会社のなりたちを考察することで、「法人」がもつ公共的性格を浮き彫りにしてゆく前半の議論がおもしろかった。
著者は、会社は株主の〈モノ〉でしかないという株主主権論は、会社と企業とを混同した、法理論上の誤りだという。会社とは単なる企業ではなく「法人」化された企業だということを認識しなければならない。「
...続きを読む法人」は、〈モノ〉であると同時に〈ヒト〉としての性格をもっている。近代市民社会は、〈モノ〉を所有する〈ヒト〉の権利を認めるとともに、誰かによって所有されることのないものとして〈ヒト〉を定めた。だが「法人」は、こうした〈ヒト〉と〈モノ〉という二つの側面をもつ。本来〈ヒト〉でないのに法律上〈ヒト〉と同じように扱われる〈モノ〉が「法人」なのである。
近代市民社会の図式に収まりにくいこうした性格をもつ「法人」をめぐって、法人というのは人間の集まりに与えられた単なる名前にすぎないという「法人名目説」と、法人は社会的な実体だという「法人実在説」という二つの立場の間での論争が続いてきた。だが著者はこの二つの立場をともに認める。
アメリカの株主主権論では、法人をもっぱら〈モノ〉として理解しようとしてきた。ところが、株をたがいに持ちあうことで、他の〈ヒト〉に所有され支配されることのない、純粋な〈ヒト〉としての性格をもつようになったのが、日本型会社システムだと著者はいう。それはアメリカ型の企業モデルとは異なるものの、「会社」の一つの形として認められなければならない。
〈ヒト〉としての性格の強い日本型会社システムの下では、サラリーマンは会社への所属意識を強く抱くようになり、他の社員や得意先とのつながりといった、会社の中でしか役に立たない人的資産を重視する傾向が強くなる。いわゆる日本的雇用システムは、こうした会社のあり方とセットで成立したと理解することができるのである。
こうした考察をおこなったあと、著者はあらゆるものを平準化してゆくポスト産業資本主義では、〈ヒト〉がもつ知識や能力が「コア・コンピテンス」としてますます重視されるようになるという見通しを示した上で、〈ヒト〉としての性格の強い日本型社会システムが今後進むべき方向について論じている。