1.はじめに
貨幣論という書名は実に親切で、きっと貨幣について論じたものであろうことは容易に想像がつく。
強いて難癖をつけるとして、貨幣というやや畏まった表現だが、言わずもがな要はカネである。
著者はその「カネの正体とは何ぞや?」という問題を論じた挙句、「いくらカネとは何ぞやと考えたところで
...続きを読む何も出てきやしないのだ」という結論に達する。
そして、そのカネのカネたる所以(つまり、何も出てきやしなかったというオチ)こそは、資本主義にとっての危機とは何であるかを教えてくれる。
すなわち、資本主義にとっての危機とは、マルクスの言うような恐慌(過剰生産ないし需要不足)ではなくて、レーニンの言うような貨幣の堕落(ハイパー・インフレーション)であると岩井克人は結論づけるのである。
それはなぜだろうか。むろん著者にはその立証責任があるし、現に本書にてそれを果たそうとしている。
2.理論家が理論を徹底できなかったワケ。そして、貨幣とは
著者はマルクスの価値形態論をマルクス以上に徹底させることによって、貨幣が商品世界において決定的な役割を演じていることを論証してみせる。
ここで一つの疑問が生まれる。
それは、「なぜマルクスは、価値形態論を著者ほどには徹底させることができなかったのか」という点である。
その回答は、「もし価値形態論を徹底させてしまったならば(つまり、著者と同様の思考過程を歩んだとすれば)、マルクスは彼の信奉するもう一つの理論、労働価値説を放棄することになりかねなかったから」である。
マルクスの価値形態論においては、貨幣商品の原材料の採掘に投下された労働時間が貨幣商品の価値量を規定しているという形で、労働価値説が堅持されている(と少なくともマルクス自身は考えている)。
けれども、岩井克人の貨幣に対する認識においては、労働価値説は棄却されている。
貨幣とは、人々がそれを貨幣として信ずるがゆえに貨幣なのである、と。
この貨幣なる代物は、一般的等価物として、商品に交換可能性を与えることにより、商品によって交換可能性を与えられ、また、商品から交換可能性を与えられることにより、商品に交換可能性を与えている。
貨幣の上のような性質こそは、商品世界すなわち商品の膨大なる集合としての資本主義社会がこの地上に成立することを可能としている。
また、交換過程論に視点を移せば、商品所有者にとって、貨幣こそは「欲望の二重の一致」を回避するモノであって、これがあるからこそ我々は交換の困難に苦しむことがない。
(もしあなたが貨幣のない社会において、本一冊を持っていて、靴一足が欲しいという場合、あなたは靴一足を所持しており、かつ本を欲している相手を探しださなければならない。しかし、貨幣のある社会においては、あなたがたとえば10,000円を持っていれば、靴屋は貴方に靴を売ることを渋りはしない)
貨幣が商品世界に占めている役割は、それが古典派経済学者によって媒介物に過ぎぬと言われたのに比して、あまりに大きいのである。
3.貨幣の崩壊への道
恐慌というのは、確かに歴史の示すとおり、資本主義にとって試練だった。
けれども、試練はやはり試練である。
それに直面することにより、資本主義は弱体化したというよりは、むしろより強靭になっていく(少なくとも、マルクスを理論的基礎に持つ社会主義よりは長生きしているわけだ)。
なぜか?
なぜ、マルクスにとって資本主義の危機であったはずの恐慌が、かえって資本主義を強化しているのか。
それは、恐慌という状態が、商品よりも貨幣を選ぶ状態であり、したがってそれは商品世界を成立させている貨幣に対する信仰告白が蔓延している状態だからである。
ケインズの表現を借りれば、貨幣には流動性があると言われる。
この流動性は、「誰でもいつでも受け取ってくれる」という信用があるということであり、
他の商品にはほとんど認められない貨幣に固有の性質である(これに対して、商品なり製品を人々が実際に購入するためには、それこそ「命がけの跳躍」を必要としているため、その処分は[購入に比して]容易なことではない)。
それ自体の商品価値をほとんど有しない貨幣に対して(中央銀行が発行する不換紙幣をまともに原価計算してその額面通りの価値を有すると誰が算出できるだろうか)、かような価値を認めるところに、貨幣の貨幣たるゆえん、神秘とか奇跡とか言われるところのモノがある。
ということは、恐慌において相対的に貨幣(それは商品世界で重要な役割を担っている)が重んじられているということは、それは本当の意味での資本主義社会における危機とは言えないのではないか。
ということは、である。
もしその流動性に対する信仰が途絶えたとき、したがって人々が貨幣の流動性を疑ってかかり、貨幣ではなくて個別の商品に逃げ込んだとき、商品世界はどのようになってしまうのだろうか。
貨幣より商品が選ばれる世界、その窮極的な形として、ハイパー・インフレーションが生じた場合、もはや貨幣を貨幣たらしめる根拠を捨て去ったあとに残るモノは、個別バラバラな商品と、それ自体さして価値を有しないかつて貨幣だったモノ-したがって今やそれはやはり個別バラバラな商品の一つ-である。
「価値の体系としての商品世界が、たんなるモノの寄せ集めでしかない状態へとひきもどされてしま」い、「『巨大な商品の集まり』としての資本主義社会の解体」を生むという点で、ハイパー・インフレーションは、資本主義社会にとってより本質的な危機なのである。
4.貨幣形態論
しかし、私はどうにもこの論に与することができない。
私は、人々はたとえ貨幣を手放すとしても、流動性までは手放さないのではないかと思う。
(果たして人々は二重の欲望の一致を要する社会に耐えられるだろうか?)
貨幣は、時代に応じて、貝殻であったり、君主の刻印が押された鋳貨であったり、あるいは中央銀行の発行する兌換紙幣次いで不換紙幣とその形をかえてきた。
けれども、そこで共通するのは、いずれの貨幣も流動性の機能を果たしてきたという事実である。
マルクスにおいて労働価値説という実体に対して価値形態論という現象形態があるように、流動性という実体に対して貨幣という現象形態が変遷し続ける。
貨幣は人々が貨幣であるとみなすから貨幣であるというのであれば、その物質的素材や名称は理論的には不問のはずである。
であれば、人々は現行貨幣が著しく減価してそれが商品世界の存立構造を解体する前に、流動性の所在を移転するのが筋合いではないか。
人々は次なる貨幣を「奇跡」(これは奇跡という呼称に反し、人類史上幾度となく繰り返されてきた)によって生み出すのではないか。
いや、奇跡という言い回しこそ、岩井が資本主義の不安定性を強調するために用いた表現ではないか。
なぜならばこの奇跡が実際にどれほど奇跡的であるかについて、あれほど価値形態論をマルクス以上に論理的な形で展開した岩井が、マルクス以上の修辞法すらも(したがって当然ながら、論理的にも)披露できていないのだから。
また、貨幣価値の減価を防ぐ実際的な方法として、ハイエクの「貨幣発行自由化論」も検討すべき事項ではないか(私はまだ貨幣論集を読んでいる途中だけれども)。
実際、ビットコインはまさに民間による貨幣発行の典型である。
もし貨幣発行主体がシニョレッジを貪るため貨幣を多量に発行した場合、貨幣多量発行に伴う貨幣減価が生じ、貨幣利用者としては、他の価値ある貨幣へ乗り換えるというビジョンである。
これをうけて貨幣発行主体としては、貨幣価値が過度に減価しないように、価値が安定化するように努めるインセンティブがあるという次第である。
貨幣間競争、これは一国一貨幣というアタリマエに囚われた私たちには盲点である。
実際、貨幣を中央銀行のみが発行している事態を独占供給と理解する人はあまりいない(銀行券に類似した物を発行すれば通貨偽造罪に問われるということもあってか、現代の社会通念において、別種の貨幣を創造する意欲なり発想を持つことは、たとえ貨幣発行業に参入するために要する費用を無視したとしても、難しいことである)。
競争原理という資本主義社会におけるアタリマエが貨幣においては十分には機能していないのである。
資本主義社会が本来的に不安定なものである、とは岩井の主張するところであるが、しかし、資本主義社会は未だその本来的な姿を明らかにしていないのではないか。
(そして貨幣を巡るこのような見方は、資本主義を純粋な形で炙り出したマルクスにおいても果たして展開されていただろうか)
シニョレッジ、この君主権力の名残を玉座から引きずり下ろすことが、資本主義に期待された一仕事なのではないかと私は思う。
歴史上、資本主義が貨幣による試練を受けることはあったが、貨幣が資本主義による試練を受けたことはなく、そしてそれは未来に起こりうる出来事なのである。