーインフレ下で大儲けしたのは、有力な外貨(ドル、ポンド)を持っていたユダヤ実業家であり、ドイツの資産をただのような値段で買い取ることができた。これがユダヤ人迫害の一つの要因となった(p31)
・ヒトラーは1914年勃発の第一次世界大戦では、オーストリア国籍のまま、ドイツ帝国志願兵となった、オーストリアからの召集令状を蹴っている。優秀な伝令兵であり、1918年には、一級鉄十字章を授与された、志願兵がこの賞を授与されるのは稀であった(p33)
・ドーズ案(1924年)により、ドイツは決められた賠償金を自国マルクで払えることになった、これはマルク価値が下落しないように調整するのが連合国の義務とされた(p38)
・1929年の会議において、新しい賠償方法として「ヤング案」が決定された、賠償金額が大幅に減額(当初の3分の1)となったが、トランスファー保護規定が外され、つまり相手国通貨で払うことになった、これ以降、事実上未払いとなった(p39、43)
・アメリカはドイツに投資をし、ドイツはそれで英仏に賠償金を払い、英仏はその賠償金でアメリカに戦費の支払いをする循環があった。なのでドイツが破綻すると、この循環が途切れることになる、アメリカの戦債(合計70億ドル、GNPの7%)が不良債権化する(p41)
・ベルサイユ条約では陸軍は10万人と制限されたが、ドイツでは全員に下士官以上の教育を行った、下士官は10-20人の兵士を統率する。末端の兵士は1-2年で育成できるので、下士官を10万人持っていれば、100万の軍隊をいつでも持てる(p48)
・1932年当時、ナチスの党員は80万人しかいなかったが、大統領選挙では1350万票集めた、国民によってヒトラーは支持された(p50)
・当時の共産主義は、武力暴力による革命を目指していたので、破壊活動や誘拐殺人は日常茶飯時であった、ドイツの財界、知識人、一般市民にとって共産主義は恐怖の対象であった(p54)
・ナチスは最初のころ、アウトバーン等の公共事業や国民の福祉増進に使っていた、世界で最も充実した福利厚生制度を持っていた、ヒトラー前政権と比較して、かつてない規模(6倍以上)で行った(p59、61)
・英仏が宣戦布告する前までのナチスの領土拡張のほとんどは、旧ドイツ帝国の国土回復か、ドイツ語圏地域の併合であった。宣戦布告を受けた後は、資源確保のためにあちこち侵攻した(p67)
・1939年、ノーベル平和賞にヒトラーがノミネートされた、1938年にヒトラーは欧州に平和をもたらしたとして世界中から称賛されていたから(p68)
・ポーランドとは、旧ドイツ帝国の領土を削減、それにロシアの旧領土を加えて建設された国である、ポーランドが海につながる土地を確保するために、ドイツはポーランド回廊という地域を割譲させられたので、ドイツは東プロイセン地域と遮断された(p75)
・ドイツはポーランド回廊の割譲を求めたが、それを拒否、英仏の支援を仰いだので、1939年9月にポーランドへ侵攻、協定を結んでいた英仏はドイツに対して宣戦布告した(p75)
・自軍の武器をほどんど国産で賄っていたのは、日本以外には、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどのごく一部の国である(p80)
・イギリスのインドでの綿製品を売ることで、イギリス経済は支えられていたが、その分野に日本が対決を挑んだ、さらには中国においても、上海・青島に最新鋭の紡績工場を建設して、イギリス製品を駆逐していた(p83、85)
・1929年に100円約49ドルだったのが、1933年には25-23ドルと円安となった(p86)
・明治維新で新しい技術が導入されたため、多くの失業があったが、職にあぶれた鉄砲鍛冶の職人は、自転車製造(フレームと鉄砲は共通)に目をつけた(p90)
・当時の英連邦は、イギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・アイルランド・インド・ニューファウンドランド・南アフリカ・南ローデシア・ビルマ・マレー半島・シンガポール・香港・エジプトで、世界の4分の1を占めていた、この地域が自由貿易を拒絶した。これに日本は大きな影響を受けた(p93)
・日本は国際経済から孤立しないために、あえて、国際連盟を脱退した。国際連盟には、違反国に対して経済制裁をできるという条文がある。これを避けるために先手を打つ形で脱退した。連盟内にある諸団体(ILOなど)にはとどまっていた、正式脱退までは分担金も払い続けていた(p99)
・戦前の日本には、都市部の多くに貧民街があった、東京には、深川・浅草・芝・小石川・下谷・京橋・麻布・牛込・本郷・四谷・神田・赤坂など、絶望的な貧富の格差により社会の不満がたまり、それを解消してくれる存在として軍部が台頭した(134)
・終戦時、三井・三菱・住友・安田の4大財閥のみで、全国会社払込資本金の49.7%を占めていた、資産額はもっと高い比率であった(p134)
・軍人(武官)と、文官(軍人以外の官僚)では、大佐を除いて、文官の方が給料(月額報酬)は高い’(p141)
・アメリカは、ルールを破り(貿易黒字により金保有量が増加→通貨量が増える→インフレとなり輸出品割高→国際競争力落ちて貿易黒字減少)金が流入しているにも拘わらず、通貨量を増やさなかった(p145)
・欧州新経済秩序により、ドイツマルクが欧州中で使われるようになると、ドイツ工業製品が欧州市場を独占するだろう、世界の金の4割を持っていたアメリカは、金本位だったからこそ世界一の繁栄を謳歌できていた(p159)
・日本は金融資産を凍結されたために、中立国から間接的にアメリカの物品を輸入することもできなくなった(p167)
・大正時代に竣工した戦艦「金剛」「伊勢」「榛名」は石炭、重油の混焼ボイラーが取り付けられていたが、昭和に入ってからは、ほとんどの主力艦は重油専用、大和や武蔵(p183)
・昭和2年(1927)には、フォードに続いてGMも日本上陸を果たし、ノックダウン方式による大量生産を開始、この2社で日本の自動車市場は占められた(p185)
・自動車製造業法で許可を受けたのは、トヨタ、日産、ディーゼル自動車(いすず)の3つであり、戦時中の軍用車両の製造をほぼ独占した(p186)
・ナチスの人工石油は、ドイツが第二次世界大戦中に使用した航空機の燃料のほとんどをまかなった、オクタン価96で優秀(現在の日本のハイオク基準をクリアー)であったが、最後まで採算はとれなかった(p197)
・第二次世界大戦は、自由主義対全体主義の戦いではなく、帝国主義崩壊の戦いであった(p216)
2017年7月22日作成 -
Posted by ブクログ
両親は戦前の生まれですが、戦前の様子を聞いた記憶がありません、幼かったので記憶がないのか戦後の苦しい思い出が強烈のようで、私にとって戦前の昭和は全くの未知の世界でした。特に戦後の奇跡の経済成長というのも、この本を読むことで、奇跡ではなく回復しただけという印象を受けました。
むしろ幕末や明治維新の頃の日本のほうが教科書によく載っていたのかもしれません。この本は戦前の日本が記されています、今まで知らなかった世界を垣間見て、興味深く読むことが出来ました。
以下は気になったポイントです。
・昭和4年の吉原では、泊まりが3~10円であり、現在の貨幣価値にすると、1~3万円である、1円=3000円程度(p26)
・覚醒剤の有効成分の一つであるメタンフェタミンは19世紀末に日本で合成され、1938年には疲労回復剤として大日本住友製薬から「ヒロポン」として発売された、1951年覚醒剤規正法により規制され現在に至る(p36)
・昭和4年(1929年)に飛行船(ツェッペリン号)はアメリカを出発してシベリア、日本を経由して世界一周をした。2500ドル=5000円(1ドル=2円)であり、家一軒が建てられる金額であった(p63)
・戦前の経済成長も凄いものがあり、1908~17年:3.09%、1918~27年:1.50%、1923~1932年:2.35%の成長があった、明治維新から第二次世界大戦前までの70年間で、日本の実質GNPは約6倍、実質賃金は約3倍、実質工業生産は約30倍、実質農業生産は約3倍である(p67)
・昭和4年(1929年)に始まった世界大恐慌において、日本は昭和8年には回復基調になり、9年には世界大恐慌以前の経済水準に復帰している、これは当時の先進国比較で5年も早い(p69)
・日本の綿製品の輸出量は、昭和3年にはイギリス製品の37%、7年には92%、11年には追い抜いている、輸出先はインド及び中国、これによりイギリスとの経済摩擦を生み、インド市場から締め出され中国(満州)に集中した、自転車も同様の状況(p75)
・昭和7年にはドイツなどの製鉄大国を差し置いて日本の鉄が選ばれた、その他にも、マッチ・洋傘・ブラシ等も世界的なシェアを獲得していた(p77)
・アメリカでエジソンが電気事業を始めたのは1880年であるが、そのわずか7年後には日本でも電気が通っていた(p87)
・1928(昭和3)年10月の人口調査によると、大阪市の人口は233万で、東京の221万人より多く人口首位であり、世界6番目の都市(ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリ)であった、昭和7年に再編成した東京市に1位を奪われるが、文化や産業をリードした(p101)
・高校(全国に35校)に入学できたのは全体の1割程度であり超難関であったが、高校の定員と帝国大学の定員は同じであった(p117)
・明治初期の婚期は早かったが、昭和15年(1940)頃には、男性28歳、女性24歳が初婚の平均年齢であり、現在と比較してそれほど早くない、離婚率は3.39(昭和16年)であり、現在(2.30:平成14年)より高い(p127、130)
・昭和4年の平均寿命は、男:50.94、女:51.20歳であり、ローンを組めても15年程度であった(p141)
・明治22年(1889)に帝国議会がスタートすると、華族は貴族院になれた、公候爵は30歳以上全員に議席が与えられ、伯爵以下は半数を7年毎に改選、歳費(給料)はなし(p169)
・4大財閥(三井、三菱、住友、安田)は、終戦時の全国の会社の資本金の50%を占めていた、GHQに解体された財閥は15(p172)
・徴兵忌避の方法として、270円(現在の270万円)の支払いや、長男になるための養子縁組、明治16年の法改正後は、学歴(26歳迄)があった(p209)
・多摩は軍都であったので20万人もの労働人口がいた、戦前は国家予算の30~80%が軍事費(現在は6%程度)であった(p215) -
Posted by ブクログ
さっと読める上に面白い本でした。
信長が行った数々の施策をマネーという角度から捉えます。
資金面から競争力を常に優位にあるために、いかに人の集まるところを抑え、また人を集めることに腐心していたかがわかります。
岐阜城・安土城など、豪華な城を何度も建てたのは領民に安心感を与える象徴を示すため。その上で寺社が持っていた座の権利を奪い取り、楽市楽座を行い、人を集めることで情報とモノが集まってくる。
また、本願寺をはじめとする寺社勢力と対立したのも、彼らがすでにアンタッチャブルな存在になった経済力・軍事力をもつ集団であったがため。
戦国時代を経済の面から捉えた本として大変面白い内容でした。
同時に、これだけの革新的な施策を次々と出すことがなぜできたのか?そこに次の興味が移ります。 -
Posted by ブクログ
戦国時代は群雄割拠の時代で多くの名将が自国の領土を広げるために日夜努力をしていたようですが、各戦国大名は戦術を上げることに努力したようです。
一方、織田信長は短期間でほぼ日本の主要部(当時の日本は近畿地方がメイン)を支配したのですが、その差は何にあったかと考えると、鉄砲(火薬の原材料の調達ルートを独占する等)や年中戦える兵役制度があると思います。
それは当時としては独特でほかの大名が真似することができなかったのですが、それを可能にしたのが、この本の主要テーマである「信長の経済力」だったようです。
信長の本は多くありますが、彼の経済力に着目して分かり易く解説した本に初めて出会うことができ嬉しく思っています。
以下は気になったポイントです。
・当時の日本で大砲を造れるのは、豊後の大友宗麟のみ、彼は西洋からの武器を輸入するため、国を挙げてキリスト教の受け入れをした、そのためイエズス会は大砲の鋳造方法を教えた(p13)
・信長は絶対に他の武将とは異なることをしていたキーワードは、1)寺:仏教寺院を迫害、2)城:居城を何度も替え新しく巨大な城を造り続けた、3)港:領地よりも重要視した、である(p16)
・当時はアンタッチャブルであった寺院に、信長だけは聖域とされていた寺社に手を出した、抵抗は大きかったが、その分、実入りも大きかった(p19)
・商人は、座に属さないと商売ができなかった、鎌倉時代中期からあらゆる職業に「座」が作られていた、布・酒・油等の販売業者だけでなく、建設・運輸・芸能関係まで(p29)
・信長は別の市をつくって、地子銭を廃止した、ただし冥加金はとっていた、街が発展すれば冥加金の収入も増える(p32)
・上杉謙信は、柏崎と直江津の2つの港の関税収入のみで、年間4万貫(10万石の年貢収入)に及んだ(p35)
・今川義元との知多半島をめぐる抗争の最終章が「桶狭間の戦い」である、その直前には知多半島の根元にある大高城をめぐって攻防戦を繰り広げていた(p39)
・「防御御札」がある場所では、軍は陣を構えたり狼藉は禁止されていた、信長は「防御御札」による「判銭」や「制札銭」と呼ばれる税金を収入源とした(p41)
・1494年に、ローマ教皇にも承認されたトルデシリヤス条約は、キリスト教を布教することを条件として、ポルトガルとスペインで世界を二分してよいというもの(p44)
・イエズス教会の宣教師は、布教活動と交易をセットで行っていた、ポルトガル貿易の取引額は、1570~1630年までに、290万から440万クルサド(100万石の年貢収入)であった(p45)
・南宋が滅んで(1279滅亡)からは、元王朝が紙幣使用を強制したため、中国で使い道のなくなった銅銭が大量に日本に流れ、これが紙幣として流通するようになった(p53)
・金貨銀貨の流通は、金や銀の生産とは関係がない、信用できる政権が貨幣の使用を働きかけることが、貨幣の流通を促すいちばんの近道、武田信玄が甲斐で金貨を造っても流通しなかった(p59、67)
・信長が楽市楽座を行ったのは、加納・安土・金森等の領地の一部のみで京都では未実施、この政策の意味は、日本の商業に価格破壊をもたらしたこと(p77)
・一般には鉄砲は種子島からもたらされたと思われているが、1510年には中国、朝鮮経由で、1510年に銅製の火縄銃がもたらされている(p82)
・信長が目を付けた港は、堺(100万石以上の収益可能)・大津・草津であり、副将軍や管領職には遠く及ばない魅力があった(p85、90)
・信長が堺・大津・草津に代官を置いたことは、東国の大名にとって、西日本からの交易ルート(特に弾薬の原料となる硝石)を完全に押さえられたことを意味する(p94、98)
・戦国時代の8大財閥のうち4つ(山門使節、青蓮院、興福寺、比叡山三塔)は自社関連で、興福寺以外は比叡山関連であった、これらが撰銭令(粗悪品の銭に対する取扱い)の対象になった(p106)
・重要な商品は自社によって牛耳られていた、酒は比叡山、織物は祇園社、麹は北野社、油は南禅寺(p113)
・信長の延暦寺焼き討ちの140年前には、延暦寺(比叡山)は園城寺に因縁をつけて焼き討ちにしたことがあった(p118)
・石山本願寺は頑強な抵抗を続けてついに、徳政令適用除外の特権を得た、これは商人保護であり商人が集まってくることになった、さらに諸公事免除、治安権も取得して、独立国家のようであった(p120)
・本願寺等は門徒を招集することで数万人の兵を動員できた、これは数十万石の大名に匹敵する、また寺院そのものが要塞であった(p126)
・近江は太閤検地のときに78万石であり、陸奥国についで二位であった、面積比から見るとダントツのトップ(p135)
・信長が天下統一目前までいくことができたのは、善政(価格低下により生活が豊かになった等)のおかげ、領民から支持されていないと一揆や反乱により他国へ攻め込むことは不可能(p163)
・明から銅銭が入ってこなくなったため、年貢を銅銭で納めるのは不都合になり、年貢を銅銭で納める貫高制から、1577年以降の越前検地から米で納める石高制に転換した(p169)
・信長は庶民には減税、金持ちから税金をとる方針であり、それが、楽市楽座・京都の地子銭免除・比叡山焼き討ちであった(p171)
2011/8/14作成