岩井克人のレビュー一覧
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岩井克人さんの本に出会って、経済というものの原理原則が理解出来るようになった。
ヴェニスの商人の資本論、貨幣論、21世紀の資本主義論、資本主義から市民主義へなど。
水村美苗さんの旦那と言うことも彼女の書いた「日本語が滅びるとき」で知った(笑)。
この本で、岩井さんの生い立ち、なぜ、経済学を選んだのか。
そして、私も読んで感動を受けた網野善彦さんの「古文書返却の旅」を読んでおられて、触発されたとのこと。
また、加藤周一氏との出会いのお話。
最後の方で、夏目漱石の文学論のお話も出てきたが、なぜ、水村美苗さんが「日本語が滅びるとき」を書いたのか、そのヒントがあったような気がします。
経済学のお話は、貨幣論、法人論、信任論、『言語・法・貨幣』の自己循環論法のお話とか、学問的な進化を感じられる中身でした。
いずれにしても、博覧強記な岩井さんのことを改めて感じさせてもらった本でした。 -
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書店で目に付き購入しました。これまで岩井氏の本は何冊か読んでいましたので、その意味で本書はこれまでの岩井氏の主張のおさらい、という位置づけでしたが、大変読みやすく改めて岩井理論の面白さを再確認できました。岩井氏の主張を一言でいうなら、会社はヒトでもありモノでもある存在ということ、そしてその中心に位置しているのはフィドゥーシャリー・デューティ(信任義務)だ、ということです。
私自身はこの主張に同意できましたし、本書を読むにつれ、いかに世間の多くの識者の視野が狭いか(あたかも「群盲象を撫でる」という故事のように)、またロナルド・コース流の、会社は情報流通の効率化のために組織化されている(つまり社外の人との取引費用が大きいため会社が組織化されている)、という取引費用理論が本質をついていないということを再認識しました。
本書ではまったく議論されていませんが、本書の法人理論を読むにつれて、はたしてAI(人工知能)はどのような存在として将来位置付けられるのだろうかと感じました。おそらく遠くない未来に、人工知能にも「人格」を与える、という国が登場するでしょう(これまでの例にもれず英国あたりがその最初の国かもしれません)。するとAIはヒトかモノかという論争がビッグイシューになるであろうこと、その際は、「A or B」ではなく、岩井氏の法人論のように「ヒトでもありモノでもある(A and B)」存在としてとらえるべきなのだろう、と本書を読んで想像を膨らませました。 -
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2015年に出版された本で、前から読みたいと思っていたのですがやっと読む時間ができました。読む前の期待感はかなり高かったのですが、期待は裏切られませんでした(合理的期待形成ができました)。岩井氏の貨幣論、資本主義論、法人論は別の本でなじみがありましたが、序盤に書かれている生い立ちや少年時代、そして東京大学やMIT留学時の話などは「私の履歴書」を読んでいるようで新鮮でした。子供のころはじめて読んだ本が図鑑で、それが自分の思考回路を決めたと著者が述べているように、岩井氏は物事を俯瞰的に見たうえで、各人の主張を位置付ける、ということが特徴的だと思います。一言で言えば視野が恐ろしく広い、ということで、特定の主張(例えばケインズ経済学)に完全にとらわれるわけではなく、様々な人の主張をつなげることができること、また近年では経済学の範囲外にまで研究対象を広げて(言語、法など)、そこに貨幣論との共通性を見つけるようなこともされています。本書の中で、イェール大学時代からの知り合いとして哲学者の柄谷行人さんの名前が登場しますが、岩井氏と柄谷氏には、「常人には思いもよらない点と点を結びつけて線あるいは面にする力」が共通していると思います。そしてこの力は、アカデミックの極端な分業化が進んだ昨今では極めて貴重な(希少な)能力だと思います。本書は中盤から後半にかけて、主に岩井氏の研究内容の中身とその変遷が綴られていますが、わかりやすく好感を持ちました。アカデミックの人々だけでなく、一般の人々にも岩井ワールド、そして経済学の面白さを知ってもらうには最高の本だと思います。
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貨幣論などで著名な経済学者岩井氏による本です。本とは言っても全編通して対談形式になっています。雑ぱくな感想について。まず対談形式であればさぞ読みやすいだろうと思って読み始めましたが、内容がかなり高度、というか空中戦すぎて理解しながら読み進めるのにそこそこ時間がかかりました。また主役が岩井氏で「聞き手=三浦雅士」となっていますが、三浦氏は「聞き手」の領域を大幅に超えて「話し手」にもなっていました。これは良かったと思う箇所もありましたが、「しゃべりすぎでは?」と感じる箇所も多々ありました。個人的に岩井氏の主張にもっと誌面を割いてもらいたかったので、聞き手は聞き手らしくもっとシンプルに切り返してもらった方がありがたかったです。
序盤は読むのに苦戦しましたが、面白いもので、中盤くらいからはだいぶペースアップしました。まず岩井氏の主張が一貫していることで、「門前の小僧習わぬ経を読む」ではありませんが、だいぶ私(門前の小僧)の頭の中にも入っていきました。
岩井氏の主張は何かといえば、言語・法・貨幣は自己循環的に成立していること。つまりこれらによって社会が存在しているのですが、その存在基盤とも言えるこの3つは実は根拠が無く不安定なものだということです。たとえば貨幣であれば、貨幣需要がものすごく高まるとデフレ(恐慌)になり、貨幣需要がものすごく低くなるとハイパーインフレーションになったりする。そしてこの不安定な資本主義を補完しているのが、市民社会であって、それはカントの定言命題としての普遍的な倫理をベースにしたものである、という感じです。著者の主張が正しいかどうかは私のレベルではまったくわかりませんが、とても面白く感じました。そういう風に物事を見ることも出来るのか、という発見があったという感じです。繰り返しますが、「空中戦」の議論が多くて最初は良くわからないかもしれませんが、だんだん著者の言いたいことがわかってきますので、我慢して最後まで読めば多くの気づきがあるかと思いました。 -
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本書は著者が80年代、90年代に書き下ろした論文集(エッセイ含む)を一冊の本にしたもので、私は文庫版を手に取りました。その意味では20年以上前に書かれている論文がほとんどですが、多くの面で現在への示唆に富んでいると思いました。まず本書の中でメインの論文が本のタイトルにもなっている「二十一世紀の資本主義論」です。岩井氏は、金融危機、経済危機が資本主義を終わらせるのではない、むしろ1997年のアジア通貨危機は基軸通貨であるドルへの信認を逆に高めたと言うことで資本主義を強化したと解釈されていて、資本主義が終焉するとしたらそれは貨幣への信認がなくなった時であると述べています(つまりハイパーインフレーション)。また面白かったのは、資本主義が「純化」すればするほど資本主義の不安定性が増す、つまり貨幣の制御ができなくなるということで、さてこれからの資本主義は再び国家の介入が増えざるを得ないのか、言い換えれば不純化されるのか、という点も興味がわいてきました。また一貫して述べられている、資本主義の本質は差異であるということ。これは産業資本主義だけでなくはるか昔から存在している商人資本主義など資本主義を大きく俯瞰すれば当然それが正しい解釈と言うことになるのだと思います。
2番目には「インターネット資本主義と電子貨幣」という論文が掲載されています。こちらも興味深く読みましたが、こちらについては不遜な言い方ですが、2017年時点のデジタル化の状況を踏まえると著者の論調は「まだまだ見通しが浅い」のではないかと感じました。岩井氏は、インターネットもこれまでと同じ資本主義内の動きであって、電子貨幣はむしろ資本主義の純化を証明していると論じています。私もこれについては同意できるのですが、もし岩井氏が現在起こりつつあるシェアエコと呼ばれる動きを見たらどう評価するのかは興味があります。ただしシェアエコとよばれるものも、大半は貨幣と遊休資産へのアクセスを交換するという点で、既存の資本主義の枠内で起こっている現象だとは思うのですが、IoTのように貨幣を介さない情報シェアリングが価値を生み出す仕組みが登場したり、貨幣を全く介さないデジタルコモンズ上でのネットワーク型物々交換の仕組みが登場しているなど、資本主義とは言えない仕組みすらデジタルは生み出している気配があります(つまり貨幣を必要としない仕組みがデジタルで生み出されている)。その意味で、デジタルは資本主義を強化する一方で資本主義を解体する力も持っているのではないかと個人的には考えています。
いずれにせよ、本書は2017年に読んでも多くの気づきが得られる本で、とても感銘を受けました。オススメです。 -
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主流の新古典派経済学を批判する様々な学説を打ち出してきた岩井克人氏の経済学者としての人生をインタビューを基に辿る。
知的にエキサイティングな内容で、大部だがのめり込んだ。経済学者として没落したと著者は自嘲するが、著者の貨幣論をはじめとする学説にはかなり説得力を感じた。
岩井克人氏というと、高校教科書に載っていた『ヴェニスの商人の資本論』の印象が強く、経済思想家みたいなイメージを持っていたが、バリバリの数理経済学者だったと知り、驚いた。しかし、流石に文章がうまい。自分は数式はよくわからないが、岩井氏の定性的な説明はとてもわかりやすく、納得させられるものだった。 -
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M&Aが国を富ませるという理屈をやりとりしてる本。岩井先生の会社論の要点が、ほどよく散りばめられており、なるほど感が高かった。
以下は、その要点。
<モノとしての会社>
・モノ=商品としてみた場合の株式固有の性質は、「議決権」が含まれている点。
・総会議決権の中で最も重要なのは、取締役の選任、解任の権利。
・敵対的買収は、この支配権を巡る争い。だから防衛策も、授権資本制度から派生する仕組みを活かして、敵対敵対買収者の持株比率を低下させるという点は共通。
・新株発行の決定は取締役会決議事項。ただし、発行可能株式総数の範囲で。
・誰にどれだけ割り当てるかも原則として取締役会が決めることができる。「割当自由の原則」。ただし、特定の株主が、「著しく不公正な方法」で経済的な損害を被らないように、新株発行時の第三者割当に対する差し止め請求の規定を設けている。
・例外的に、経営支配権の維持・確保を主要な目的とする発行も不公正発行に該当しないと解せるケース
ニッポン放送事件高裁決定における”四類型”
①・・・ただ株価をつり上げて高値で株式を会社関係者に引き取らせる目的で・・・
②・・・いわゆる焦土化経営を行う目的で・・・
③・・・当該会社の資産を当該買収者やそのグループ会社等の債務の担保や弁済原資として流用する予定で・・・
④・・・当該会社の事業に当面関係しない不動産、有価証券など高額資産等を売却等処分させ、その処分利益をもって一時的な高配当をさせるかあるいは一時的高配当による株価の急上昇の機会を狙って株式の高価売り抜けをする目的で・・・
<ヒトとしての会社>
・株式会社の存在意義は、法人としての会社を企業資産の所有者や契約関係の主体に仕立て上げることによって、株主を所有や契約に伴う責任から解放してあげることにある
・モノであるという意味では道端の石ころと変わらない会社が、なぜ法律上のヒトとして扱われるかといえば、それはまさに付加価値を生み出し、国富を増大させる存在であるから
・経営者の仕事とは、会社の付加価値を大きくするために働くこと。だからこそ会社法においても、経営者は、株主に対してではなく、法人としての会社に対して善管注意義務、忠実義務を負う。利益相反行為を禁止する条項も整備されている。
・もともと経営者とは、株主の代理と組織の代表の二つの役割の間のバランスをとりながら会社の付加価値を高めていくという(難しい)仕事
・仮に優秀な経営者が生まれて成功を収めたとしても、変化が激しい時代の中では成功体験がいずれ負債になる。その時、経営者のクビを切る仕組みがあるか。
・会社買収にあたりできる限りよい経営者が選ばれるように、特別にルールを用意する必要がある。(できる限りよい株主が買うようにすべきではないか)
・会社組織を作り上げている人的ネットワークは、市場における契約関係とは性質をまったく異にしている。 -
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Audibleでランニングしながら聴取。学生の頃読んで以来30年ぶりの再読(というか再聴)。当時は四苦八苦して読んだ記憶があるが、今聴くと重要部分の繰り返しが多く、聞き逃しても筋が追えるため「ながら聴き」には意外に適している(書き下ろしでなく「批評空間」への連載だったことが影響していると推察)。
なんといっても本書の肝は、マルクス「資本論」他における価値形態論・労働価値論に潜む矛盾を「論理循環」の形で可視化させたことにあるだろう。価値形態論を突き詰めてゆくと実は論理循環が含まれており、そこではマルクス自身が信奉して止まなかった労働価値論の項が消去されてしまうことが示される。そしてこの論理循環は他に依拠するところのない、著者自身の言葉を借りれば「宙吊り」の構造を持っており、さればこそ、自律的に存立する強固さと、いったんその根拠を疑い出せば霧散してしまう脆弱さを併せ持っている。本書では著者一流のレトリックを用いて、資本主義における貨幣経済がこの「奇跡」の上に成立していることが明快に記述されている。「本物」と「代用物」という記号論的二項対立を、この連環構造の中に解消させてゆく著者の鮮やかな技量は今でも色褪せておらず、見事というしかない。
そしてもちろん、「恐慌ではなくハイパーインフレーションこそが、貨幣の存立基盤を突き崩し商品世界を解体する実存的危機である」という主張を含む本書は、実際に世界的インフレが進展しつつあるこの2022年にこそ特段の関心を持って読み返されなければならないと思う。 -
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非常に面白かった。貨幣の本質がよく分かった。
危機論における、ハイパーインフレで貨幣(→商品社会→資本主義社会)が機能しなくなると言う主張に関しては、論理的にはありうるだろうけど、実際的にはそんなこと起きるのか、非常に疑問であり消化不良を感じた。
・全ての貨幣が一度に機能不全に陥ることなど起きるのか?
(基軸通貨の死亡 = 貨幣の死亡とは個人的には思えない)
・貨幣が死んでも、「人間の本質」によって、貨幣は新たに創りなおされる
のではないかと思う。特に後者に関して述べたい。
個人的に「貨幣とは、貨幣として使われるからこそ、貨幣なのであり、貨幣とは、流通するからこそ、価値を持つ。」と言う貨幣の本質には同意するし、貨幣は使われなくなったら
(貨幣が下支えしている商品社会や資本主義社会もろとも)消滅する、と言うロジックにも同意している。
一方で、上記の「貨幣」や「貨幣の本質」を下支えしているものに「人間は交換する(したがる)動物である」と言う本質が存在するはずである。従って、仮にハイパーインフレで貨幣が死んでも(死にかけても)、この人間の本質によって、また新たに貨幣が創られるのではないかと思う。
▶︎ 読書の目的:
お金(貨幣)の成り立ちを知りたい
→ 貨幣の誕生は「奇跡」的な出来事。貨幣はいかにして生まれたか?という質問に対しては「貨幣商品説」「貨幣法制説」の2つの論争(前者:元々、様々な商品に交換することができる/みんなが欲しがる商品(家畜など)が貨幣として流通し始めたという説・後者:時の政府や権力者の命によって、貨幣として使われるものを生み出したという説)が存在するが、筆者はこのどちらも否定する。貨幣は、貨幣として使われるからこそ、貨幣なのであり、貨幣は、流通するからこそ、価値を持つ。この無限の「循環」こそが貨幣の本質であるので、「広い交換可能性を持っていたから(→)貨幣になった(貨幣商品説)」も「為政者が決めたから(→)貨幣になった」のでもなく、「貨幣だから(→)貨幣」なのである。
▶︎ 概要
本書は、マルクスの思想を土台として、貨幣とは何かを考察する本である。本書の大きなポイントは2つあり、
① 貨幣の本質
貨幣とは、貨幣として使われるからこそ、貨幣なのであり、貨幣とは、流通するからこそ、価値を持つ。
② 資本主義の危機
貨幣の存在は、商品世界の存立の土台であり、資本主義社会の存続の土台でもある。上記に挙げた貨幣の本質を鑑みると、貨幣は、使われなくなると、貨幣では無くなり、流通しなくなると、価値がなくなる。つまり、貨幣の使用・流通が止まると、貨幣自体やそれが持つ価値が消失する。それはつまり、貨幣を土台とする商品社会や資本主義社会の危機を意味する。これまでの経済学では、資本主義の危機を需要不足/供給過多(流動性選好の増加)による恐慌に見てきたが、本当の危機は、需要過多/供給不足(流動性選好の減少・ハイパーインフレーション)にある。前者の恐慌の場合は、物価・需要の低下という負のスパイラルが、労働者の賃金の「下方への粘着性」(制度や人情などにより、人間の人件費はなかなか下げられないし、クビも切りにくい)によって、ある程度抑制される(ストッパーが存在する)が、後者のハイパーインフレの場合は、論理上はストッパーが存在しないため、貨幣が死ぬ(つまり商品世界と資本主義を破壊する可能性)がある。 -
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貨幣と哲学。一見無関係のようにも思われる両者だが、決してそうではないことを本書によって思い知らされた。
貨幣とは何か。その起源がそもそもはっきりしないことを明示した上で、岩井はまず貨幣そのものには価値がないことを確認する。確かに貨幣をいくら貯め込んだところで、使わないことには意味がない。貨幣は使うことによって、すなわち交換することによって初めて価値を付与される。ではなぜ何の価値もないはずの貨幣が交換されるのか? なぜわれわれは何の価値もない貨幣を受け取るのか?
岩井は答える。われわれが貨幣を受け取るのは、将来それを(商品と引き換えに)受け取ってくれる他者が必ずあらわれるはずだと信じているからだ。すなわち貨幣の根拠は未来への信憑にある。逆に言えば未来への信憑にしかない。しかしその信憑はそれほど絶対的なものだろうか。
商品には価値があり、貨幣には価値がない。貨幣の価値は、商品と交換できるという限りにおいての、いわばヴァーチャルな価値でしかない。そのことに人々が気づき、貨幣を捨て商品を取るという選択がいっせいになされたならば、すなわち貨幣信仰が崩壊し、貨幣の価値が限りなくゼロに近づいたとき、いかなる事態を招来するだろうか。
世界的な不景気が叫ばれて久しい。しかしだれもがお金を使おうとしない現状は、貨幣信仰が安泰であること以外の何物でもない。本当にこわいのはその逆のケースなのだと岩井は説く。「貨幣と商品の関係は言語と事物の関係にほぼ等しい」というあとがきも含め、哲学的刺激に満ちた貨幣論の名著である。 -
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ネタバレとても示唆に富む一冊。
会社とは法人である。すなわち、人であり、モノであるという二面性を持っている。株主主権のイメージが強すぎるのは、「会社=モノ」の側面が強く出すぎている。実際には、株主が所有する「モノとしての会社」は、株主に指名され、「モノとしての会社」から委任された経営者が運営している。そこには、「人としての会社」という忘れてはならない側面がある。
会社が稼ぐためには、他社との差異化が必要。そのために必要なものが、「設備・資産」⇒「アイデア」に変わってきている。そのため、「アイデア」や「イノベーション」の重要性が大きくなる。そして、それらに向かって、金が動き回る。将来的には、規模/範囲の経済を活かした非常に少数のグローバル企業と、非常に多数かつ小規模でアイデアを継続的に生み出せる企業に二分化されていく。
会社で働く人たちにとって必要なことも変わってくる。長く働くことを前提にした「組織特殊的な能力」の重要性が下がり、「汎用的(ポータブル)な能力」の必要性が高まる。両者のバランスするポイントが変わってくる。 -
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1.はじめに
貨幣論という書名は実に親切で、きっと貨幣について論じたものであろうことは容易に想像がつく。
強いて難癖をつけるとして、貨幣というやや畏まった表現だが、言わずもがな要はカネである。
著者はその「カネの正体とは何ぞや?」という問題を論じた挙句、「いくらカネとは何ぞやと考えたところで何も出てきやしないのだ」という結論に達する。
そして、そのカネのカネたる所以(つまり、何も出てきやしなかったというオチ)こそは、資本主義にとっての危機とは何であるかを教えてくれる。
すなわち、資本主義にとっての危機とは、マルクスの言うような恐慌(過剰生産ないし需要不足)ではなくて、レーニンの言うような貨幣の堕落(ハイパー・インフレーション)であると岩井克人は結論づけるのである。
それはなぜだろうか。むろん著者にはその立証責任があるし、現に本書にてそれを果たそうとしている。
2.理論家が理論を徹底できなかったワケ。そして、貨幣とは
著者はマルクスの価値形態論をマルクス以上に徹底させることによって、貨幣が商品世界において決定的な役割を演じていることを論証してみせる。
ここで一つの疑問が生まれる。
それは、「なぜマルクスは、価値形態論を著者ほどには徹底させることができなかったのか」という点である。
その回答は、「もし価値形態論を徹底させてしまったならば(つまり、著者と同様の思考過程を歩んだとすれば)、マルクスは彼の信奉するもう一つの理論、労働価値説を放棄することになりかねなかったから」である。
マルクスの価値形態論においては、貨幣商品の原材料の採掘に投下された労働時間が貨幣商品の価値量を規定しているという形で、労働価値説が堅持されている(と少なくともマルクス自身は考えている)。
けれども、岩井克人の貨幣に対する認識においては、労働価値説は棄却されている。
貨幣とは、人々がそれを貨幣として信ずるがゆえに貨幣なのである、と。
この貨幣なる代物は、一般的等価物として、商品に交換可能性を与えることにより、商品によって交換可能性を与えられ、また、商品から交換可能性を与えられることにより、商品に交換可能性を与えている。
貨幣の上のような性質こそは、商品世界すなわち商品の膨大なる集合としての資本主義社会がこの地上に成立することを可能としている。
また、交換過程論に視点を移せば、商品所有者にとって、貨幣こそは「欲望の二重の一致」を回避するモノであって、これがあるからこそ我々は交換の困難に苦しむことがない。
(もしあなたが貨幣のない社会において、本一冊を持っていて、靴一足が欲しいという場合、あなたは靴一足を所持しており、かつ本を欲している相手を探しださなければならない。しかし、貨幣のある社会においては、あなたがたとえば10,000円を持っていれば、靴屋は貴方に靴を売ることを渋りはしない)
貨幣が商品世界に占めている役割は、それが古典派経済学者によって媒介物に過ぎぬと言われたのに比して、あまりに大きいのである。
3.貨幣の崩壊への道
恐慌というのは、確かに歴史の示すとおり、資本主義にとって試練だった。
けれども、試練はやはり試練である。
それに直面することにより、資本主義は弱体化したというよりは、むしろより強靭になっていく(少なくとも、マルクスを理論的基礎に持つ社会主義よりは長生きしているわけだ)。
なぜか?
なぜ、マルクスにとって資本主義の危機であったはずの恐慌が、かえって資本主義を強化しているのか。
それは、恐慌という状態が、商品よりも貨幣を選ぶ状態であり、したがってそれは商品世界を成立させている貨幣に対する信仰告白が蔓延している状態だからである。
ケインズの表現を借りれば、貨幣には流動性があると言われる。
この流動性は、「誰でもいつでも受け取ってくれる」という信用があるということであり、
他の商品にはほとんど認められない貨幣に固有の性質である(これに対して、商品なり製品を人々が実際に購入するためには、それこそ「命がけの跳躍」を必要としているため、その処分は[購入に比して]容易なことではない)。
それ自体の商品価値をほとんど有しない貨幣に対して(中央銀行が発行する不換紙幣をまともに原価計算してその額面通りの価値を有すると誰が算出できるだろうか)、かような価値を認めるところに、貨幣の貨幣たるゆえん、神秘とか奇跡とか言われるところのモノがある。
ということは、恐慌において相対的に貨幣(それは商品世界で重要な役割を担っている)が重んじられているということは、それは本当の意味での資本主義社会における危機とは言えないのではないか。
ということは、である。
もしその流動性に対する信仰が途絶えたとき、したがって人々が貨幣の流動性を疑ってかかり、貨幣ではなくて個別の商品に逃げ込んだとき、商品世界はどのようになってしまうのだろうか。
貨幣より商品が選ばれる世界、その窮極的な形として、ハイパー・インフレーションが生じた場合、もはや貨幣を貨幣たらしめる根拠を捨て去ったあとに残るモノは、個別バラバラな商品と、それ自体さして価値を有しないかつて貨幣だったモノ-したがって今やそれはやはり個別バラバラな商品の一つ-である。
「価値の体系としての商品世界が、たんなるモノの寄せ集めでしかない状態へとひきもどされてしま」い、「『巨大な商品の集まり』としての資本主義社会の解体」を生むという点で、ハイパー・インフレーションは、資本主義社会にとってより本質的な危機なのである。
4.貨幣形態論
しかし、私はどうにもこの論に与することができない。
私は、人々はたとえ貨幣を手放すとしても、流動性までは手放さないのではないかと思う。
(果たして人々は二重の欲望の一致を要する社会に耐えられるだろうか?)
貨幣は、時代に応じて、貝殻であったり、君主の刻印が押された鋳貨であったり、あるいは中央銀行の発行する兌換紙幣次いで不換紙幣とその形をかえてきた。
けれども、そこで共通するのは、いずれの貨幣も流動性の機能を果たしてきたという事実である。
マルクスにおいて労働価値説という実体に対して価値形態論という現象形態があるように、流動性という実体に対して貨幣という現象形態が変遷し続ける。
貨幣は人々が貨幣であるとみなすから貨幣であるというのであれば、その物質的素材や名称は理論的には不問のはずである。
であれば、人々は現行貨幣が著しく減価してそれが商品世界の存立構造を解体する前に、流動性の所在を移転するのが筋合いではないか。
人々は次なる貨幣を「奇跡」(これは奇跡という呼称に反し、人類史上幾度となく繰り返されてきた)によって生み出すのではないか。
いや、奇跡という言い回しこそ、岩井が資本主義の不安定性を強調するために用いた表現ではないか。
なぜならばこの奇跡が実際にどれほど奇跡的であるかについて、あれほど価値形態論をマルクス以上に論理的な形で展開した岩井が、マルクス以上の修辞法すらも(したがって当然ながら、論理的にも)披露できていないのだから。
また、貨幣価値の減価を防ぐ実際的な方法として、ハイエクの「貨幣発行自由化論」も検討すべき事項ではないか(私はまだ貨幣論集を読んでいる途中だけれども)。
実際、ビットコインはまさに民間による貨幣発行の典型である。
もし貨幣発行主体がシニョレッジを貪るため貨幣を多量に発行した場合、貨幣多量発行に伴う貨幣減価が生じ、貨幣利用者としては、他の価値ある貨幣へ乗り換えるというビジョンである。
これをうけて貨幣発行主体としては、貨幣価値が過度に減価しないように、価値が安定化するように努めるインセンティブがあるという次第である。
貨幣間競争、これは一国一貨幣というアタリマエに囚われた私たちには盲点である。
実際、貨幣を中央銀行のみが発行している事態を独占供給と理解する人はあまりいない(銀行券に類似した物を発行すれば通貨偽造罪に問われるということもあってか、現代の社会通念において、別種の貨幣を創造する意欲なり発想を持つことは、たとえ貨幣発行業に参入するために要する費用を無視したとしても、難しいことである)。
競争原理という資本主義社会におけるアタリマエが貨幣においては十分には機能していないのである。
資本主義社会が本来的に不安定なものである、とは岩井の主張するところであるが、しかし、資本主義社会は未だその本来的な姿を明らかにしていないのではないか。
(そして貨幣を巡るこのような見方は、資本主義を純粋な形で炙り出したマルクスにおいても果たして展開されていただろうか)
シニョレッジ、この君主権力の名残を玉座から引きずり下ろすことが、資本主義に期待された一仕事なのではないかと私は思う。
歴史上、資本主義が貨幣による試練を受けることはあったが、貨幣が資本主義による試練を受けたことはなく、そしてそれは未来に起こりうる出来事なのである。